そこは頷くところじゃない
暮六つ前には、おさよの家のあたりについた。ええと、荒木殿はどこかな、荒木殿、荒木殿っと。おさよを守るために目を光らせてくれているであろう、荒木殿の姿を探すと、先刻荒木殿と会った甘酒茶屋のところにでん、と座っていた。
甘酒を注文しながら、荒木殿の傍らに座る。さっきも甘酒を頼んだけれども、この店は甘酒しか出さないから仕方あるまい。
私が来たことに気がついた荒木殿は、
「ああ、ゆき殿か。用事はすまされたか」
と声をかけてきた。
「ええ、おかげ様で。荒木殿がいてくださって、本当に助かりました。それで、変わりは?」
そう言って、おさよの家を一瞥すると、荒木殿はにやりと笑い、囁く。
「ゆき殿と別れてから、ずっとここから様子を窺っておったが、つい先ほど、あの二人組がおさよの家のまわりをうろつき始めたぞ」
荒木殿がくい、と顎を向けて指示したほうを見ると、確かに職人風の男が二人、おさよの家の前を通り過ぎるところだった。
「あやつら、妙におさよの家を気にしている風でな。きっと日が暮れて人通りが途絶えるのを待っているのであろうよ」
暮六つの鐘がなり、人通りもいくらかまばらになってきた。薄暗い東の空には、赤い半月がぼんやりと光っている。暖簾を下ろし始めた甘酒茶屋を出て、店の前で荒木殿に礼を述べた。
「荒木殿、ありがとうございます。ここからは私だけで大丈夫ですので」
そう告げながらも、抜かりなくおさよの家に目を配る。敵が、先ほどの二人組だけどは限らないからな。そろそろ連中が動き出してもおかしくはあるまい。
荒木殿はまたもや、にやりと笑った。
「なんのなんの。乗りかかった舟だ。こうなったら、最後までゆき殿に付き合わせてもらうぞ」
その言葉に、私は一瞬躊躇した。今日はさんざん世話になってしまったけれど――荒木殿の素性も、私や数馬さんに目をつけてきた狙いも、まったくわからない。むやみやたらに関わって、数馬さんが上柴様の隠密だったということや私の素性を、荒木殿に知られるのは避けたい。なにしろ、医者殺しの一件でも、霞小僧の一件でも、妙に事件に首を突っ込んでいるのだ。私と数馬さんの読みでは、荒木殿はきっと、どこかの隠密だ。公儀か、どこぞの家中に仕える者かはわからないが。
だが、今は猫の手も借りたいくらいだ。無力な女、しかも私に敵意を剥き出しにしている相手を守り切るには、私一人ではいかにも手が足りない。それに、荒木殿が数馬さんを上柴様の隠密の生き残りと疑い、始末するために近づいてきたのなら、数馬さんが盗賊改に捕まったら死ぬまで放っておくはずだ。こうやっておさよのところまで事情を探りにやってくるということは、少なくとも今は、敵ではなかろう。
そう思いなおし、荒木殿に頭を下げた。
「それは願ってもないお言葉。ご助力、感謝の言葉もございません。それでは、私は今からおさよの家の裏手から忍び込み、賊を待ち受けましょう。荒木殿は、表口からくる敵をお願いします」
荒木殿と別れたあと、おさよの家の周りをひと回りして、怪しいやつがいないかを確認する。よしよし、先ほどの二人組のほかは、例の忍び連中はいなさそうだ。まあ、夜陰に乗じて女ひとり仕留めるのに、手勢はいらぬということだろう。あとから仲間が来るやもしれんから、まだ油断はできないけれど。
そうこうするうちに、すっかりと人通りも減ってきた。このあたりは、繁華街からは離れている。たいていの店は日暮れとともに暖簾を下ろし、仕事帰りの職人たちを当てにした飯屋が、二軒ほど店を開けているだけだ。
おさよの住いは、もともと人形屋だった表店の二階だ。ぐるりとコの字型に表店が並ぶ裏手は棟割り長屋になっている。おさよのいる表店の並びは金貸しで、裏長屋との間に土蔵がある。ここならば身を潜めつつおさよの家を見張れるし、何かあったらすぐに、おさよの家まで飛び移れるぞ――そう見繕い、愛刀を腰から外して下緒をほどき、斜め掛けに愛刀を背負う。誰にも見られていないことを慎重に確認して、苦無を土蔵の壁に突き立てて、瓦葺の屋根の上によじ登る。よいしょ、っと。秘術を遣えばひとっとびなんだけど、万が一誰かに見られでもしたらことだからね。
そして、息を潜めて見張ること二刻。あたりはすっかりほんのりと赤い闇に包まれ、赤い半月が東の空高く光る中、夜四ツの鐘が鳴った。裏長屋に灯るあかりも、一つ一つ消えていき、静寂に包まれる。おさよの部屋も窓越しに揺らいでいた灯がふと消えた。
素早くおさよのいる部屋の窓に飛びつき、息を潜めて部屋の様子を窺う。しばらくの後、穏やかな寝息が聞こえてくるのを確認し、窓が開くかどうかを確かめたが、予想どおり開かない。どうやら、それなりに用心して戸締りをいるようだ。弥助さん謹製の錣で、窓の木枠に切れ目を入れておくとするか。
それから四半刻。研ぎ澄まされた聴覚が、木の軋む微かな音を拾う。身を隠しながら音のする方向を凝視すると、藍色の忍び装束を纏った人影が二つ、表店の建屋の陰に見え隠れする。戸を破ろうとしているのだろう。荒木殿の姿は見えない。この二人の動きに気づいていないか、あるいは様子を窺っているだけか。
――来たな。
窓の向こうで引き戸を乱暴に開ける音がするのと同時に、私は窓をけ破り、部屋の中に飛び込んだ。
乱入してきた二人の忍びを前に、寝床から上半身を起こしたおさよが、か細い悲鳴を上げる。私には背を向けているが、きっとその表情は恐怖に凍りついているだろう。
ひとりの忍びは、白刃をまさにおさよの胸元へ突き立てようとしていたが、窓を蹴破ってきた私の姿を見て、呆気にとられたように動きを止めた。
その隙を逃さず、着地した瞬間に手にした棒手裏剣を放つ。至近距離で放った手裏剣は、狙い違わず敵の眉間に命中した。頭蓋骨を砕かれ、脳漿を後ろに吹き飛ばされた忍びは、その場に崩れ落ちる。
残る忍びは、部屋の入口で外を警戒していたが、仲間が倒されるのを目の当たりにし、忍び刀を手に飛び掛かってきた。間合いは二間。敵の動きをしっかりと見極め、愛刀の柄に右手を添え鯉口を斬った刹那――部屋の入口でじっとこちらを見ている荒木殿の姿が目に入った。私の動きを値踏みするような視線を感じる。
しまった、と思ったが、飛び掛かってくる敵を避ければおさよの身が危ない。ええいままよと、そのまま膝を軽く曲げて身を低くしたまま飛び込み、左の頸動脈を鋭く切り上げる。確かな手ごたえを感じたあと、そのまま敵に体当たりを食らわせて、後ろに弾き飛ばす。絶命しながら吹き飛んだ敵は、背後の荒木殿にぶつかり、諸共に倒れこんだ。
荒木殿は、医者殺しの一件のときに、黒田の屋敷で数馬さんと私の太刀筋を見ている。あのときの二人組の片割れが私だと、知られるわけにはいかない。自分の動きが荒木殿からは見えないように、胡麻化したつもりだけど……うまくいったかなあ。
脳の血流を絶たれた敵は、すでにこと切れている。その骸の下で荒木殿がもぞもぞと動くのを視界の片隅でとらえながら、茫然とするおさよの傍に駆け寄った。
「おさよさん、怪我はなかったかい?」
おさよは返り血を浴びた顔に蒼白な唇をわななかせ、目を見開いたまま、だまって頷く。その肩を抱き、耳元で告げる。
「こいつらは、志乃と名乗る女の仲間だ。おさよさん、乾先生が殺したってことになっている七蔵って男も、こいつらの仲間さ」
「なぜ……わたしを……」
「その理由を確かめるために、一緒に見てもらいたいものがある」
最初に手裏剣で倒した敵の骸の傍らに跪く。おさよも、四つん這いになって恐る恐る近づいてきた。
おさよが見ている前で、敵の忍び装束をまさぐる。よし、これだな。懐から油紙の包みを取り出し、開く。包みの中から出てきた書きつけを一瞥し、おさよに手渡した。小平太さんや、私の読みどおりの代物だ。
「おさよさん、連中があなたを殺そうとしたのは、これが理由だ。連中は、あなたを自害に見せかけて殺したあと、こいつをここに残しておくつもりだったんでしょう」
おさよは訝しげに私の顔をちらりと見上げたあと、手渡された書きつけを読み、血相を変えた。
「これは、わたしの……」
それは、おさよの遺書だった。正確には、おさよの名を騙った偽の遺書、だな。
内容はだいたい、こういったところだ。乾数馬が七蔵を殺めしところを見たとは、まっかな嘘であること。九年前、姉芸者だった染弥の想い人である数馬に自分が懸想し、ついには契りをかわしたものの、そのまま乾数馬が行方をくらましたことを恨み続けていたこと。やくざ者らしき男に殺された男が外堀に落ちるのをたまたま見かけ、乾数馬への積年の恨みがつのっていたこともあり、かような儀に及んだが、嘘をついていることが心苦しくなったこと。乾数馬のことは今でも慕っており、このような不始末をしでかした己自身を許せず、自ら命を絶つことにしたこと。
最後に、さよ、と名が書かれた遺書を眺めるおさよの手が、わなわなと震える。
「いったいなぜ、こんな出鱈目を」
消え入りそうな声でつぶやき、小刻みに震えるおさよの肩を、もう一度抱きしめる。数馬さんを嵌めた女だけれども、おさよとて、騙され利用された挙句に殺されそうになったのだ。きっと怖かったろう。この女に対する怒りがないわけじゃないけれど、怯える女を突き放すようなことは、できないよ。
いつの間にか、荒木殿も傍にきて片膝をつき、私たちのやりとりを見守っていた。
荒木殿には聞かれたくない話だが、まずはおさよに、一刻もはやく、数馬さんの身の証を立ててもらわなきゃ。やむをえまい。
「おさよさん、あなたをそそのかし、乾先生を嵌めた連中は、はなから乾先生が盗賊改の手にかかって死ぬことなど、望んじゃいないんだ」
おさよが、蒼白な顔で私を見上げる。
「それは、どういう……」
「連中はね、乾先生に深い恨みを持っている。おさよさんが偽の証言をしたと白状して自害すれば、盗賊改は乾先生を解き放つほかはない。そうすれば、盗賊改の責め苦で散々痛めつけられた乾先生を、連中は好き放題にできる」
それまで黙って聞いてきた荒木殿が、口を挟む。
「なるほど、この偽の遺書の狙いは、ゆき殿が申された筋書きがもっともらしく聞こえるな。だが、彼奴らはなぜ、乾殿を捕えるのに、そのようなもってまわった方法をとるのだ? 忍びならば、乾殿を捕えることぐらい造作もなかろう。そもそも、忍びの連中が乾殿を狙うておるのも不可解だ。なにか、深い理由があるのではないか」
おさよも、私と荒木殿の顔を見比べ、おずおずと頷いた。
いや、いいとこに気がつきましたな。まあ、気づくなっていっても無理か。なにしろ、世間的には、数馬さんは剣など遣えぬ優男だ。どうにもこうにも、胡麻化しにくいぞ。
「あの、志乃という人も、忍びなのですか?」
震えながらも、おさよは私に問う。江戸の庶民にとって、忍びは講談でしか縁のない代物だからなあ。志乃のような、一見してただの武家の娘が忍びの一族、と聞いてもぴんとこないのは無理もない。
「志乃という女、所作は武家の娘で間違いありません。忍びにしても、上忍の家柄でしょう」
私がそう答えると、荒木殿は得心した様子で大きく頷いた。
「それならば筋は通るぞ。この遺書に書いてあることは、きっと、志乃という娘自身のことではないか。つまり、だ。乾殿に懸想し、契りを交わしたあの娘が乾殿に捨てられ、その恨みを晴らすために一族郎党をあげて、かような策を弄したのであろう」
おい、ちょっと待った。なぜそうなる。
いかにもオヤジ然とした読みに、ぽかーんと呆けるしかない。そんな私をよそに、荒木殿はなおも続ける。
「役者顔負けの二枚目というものも、実に罪作りよな。いやはや、女難とはげに恐ろしきものよ」
なるほどなるほど、と納得している荒木殿につられて、おさよもおずおずと頷く。いや、そこは頷くところじゃない。違う、違うぞ、おさよさん……




