痴情のもつれってえのだけは勘弁
明け方のキンと冷えた空気を、胸いっぱいに吸い込む。冬晴れの空には、わずかに雲が浮かぶのみ、だ。これならば、しばらく雨も降らないだろう。良かった、旅にはもってこいの日和だぜ。
丑松さんの市中引き回しが執り行われた日から、三月が過ぎた。丑松さんは、数馬さんがびっくりするくらいの元気で、佐吉さんの介抱をしながら過ごした。佐吉さんの骨盤の骨折が直りかけるのと入れ替わりに、丑松さんが床に伏したのは、ふた月前のことだ。それからの丑松さんは、体を起こすこともできず、食事も喉を通らなくなった。日々弱りゆく丑松さんを、今度は佐吉さんが介抱した。
そして、丑松さんが倒れてから十日後の夕刻。
「ようやくお迎えが来らあな。佐吉、達者に暮らすんだぜ」
枕元に寄り添う佐吉さんに、にっと笑いかけ、丑松さんは目を閉じた。その夜も更けるころ、佐吉が見守るなかで、丑松さんはその生涯を閉じた。丑松さんの躯は、西町奉行所が手配した寺に運ばれ、そこに埋葬された。
「なにしろ、死罪になっているはずの身だ。大っぴらに葬儀もあげさせてやることもかなわず、すまぬなあ」
という鵜木様に、
「なに、そもそもが俺の不始末から出た話ですぜ。晒し首にもならず、こうやってちゃんと、看取ることもできやした。旦那に頭を下げられるなんぞ、もったいねえ。どうか、顔をあげてくだせえ」
と、佐吉さんは晴れ晴れとした顔で答えた。
一方、霞小僧を騙り、押し込みを働いた津坂は、腹を切らされたらしい。これは、小平太さんが仕入れてきた情報さ。
そして、今日――佐吉さんは、江戸を発つ。
連座を免れたとはいえ、表向きは咎人の身内だ。江戸にいる限りは、なにかと肩身が狭い。
「ちょいと上方にでも行って、まっとうに働きまさあ。なあに、十年くらいしてほとぼりが冷めたら、また江戸に戻りますんで。俺の体にガタが来ていたら、そのときは先生がた、よろしくお願いいたしやす」
とは、佐吉さんの言だ。十年後か。想像もつかないなあ。多分、そのときには私も数馬さんも、きっと養生所にはいないだろう。佐吉さんには言えないけれども。
これまでのあれやこれや、を思い返しながら、数馬さんと連れたって歩を進める。住谷橋に行くと、旅装に身をつつんだ佐吉さんが、待ち構えていた。住谷橋は大井街道の起点だ。五ノ井に向かう旅人は、ここから旅立つ。周りも、旅立つ身内を見送りに来た人たちでごった返している。
「先生がた、このたびはおとっつぁんともども、とんだ世話になっちまい、御礼の言葉もございやせん。この御恩は、いつかきっと、お返しいたしやすんで」
と、あらたまって頭を下げる佐吉さんの背を、ポンと叩く。
「いいんだよ、佐吉さん。佐吉さんが元気に過ごしてくれれば、それだけで嬉しいよ。体を壊さないようにね」
何度も何度も振り返り、頭を下げる佐吉さんの後ろ姿が見えなくなるまで、私たちは、住谷橋のたもとで見送り続けた。
養生所へと帰る道すがら、三好先生の家に寄る。三好先生は、ちょっとした料亭の離れを借りて、一人で暮らしている。十数年前に亡くなった店の先代が、三好先生に世話になったとかなんとかで、ただ同然の賃料らしい。三好先生は、医者殺しの一件が解決してすぐに、秋月先生の屋敷から自分の家へと戻った。一時期はめっきりと弱っていたが、現在は小康状態を保っている。具合のいい日は床を離れ、書を読み、自らの経験を綴って一日を過ごす。とはいっても、積聚――差し込みの発作は徐々に増えているようだし、腹水も増えてきている。五日に一度、三好先生の家に寄って脈をとり、薬を渡すのが常だ。
「数馬、ゆき殿、いつもすまぬな」
そう言って数馬さんから薬を受け取った三好先生は、私の顔をちらりと見てから数馬さんに問う。
「数馬、ゆき殿には、あのことを?」
んんん? あのこと、ってなんのことですか? 目をぱちくりさせる私の疑問は、すぐに解けた。
「はい、ゆきさんには、俺がずっとは養生所にいられないことを、話してあります」
「そうか。数馬、知り合いの伝手で、養生所に来てくれる者がいないかあたってみたが、まだ見つかっておらん。すまぬな」
ああ、そのことか。数馬さんが江戸に戻ってきた目的は、まだ教えて貰っていない。だが、いつかは追手から逃れ江戸を離れることになるだろう、とは聞いている。おそらくは、九年前の隠密狩りに絡むことなのだろう。
数馬さんは、自分が養生所にずっとは居られないことを三好先生に伝えた。かわりに来てくれる医者を、三好先生が探してくれていたらしいけれど、やっぱり駄目かあ。そりゃそうだよね、養生所の台所は火の車だし、なんだかんだで賊に何回も襲われているしな。物騒なこと、このうえない。結局は、数馬さんと私とで代わりの医者を見つけるしかないよね、と、一昨日も話し合ったところさ。
申し訳なさげに肩を落とす三好先生に、数馬さんは笑いかける。
「気にしないでください。俺とゆきさんも、養生所に来てくれる医者を探してみますから。近頃は、養生所を襲うような輩もいませんし」
そう、二代目霞小僧の一件が落着してからは、特に大きな事件はなかったよ。一時期は、私が揉め事を呼び寄せているんじゃないかって思ったこともあったけれど、気のせいだよね。
小平太さんと弥助さんは、白沢のお殿様を狙う企みがないか、調べを続けているようだ。もっとも、そちらのほうには私は関わっていないから、詳しくは知らないけれど。
三好先生の家を出て、数馬さんととりとめもない話をしながら歩く。江戸に来たばかりの頃は、瓦版にあれこれ書かれたせいで、まともに道を歩けなかったなあ。でも、江戸っ子は飽きっぽい。こうやって男のなりをして数馬さんと並んで歩いても、指をさされて噂されることもなくなったよ。
お! 若い町娘たちがこっちを見て、きゃあきゃあ言いながら楽しそうに笑い合っているぞ。まあ、数馬さんって整った顔立ちだしな。若い娘っ子たちに熱い視線を送られるのも、むべなるかな、だ。
ときどき、絵師っぽい風体の男たちが、そっとこちらを覗き見ながら、懐から筆と紙とを取り出し、さっと何かを書きつけて行くのを見かける。おおかた、数馬さんの絵姿でも描いているだろう。養生所に来るおかみさん達が、数馬さんのことを役者顔負けの男前、って褒めそやしているくらいだもの。
でも、数馬さんと一緒じゃなくて私だけ外を出歩いているときも、絵師連中に付きまとわれているんだよなあ。もしや村上主膳の手の者かと疑ったこともあるけれど、尾行がいかにも素人さんだし、さすがに違うようだ。うーむ、解せぬ。まあ、細かいことはいいか。
日が少し高く昇ってくると、仕事にでかける大工や、商売のネタを仕入れに行く振り売りが行き交い、通りは活気に満ちてくる。かたや私たちは、外来の患者が来る前に養生所に戻ればいいから、歩調はのんびりだ。
「ねえ、数馬さん。養生所に来てくれる医者が見つからないときは、医者になりたい者を募って、三好先生の伝手で修行を積ませるのはどうかな」
ふと思いつき、傍らの数馬さんに問う。
「そうだなあ。そういうやつがいたとして、ものになるまでに、どれくらいかかるか」
数馬さんはしばし考え込む。
「だが、医術を学びたいという者が修行を積んで戻ってくるまでの幾年か、ということであれば、養生所に来てくれる医者も見つかるかもしれないな」
そう言って、数馬さんはにっこりと笑った。
「いい考えじゃないか、ゆきさん」
数馬さんは、思ったよりも楽天的なところがある。付き合いが長くなってきて、そういう面が見えるようになってきた。これがきっと、数馬さんの元々の性格なんだろうな。
「じゃあ、どうやって人を募るか、さっそく考えなきゃね」
「侍、町人を問わず、人を募るとするか。巳之吉親分に聞いてみるとしよう」
策を練りながら歩いているうちに、いつの間にか養生所の目と鼻の先までたどり着く。ん? 門の前で待っている女子がいるではないか。
舛花色に同色の小紋を散らした小袖姿だ。水浅葱色の帯をきちんと締めた、一目でそれとわかる武家の娘だ。年の頃は十六、七歳といったところか。
どうやら私たちが帰るのを待っていたようだ。急患かな。でも、着物の仕立てがいいから、養生所の世話になるような階層の娘には見えんが。
「養生所のものですが、なにかご用ですか?」
近づいて声をかけると、娘はぱっと顔を輝かせた。
「これは、お留守のところ大変失礼いたしました。わたくし山野国の藩士、桂木与右衛門が一女で志乃と申します」
志乃、と名乗った娘は深々と頭を下げ、言葉を続けた。
「わたくし、医術の道を志しております。されど女の身で医術の修行を積むてだてがわからず、途方にくれておりました。養生所に女医者の先生がおられると人づてにきき、いてもたっても居られず、不躾とは思いつつもお訪ね申した次第にございます。どうか、わたくしを養生所に置いてはもらえませぬか」
思わず、数馬さんと顔を見合わせる。これは待ち人来たる、ってやつだ。
志乃と名乗る娘を養生所に招き入れ、取るものも取り敢えず茶などを出す。所作などは問題ない。間違いなく武家の娘だろう。なで肩でほっそりした体つきで、手の指もしゅっと細い。山野国は、どんなところだろう。藩の名前は耳にしたことがあるけれど。五ノ井だと女でも武芸を嗜むものが多いから、武家の子女は、もっとごつごつした手なんだよね。
「志乃さん、と言ったか。せっかく訪ねてきてくれたところ申し訳ないが、もう患者が来る頃合いだ。患者たちを診終わるまで、しばらく待っていて貰えないか」
数馬さんがそう言うと、志乃さんはうっすらと笑みを浮かべた。品のある顔立ちだ。
「差し支えなければ、わたくしは先生がたの様子を傍で見せていただきとうございます。医術の道を志す身ゆえ、これも修行にございます」
おお、なかなかに殊勝な心掛けだな。素晴らしい。
「そうか。それでは、ゆきさんの仕事ぶりを見て貰うことにしようか。養生所に来る患者のうち、金創は主にゆきさんが診てくれている。頼めるかい、ゆきさん」
数馬さんの言葉に、志乃さんは、何かもの言いたげな様子だった。ん? 何かひっかかるな。私のほうにつくのに、何か不満でもあるんだろうか。だが、その表情はすぐにかき消え、志乃さんは私に向けてにっこりと微笑んだ。
「おゆき先生、とお呼びしてもよろしいでしょうか。よろしくお頼み申します」
妙に丁寧にあいさつをされ、ちょいとこそばゆい。
「もっとざっくばらんでいいですよ、志乃さん。なにしろ私は山育ちゆえ、堅苦しいのは苦手ですから」
というよりは、若い女性とどう話していいのかわからない、ってのが本当のところさ。なにしろ桐生の里は高齢者ばかりだし、気安く話せる相手で若い人っていったら、源太にぃと数馬さんくらいだもん。
それからしばらくして、続々と患者がやってきた。私が患者を診ている間、志乃さんは診療室の片隅で私のやることを見ている。患者が初診で来た患者の診たてや療法について、手短に説明してあげる。だが、志乃さんは心ここにあらず、といった様子だ。気付かれぬよう、ちらっと様子をうかがうと、志乃さんは診療室の反対側にいる数馬さんの様子をじっと見ている。どうやら、数馬さんの一挙一動が気になるらしい。
そのへんの町娘が数馬さんに熱い視線を送るのは、今に始まった話ではない。だが、志乃さんの視線からは、懸想している様子は感じられない。怜悧な視線に、ときどき憎悪が混じっているように感じる。
この女は、信用ならない――そんな気がする。
午前中の診療を終え、数馬さんと往診の準備をしながら、志乃さんにあれこれ問う。山野とはどのような国か、とか、なぜ医術の道を志そうと思ったのか、とか、父親の桂木与右衛門殿には了解を得ているのか、とかだ。まあ、採用のための面接みたいなものさ。
志乃さんは、先ほど数馬さんを見つめていたときはうって変わって、穏やかな笑みを湛え、よどみなく答える。
私が志乃さんと話している間、数馬さんは一言も口を開かず、往診に持っていく薬の準備をしている。おかしい。いつもの数馬さんなら、客が来たら愛想のひとつやふたつ、振りまいている。そういうところ、如才ないもん。
私が志乃さんに対して感じている違和感は、数馬さんも勘づいているはずだ。だが、それだけで数馬さんがこういう振る舞いをするだろうか。もしや、なにか他にも理由があるかもしれないな。志乃さんが帰ったら、聞いてみよう。
結局、志乃さんは往診にもついてきた。途中、数馬さんの様子はいつもと変わらないように見えた。相変わらず、志乃さんには話しかけないけれど。これは、いよいよもって怪しい。うわ、私に気安く話しかける数馬さんを、傍で志乃さんがじっと見ているよ。ちょいと怖いぞ。痴情のもつれってぇのだけは、勘弁願うぜ。
私が気を揉んでいるうちに、往診も無事に終わった。養生所の近くまで戻ったところで、
「では、わたくしはこれにて。明日もまた、朝ここに参りますゆえ、よろしくお願いいたします」
と丁寧に礼を述べ、志乃さんは帰っていた。いや、まだ、いいとも何も答えていないんだが。とんだ押しかけっぷりだぜ。
建屋の中に入り、土間に耳をつける。志乃さんが、引き返してくるかどうかを見極めるためだ。戻ってくる足音が聞こえないことを確認し、立ち上がって小袴の土埃を払う。その様子を、数馬さんは黙ってみていた。
「ねえ、数馬さん。志乃さんて人に、覚えがあるの」
私に問われることを予想していたのだろう。数馬さんは、厳しい顔つきで口を開く。
「見覚えはないが、おそらくは――かつて俺が斬った相手の縁者だろう。幾年か前、村上主膳の命を受けて俺をつけ狙い続けた忍びの一族がいた。山野国に住まう、水無川衆という連中さ」
数馬さんの顔に、時折愁いが混じる。
「俺は、追手から逃れ続ける日々に疲れ、水無川衆が住まう里に乗り込んだ。そして、頭領や手向かってくる者たちを斬った。志乃という女、まことの名かどうかはわからんが、微かに山野国の訛りがあるのは確かだ。おおかた、俺が斬った頭領の娘ってところだろう」
そうきたか。それならば、憎悪の混じる目つきで数馬さんを見ていたのも納得だ。上忍の娘なら、武家の所作を身につけていてもおかしくはない。
「数馬さんを狙っているのか。でも、妙に大胆に近づいてきたね」
「それは、俺も気になっている。俺を殺すだけなら、村上主膳の手の者に俺の居所を伝えればいいだけの話だ。それを、わざわざ俺の前に姿を晒してきた」
今のところ、数馬さんが上柴様の隠密の生き残りだということは、ばれていないはずだ。数年越しで数馬さんの命を狙い続けていたくらいだもの。わざわざ女を使って探りをいれるなんて回りくどいことは、しないだろう。今頃、捕り方か、殺しを請け負った者どもが大挙して押し寄せているはずだ。
「つまり、志乃って人は、村上の命で動いているわけではないってことだね」
「俺もそう思う。あと、さすがに策もなく、女の身でひとり乗り込んでくることはなかろう。他に仲間がいるはずだよ」
さて、こいつはちょいと厄介だ。なにしろ、相手がどういう手でくるか、まだわからない。きっと搦め手でくるつもりだろう。なんとか、敵の狙いを知り、裏をかく手立てを考えなきゃな。
猛烈な勢いで考え始め、黙りこくった私に、数馬さんは静かに語り掛けた。
「なあ、ゆきさん。相手の狙いは、俺だ。ゆきさんまで、巻き込まれる必要はまったくないよ。危ないと思ったら、俺にかまわず逃げろ。いや、逃げてくれ」
思わず、数馬さんの目をじっと見据える。少し灰色がかった、澄んだ瞳には迷いがない。その決意をはかりかねて、思わず訊いてしまう。
「数馬さん、もしやとは思うけど、奴らに斬られてやるつもりはないよ……ね」
数馬さんは目を瞬かせたあと、かすかに笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。俺は、死ぬ気はさらさらない。敵が俺を狙ってくるならば、返り討ちにするまでさ。それよりも、ゆきさんが巻き込まれるのだけは避けたいんだ。これは、俺が背負った業だから」
その笑顔に、どこか寂しげな色が混じっていた。人を斬れば、残された縁者の恨みを一身に受ける。生き延びるために数馬さんが斬った相手の中には、年端もいかぬ童も混じっていたと、前に話してくれたっけ。心優しい、数馬さんのことだ。どれだけ、心を痛めたことだろう。
この一件、数馬さんが自身が解決しなきゃいけないことだ。でも、せめて、傍で見守りたい。なぜそう思うのかは、自分でもわからないけれど。
「数馬さん、私はね、自分に振りかかる火の粉は、自分で払うから大丈夫だよ。だから、数馬さんは自分の心配をして」
そう言って、言い添える。
「でも、心配してくれてありがとう」
感謝の言葉が意外だったのか、数馬さんは、きょとんと呆気にとられたような顔をした。でも、それも一瞬の話だ。見る間に笑顔が戻る。
「やれやれ、ゆきさんは絶対に引かないからな。わかったよ。でも、無理はしないでくれ。いいね」
「うん、数馬さんもね」
痴情のもつれじゃなくて、ちょいと一安心だぜ。そっち方面は苦手だもん。




