閑話 責め苦
後ろ手に縛られた手首から先は、とっくに痺れきっている。首や二の腕に食い込んだ縄の痛みも、もう感じない。
もうどれくらいの時が経ったのだろう。
「言え、言わぬか! 七蔵を殺したのは、お前であろう!」
盗賊改の与力が、渾身の力をこめて振り下ろす棒が、数馬の皮膚や肉を裂く。
「知らん……そのような男は、会ったこともない……」
掠れた声で答える数馬の言葉に、与力は逆上する。
「おのれ、しぶとい奴め。まだしらを切るつもりか! おさよという女が、確かにお前が七蔵に匕首で斬りつけるところを見た、と申しておる。言い逃れはできぬぞ」
布を纏わぬ肩に、背に、二の腕に、容赦なく棒が叩きつけられる。そのたびに、数馬の体は大きく傾ぐ。だが、後ろ手に縛った縄の先が天井の梁に掛けられているため、数馬の体は倒れることはない。
皮や肉が裂かれる痛みを、息を吐きながら体に力を漲らせて耐える。そのたびに、数馬の口からはくぐもった呻き声が漏れ出る。
「知らんものは……知らん。何かの間違いだろう」
傍らで見守っている同心が、与力に耳打ちする。
「元木様、この男、笞打ちの責め苦にこれだけ耐えるなど、只者とは思えませぬ。見れば、医者とも思えぬこの体つき。それに、背には刀傷もありまする」
背の傷は、盗賊改の密偵であった千造に斬られたときのものだ。
「その傷は……養生所が襲われたときに」
養生所が襲われたときに受けた傷だ、と数馬が最後まで言い終えるまえに、容赦のない一撃が左の肩口に入り、数馬は呻いた。
「ええい、でたらめを申すな!」
そう言い捨てた与力は数馬の前にしゃがみこみ、棒の端で数馬の顎をグイと持ち上げる。否応なく顔を上げた数馬に、与力はどことなく残忍な笑みを浮かべてみせた。
「よいか。素直に白状すれば、これ以上痛い目にはあわずにすむぞ。どうだ」
いくらおさよの証言があったとしても、数馬自身が下手人だと自ら白状しない限り、罪を問えない。数馬は知らぬが、この元木という与力は、苛烈な責問いで、江戸の盗賊達に恐れられた男だ。
「きけば、九年前にも芸者殺しで町方に召し取られたそうだな。その後、解き放ちになったというが、所詮町方、手ぬるいわ。盗賊改を町奉行所と同じようには考えぬことだな。どうだ、白状する気になったか」
顎を持ち上げられたせいで、数馬の首に掛けられた縄が喉元に食い込む。息を満足に吸えぬなか、数馬は言葉を振り絞る。
「白状といっても……俺は本当に、知らぬのだ」
その途端、元木の右拳が数馬の左頬にめり込んだ。数馬は咄嗟に、相手の拳の動きに合わせて顔を背けて受け流す。まともに食らっていれば、歯が何本か折れていたかもしれない。切れた頬の内側から流れ出る血が、口から溢れ出す。
喉の奥に垂れ込む血を吐き出し、息を吸おうとした刹那、元木の突き出した棒の先端が数馬のみぞおちに突き刺さった。
(しまった!)
息を吸う瞬間は、腹の筋が緩む。そこに突きを食らえば、いくら鍛え上げた体でも耐えられない。臓腑にくらった一撃で、数馬は息を吸えずに悶える。空気を求めて喘ぐが、次第に意識が遠のく。
薄れゆく意識の中で、数馬は自分の体が打ち据えられるのを、他人事のように感じていた。こいつは都合がいい。どうやら痛みも感じないようだ。このまま一眠りするとしよう……そう思ったところで、数馬の意識は途絶えた。
次に意識を取り戻したのは、牢の中だった。責め苦が終わったということは、もう夜だろう。腹も、背も肩も、腕も――至るところから流れ出た血が固まり、体中がつっぱる感じがする。
手は後ろ手に縛られたままだろうか。なにしろ、両肩から先の感覚がまったくない。数馬には、自分の両手がちゃんとあるかどうかもわからない。
首をもたげようとした途端、喉に縄が食い込み、数馬は咳き込む。右の脇腹から背にかけて、鋭い痛みが走る。どうやら、あばらも何本か折れているようだ。
(ひどく痛めつけられちまったな)
ずっと、無理な姿勢で座らされていたせいだろう。打たれていないはずの両足も、痺れ切っていてまったく動かない。
これでは寝返りさえうてない。まるで、両の手足をもがれてしまったようだ。
(俺は……また剣を持てるだろうか)
一抹の不安がよぎる。剣を頼みに生き延びてきた男にとって、剣を失うことは命を絶たれるに等しい。
(これでは、江戸に戻ってきた目的を果たせん)
それに、二度と剣を持つことが叶わなければ、ゆきの隣に立てぬ。そう思いいたり、数馬の胸に苦い思いが広がる。だが――
(俺が死ねば、ゆきさんが悲しむ。やってもいない殺しの咎で死罪になる訳にはいかん。俺は、この責め苦を耐え抜いてみせる)
気持ちを奮い立たせ、数馬は目を閉じる。明日になれば、責め苦はもっと苛烈になるだろう。耐え抜くには、力を蓄えることだ。わずかな時を惜しみ、気力を、そして体の力を回復させねばなるまい。数馬は、ふたたび深い眠りに落ちた。
体を揺さぶられる感覚に、意識を引き戻される。
「う……」
腫れあがった瞼は、思うように開かない。
(もう朝か……これからまた、責め苦が始まる)
だが役人が来たにしてはどうも様子がおかしい。役人ならば、もっと乱暴だ。それに、夜が明けたにしては、あたりが静まりかえっている。
「おい、数馬さん。声は出すんじゃねえぜ」
聞きなれた声の主に向けて、数馬はなんとか、うっすらと瞼を開く。闇に溶け込むような、柿渋色の忍び装束の男が目の前にかがみ込んでいた。思いがけぬ来訪者だ。頭巾で顔を隠してはいるが、盗賊改の牢まで忍びこんでくる知り合いなど、限られている。それに、この声だ。間違える筈もない。
(弥助さんか。いったい、なぜここへ?)
弥助は手早く数馬の体を調べあげ、懐から細長い針のようなものを取り出して、数馬を縛り上げている縄の結び目に差し込んだ。針が結び目をくいっとこじると、喉に食い込んでいた縄がわずかに緩む。
「ずいぶんと、ひでえ有様じゃねえか」
養生所で、ゆきと弥助が何やら言葉を交わしているとき、そばにいる数馬にも話している中身が聞き取れない。あれは、忍びならではの話術だろう。こうやって弥助が数馬に話しかけている声も、きっと牢の外には聞こえないはずだ。
「数馬さん、あんたをここから逃がしてやりてえのは山々だが、筋を踏まねえと、あんたが正真正銘のお尋ね者になっちまうからな。今、おゆき坊が、お前さんを嵌めた連中を追っているところさ」
(そうか、ゆきさんが……)
ゆきの名を聞き、数馬の身のうちに温もりがひろがる。その一方で、
(ゆきさんが、無茶をしないだろうか)
とも思う。医者殺しや霞小僧の一件では、ゆきから無茶をするな、と散々言われたが、いざ逆の立場になると不安ばかりが募る。いくら剣の腕や忍びの術が優れていても、ゆきは十五歳の娘なのだ。だが、熟練の忍びであろう弥助がついているなら、いらぬ心配だろう。
(それに、弥助さんの使いでときたま物を届けにくる小平太という男も、きっと只者ではない。弥助さんと同じ、忍びだろう。大丈夫、ゆきさんは独りではない)
数馬は、そう自分に言い聞かせた。
「数馬さん、すぐに、大手を振ってここから出られるようにしてやる。だから、それまで踏ん張るんだぜ」
数馬とて、やってもいない殺しで役人に追われ続けるのは、本意ではない。唯一自由に動く首を動かし、弥助にむけてかすかに頷く。弥助は数馬の顔をじっと見つめる。
「どうやら、気持ちはくじけちゃいねえようだな。だが、そんなに痛めつけられちゃ、いくらなんでも体がもたねえ。さ、これを飲みな。万病に効く薬湯ってやつだ」
弥助は竹筒に入れた薬湯を、少しずつ数馬の口元に垂らしこむ。
(万病か……そんな薬があったら、俺が患者に使いたいくらいだ)
と訝しみながらも、数馬は薬湯を与えられるがままに飲みこむ。なによりも、己の体が水を欲していた。
「あとは、この丸薬を口の中に含んでおきな。痺れ薬と痛み止めを混ぜて殻に包んだものさ。責め苦が始まる前に、奥歯で割って飲みこめば、ちいとは楽になるだろうよ。朝飲めば日暮れまで持つ。気張るんだぜ」
そう言って、弥助は梅の種くらいの大きさの茶色い丸薬を、数馬の口の中に押し込んだ。切れた頬の内側が腫れて、どうにも丸薬の収まりが悪い。だが、数馬は弥助の心遣いに心から感謝した。元より、数馬は犯してもいない殺しの罪を被るつもりなど、さらさらない。どんな責め苦にも耐え抜くつもりだ。だが、苦痛は肉体の力を削る。痛みが和らげば、それだけ力を温存できる。
弥助は、数馬の肩に手を置き、重々しく告げた。
「いいか、数馬さん。何があっても堪えろ。耐えろ。おゆき坊を泣かせでもしたら、俺がただじゃおかねえ」
数馬は弥助に向かって、もう一度頷いた。感謝をこめて――そして、俺は大丈夫だ、という気持ちを込めて。
それを見た弥助も頷く。
「その意気だ。じゃあな。また来るぜ」
弥助は牢の隅で音もなく跳躍し、数馬の視界から消えた。そこに、天井を破った穴が開いているのだろう。ゆきと同じ手口なら、天井板は元通りにふさがれ、忍び込んだ痕跡はあとかたもないはずだ。
数馬は再び目を閉じた。万病に効くという薬湯の効き目はわからないが、知った顔に会い、気持ちが楽になったことは確かだ。心に余裕が出ると、気がかりなのは梅千代――おさよのことだ。
(梅千代が俺を恨んでいるのはわかっている。俺は――梅千代を責められぬ)
無残に切り刻まれた染弥の骸が外堀からあがった日、数馬は下手人の疑いで召し取られた。だが、その日、数馬はずっと三好や他の医者と供に養生所にいたことから、身の証にはまったく問題がなく、すぐに無罪放免となった。解き放ちになってすぐ、骸の検分に呼び出された数馬は、変わり果てた染弥の体を見下ろした。
幾度となく肌を合わせた美しい肢体は、見る影もない。だが、数馬の心には、不思議と悲しみも怒りもなかった。男と女の仲だったとはいえ、所詮は明日をも知れぬ隠密廻りの身。それに、色恋から始まった関係ではない。はなから、そう割り切っていたからだ。
役目の途中で命を落としても、不思議ではない。だが、数馬には解せぬことがあった。
(ゆうべ、染弥の怯えようは尋常じゃなかった。だが、俺にはその理由を一切、教えてくれず、江戸を離れろの一点張りだ。いったい何が――)
数馬は、仲間達がつなぎをつけるのに使っている居酒屋に向かった。そして、そこで仲間達が刺客に襲われている現場に、でくわしたのだ。
(村上主膳が上柴様の隠密を狩っていることを聞いた俺は、仲間の手で逃げ延び、江戸を離れた。だが、梅千代はきっと、俺が染弥を殺したと思い込み、この九年の年月を過ごしてきたのだろう)
数馬の記憶にある梅千代は、芸事に打ち込み、染弥を慕う、一途な少女だった。初めて会った頃こそ、よそよそしい態度ではあったが、じきに屈託のない笑顔を見せてくれるようになったことを、そのときの数馬は嬉しく思っていた。長い逃避行の中で、いつしかその記憶も薄れてしまっていたが。梅千代という名前を巳之吉から聞いたときに、数馬が少しばかりの後ろめたさを感じたのは、すっかりその名を忘れていたからだ。
(梅千代は賢い娘だった。それが、俺を嵌める片棒を担ぐとは……偽の証言をしたことが役人にばれれば、梅千代とて無罪という訳にはいかぬ。九年前の隠密狩りが、俺たち隠密廻りの者だけではなく、何も知らぬ娘の生き方さえ変えてしまった)
胸中に苦い思いが広がる。梅千代を責める気持ちは、数馬にはない。いや、むしろ梅千代を不憫とすら思った。
(浮世の手管を知る芸者とはいえ、人を恨んで生き続けることは、若い娘の身にはつらかったろう)
もし数馬が解き放ちになったら、梅千代は罪に問われる。そうすれば、鶴見屋の妾の座におさまってはいられまい。だからといって、数馬はこのまま罪を被るつもりは、毛頭ない。
(俺には為さねばならぬことがある。俺は生きてここから出る。生き延びる)
誰もが得心できる答えなどない。それが、たとえ見知った女の一生を狂わせることになっても、数馬はその道しか選べない。なにしろ、生きるために、数え切れぬほど多くの敵を斬ってきたのだ。今さら綺麗ごとは言えぬ――数馬はそう割り切っている。
(こんなところで、死んでたまるか)
そう心の中でつぶやき、数馬は目を閉じた。明日からの責め苦は、石抱きか、釣責めか。いずれにせよ、力をできるだけ蓄えねばならない。
深い眠りに落ちる刹那、数馬はふと、弥助の言葉を思い出す。
(おゆき坊を泣かせたら、ただじゃおかねえ、か。二度目だな、これを聞くのは)
穏やかな寝息を立て始めた数馬の顔には、かすかな微笑みが浮かんでいた。




