毒は薬に、薬は毒に
天井裏で私が唖然としていたのは、ほんの一瞬だった筈だ。だが、なんだか一気に疲労感が……脱力が……
かたや数馬さんは、手筈通り津坂達を煽る。
「俺を斬るか。面白い。やれるものならやってみるがいい。お前たちに黙って斬られる俺ではない」
鬼女の面の下で、きっと数馬さんは不敵に笑っている。面とは不思議なものだ。無表情なのに、その下に隠された人の心をくっきりと映し出すのだから。
「なにを、血迷いごとを」
と津坂が憎々し気に言えば、
「丸腰のお前に何ができる。おとなしく刀の錆となるがいい」
と、吉川が凄む。
千造は脇差を構えながらも、抜け目なく様子をうかがっているようだ。
――こいつは曲者だな。津坂と吉川は数馬さんの誘導に乗るだろう。だが、千造は別の動きをする可能性がある。仮にも、長年、盗賊改の密偵として動いてきた男だ。こいつの動きには注意が必要だ。
「津坂政之助、お前の悪事、しかと見届けた」
そう言いながら、数馬さんは三人を見据えたままじりじりと後退りする。
相手が臆したとみた津坂は、凶悪な笑みを浮かべた。
「逃がさぬ。おとなしく、ここで死ね」
最初に仕掛けたのは、吉川だ。真っ向から斬りかかる吉川の一撃が、数馬さんの肩口を狙う。鋭く振り下ろされた物打ち三寸が数馬さんの忍び装束をわずかにかすめる音がした。数馬さんが左足をわずかに後ろに引き、紙一重で間合いを外したのだ。
真剣での立ち合いに慣れない者ならば、初撃は必ず間合いを外す。だが 吉川の間積もりは正確だ。この男、剣の腕に覚えがあるのだろう。
吉川の初太刀が外されたのを見て、間髪をいれず、津坂が斬りかかる。津坂は数馬さんの左側から鋭く踏み込み、がら空きの胴に向かって横薙ぎの一撃を放った。
数馬さんは右足で地を蹴り、思いっきり飛び退った。着地した瞬間、体勢を崩し、ぐらりと重心が揺れる。その隙を逃さず、吉川が斬りかかる。
数馬さんの動きを見慣れている私にはわかる。体勢を崩したように見えたのは、相手を陥れるための罠だ。津坂達は、自分の剣で相手が圧倒されていると思い込み、数馬さんを仕留めようと躍起になるだろう。
だが、吉川も津坂も、そこそこに剣を遣う。それに、相手に気取られぬよう紙一重でかわし続けるために必要な集中力は、並大抵ではない。防戦一方の数馬さんが少しでも見切りを誤れば、致命傷をくらう可能性もある。かといって、余裕を持ってかわせば、いずれ相手が数馬さんとの力量の差を自覚し、なにかがおかしいと勘づくだろう。
今は見守ることしかできない。もし、数馬さんの身に危険が及ぶ場合は、飛び出して加勢に入る手筈だが、今はまだその時ではない。津坂たちは、数馬さんが一人で乗り込んできたと思い、策にうまく乗ってくれているんだ。私がしゃしゃり出たら、なにもかも台無しだ。
いつのまにか、私の手は冷たく、しっとりと濡れていた。やれやれ、黙って待つのって、私にはつくづく向いていないよ。
斬り合いの場は中庭へと移動していた。もう、天井ののぞき穴からは見えない。切れ目が入っている天井板を、錣を使って手早く切り離し、天井に大穴をかえて畳の上に飛び降りる。急いでいるときは天井板を踏み抜くだけで大穴が開くようにしているが、あの千造という男が音に気が付くかもしれないからね。
身を隠しながら数馬さん達を追う。
外はもう暗い。数馬さんと津坂達は、中庭をぬけて、庭へと移動しながら、攻防を続けていた。庭には砂利が敷き詰められており、玄関から冠木門までは石畳が敷かれている。
庭には使用人たちが住まう長屋が建てられており、おもての騒ぎを聞きつけた中年の下女がひとり、何事かと顔を覗かせた。下女は、怒声を放ちながら主たちが斬りつけている相手の顔を見て、
「ひっ」
と悲鳴をあげ、そのまま泡を吹いて昏倒した。うわ、とんだ災難だな。倒れたときに頭でもぶつけてなければいいけれど。
数馬さんは、津坂と吉川の猛攻を、かわし続けている。だが、よくよく見えると、忍び装束の腕や背が、ところどころ切り裂かれている。
吉川が数馬さんの胸板に向けて猛烈な突きを放つ。数馬さんは右足を引いて体を開き、突きをかわしたが、砂利に足を取られ右足が滑った。
その刹那。
これまで津坂と吉川の後ろに隠れていた千造が、いつの間にか数馬さんの背後に回り込み、右脇に構えた脇差を袈裟がけに斬りおろした。忍び装束が切り裂かれる音がし、数馬さんはそのまま右膝をついた。そのまま千造は脇差を振り上げ、動きをとめた数馬さんの項めがけて、後ろからとどめを刺そうとする。
だが、数馬さんは振り下ろされた白刃を手甲で受け流し、そのまま千造の襟と袖とを掴んで、背負い投げを仕掛けた。
千造の体が宙を舞い、もんどりうって倒れこむ。石畳に腰をうちつけた千造は、呻き声をあげ、のたうちまわる。こいつは、しばらくは動けまい。
背負い投げをした瞬間、千造の体が角にでもひっかかったのだろうか。数馬さんの顔を覆っていた鬼女の面も、今はとれてしまっている。頭巾で顔を隠しているから、まだ顔を見られる心配はない。
だが、数馬さんも膝をついたまま立ち上がらなかった。
先刻、千造にやられた傷が深いのだろうか。加勢に入るため、身を潜めている建物の影から飛び出そうとした瞬間、数馬さんが一瞬、私を見た。
――まだ来るな
数馬さんの眼は、そう訴えていた。
その視線の強さに、私は飛び出そうとする自分の体を押しとどめた。まだだ。まだ出るときじゃない。
耳を澄まし、あたりの気配を探る。
ここから先は、賭けだ。
――そして、私は門の外にいる者たちの気配を感じ取り、賭けに勝ったことを確信した。あとは、数馬さんが仕上げてくれるだろう。
一方、津坂は勝利を確信し、数馬さんを嘲笑う。
「大口をたたき、そのざまか。てこずらせおって」
数馬さんの背後には、閉ざされた冠木門だ。数馬さんが門を開け放つことができれば――あるいは、忍びのような恐るべき身体能力で塀を飛び越えることさえできれば、数馬さんは逃げおおせるだろう。
だが、千造に負わされた手傷のためか、数馬さんは膝をついたまま動かない。
「おのれ、津坂。霞小僧を名乗り、二度も押し込みを働きし罪、いずれ裁きが下ろうぞ」
苦し気に絞り出すような数馬さんの言葉を、津坂は鼻で笑う。
「ふん、たかが商人の一人や二人、死んだところでどうだというのだ。お前さえ死ねば、真相は闇の中よ。そうだ、お前を押し込みの下手人に仕立て上げるというのも一興だな」
津坂と吉川の愉快そうな笑い声が響く。
「津坂様、本物の霞小僧が現れたというのも、きっとこやつの仕業でしょう。あの佐吉という男の仲間と思われます。我らが霞小僧を騙ったからくり、どのように知り及んだのかを、こやつに洗いざらい、吐いてもらうのがよいか、と」
勝利を確信すると、人間、饒舌になるものだ。
「おお、吉川。それはなかなかに良き考えではないか。それに、松喜屋から盗み取った金子も頂戴するとしよう。こやつが逃げ出せぬよう、今から両脚を切り落とし、両腕を切り落とし、ゆっくりと首を刎ねようぞ」
そう言って津坂が刀を上段に振り上げたのと同時に、私は飛び出した。走りながら、手にした棒手裏剣を津坂の拳にむけて放つ。月明りがあれば、狙いをつけるには十分さ。
「ぎゃあっ」
狙いたがわず、棒手裏剣は津坂の拳を砕いた。津坂はそのまま拳を腹に抱え込み、その場に座り込む。
吉川は駆け寄る私の姿を見て、
「おのれ、鼠に仲間がいたかっ」
と吐き捨てるように言い、刀を右の八相に構え、私を迎え討とうとする。
裂帛の気合とともに振り下ろされた吉川の一撃が空を斬った瞬間、私が抜き打ちで放った一閃が吉川の両手首の腱を断ち、吉川は声にならない悲鳴をあげて刀を取り落とした。
私はそのまま冠木門に駆け寄り、閂を外して門を開け放つ。
「おのれ、逃がさぬっ」
呻きながら立ち上がろうとした津坂は、門の外を見て、そのままペタンと座り込んだ。
門の外で、一斉に提灯がこうこうと灯される。先頭にいるは、陣笠に陣羽織の人物。その傍らに陣羽織姿の与力が一人と、数人の同心が控えている。
陣笠の人物が一歩踏み出した。
「西町奉行、風間内匠頭である。我ら、霞小僧を騙る一味がこの界隈に逃げ込んだときき、張っておったのだ」
陣笠の奥から放たれる鋭い眼光が、津坂たちを射貫く。
「盗賊改方与力、津坂政之助。そこもとらの話を、この門の外からすべて聞かせてもろうたぞ。まずは大番屋まで同道願おう。井出戸田守殿には、そこもとの身柄を今晩だけ預かる旨、許しを得ておるゆえ安心いたせ。明日には評定所に身柄を移すことになろうがな」
井出戸田守は盗賊改の頭だ。普通ならば町奉行所が盗賊改の与力を捕縛することはできない。ただし、井出戸田守の許しがあれば、重要な証人として大番屋で身柄を預かることができる。
捕方が千造を縛り上げ、同心たちが津坂と吉川を両脇から挟み込むように立たせて、門の外へと連れだす。
その隙に、こっそりとこの場を離れよう。こっちだって、叩けば埃が出る身だ。なにも、長居する必要もあるまい。
ちょいちょい、と数馬さんの袖を引っ張ると、
「ああ、行くか」
と小声で頷く。そのまま数馬さんは何事もなかったかのように、ひょいと立ち上がった。なんだ、やっぱり斬られて動けない振りをしていただけかい。ほっと、胸をなでおろす。
見咎められないように、ゆっくりと捕物の現場から後退りする。よし、ここまでくれば、提灯の灯りも届かない。夜の闇に紛れて、抜け出そう。私と数馬さんが、現場に背を向けて走り出した途端、誰かに気付かれたようだ。
「お奉行! あの怪しい二人組の姿が見あたりませぬ」
「よい、捨て置け」
先ほどの鋭い眼光の持ち主とは思えぬ、穏やかな声だ。
「ですが……あの者たち、ただ者とも思えませぬ」
「よいのだ。毒は薬に、薬は毒にもなる。世の中、そういうものではないか」
「はっ。仰せのとおりで」
「あやつらは、この江戸にとってはよい薬さ。どこの手のものかはわからぬが、こたびの鮮やかで大胆な手口、俺は気に入ったぞ」
走り去る私たちの耳に、風間内匠頭の楽し気な笑い声が聞こえた。
津坂の屋敷に隠してあった着替えと数馬さんの刀を回収し、闇に紛れて養生所への帰路を急ぐ。ときどき立ちどまり、感覚を研ぎ澄ませて、追手がいないかどうかを確認しながらの移動だ。
本物の霞小僧に襲われたと見せかけて、松喜屋の金子を隠し、偽の霞小僧一味をおびき出すという作戦は、鵜木様が考案したことにしてある。そして、その策は、鵜木様を通じて、西町奉行の耳に届いている筈だった。
賭け――それは、西町奉行所の手のものが、津坂の屋敷に来ることだった。
昨夜、私は西町奉行所の一角をなす奉行の役宅に忍び込んだ。そして風間内匠頭の枕元に、事の仔細を記した投げ文をしたんだ。
押し込みをはたらきし黒幕は、盗賊改方与力・津坂政之助であること。
津坂が追い詰められたときに、きっと本物の霞小僧である佐吉を狙い、養生所を襲うであろうこと。
我々の正体は明かせないが、養生所を襲うため津坂の屋敷が手薄になったときに、津坂の悪事を暴く手筈を整えていること。
津坂を役宅の門までおびき出し悪事を吐かせるので、我々が内側から門を開けるまで、門の外に潜んでいてもらいたいということ。
――そして、私たちは賭けに勝った。
勝算がなかったわけではない。
医者殺しの一件でも感じたが、少なくとも西町奉行所は、老中村上主膳の影響力はさほどないように見える。私が見るかぎり、警察・司法機関としてまっとうな動きをしている。養生所を襲った盗賊改の同心たちを解き放ったのは、町奉行所の所掌を超えていたからで、やむをえまい。
それに、鵜木様は元々東町の例繰方で、風間内匠頭が直々に西町の定町廻りに引き抜いたと聞く。鵜木様は正義感が強く、不正などけして働かぬ人だ。こういう人物に目をつけたということは、風間内匠頭自身も、信用に足る人物ということだ。
前に養生所が襲われたときに津坂の手下の同心を捕えているし、鵜木様自身が津坂に襲われた経緯もある。西町奉行所としても、津坂を疑う証拠は十分にある。
まあ、人には立場や役目というものがあるから、こちらや本人が思うようには動けない。そこの部分が賭け、だった
よし、ここまでは策どおりに進んだぜ。胸が高鳴るのを感じる。前を走る数馬さんの足取りは、いつも通りだ。うん、やっぱりやられた振りをしていただけかな。
去り際に聞こえた、風間内匠頭の言葉のとおり、奉行所の手の者は私たちを追う気がないらしい。まあ、油断は禁物だけど、ね。
何事もなく養生所にたどり着き、人目をさけて薬草園の裏手から敷地内にはいる。まずは長屋の裏手で着替えだ。忍び装束を隠し、何食わぬ顔をして診療室に戻る。
診療室には誰もいない。捕えた賊は、すでに大番屋に移送されようだ。
それでは、と大部屋にいる佐吉さんの様子を見に行くと、穏やかな寝息をたてて眠る佐吉さんの傍らで、灯りをつけたまま、巳之吉親分がごろりと横になっていた。仮眠をとっているのだろう。
「よく寝ているな」
と、数馬さんがつぶやく。
「うん。最近、事件続きで親分さんもさすがに疲れるよね」
医者殺しの一件以来、大忙しだもんね。
「ここは親分にまかせて、俺たちは一旦、長屋に戻るとするか。ゆきさんも疲れたろう」
そうするか。なかなか、佐吉さんの番を任せられる人なんていないからな。大部屋の外に出て、戸を閉める数馬さんの小袖から、ちらりと腕がのぞく。そこには、定規で線を引いたように血がにじむ、真新しい刀傷が見えた。
一瞬、息が止まりそうになる。だが、指や肘の動きには問題がなさそうだ。それに、前世から引き継いだ例の微妙な能力でみても、たぶん、深手ではない。
その場では何も言わず、数馬さんと連れたって長屋に戻る。数馬さんが黙って自分の部屋に入ろうとしたので、数馬さんのあとについて戸口から一歩入り、声をかけた。
「数馬さん、傷を見せて」
数馬さんは立ち止り、ひと呼吸おいて振り返った。
「大丈夫だよ、かすり傷さ。ゆきさんは、早くお休み」
数馬さんは朗らかな笑みを浮かべた。暗い部屋の中に、かすかに血の匂いが漂う。確かに深手ではないけれど、まだ血の止まっていない傷があるに違いない。
「だめだよ。手が届かない場所だと、止血もできないじゃないか。いいから、見せて」
「やれやれ、お見通しか」
数馬さんは苦笑いをしながら部屋に入り、行灯を灯した。ふわっと柔らかい光が、部屋を照らす。
部屋の隅から数馬さんが取り出した小さな壺には、見慣れた膏薬が入っていた。定番の傷薬だ。
「本当に大したことないぜ。でも……」
そう言いながら、数馬さんは小袖を脱ぎ、背をむけた。
「せっかくだし、お願いするよ」
ほのかな行灯の光に、僧帽筋や広背筋の辺縁がくっきりと浮かび上がる。鍛え上げられた筋肉の上に、薄い皮膚がぴたっと張り付いたような、引き締まった体だ。広い背中には、右肩から左腰にかけて、赤い刀傷が走っていた。 傷からはゆっくりと血が滴り、小袴の左腰にどす黒い染みを作っている。
清潔なさらしで傷の血を吸い取り、ざっと観察する。ところどころ、筋肉の表面の膜――筋膜が傷ついている箇所はあるが、筋自体は無傷だ。出血しているのは、それよりも浅い層だ。皮膚のすぐ下の細い血管が何か所か切断されているんだな。まあ、これくらいの細い血管が切れただけなら、多少勢いよく出血している箇所があったとしても、半刻も圧迫すればほぼ止血できる。
両の腕にも目を移す。手甲で覆われた箇所に新しい傷はないが、袖で隠れていた二の腕には、真新しい刀傷がいくつか刻まれていた。そちらは血がにじむくらいだから、洗って膏薬を塗るだけでいいだろう。
初めて数馬さんに会った日にも、腕の古い刀傷を見て、この人は何者なんだろう、って思ったっけ。あのときの数馬さん、剣なんて使えません、なんて振りをしていたけれど、こんな傷みせられちゃ、ばればれだよね。
ほんの二十日ばかり前の出来事なのに、まるで遠い昔のことのように、懐かしく思い出す。
あの頃は、まさか数馬さんと並んで剣を振るう日が来るなんて、思ってもいなかったよ。
「背中の傷、何か所か血管が切れて出血の多い箇所があるから、順に押さえて止血するね。ちょっと長く押さえないといけないところもある。筋肉は傷ついていないけれど、傷を洗ってから何か所か縫って傷を寄せたほうが、ちゃんと治るよ」
「ああ。たのむ」
背中の傷を押さえながら、何から話そうか考える。なんで刀を持たずに、津坂達の前に現れたのか、とか、なんで鬼女の面なんてつけていたのか、とか。この背中の傷だってそうだ。わざと斬られたにしては、深手だぞ。聞きたいことがいろいろある。
「もう……」
結局、聞きたいことが次から次へと思い浮かび、私の口からは諦めの声が漏れ出る。
「前のときもそうだけど、無茶しすぎだよ……数馬さん……」
数馬さんは背を向けたまま黙り込み、しばらくしてから口を開く。
「すまん。また、ゆきさんに心配かけちまったな」
表情は見えないが、申し訳なさげな声音だ。その声に、ちくりと胸が痛んだ。
「ううん。でも、なんであんな真似をしたのか、教えてもらえると嬉しい」
自分でもびっくりするくらい、穏やかな声だった。
本当は聞かなくても、なんとなくわかっている。数馬さんは、私の策がうまく回るように――少しでも成功する確率をあげるために、体を張ってくれたんだ。
だけど……こんな怪我までして……
腕の傷と違って、背中のこの傷は明らかに深い。背後から斬りかかられたんだもん。間合いを測りようがない。下手をすれば、もっと深手を負っていたかもしれない。
思わず、背中の傷を押さえる両手に力がはいる。
「そうだな。何から話そうか」
数馬さんはまた押し黙り、それからぽつりぽつりと話し始めた。
「鬼女の面をつけて姿を晒したのは、相手の意表をつくためさ。気持ちが乱された状態で、罪状を叩きつけられれば、普通の人間ならば冷静な判断ができなくなる」
――まさか、あの面がそんな効果を狙ったものだったとは。某テレビ時代劇でよくある、般若の面をつけて颯爽と登場ってえのは、単なる様式美かと思っていたぜ。
行灯の光がゆらめくなか、数馬さんの話に聞き入る。
「しばらくすると、敵は俺が丸腰であることに気がつく。自分が優位だと思ったとたんに、敵に油断が生まれる。心のうちを――本性を晒すようになるんだ。そうすればしめたものさ。敵はこちらの術中に落ちたも同然だ」
「そうだったんだ……」
返す言葉も思い浮かばない。体を張り、その身の危険を晒して、こちらの術中に相手を搦めとっていく。高度な駆け引きだ。江戸市中隠密廻りの手管とは、実に恐ろしいものだな。思わず、ぶるっと寒気が走る。
「あとは、見ての通りさ。わざと皮一枚斬らせながら、敵に俺を追わせ、町方が待ち構えているとことまでおびき出すだけさ。
普通だったら、よほど馬鹿な相手じゃないかぎり、そこまで深追いはしてくれない。だが、俺の術中に嵌った敵は、一太刀一太刀に手ごたえを感じて、俺を追い続ける」
ふう、と溜め息をついて、数馬さんは言葉を続けた。
「もっとも、あの千造という男だけは、盗賊改の密偵をしていただけあって、一筋縄では行かなかったな。俺の死角から狙ってきた。やつの動きには十分注意していたから、避けることはできたが……おかげでこのざまさ」
数馬さんは私に背を向けたまま首を少し捻り、顔を少し私に向けて語りかける。
「これは俺がしくじったせいだから、ゆきさんが気に病むことはないよ」
かすかに微笑む横顔を見て、胸が締め付けられる気がする。
この人はこうやって、いつか命を散らすのだろうか。微笑みながら、気にするな、と言い残して死んでいくのだろうか。
そう思うと、言葉にできない感情が押し寄せてきて、何も言えない。知らず知らずのうちに、私の目からは涙が溢れていた。あ、まずい。泣いたらまた、数馬さんが気にしちゃうよ。
手で涙を拭おうにも、両手で傷を押さえているから、どうにもならない。
ぽたり、と涙の雫が落ちた音に、数馬さんはぴくりと反応し、振り向こうとした。
「ゆきさん?」
まずいまずい。気が付かれないようにしなきゃ。背中の傷をいっそう強くぎゅっと押さえつける。
「数馬さん、動くとまた血が出ちゃうから、じっとしていてね。もう少しだから」
「そうか」
それっきり、数馬さんは何も言わなかった。




