死出の旅
昨晩は、目が冴えてろくに眠れなかった。忍びの里で育った私は、どんなときでも、どんな場所でも、眠って体力を蓄えるよう育ってきた筈なのに。
朝餉の後片付けを終え、長屋と養生所の建屋との間にある井戸で水を汲んでいると、数馬さんが自分の部屋から顔を覗かせる。
「ゆきさん、巳之吉親分が来てくれたぞ。そろそろ行こうか」
「うん。水を運んだら、すぐに出よう」
今日は、丑松さんの刑が執り行われる。
十日前、盗賊改に捕らえられそうになった丑松さんの身柄を、西町奉行所が確保した。
鵜木様によれば、もともと西町奉行所では丑松さんを捕えるつもりはなかったらしい。佐吉さんのことを二代目霞小僧とだと目星をつけていたくらいだから、奉行所では丑松さんが初代霞小僧だと睨んでいた者も少なくはなかった。だが、もう三十年以上前の話だ。丑松さんが仮に霞小僧だったとしても、この三十年間、真面目に働いてきた丑松さんをいくら叩こうが、埃一つ出やしない。だから、西町奉行所としては、二代目霞小僧の件で丑松さんが連座になることはあっても、丑松さん自身の過去は不問に付すつもりでいたのだ。
だが、丑松さん自身が、初代霞小僧も二代目霞小僧も自分のことだ、と言い張れば話は別だ。
「へえ、初代霞小僧は間違いなく、あっしのことでさあ。年甲斐もなく盗っ人の血が騒ぎましてね。盗みを働いてみたのはいいが、がたが来たこの体じゃ、昔のようには動けねえ。これじゃ、恥ずかしくて霞小僧でござい、なんて名乗れねえ。しょうがねえから、若造の振りをして二代目霞小僧って洒落こんでみたわけで」
と、丑松さんは終始一貫して言い続けたらしい。
「取り調べにはすらすらと答えるし、神妙な態度だ。我らとしても、こうなると二代目霞小僧として丑松を仕置きしなくてはならぬ」
鵜木様が心底弱りはてた様子で言ってきたのは、五日前のことだ。
瑞江町の牢屋敷に入れられた丑松さんのところに、数馬さんと私は毎日通った。
「先生がた、こんなところにまで足を運ばせちまって、すまねえ」
と、いつも丑松さんは深々と頭を垂れて礼を言う。私たちが佐吉さんの様子を話すと、丑松さんはうんうん、と頷くのが常だった。
奉行所でも、丑松さんの扱いには気を使っていた。なにせ、本人が自白したとはいえ、本来は捕えるつもりがなかった相手だし、重病人だ。だから私たちも毎日、往診で会うことができた。
数馬さんが言うには、丑松さんの肺の病は、いよいよ悪いらしい。
「もって、ひと月だろう。胸の痛みで、動くのもままならない筈だ。その分、痛み止めを多く出すようにしているが、じきに薬ではどうにもならなくなる。苦痛を和らげるために、眠る時間を増やすことになる」
せめて、牢屋敷で死を迎えるのではなく、佐吉さんが丑松さんを看取れることができれば……
だが、こうなっては、それもかなわぬ夢だ。
そして一昨日――丑松さんに沙汰が下った。二代目霞小僧として江戸を騒がせ、これまでに金九百弐拾両を盗んだ罪により、市中引き回しの上、死罪。斬首は牢屋敷にて非公開で行われ、獄門は免れる。子の佐吉は、連座を免れてお咎めなし、だ。偽の霞小僧一味を捕えるのに協力した功を認められ、罪を減じられたのだ。
だが、死罪は死罪。
西町奉行所としても、これ以上、刑を軽くすることはできなかった、というところだろう。何しろ、二代目霞小僧の被害にあった店は、すべて村上主膳の子飼いだ。霞小僧を捕えよ、と村上主膳から盗賊改に直々の命があったらしいからな。それに、偽の霞小僧の一件で逆恨みをした盗賊改の連中が、西町奉行の弱みを握ろうと、虎視眈々と狙っているはずだ。
かたや佐吉さんの容体は、だいぶいい。腰の痛みも軽くなり、体を自力で起こせるようになった。
一昨日、鵜木様が長屋の大家と連れたって養生所にやって来て、丑松さんに下った沙汰を佐吉さんに伝えた。
「いいか、佐吉。丑松の願いを無下にするなよ。命を大切にいたせ。けして、早まるでないぞ」
と鵜木様に釘を刺された佐吉さんは、蒼白な唇を震わせて、黙って頷いた。
丑松さんの様子は、一昨日も昨日も、変わりはない。昨日、往診に行ったときに、丑松さんは尋ねた。
「若先生、正直に教えてくんねえ。この命、あとひと月は持たなかったってところでしょう」
「ああ」
沈痛な面持ちの数馬さんに、丑松さんは笑いかけた。
「若先生、そんな顔しなさんな。俺は、これでもいい一生だったと思っていやすぜ。義賊だなんだとおだてられていい気になっていた俺が、きっちり足を洗って、子を育てる喜びってやつを味わえたんだ。佐吉は、俺の自慢の倅さ。そうでしょう、先生」
「そうだな。本当に、佐吉さんは子の鑑だ。それに、佐吉さんも丑松さんのことを自慢の親だと言っていたよ」
数馬さんの言葉に、丑松さんは満足げに笑った。
「それを聞きゃ、もう思い残すことはねえ」
――そして間もなく、丑松さんの市中引き回しが始まる。私と数馬さんの役目は、刑の途中で丑松さんの具合が悪くならないよう、見守ることだ。養生所の留守を巳之吉親分に任せて、痛み止めや咳止め、気付けの薬などを手に牢屋敷に出向く。
牢屋敷の門から、馬に乗せられた丑松さんが現れた。丑松さんは真新しい浅黄色の着流しに身を包み、月代も髭もきちんと剃られている。馬の斜め後ろには、西町奉行所の同心や与力が付き添っている。鵜木様の姿もある。
丑松さんはしゃんと背筋を伸ばし、馬の背にまたがっている。
馬の背に揺られると、病に侵された胸に響く。いつもよりも痛み止めを多く使っているが、痛み止めを盛りすぎると意識が朦朧として、馬から落ちかねない。本人の様子を観察しつつ、数馬さんが細かく薬の量を調節して、休憩のたびに丑松さんに飲ませる手筈だ。
丑松さんの乗る馬や町方の役人たちから少し離れて、後を追う。私も数馬さんも、網笠で顔を隠している。
歩きながら、空を見上げる。透き通るような高い高い空に、いわし雲が広がる。柔らかい日差しが降り注ぎ、風はほとんどない。
市中引き回しの経路は、およそ六里の道のりだ。ゆっくりと練り歩くから、牢屋敷に戻るのは昼八つ頃の予定だ。丑松さんが牢屋敷に戻るまで、天気は崩れずにすみそうだ。
霞小僧を一目見ようと、江戸っ子たちが道の両脇に鈴なりだ。
「あれが霞小僧かい」
「なんでえ、霞様がまだ生きてたとは驚き桃の木、だぜ」
「奉行所に名乗り出て、偽の霞小僧一味を捕える手助けをしたって話じゃねえか」
「それでも仕置きになるのかい。世知辛いねえ」
野次馬達が姦しく囁き合う中、四十絡みの職人風の男に手を引かれ、一人の老婆が野次馬の列から抜け出し、馬にむけて歩を進める。
「もうし、お役人様」
老婆の声を聞いた鵜木様は、馬を引いている男に止まるよう命じた。
「何か用か」
職人のなりをした男は、老婆のかわりに答えた。
「へい、あっしは石屋橋で大工をしている、定六と申しやす。うちのおふくろが、霞小僧様にぜひお話ししたいことがあると、無理を言いやして」
鵜木様は頷いた。
「いいだろう、申してみよ」
老婆はおぼつかない足取りで馬上の丑松さんに近づき、意外にしっかりとした口調で話し始める。
「霞様、三十五年前にこの子が流行り病に罹り死にかけたときに、おまえ様に施してもらった金で、倅をお医者に診てもらうことができました。ありがとうございます、ありがとうございます……」
老婆はそう言って、両の手を合わせて丑松さんを拝む。
「おふくろの言うとおり、霞様はあっしの命の恩人でさあ。一言――一言でいいから礼を言いたかった……」
そう言って、老婆の息子も深々と頭を垂れた。
馬上の丑松さんは、親子に向けて、にっと笑う。
「よせやい。俺はただの盗っ人。ほんの酔狂でやったことさ。定六さんとやら、お前さんがこうやって生きているのは、お袋さんの真心のお陰だ。しっかりと孝行を尽くすんだぜ」
その様子を見届け、鵜木様は馬を引く男に
「進め」
と命じた。
しばらく進んだあと後ろを振り返ると、老婆と息子は、遠ざかる丑松さんの背に、いつまでもいつまでも手を合わせていた。
それからも、引き回しは続く。丑松さんは、布団の上で体を起こすことすら、つらい容体だ。馬の背に揺られ体を支えるのは、残る体力を振り絞らなければならない。
ときどき挟まれる休憩では、ぐったりとした様子で、数馬さんから薬を受け取る。だが、引き回しが再開すると、丑松さんは胸を張り、背筋を伸ばしてまっすぐに前を見続けた。
「人様の前じゃあ、無様な真似はできねえ。江戸っ子の意地さ。そうでしょう、先生」
幾度となくそれを繰り返す。気力だけが丑松さんを支えている。その背を見守る私の目は、涙で曇った。ぐい、と拳で涙を拭う。
「ゆきさん、大丈夫か」
気遣うように囁く数馬さんの背を、ぽんと叩く。
「大丈夫だ。最後までしっかり見届ける」
丑松さんの姿を、目に焼きつけなくてはいけない。この人は、胸をはって死出の旅に出ようとしているのだから。




