猫の手も借りたい
おさよの家を出てから、あたりをひと回りして様子を確かめる。おさよを見張っているような、怪しい輩もいない。あたりは中堅どころの商家が立ち並び、人通りも多い。ことを起こすには、まったくもって向かない場所だ。昼日中から、おさよが連中に襲われることはないだろう。
よしよし、おさよの住いが見える位置に甘酒茶屋があるぞ。まずは、ここに入って策を練るとするか。
甘酒をちびちびとすすりながら考える。おさよは、外堀に上がった男を殺めたのが数馬さんではないことの、大事な生き証人だ。揺さぶりをかけるために私が去り際に投げかけた一言が、きくかどうか。
おそらく、忍びの一味は口封じのためにおさよを殺めようとするだろう。連中の狙いは、数馬さんを確実に殺すことだ。おさよが役人に偽証でございます、と届け出たら台無しになるからな。
ただ――なにかが引っかかる。志乃という女が数馬さんを見る目には、深い恨みがこもっていた。恨みを晴らす術をもたぬ無力な町娘ならともかく、連中は忍び。裏の世界の住人だ。目的のために人を殺めることに、なんの躊躇もないし、それための術を身に着けている。数馬さんの読みどおり、連中が一族の仇を討つために数馬さんを狙っているのなら、数馬さんを殺す役目を盗賊改にまかせるだろうか。普通に考えれば、自らの手で数馬さんにとどめを刺したいと思うはずだ。それも、なるべく数馬さんに苦痛を与える手段で。
連中がこれだけで引き下がるとは思えない。ただの予感だけれども。
とりあえず、日が暮れたらおさよの身を守るために、張り込まなきゃいけないな。昼間は養生所の仕事があるし、夜は張り込みか。医者殺しの一件や、霞小蔵の事件のときには数馬さんと交代で眠れていたから何とかなったけれど、私一人ではいかにも人手が足りない。こうなったら、弥助さんと小平太さんに相談するほかあるまい。ただなあ……この場を離れている間に、連中がおさよに接触するかもしれない。できれば、そのときにそいつをひっ捕まえたいんだよな。ううむ、やっぱり人手が足りん。体が二つあればいいのに!
そう私が歯噛みしている前を、見知った顔が通り過ぎようとした。ややや! あれはまさしく、あの御仁ではないか。
「荒木殿ではありませぬか」
おさよの住いの方向を眺めながら歩いていた荒木殿は、私の声にぱっと振り返った。私がここにいるとは予想外だったのだろう。目が真ん丸だよ。
「なんと、ゆき殿か。掃きだめに鶴、甘酒茶屋に美女とは、またオツな組み合わせではないか」
はいはい。いつもながらの軽口に、こちとらげんなりする気力もないよ。
「それはそうと、荒木殿はなぜここへ。荒木殿がいま見ておられた家は、米問屋鶴見屋の妾でおさよさんという人の住いです。もしや、おさよさんに用があるのですか」
時間がもったいないので、単刀直入に訊ねる。いつものように、のらりくらりと躱されるかと思ったけれど、意外にも荒木殿は素直に答えた。
「いかにも。養生所の乾殿が殺しの下手人として盗賊改に召しとられたと聞き及んでな。俄かには信じがたい話だったゆえ、なにか裏があるのではないかと思うたのだ」
荒木殿は私の横に座り、小声で囁く。
「聞けば、あのおさよという女が証人だというではないか。仔細があるならば聞かせてもらえぬか。なにか力になれるかもしれん」
なんと、荒木殿が助太刀してくれるとな。どういう風の吹き回しだろう。でもまあ、前に巳之吉親分が
「あのお人は、なんだかんだで揉め事に顔を突っ込むのが趣味みたいなもんでさぁ。なんでかは、あんな感じでのらりくらりとごまかされちまうもんで、あっしにもよくわからねえが」
って言ってたっけ。猫の手も借りたいくらいだし、ここはお言葉に甘えて力を貸してもらうことにするか。
「お気遣い、いたみいります。実は荒木殿のお見立てどおり、ちょいと厄介なことになっておりまして」
数馬さんに恨みをもつ、しのと名乗る女が現れたこと。その女の手先らしき忍びの一味に私が襲われ、二人を斬ったこと。その片割れの男が、全身を斬りつけられた状態で外堀に浮かび、おさよの証言で数馬さんが下手人にされていまったこと。事件のあらましを、かいつまんで説明する。もちろん、数馬さんがかつて公儀の隠密だったこと、しの達は村上主膳が追っ手として差し向けた忍びの一族であることは、荒木殿には話さないでおいた。
私の話に黙って耳を傾けていた荒木殿は、最後に大きく頷いた。
「委細承知つかまつった。そういう事の次第ならば、喜んで助太刀いたそう。ゆき殿、なにか手伝えることがあれば言うてくれ」
さきほど軽口をたたいていたときはうって変わって、真剣な表情だ。
「ご厚情、いたみ入ります。それでは、日が暮れるまでの間、おさよの身をお守りくださいますか」
荒木殿は少し首を傾げたが、すぐににやりと笑った。
「そうか、連中がおさよの口を封じに来る。ゆき殿はそう踏んでいるのだな」
うむ。察しがよくて助かる。
「ええ。ですが連中は忍びです。人目につく通りで、真昼間からあえて荒事をすることはないと思います。ただ、会いに来たと見せかけて、毒を盛ったりくらいはするやもしれません。怪しい輩が近づくようなら、捕えていただければ」
荒木殿はまたもやにやりと笑い、立ち上がった。
「承知した。それでは俺は、おさよの家を見張っておくことにしよう。ゆき殿はどうされる?」
本当は弥助さんのところに行って相談するつもりだけど、弥助さんがただの出入りの職人以上の存在であることを、荒木殿に知られるわけにはいかない。
「乾先生が不在ゆえ、患者に手が回っておりません。荒木殿がここを見てくださる間、まずは病が重い者たちに明日以降の薬などを配ってまわることにします」
半分は本当だ。いかにも手が足りん。意気揚々と見張りを引き受けてくれた荒木殿にあとを任せて、まずは大急ぎで患者を診て回らなきゃ。外来は休診だな、こりゃ。
養生所への帰路を急ぎながらも、あたりの様子に気を配る。誰かに見張られている感じはない。数馬さんが盗賊改の手に落ちた今、連中からすると私は用済みってことか。
ここからは想像だけど、連中の主戦力はかつて数馬さんの返り討ちにあい、とうに命を落としているのかもしれない。残された者たちが束になっても、数馬さんには敵わない――そう踏んで、私を人質にとり数馬さんの動きを封じようとしたのかなあ。
いや、まてよ。私を殺して、数馬さんを下手人に仕立て上げようと考えていたのかもしれないぞ。それに失敗したので、斬られた仲間の骸で代用したという線も捨てがたい。
そんなことを考えながら、通りを行きかう人々をかわしながら足早に歩く。
「おっと、あぶねえ」
どん、と肩同士がぶつかってしまった相手が、声を出しながらよろける。謝ろうと顔を見た私は、思わずあっと声を上げそうになった。
小平太さんだ。細工物を収めた包みを持っている。商いの途中だろう。
「申し訳ありません、急いでいたもので。お怪我はありませんか」
何食わぬ顔をして、小平太さんに尋ねる。
「いや、こっちも、ろくすっぽ前を見ちゃいねえ。お互い様よ。すまねえな」
そう言って頭を掻きながら、小平太さんは頭を下げた。その瞬間、小平太さんが囁く。
「弥助のうちで待ってるぜ」
少し離れると他人には聞こえない、忍び特有の話術だ。頭を上げた小平太さんは、足早に去っていく。きっと、小平太さんは数馬さんが盗賊改に捕えられたことを知ったのだろう。
小平太さんの顔を見て、ふと張り詰めた心が緩むのを感じた。持つべきものは気持ちの寄る辺、か。
よし、なんとかなりそうな気がしてきたぜ。
そうと決まれば、善は急げ、だ。養生所に戻り、猛烈な勢いで往診を済ませる。走りづめだけれども、大変だ、とか言っている場合じゃない。
一仕事終えて弥助さんが住む裏長屋に着いたのは、小平太さんと言葉を交わしてから一刻ほど後のことだった。よろず直し屋、と看板のかかった戸口を覗き込む。
「弥助さん、養生所の冴木です。入りますよ」
表向きは、養生所の医者と出入りの職人、という関係だからね。誰に見られても怪しまれないように振舞わなきゃ。
「ああ、おゆき先生かい。遠慮せずに、入ってくんな」
弥助さんは簪の細工を彫る手を休め、私を見た。土間を上がったところに、胡坐をかいた小平太さんもいる。
「おゆき坊、数馬の野郎が人を殺めて盗賊改に召し取られたって、この辺りじゃ大騒ぎだぜ。どういうことでえ」
小平太さんが私に訊ねるのを、弥助さんが手を動かさぬまま、じっと見ている。
「うん、この一件、数馬さんに恨みを持つ連中が仕組んだことなんだ」
これまでのことを、一気に話す。小平太さんと弥助さんは相槌もうたず、私の言葉にじっと耳を傾ける。一通り話し終えると、弥助さんが立ち上がり、水の入った湯呑を持ってきて私に渡した。
「そういうことかい。これで合点がいったぜ。大変なことに巻き込まれちまったな、おゆき坊」
手渡された水を、一気に飲み干す。ふう。休む間もなく走り回ったうえに、一気に話しまくったから喉がからからだったんだ。
「ありがとう、弥助さん」
弥助さんは私の前に片膝をついて座り、私の肩に手を置いた。
「それで、お前はどうするつもりだ。数馬を助ける手立てはあるのかい?」
弥助さんの、ごつごつとした手から、じんわりとぬくもりを感じる。ああ、弥助さんも数馬さんのことを心配しているんだな、ってのがわかるよ。なんだかんだで、弥助さんは数馬さんのことを、気に入っているみたいだもん。
「そこなんだけどね。とりあえず、連中が口封じにおさよを狙うだろうから、例の荒木って浪人に、見張りを頼んである。おさよに揺すぶりをかけてみたけれど、うまくいくかどうか……証言は嘘でござい、と、おさよが役人に申し出てくれれば話は早いんだけど。そう上手くいかないよね。あと、連中がまだ何か企んでいるんじゃないかって思うんだ」
小平太さんが身を乗り出す。
「ああ、おゆき坊の話を聞いて、俺も気になってたぜ。一族の恨みをはらすってえのが目的なら、盗賊改の責め苦でいたぶって殺すくらいじゃ、連中としても腹の虫が収まらねえ筈さ。なにしろ、仲間の骸を切り刻んで、数馬の野郎をはめるのに使うぐらいだ。おさよって女の口封じ以外に、きっと何か企んでやがるだろうよ」
うん、やっぱりそこだよね。
弥助さんも、小平太さんの話に頷く。
「そうだとすりゃ、そいつらは数馬が責め殺される前に動くってことだな。ありそうな手としちゃ、おさよってえ女を自害に見せかけて殺め、数馬は無罪でございって遺書でも懐に入れておくとか、そんなところだろう」
そうか。思いつきもしなかったよ。頭のなかで、いろいろな筋書きをなぞりながら、一つの考えに辿り着く。
「志乃って女は武芸の心得がなさそうだし、仲間の忍び連中も、大した腕じゃなかった。そのまま数馬さんに立ち向かっても勝ち目はない。でも、盗賊改が数馬さんが半殺しの状態で解き放てば、女の手でも容易くとどめをさせるってことだよね」
私の読みに、小平太さんは頷き――じっと私の目を見つめて口を開いた。
「おおかた、そんなところだろうさ。あとな、おゆき坊。俺は、連中の狙いは、まだ他にもあると踏んでいるぜ」
弥助さんも、黙って私を見つめている。
「え、な、なに? 小平太さんも、弥助さんも」
なんだか、妙に居心地が悪いぞ。小平太さんが、戸惑う私に言った。
「おゆき坊、連中に狙われたといったな。なるほど、前の読み通り数馬が手向かえないようにするための、人質のつもりだったかもしれねぇ。だがな、奴らの恨みの深さを考えりゃ、きっとそれだけじゃねえ」
恨みの深さ、か。数馬さんの読みが正しければ、志乃は数馬さんが斬った忍びの首領の縁者だ。きっと、親兄弟も数馬さんの手にかかっているのだろう。数馬さんからすれば、自分の命を付け狙う追手を斬っただけのこと。すべては自分が生き延びるためだ。そして、斬られた忍び達にしても、村上主膳の命に従ったまでのこと。
忍びが、私怨で動く状況は限られている。連中は、数馬さんへの怨みを晴らすために一族を抜けたか、それとも桐生の一族のように、すでに主のいない身の上か。想像しかできないけれど。
私がそんなことを考えていると、いつも余裕綽々でちょいと軽いのりの小平太さんが、いつになく真面目な顔で話しかけてきた。
「なあ、おゆき坊。俺は数馬のことはよく知らねえ。話したこともないしな。だが、弥助の話からすりゃ数馬の野郎はな、十中八、九、お前に惚れてるぜ。お前はうぶだから、気づいちゃいねえだろうが」
か、数馬さんが私に惚れてるってえ?
「そ、そりゃないよ、小平太さん! 数馬さんは優しいし、私のことを頼りになる仲間だって言ってくれているけれど、そ、それだけだよ!」
いやはや、びっくりしすぎて、声が裏返っちゃうよ。
そんな私を見て、小平太さんはため息をつく。
「お前も源太と一緒で、とんだ奥手だからな。まあ、まだ十五だ。無理もねえが。弥助が、数馬の気持ちは間違えねえだろうって言っていたぜ」
いやいや、反論したい。反論したいが、何をどう反論していいかわからん。慌てふためく私を後目に、小平太さんの話は続く。
「志乃って女も、もしかすると数馬がお前に惚れているってぇことを、気づいたかもしれねえ。そうするとな、連中がお前を襲って生け捕りにしようとしたのも、筋が通るぜ」
「どういうこと?」
そう訊ねた私の顔をじっと見つめた小平太さんは、一息おき、かんで含めるように言った。
「お前を手籠めにでもすりゃ、数馬が苦しむからな」
頭をがんと殴られた気がした。そういや、数馬さんと私が話しているとき、志乃がこっちを睨みつけていたっけ。
数馬さんが私をどう思っているかはさておき、連中が私を生け捕りにしようとした理由としては筋が通る。うむむ。考えれば考えるほど、ありそうな話に思えてきたぞ。
「そうはさせない。返り討ちにしてやるさ」
女の身で武芸者として生きるならば、負ければ体を弄ばれることもある、とわかっている。だから、相手に敵わぬときも身を守る術を、父から叩き込まれている。でも、私自身が誰かの――数馬さんの弱みになるなんてことは、考えてみたこともなかったよ。そんなこと、させるかい。
小平太さんはにやりと笑った。
「その意気だ。お前は、おさよを見張ってな。連中がどう動くにせよ、生き証人のおさよが生きてちゃ、都合が悪いだろう。お前の読み通り、連中はおさよの口を封じようとするだろうさ」
「うん」
「あとは数馬だな。責め苦に耐え切れず、手前が犯人でございます、なんて口走ったら最後、死罪は免れねえ。それに、責め殺されるってこともある」
小平太さんと私のやりとりを黙って聞いていた弥助さんが、再び簪の細工物を彫り始めた。手を動かし続けながら、ぶっきらぼうな声音で私に話しかける。
「なあ、おゆき坊。数馬はしょっぴかれるとき、何かお前に言い残していったか?」
「耐え抜いて見せるって……俺のために無茶をするな、って言っていたよ」
もう……いつも、無茶ばっかりするのは数馬さんのほうじゃないか、って思ったから、よく覚えてるよ。
「そうかい。じゃあ、数馬が責め苦に耐え切れず、口を割るってこたぁねえだろう。奴は、お前を泣かせるようなことはするめぇ。おゆき坊、数馬のことは俺に任せな。ちょっくら盗賊改のところまで、様子を見に行ってくるからよ」
弥助さんの言葉に、唖然とする。知恵を借りようとは思ったけれど、本来、江戸に来たら弥助さんや小平太さんたちとは、別行動にしなきゃいけないんだ。それに、この一件は村上主膳がらみとはいえ、むしろ数馬さんに対する私怨が発端だ。弥助さんたちの手を借りるわけにはいけない。
でも……私だけでは、いかにも手が足りない。弥助さんが助けてくれるなら心強い。
「いいの? 弥助さん」
「ああ。数馬は塚田様の弟子だっていうじゃねえか。俺は、数馬を新八に会わせてえ。俺の酔狂ですることさ。おゆき坊、お前は余計な心配しなくていい」
私の顔を見ずに、黙々と簪の細工を仕上げていく弥助さんを一瞥した小平太さんは、腰を上げながら私の肩をぽんと叩いた。
「ま、なんだかんだで、弥助も数馬の野郎のことを気に入っているからな。数馬のことは弥助に任せておけ。お前は、そのおさよって女を守れ。俺の読みが正しければ、数馬はじきに、解き放ちになるだろうさ」
小平太さんの言葉に、体の底から力が湧いて来る。小平太さんも、弥助さんも、私にとっては師だ。頼もしい仲間だ。この二人が力を貸してくれれば、なんとかなる気がするよ。
「ありがとう、弥助さん、それに小平太さんも」
弥助さんは私をちらりと見て、口の端を軽く持ち上げた。
「いいってことよ。数馬の様子がわかったら、知らせてやる。お前は安心して、自分がしなきゃいけねえことをやりな」
弥助さんの家を出て、おさよの家へと戻る足取りは、行くときと違って軽い。数馬さんが無事でいてくれるだろうか、と考え始めればキリがない。考えても詮無きことは、考えても無駄だ。それに、そっちは弥助さんが何とかしてくれる。
いまは、連中の手からおさよを守るために、全力を尽くさなきゃ、な。




