少年の記憶
誰もいない武道場で、高木はひとり木刀を振るう。日曜日の夕方は、県警の武道場を使う者もいない。
師である杉正巳が他界してから、高木は剣術の道場には通っていない。師は杉だけ、と心に決めていたからだ。剣道の稽古の合間に、こうやって一日に一度は師から伝えられた剣を振るう。
不思議なひとだった。初めて会ったのは、高木がまだ新人で交番勤務をしていた頃のことだ。高木は剣道の学生日本一という実績を買われ、剣道の特練員に選抜されていたが、社会人の大会では思うような成績を出せていなかった。いや、成績を出すのは、選抜された者の義務としても、それ以上に、まだ若い高木には迷いがあった。剣の高み、そこを目指したいと漠然と考えていた。だが、目指すべき高みとは何か、己はどこに行くのか――いくら考えても、答えは得られなかった。
そんなとき、あの事件が起こった。交番の近くの風俗店で、真剣を持った男が従業員の女を人質にとり、立てこもった。警察が店の周りを取り囲んだが、うかつに手出しできない。その現場に、若き高木もいた。
隙を見て店の外へと駆け出した女が斬られ、激高した男が周りの野次馬に斬りつけようとした瞬間、野次馬の人垣のなかから一人の男が飛び出し、さらなる凶行に及ぼうとした犯人を取り押さえたのだ。
犯人が振りかぶった真剣にまったくひるまず、迷いもなく相手の懐に飛び込んで得物を奪い、当身を入れる――相手が崩れ落ちるように倒れるまでの様を、今も高木は鮮やかに思い出す。
(あれ以来、俺は目指すべき道を得た)
妻を娶らず、ただただ剣の道を行く。その道の果てには、師の背中がある。
自分が住むこの世界とは別の世界で、武芸者として生き、非業の死を遂げた師は、その剣でどのように生き抜いてきたのだろう。
(俺がいくら剣の工夫を重ねたとて、生死の狭間で剣の腕を磨いた師には及ばないだろう)
そう思いつつも、高木は剣を振り続けた。目指すべき道があるのは幸せだ。それに、高木には教えるべき後輩たちがいる。
だが――
有希の同期である神崎と初めて顔をあわせてから、三週間になる。霊感刑事という異名を持つ神崎によると、有希の魂がこの世から消え去ったらしい。それが何をするのか、神崎にもわからないそうだ。だが、もし有希の魂が、師のいる世界に連れていかれたとしたら。
(有希はどうしているだろうか)
ふと、そう考えることが多くなった。神崎は、高木自身の身に何か霊的な現象が起きているとも言った。だが、高木自身は、特にそれ以前との変化は感じていない。だが、日に日に有希の魂の行方が気になる気持ちが、強くなって仕方がない。
武道場を出た高木は、その足でバス停に向かう。県立美術館に向かうバスの中で、高木は自問自答する。
(俺は、いったい何をやっているのだろう)
高校の美術教師だった師が長年にわたり書き溜めた絵は、師の死後、地元の愛好家の手に渡った。そして、その愛好家の没後、師の絵は県立美術館に寄贈された。その絵を見たいという衝動のままに、高木は美術館の中に足を踏み入れる。
九月の間は、特別企画という形で師の絵が展示されていたらしい。有希の見舞いや没後の手続きやらもあったし、剣道の大会シーズンで、後輩たちに稽古をつけねばならなかったから、見に行く機会はなかった。
(まだ、展示されている絵はあるだろうか)
常設展示室に片隅に展示された絵の前で、高木は足を止めた。畳半分くらいのキャンバスに描かれた、油彩の作品だ。
焼け落ちた家屋が立ち並ぶ廃墟を、真っ赤に輝く月が不気味に照らし出す。
(あの、赤い月の絵だ)
そう気づき、絵の下に張られた説明書きを読む。
『慟哭――この作品は杉正巳氏にしては珍しく、荒涼とした風景を幻想的に描いたもので、戦時中に空襲で焦土となった故郷を見た作者の、絶望感を表現したものと思われます』
高木は思わず苦笑する。
(ほんと適当な説明だよね、と有希が笑っていたっけ)
楽し気に笑っていた有希の姿を思い浮かべ、高木は頬を緩めた。有希が言うには、この絵に描かれているのは師が生まれ育った隠れ里らしい。旅の武芸者として諸国をめぐり、十年ぶりに故郷に戻った師が見たのは、焼き討ちにあい廃墟と化した故郷の姿だったという。
常に穏やかだった師からは想像もつかないほど、荒々しいタッチで描かれた絵だ。変わり果てた故郷や一族の骸を見た師の慟哭を想像しただけで、高木は胸が詰まるような、言葉にできない感情に襲われる。
次の瞬間。
ぶーんという耳鳴りのような音とともに視界が暗転し、高木はその場に崩れ落ちた。
高木はゆっくりと意識を取り戻した。急に目の前が暗くなり、床に倒れたところまでは覚えている。気を失っていたのは、ほんの一瞬だろう。だが、硬いリノリウムの床に横たわっている感触はない。
(ここは? 俺は、いったいどうしている)
次第に意識がはっきりしてくる。こんもりと連なる山が見える。葉を落としている木が目立つから、季節はきっと冬だ。ここは盆地にある集落だろう。茅葺き屋根の粗末な家がぽつりぽつりと立ち並ぶ。高木の見たことない風景だ。これは夢に違いない、と高木は思った。
場面が瞬転する。目の前で、赤い着物を着た五、六歳くらいの少女が泣いている。少女に声をかけようとした高木は、体が思い通りに動かないことに気がつく。
(まあ、夢だものな)
どうやら、ある登場人物の視点から、夢の中の一幕を眺めているという状況らしい。
高木が同化している人物は、しゃがみこんで少女の顔を覗き込んだ。その口が、高木の意識とは関係なく言葉を発する。
「お前も俺と同じ身の上だな。お前の名は?」
張りのある、若々しい声だ。まだ、少年だろう。何となく聞き覚えのある声だ、と高木は思った。だが、いったい誰だろうか。
少女は涙をぽろぽろ流しながら、とぎれとぎれに答える。
「ゆき……です」
高木の胸のうちに、この少女を慈しむ心が沸き起こる。高木の意識が宿った、この少年の感情だ。
「そうか。ゆき、つらい目にあったな。俺のことは兄と思うがいいぞ。俺もなぜか、お前のことが他人とも思えん」
そう言って、少年は自分の着物の袖で少女の涙を拭った。
泣き止んだ少女の顔を見て、高木は息をのんだ。
(有希!)
幼いながらも整った顔立ちと、意思の強そうな眼差し。間違う筈もない。高木が有希と出会ったのは、有希が八歳のときだ。目の前の少女は、それよりも少し小さい。
(この子は有希なのか。それとも、顔が似ているだけの別人だろうか)
ふと横をみると、少年と少女の傍らには、五十がらみの精悍な顔つきの侍と町人風の老人が経っており、少年たちの様子を笑顔で見守っていた。この少女の養父と、少年の祖父だろう。高木には、自然にそれがわかった。おそらく、この少年の記憶だ。
そして、場面はふたたび瞬転した。
木刀を手にした少女が、父親と剣の稽古をしている。高木は先ほどの少年の視点で、その光景を眺めている。少女は先ほどの場面よりも少し成長しているようだ。七、八歳といったところだろう。
少女は身を低くして地を蹴り、父親の懐に飛び込みながら、膝の裏の腱を狙い地を這うような一撃を放つ。少女とも思えない、訓練された動きだ。だが、父親は難なくそれを躱し、少女の首筋にピタリと木刀の物打ちを突きつけた。
二人の立ち合いを目の当たりにして、高木は全身に鳥肌が立つような衝撃を受け――そして理解した。この親子が使う剣は、紛れもなく、高木や有希が師から受け継いだ剣と同じ太刀筋だ。そして、ゆきという少女の手の内の使いようは、死んだ有希に瓜二つだ。事故で両脚の自由を失った有希が、ひたすら練り上げた剣。とても七つや八つの子供が振るう剣ではない。
この少女は有希本人に違いない。そう、高木は確信した。そして、この父親は、高木の師である杉に剣を教えたという、武芸者だろう。
(杉先生は前世でその武芸者の娘を可愛がっていたと、有希が言っていたな。ならば、この少年が杉先生か)
そう思い至ったところで、急に体を揺さぶられる感覚があり、視界が暗転する。
「……もしもし、大丈夫ですか」
背と後頭部に、硬い床の感触がある。高木はゆっくりと瞼を開く。
天井が見える。心配そうに自分を覗き込んでいるのは、美術館の職員だ。ゆっくりと体を起こすと、周りに数人の野次馬が集まってきている。
「どうやら急に倒れてしまったらしい。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
高木の口調が思ったよりもしっかりしていたからか、職員は、ほっとした様子だ。
「ええ、急に倒れられて。今から救急車を呼ぼうと思ったところです」
高木は自分の体の調子を確かめるように、慎重に立ち上がった。どこもおかしなところはなさそうだ。
「いえ、それには及びません。どうも疲れがたまっていたようです。これから、県立病院の救急外来を自分で受診することにしますよ。ところで、私はどれくらいの時間、気を失っていましたか」
「ほんの三十秒くらいですよ。でも、本当に救急車を呼ばなくても大丈夫ですか」
なおも心配げに尋ねる職員に、丁寧に礼を述べて、高木は美術館を後にした。
(疲れが溜まっているのは確かだ。念のため、県立病院で診てもらうか)
県立病院は、県警本部の目と鼻の先だ。美術館前から出ているバスに乗り、県警前まで戻る車中で、高木はずっと考え続ける。
(今のは、ただの夢だろうか。それとも有希が見ていたという、ビジョンのようなものか。ならば、別の世界で実際に起きた出来事なのだろうか)
三週間前、神崎から告げられた言葉が脳裏をよぎる。
(俺の身に起きたという異変が、何か関係しているのかもしれないな)
夢かビジョンかはわからないが、高木は少年時代の杉の視点で、有希の姿を眺めていた。
(杉先生が、俺に何かを伝えようとしているのかもしれない)
もしかすると、生まれ変わった有希が思う存分、剣を振るっていることを高木に伝えるために、ああいう映像を見せてくれたのかもしれない。その一方で、本当にそれだけだろうか、という疑問も沸きおこる。
だが、いきいきと剣を振るう有希の姿を思い浮かべた途端、不安や疑念は一気に吹き飛ぶ。
(よかったな、有希)
そう心の中で呼びかけ、高木はバスを降りた。




