閑話 淡い恋
女武芸者が戸口から出ていくのを見て、おさよは呼び止めようとした。だが、喉がからからに乾き、はりついてしまったようだ。
姉芸者の染弥が無残にも殺され、外堀に捨てられた事件を、おさよは一時たりとも忘れたことはない。
おさよが半玉になったころには、すでに染弥は自前芸者をしていた。小さいながらも二階建ての表店を借りているところからも、染弥の羽振りの良さがうかがい知れる。だが義理堅い染弥は、古巣から声がかかれば大抵の座敷には顔を出すし、置き屋の半玉たちの面倒もよく見た。おさよは芸事に熱心だったし、よく気がつくたちだったから、染弥には可愛がられた。あでやかな美貌で、芸事にも優れ、どんな客でもなんなくあしらう染弥は、おさよにとって憧れだった。
「男に囲われるなんて、まっぴら御免さ」
そう言い続けた染弥が何を考えたのか、養生所の見習い医者を情夫にしたのは十年前のことだ。その男はどうやら江戸に出てきたばかりの若侍で、剣の腕はからきしらしい、とまたたくまに立浪中の噂となった。
(どんな男だろう?)
おさよは、染弥の心を射止めた男のことが気になってしょうがない。
ある日の昼下がり、置き屋からの遣いで染弥の家を訪れたおさよは、興味津々で戸口から覗き込み声をかける。
「染弥姐さん、梅千代です。お母さんのお遣いで来ました」
あいよ、ちょいと待ってておくれ、と二階から気だるげな染弥の声がする。
粋事のあとだ、と梅千代にはぴんときた。芸は売れども色は売らぬ、が立浪の芸者の意地だ。色事目当ての無粋な客は、蔑まれる。だが、馴染みの旦那と体を合わせるのは普通のことだし、奔放な芸者はいくらでもいる。まだ齢十四の梅千代も、そういう勘働きはできる。
「数馬先生、梅千代ちゃんが来たから、もう帰っておくれ」
染弥のぴしゃり、とした言葉に続いて、二十歳そこそこに見える若い男が、細くて急な階段を下りてきた。
藍色の小袖に小袴、という質素な身なりだ。右手で頭をかきながら、大あくびをしている様は、あまりぱっとしない。
(こんな、野暮なのが染弥姐さんの情夫だなんて。そりゃ、顔だけ見れば役者顔負けのいい男だけど)
梅千代を見た数馬は朗らかな笑みを浮かべた。
「梅千代さんかい。待たせてすまないな」
その笑顔を見て、おさよの胸がとくんと高鳴った。
「いえ……」
そう言って、おさよはうつむいた。自分の頬がかぁっと熱を帯びるのを感じたからだ。なんてことだ。こんな野暮な男にときめくなんて。まだ半玉だけれども、意地と気風がうりの、立浪の女の名が泣く。
すれ違いざまに染弥と同じ香のかおりがして、おさよは我にかえった。まあ、いろいろな男を見てきた染弥が選んだ男なのだ。身なりや立ち振る舞いが野暮な田舎侍でも、間違いはなかろう、と、おさよは己に言い聞かせた。これが、おさよと数馬の出会いだった。
それから一年が過ぎた。数馬は相変わらず、染弥のところに入り浸っている。三日に一度は染弥の家に泊まり、朝帰りだ。もう、すっかりお馴染みの光景に、立浪の芸者たちも噂すらしない。
(こんなに、姐さんのところに泊まったりして。数馬先生、養生所の仕事は大丈夫かしら)
おさよも、いらぬ気遣いをしてしまう。江戸に出てきたばかりの頃にくらべて、数馬の身なりや立ち振るまいが随分と垢ぬけてきたのを見ると、おさよはおかしくて仕方がない。
(ふふっ、染弥姐さんの仕込みだもの)
おさよは十五歳。襟替えもすませて、一人前の芸者となった。出会って一年たち、今ではおさよも数馬のことを好ましく思っている。偉ぶったところがなく、いつも明るい笑顔で言葉を交わしてくれる、優しい男だ。呑気で、歳のわりに初心なところがあるのも、見慣れれば可愛く思える。
(これで腕っぷしが強ければ、いうことはないのだけれど)
だが、男に多くを求めすぎるものではない、とおさよはわきまえている。
(数馬先生が染弥姐さんのいい人じゃなければ、私が……)
と思ったこともあった。いつかは染弥が数馬を振るのではないか、と予想していたが、意外に長続きしている。それにしてもおかしな話だ。染弥が数馬に惚れこんでいる様子はないし、数馬は数馬で染弥に執着しているように見えない。こういう男と女の関係もあるのか、とおさよは首をひねるばかりだ。
そして、あの事件の前の晩。
おさよは、染弥と同じ座敷に出ていた。だが、染弥は体の具合が悪いといい、半刻ほどで帰っていた。確かに元気な風を装ってはいたが、染弥の顔は憔悴しているように見えた。
(お座敷に穴をあけるなんて、染弥姐さんらしくもない。よほど体の具合が悪いのだろう)
そう思ったおさよは、座敷が引けると幇間の男とともに染弥を見舞いに行った。
「染弥姐さん、梅千代です。様子を見に来ましたよ」
いつも開けてあるはずの戸口が、なぜかしっかりと閉められている。おさよが呼びかけると、階段の上からそろりそろりと染弥が下りてくる音がした。
「梅千代ちゃんかい。今日はお座敷にとんだ迷惑をかけちまって。隣に誰かいるのかい?」
閉めた戸板の向こうから、染弥が問いかける。
(どうしたんだろう。戸を開けずに訊くなんて)
「姐さん、夜道は暗いから、幇間の仁平さんがついてきてくれたんです」
一呼吸おいてから、心張り棒を外す音がして戸板が少し開く。その隙間から梅千代と仁平の姿を覗きみた染弥は、胸を押さえてほっと息をつき戸を大きく開いた。
「すまないね、仁平さん、梅千代ちゃん。さ、こんなところで何だから、あがっておくれ」
二人を招き入れると、染弥は閉めた戸に心張り棒をあてがう。どこか怯えたように見える染弥の様子に、おさよは胸騒ぎがした。
「染弥姐さん、いったいどう……」
おさよの問いは、ガタガタと戸を鳴らす音に断ち切られた。予期せぬ来訪者の気配に、染弥の顔色が変わる。
「染弥姐さん、どうしたんだい。戸なんて閉めて」
戸の外から聞こえる声に、またもや染弥は安堵の吐息を漏らす。
「なんだい、数馬先生かい。あまり驚かさないでおくれよ」
染弥がいそいそと戸を開けると、怪訝な顔をした数馬が入ってきた。数馬は、その場にいる面々を見回す。
「梅千代さんまでいるのか。こりゃ、邪魔したかな」
背を向けて帰ろうした数馬の袖を、染弥がしっかりと掴んだ。
「いいんだよ、数馬先生。ちょいと話があるんだ。仁平さん、梅千代ちゃん、わざわざ来てくれたのに済まないけれども、外してくれるかい?」
いつもの染弥なら、数馬のことなど後回しだ。数馬に対する染弥の態度があまりにぞんざいで、おさよが呆れかえることもあったくらいだ。
訝しみながらも、おさよは染弥の家をあとにした。おさよが生きている染弥の姿を見たのは、それが最後だった。
次の日の夜、馴染みの客の座敷に染弥は現れなかった。座敷がひけたあと、おさよは染弥の家を訪ねた。だが、染弥の姿は影も形もない。
(数馬先生が、何か知らないかしら)
おさよは、養生所へと続く外堀沿いの道を歩いている途中で、外堀に浮かぶ何者かの骸を見つけた。月明りも乏しいなか、ぷかりと水面に浮かぶ女の裸身は、まるで作り物のようだ。すぐさま番屋に届け出たおさよは、奉行所の手の者が骸を引き上げる様を眺めていた。
遠目だが、提灯の灯かりに照らされ、ほんのりと赤く輝く肌には、刃物で斬られた傷が無数に刻まれているのがみえる。定町廻りの同心が骸を検分したあと、おさよを骸の傍らに呼び寄せた。
「立浪の芸者、梅千代だな。この仏に、見覚えはないか」
骸にかけられた筵がめくられ、おさよはその女の顔を見るなり息をのみ、己の口を両の手で覆った。
(――染弥姐さん!)
長い黒髪は乱れて頬に張りつき、美しい顔は苦悶に歪んでいた。左の頬や額にも、右の項にも、深い切り傷が刻まれ、赤黒い血がこびりついている。変わり果てた姉芸者の姿に、おさよは声を失い、震えることしかできなかった。
同心によると、染弥のところに出入りしている下働きのおかねが、数馬と染弥が激しく言い争っているのを見たという。その後、下手人の嫌疑で大番屋に引っ立てられた数馬は、早々に疑いが晴れたらしい。だが、馴染みの番屋役人が言うには、数馬は染弥の無残な姿を見ても、眉ひとつ動かさなかったそうだ。
(おかねさんが、染弥姐さんと数馬先生が言い争っているのを聞いたというけれど……まさか、数馬先生が……)
人の好さそうな数馬が染弥を手にかける筈がない。そう信じたかった。だが、あの晩の染弥の様子は、明らかにおかしかった。
(いったい、なにがあったんだろう。最後に会った数馬先生ならなにか知っているかも)
明くる朝、数馬から話を聞くために養生所に出向いたおさよに、先輩医師はため息をつきながら言った。
「数馬はな、染弥の骸の検分に立ち会ったらしいが、それっきりここに戻らんのだ。まったく、どこで何をしているのやら」
三日待っても、十日待っても、数馬は戻ってこなかった。おさよは、数馬の行方を探し求めたが、行方はわからなかった。立波の芸者衆も、数馬は江戸から離れたのだろうと噂しあった。
いつしか、おさよの心にあった疑いは確信に変わった。
(後ろめたいことがあるから、江戸を離れたのに違いない。染弥姐さんを殺めたのは、数馬だ)
少女の心に宿っていた淡い恋心は、容易に憎悪へと変わる。
(いつか、ほとぼりがさめたら、数馬は江戸に舞い戻ってくるだろう。姐さんの恨み、この手できっと)
数馬が現れたら、どのように恨みを晴らすか、来る日も来る日も考えて過ごした。二年前、鶴見屋の妾におさまってからは、芸者衆との付き合いもない。一年前から数馬が養生所に戻っていると人づてに聞いたのは、ほんの五日前だ。
いてもたってもいられず、その日の昼さがりには、おさよは養生所の周りで待ち構えていた。憎き仇の顔を確かめるためだ。遠くを通り過ぎていく数馬は、おさよに気づいた様子はない。九年前の事件などなかったかのように、昔と同じ朗らかな笑みを浮かべる数馬の姿を眺めるうちに、怒りのあまり全身がわななく。唇をかみしめるおさよに、志乃という女が話しかけてきた。志乃は武家の娘で、数馬に騙された親兄弟が腹を切らされたので、仇を討つために数馬を追って江戸に出てきたばかりだという。
「おさよさん、さきほどの様子からすると、あなたも乾数馬に恨みをお持ちではありませぬか」
そう尋ねた志乃に、おさよは九年前の事件を話した。
「ならば、おさよさんと私は同じ仇を追う者同士。あの数馬めを、苦しめて、苦しめて、苦しみ抜かせてから殺しましょうぞ」
そして、志乃は数馬を陥れる策を持ち掛けてきた。数馬に騙された女が、自ら命を絶つつもりと聞いている。志乃とその女とが予め練った策では、女の骸に志乃の仲間が刀傷をつけて外堀に捨てる。そのときに、志乃からおさよへ使いの者をよこすから、数馬が人を殺めるところを見た、と盗賊改に名乗り出てほしい、と。そして、おさよはその策に乗った。
思惑どおり、数馬は盗賊改に召し取られた。遅かれ早かれ、数馬は死ぬだろう。責め苦に耐え切れず死ぬか、死罪かはわからないが。
(いい気味だ。これで、染弥姐さんの恨みを晴らせる)
だが、おさよの気持ちは晴れない。さきほどの女武芸者をたかが小娘と侮り、嫌味を浴びせかけたつもりだった。
(どうせ、あの娘も数馬の顔や見せかけの優しさにコロっといったクチさ)
と、おさよは踏んだ。そう思うと、十年前のおさよ自身と重ね合わせてしまい、許しがたい心持ちになる。嫌味の一つや二つ言っても、言い足りないくらいだ。
だが、あの女武芸者は怒るでもなく、動揺するでもなく、まっすぐにおさよを見返した。その目の力の強さに、おさよは気圧された。
そして、女武芸者が言うには染弥の死と、今回の一件を持ち掛けてきた女に関わりがあるらしい。
(ふん、どうせでまかせさ)
とう自分自身に言い聞かせる。だが、思い返せばおかしな話ばかりだ。
(九年前のあの晩、姐さんはなにかに怯えていた。だけど、数馬の顔を見るなり安心した風だった。それに、あの志乃という女、親兄弟の恨みを晴らすにしては、やりくちが回りくどすぎやしないか)
一度疑い始めると、次から次へとネタはつきない。
(それに、私なんぞに頼まず、あの女が自分で役人に、数馬が人を殺すのを見た、と言えばいいだけの話だ。それに、今回の骸は女じゃなくて男だった。あの女、何かを隠している。いったい、なにを……)
おさよは薄暗い部屋の中でひとり、立ちすくんだ。




