閑話 鬼神
すきま風がともしびを揺らす中、重苦しい沈黙に耐えかねた男が口を開く。
「万吉も太一も帰ってこねえ。なにかあったんじゃ……」
再び沈黙が流れる。
たかが女ひとり、自害に見せかけて殺すことなど容易いはずだ。相手は芸者あがりの妾にすぎない。闇に乗じての殺しに定評のある万吉と太一ならば、万がひとつにも仕損じるはずはなかろう――誰もがそう思っていた。だが、もう暁七つだ。間もなく夜も明ける。
志乃は険のある目つきで、男たちの顔を見渡した。
「大の男が揃いも揃って、女ひとり殺せないなんて。情けないとは思わないのですか。父上がこの有様を見たら、何と言われるか」
志乃の言葉に、男たちは黙り込むよりほかはない。
水無川衆が軽業の一座を装い、江戸に来てから半月になる。かつては老中・村上主膳の腹心である大番頭・佐々木劒持の配下であった水無川衆も、いまは故郷を追われる流浪の身だ。それもこれも、老中上柴忠隆の隠密だったという、乾数馬なる男を仕損じたからだ。
九年前、江戸から逃れた乾数馬を仕留めよという御下命があった。たかが二十歳そこそこの若造ときき、一族の誰もが容易い仕事と思っていた。だが、乾は並外れた剣の腕と、鋭い勘働きとで、次々と一族の刺客を倒していった。胴体を一刀両断する凄まじい剛剣に、みな戦慄した。何も知らぬ者が見れば、人のよさそうな若者にしか見えない。だが、ひとたび剣を握れば、鬼神のごとき強さだ。
ならば、と、何も知らぬ老いた木こりや飯屋の亭主を金で雇い、乾を襲わせた。はじめのほうこそ、乾は相手を斬ることにためらいを見せていたが、じきに、刺客を迷わず斬るようになった。
これでは手詰まりだ。一族の手練れも、もはや残り少ない。このまま手をこまねいていては、主君である佐々木劒持の不興をかうばかりだ。
水無川衆が乾数馬を追い始めてから、三年の月日が流れた。早く乾を仕留めよ、と月に一度は佐々木劒持からの遣いがくる。一族の頭領である長尾伊右衛門も、なぜ佐々木劒持が――つまりは、その主である村上主膳が、たかが死んだ老中の隠密ひとりを三年の長きに渡り狙い続けるのか、不審に思っていた。だが、主に仕える忍びの身では、命じられたとおりにするほかはあるまい。
長尾伊右衛門には、志乃を筆頭に三人の子がいた。幼子であれば、あの乾数馬も油断するに違いない。そう見込んで、伊右衛門は八歳になる息子と四歳になる娘を、刺客として育てた。長子だった志乃は、すでに十一歳になっており、武芸や忍びの術を仕込むには年嵩にすぎた。伊右衛門の子供ふたりのほかにも、一族のなかで十歳にみたぬ少年がひとり、刺客として育てられた。
そして二年が経った頃、一族の手練れが悉く乾数馬の返り討ちにあい、命を落とした出来事があった。
とある山中に身を隠していた乾を、手練れ六人がかりで追い詰めた。弓の名手であった男が、続けざまに矢を放ち、そのうちの一本が確かに右の太腿に刺さるのが見えた。矢じりには、馬でもすぐさま死に至るほどの毒が塗りこんである。乾はその場に崩れ落ち、激しく痙攣し始めた。誰もが乾を仕留めたと確信した。
だが、一目散に乾に駆け寄って首をとろうとした男は、断末魔の絶叫と血しぶきとをあげて、その場に崩れ落ちた。
あの毒矢をくらって生きている筈もない、と油断していた男たちは、刀を手にゆらりと立ち上がった乾の姿を見て、恐怖に囚われた。乾は素早い動きで男たちに駆け寄り、瞬く間に四人の骸が地に転がった。
乾に斬りつけられながらも、命からがら逃げ伸びた最後の一人は、里に戻り、仲間の最後を一族に伝えた。そして、あの乾数馬という男は、きっと人ではない。鬼神か亡霊か――とにかく人ならざるものだ、と怯えた表情で言い張った。それを聞いた一族の者たちは、そんな馬鹿なことはあるまい、きっと乾を射止めたというのも見間違いだろう、と取り合わなかった。それから間もなく、その男は斬られた傷がもとで死んだ。
もはや、猶予はない。あれほど頻繁に里を訪れていた佐々木劒持の遣いが、ぱったりと来なくなったのが、不気味であった。主の佐々木劒持とて、いつまでも不首尾を村上主膳に許されまい――もしや乾数馬を仕留めたと村上主膳をたばかり、口封じのために我ら水無川衆を消すつもりやもしれぬ、と伊右衛門は一族のものたちに告げた。
ついに、長尾伊右衛門は、刺客として育てた幼子たちを使うことにした。初めに刺客として選ばれたのは、伊右衛門の末の娘だった。名を、絹という。
絹は、旅先で母親とはぐれた振りをして、乾に近づいた。伊右衛門の思惑どおり、乾は愛らしい幼子に気を許した。丸一日、絹の手を引いて母親を探したが、乾は母親を見つけることができない。泊まるところもない絹を放っておくわけにもいかず、乾はねぐらにしていた荒寺に、絹を招き入れた。
その夜、絹は毒を塗った簪を手に、乾に襲い掛かった。すんでのところで乾に気づかれ、仕留めることはかなわなかった。だが、乾は絹を斬らず、見逃した。
長尾伊右衛門はほくそえんだ。思った通り、乾数馬という男は幼子に甘い。これならば、と、その四日後、伊右衛門は幼き刺客たちを乾のもとに送り込んだ。持たせた剣には、毒を塗りこんである。体が痺れ、呼吸が止まる恐ろしい毒だ。仕留めるまではいかなくても、三人がかりなら手傷ぐらいは負わせられるだろう。あとは、動きもままならぬ乾の首を、とるだけだ。
だが――
伊右衛門の予想に反して、乾数馬は幼き刺客たちを斬った。骸をあらためた一族の男によれば、絹とその兄は、胴を真一文字に両断されていたという。そして、もう一人の少年は、胸と頭の骨を無残にも砕かれていた。その凄惨な有様をきき、一族のものたちは言葉を失った。もはや、乾数馬という男は、甘さも人の心も捨て去ったに違いない。われら水無川衆は、乾数馬を人の心を持たぬ化け物にしてしまったのだ――伊右衛門は、側近の男にそう漏らした。
そして、二年前。水無川衆の里を乾数馬が襲った。乾の行方を追い、一族の男衆のうちの半数が出払っている隙のできごとだった。
乾の狙いは、長尾伊右衛門だ。立ちふさがる一族の者は、首を刎ね飛ばされ、胴を薙ぎ払われ、次々と骸となる。全身を返り血で朱に染めた乾数馬が、表情ひとつ変えずに里の男たちを斬り伏せていく様を、屋敷の外にいた志乃は、魅入られたように眺めていた。伊右衛門は、その場を動こうとしない志乃を抱きかかえて屋敷に戻り、寝所の床下にある隠し部屋に志乃を匿った。
あの乾という男は、幼子でも容赦なく殺す鬼だ。けして声を出さず隠れているように――そう言い残し、伊右衛門は隠し部屋の入口を閉めた。暗闇の中で、志乃は耳を澄ませた。
「水無川衆の頭領、長尾伊右衛門だな」
ついに鬼が、寝所の入口まで来た。伊右衛門と乾数馬が交わす言葉を聞きながらも、志乃の胸に恐れはなかった。肉と骨とが断たれる音とともに、父親が倒れた気配がしたときも、志乃の心を捉えていたのは、乾数馬の姿をいまいちど見たい、という想いだ。
その衝動に抗えず、志乃は隠し部屋の戸を跳ね上げた。刹那、今しがた父を斬った男と目が合う。全身を朱に染めた乾を、志乃は美しいと思った。このまま、この男に斬られてもいいと志乃は思ったが、乾はじっと志乃を見つめたあと、何も言わずに去っていた。
その三日後、里に戻った十三人の男衆が見たのは、首を刎ねられた父親の亡骸に寄り添い、虚ろな目で座り込む、志乃の姿だった。男も女も、老いも若きも、一族の者は悉く命を絶たれていた。男衆が仔細を志乃から聞き出そうとしているさなか、佐々木劒持の家来と名乗る五人の侍が現れた。彼らは、乾数馬が女子供を皆殺しにするさまを見ていたという。
「かような女子供まで斬るとは、乾数馬という男、まことの鬼よ。我ら、助けようと駆けつけたが間に合わのうてな。かくなるうえは、お前たちの手で仇を討つがいい」
高瀬という侍は、そう言いながらにやりと笑った。
男衆のうち、乾とやりあったことのある者は、すぐに高瀬の嘘を見抜いた。乾数馬の振るう剛剣を一度でも見たことがあるならば、その恐ろしい太刀筋を忘れるはずもない。乾に斬られたであろう物は、みな、得物を手にしていた。乾の行く手を阻もうとしたのだろう。かたや、無力な女子供が受けた刀傷は、凡庸な腕前によるものだ。佐々木劒持の命で、きっとこの男たちが一族の生き残りを殺したのだ。
なんのために? 言うまでもない。伊右衛門の読みどおり、佐々木劒持は乾数馬がまだ生きていることを、村上主膳に隠している。万が一にでも秘密がばれぬよう、一族の生き残りを殺したのだ。ならば――
男衆のうち三人が、侍達へ襲い掛かった。虚をつかれた侍たちは、ある者は喉笛をかき切られ、ある者は毒針で肩や項を刺されて、絶命した。
ただ一人生き残った志乃を連れて、一族の男衆は里を離れた。主である佐々木劒持の家来を殺したのだ。水無川衆にも追手がかかるに違いない。追う側から追われる側へ。水無川衆は、流浪の暮らしへと身を落とした。
老中である村上主膳の腹心を敵に回し、逃れ続けることはできまい。いずれは追手の手にかかって、一族みなが命を落とすことになる。一族の悲願は、その前に、にっくき敵である乾数馬を殺すことだ――そう話がまとまろうとしたところで、それまで抜け殻のように押し黙っていた志乃が、口を開いた。
「乾数馬が憎い。やつに、地獄を見せてやりましょうぞ」
飯もとらず痩せこけた志乃の双眸が、らんらんと光る。
志乃は許せなかった――乾数馬に魅入られた己を。父の骸の傍らにいたときですら、乾数馬に懸想していた己を。そして、己の心を奪った乾数馬を。
志乃の鬼気迫る様子に、男衆は思わず気圧された。
父親を目の前で斬られた志乃は、一族の男衆にとって旗印のようなものだ。頭領である父や、幼い弟と妹を斬られた仇を討つ。主命もない水無川衆にとって、これほどの大義名分があろうか。こうして、戦う手立てを持たぬ女の身ではあったが、志乃は一族の頭領に祭りあげられた。
この二年の間、仇敵の行方は杳として知れなかった。水無川衆は軽業の一座を装い、各地を巡り歩いた。
乾数馬が江戸に舞い戻り、養生所で医者をしていると聞きつけたのは、ほんの一月前のことだ。
水無川衆は江戸の西の外れにある、うらぶれた芝居小屋を買い取ったと見せかけて、前の主をひそかに殺め、床下に埋めた。以来、この小屋を根城にして一日に二回の公演を開きながら、乾数馬の身辺を探っている。
志乃や男衆は、乾数馬の様子に我が目を疑った。道行く江戸の人々が気安く声をかけると、朗らかな笑みを返す。重病人らしき老爺を背負い、養生所へ走っていく姿もみかけた。それだけではない。
「若先生は、人はいいし役者顔負けの二枚目だけど、腕っぷしはからきしだね」
と、裏長屋住まいの女たちが、けらけらと笑いあっているではないか。これが、鬼神と恐れられた乾数馬なのか。
(よくも……よくも、虫も殺さぬような顔をして、のうのうと暮らすとは)
志乃は歯噛みをする。自分がこれほど苦しんでいるのに、乾が呑気に生きているかと思うだけで、世のすべてが恨めしい。
(ただでは殺さない。苦しめて、苦しめて、苦しみぬかせてやる)
だが、一族の手練れはとうの昔に死に、手勢は十三人だけだ。真正面から挑んだところで、乾数馬には傷ひとつつけられまい。これでは手詰まりだ。
五日前のこと。志乃は、恨みのこもった眼差して乾を見つめる、ひとりの女に気がついた。話しかけ仔細を聞くと、おさよというその女は、九年前、姉と慕っていた女を乾に殺されたのだという。
(この女は使える)
そう踏んだ志乃は、男衆とともに策を練った。おさよを使って乾数馬を罠にはめよう。乾を殺しの下手人にしたてあげ、盗賊改に捕えさせて責め苦を味あわせてやる。そのあとは、おさよを殺して真の下手人が他にいるとでっちあげ、解き放ちとなった乾数馬を我らの手でいたぶればいい。そうだ、ただ殺すのでは物足りない。苦しみ抜かせてから、殺してやる――そう思い至った志乃は、頭が痺れるような喜悦にしばし浸った。
志乃が医者になりたいと偽って養生所に押しかけたのは、乾数馬が一人きりになる頃合いを見定めるためだった。このとき、志乃は養生所にいる女医者に目をつけた。まだ十五かそこらの小娘だ。江戸の町では、女武芸者だの、剣術小町だのともて囃されているのを耳にした。乾数馬が娘にすっかりと気を許し、愛おしむようなまなざしを向け、楽し気に話している様を目の当たりにして、志乃は腹立たしい気持ちを抑えられない。
(間違いない。乾は、この娘に惚れている。ああ、口惜しい。人の情けも持たぬ鬼の分際で、色恋にうつつを抜かすなんて。そうだ、この娘を捕えて男衆に弄らせよう。惚れた娘が男どもに犯されて戻ったら、あの人でなしが、いったいどんな顔をするか。それから娘を殺して、乾を下手人に仕立てあげればいい)
なんでも、水無川衆が江戸にやってくる前に、養生所が何度か賊に襲われ、そのたびに、その娘が賊を斬り捨てたときく。だが、志乃も男衆も、その話を真に受けなかった。なにしろ養生所にいるのは、あの乾数馬なのだ。表向きは、その娘の手柄になっているが、どうせ賊を斬ったのは乾数馬だろう。娘がいくら評判の女武芸者とはいえ、所詮は女の細腕。たいした腕ではあるまい――みな、そう思っていた。
そして、あの日。女武芸者を無傷で捕えようとした男衆は、手痛い反撃を食らう。七蔵と吾一という二人の仲間が、女武芸者に斬られたのだ。
女武芸者が立ち去ったあと、斬られた二人に駆け寄り、すでに息絶えていることを確認した男たちは、絶句した。あの乱闘のなかで、七蔵は急所を一太刀だ。吾一は手足の腱を切られ身動きがとれなくなり、自ら毒を使ったのだろう。女とは思えぬ、恐るべき腕前だ。
「あの女、俺たちの動きを全部読んでやがった。ただの剣術遣いじゃねえ」
ひとりが呻くように呟くのをよそに、やおら、勘助という男が七蔵に斬りつけた。ともに生き延びてきた仲間の体を、切り刻むかのように、無茶苦茶に斬りつける。
「おい、勘助、なにをしやがる」
慌てて止めようとした仲間に、勘助は泣きながら告げた。
「こうなったら、七蔵の骸を使って、乾を嵌めるしかねえ。そうすれば……そうすれば、七蔵もちょっとは浮かばれるだろうさ」
「そんなこと言ったって、七蔵を斬ったのは自分だと、あの女武芸者が言えば何もかもお終ぇじゃねえか」
勘助は頭を振る。
「あのおさよって女が下手人は数馬だと言うかぎり、それはねえ。それに、地獄の責め苦を味わえば、乾も自分が下手人だと言うだろうよ」
そして、水無川衆の思惑どおり、おさよの偽証を真に受けた盗賊改の手で、乾数馬は召し取られた。
それから二日がたつ。いい加減、痛めつけれて足腰も立たなくなっている頃合いだ。これならば、いくら乾数馬とて、自分たちに手も足もでまい。責め殺されてもしたら、ことだ。そろそろ次の手を――という次第で、今宵、万吉と太一がおさよを自害に見せかけて殺し、偽の遺書を持たせておく手筈だったのだ。
かつて、姉芸者の目を盗んで乾数馬と契りを交わしたおさよが、乾に捨てられたことを恨んでの一件。いかにも講談に出てきそうな筋書きだ。そうすれば、明日には乾数馬が解き放ちになるだろう。
だが、万吉も太一も帰ってこない。二人の身になにか異変が起きたに違いない。筋書きがすっかり狂ってしまう。いまさら、おさよ以外の者を下手人にしたてあげたところで、盗賊改もすんなりとは信じまい。このままでは、一族の恨みを晴らしきれない。
一同が押し黙るなか、勘助が口を開いた。
「まことの下手人の役目、俺が引き受けるぜ。なに、身内のいざこざで七蔵と刃傷沙汰になったあげく、一座を逃げ出したが、一座の野郎どもにとっつかまって役人につきだされたってぇ筋書きなら、誰もが腑に落ちるだろうよ」
そうなれば、勘助は死罪を免れまい、という考えが志乃の胸をよぎる。すでに二人の仲間が死に、二人は安否がわからない。恨みを晴らすためには手段を択ばぬつもりの志乃も、勘助の命を確実に散らすことになる策に躊躇した。だが、志乃の迷いを察したかのように、勘助は笑顔を向けた。
「お志乃さん、俺のことなら構わねえ。俺の命ひとつで、一族の恨みを晴らせるなら、安いもんさ。そうでしょう? 俺のぶんまで、どうか恨みを晴らしてくだせえ。よろしく頼みますぜ」
志乃は迷い一つない勘助の顔を見つめ、うなずいた。
みな、なにかに憑りつかれている。男衆も、そして己自身も――志乃は、そう思った。




