我が魂を、この剣に
退院したその足で、私は先生の残した道場に向かった。まだ階段の上り下りがつらくて、杖が手放せない。
「ただいま」
八歳のときから十七年間、ここが私の居場所だった。この町を離れていたときも、この道場が私の帰る場所だった。家でも学校でも一人だった私に、先生が居場所と生甲斐をくれた。
この道場も、先生が住んでいた家も畑も、来週には人手に渡る。寂しいけれど、しょうがないよね。
磨き上げられた木の床に正座をしようとして、自分の左膝が九十度しか曲がらないことを思い出し、苦笑する。
粉砕した膝は、二回の手術とリハビリを経て、なんとかここまで曲がるようになった。手術をしてくれた医者に言わせれば、この怪我にしては上出来なんだそうだ。
「この脚にも、早く慣れなきゃな」
杖を置き、壁の刀掛けから自分の木刀をとって、軽く素振りをして体を慣らしたあと、ひとつひとつ、型を確認していった。自分の脚ではないような違和感が強く何もかもぎこちなかったが、いつしか無心で剣を振っていた。
「うわっ」
左のつま先を床にひっかけて勢いよく転び、左の腰をしたたかにぶつけた。あいたたた。膝が曲がらないのを忘れていたよ。しょっぱなから調子に乗りすぎたかな。
でも、本当はもうわかっている。もう、前のように自由自在に剣を振るうことはできない。自分でも認めたくないから、こうやって悪あがきをしている。だって、私はこれしかできないから。
立ち上がるとき、ふと先生の気配を感じた気がして、右後ろを振り返り――急に視界が暗くなり、私はそのまま意識を失った。
どれくらいで目を覚ましただろう。ふと気がつくと目の前に先生がいた。先生は、いつものような藍色の作務衣姿で、目を閉じて正座をしていた。その傍には、先生の愛用の刀が置かれている。
「先生!」
そう呼びかけようとしたが、声がまったくでない。手を伸ばせば届く距離なのに、自分の身体がまったく動かない。ああ、もどかしい。
よくよく見ると、先生の体も、その周りも、少し透けて見えた。
――これは、先生が亡くなった日の光景だ
なぜか直観的に、そのことが理解できた。
先生は呼吸を整えながら、ゆっくりと眼をあけて刀を抜きはらった。
私は、正座をしている先生の横からその様子を眺めていた。先生は、右手で愛刀の柄を持ち、左手の掌を刀の棟に軽くあてて、二、三言なにかを呟いた。すると、左手を当てたところから刀身が白い光を発し始め、五秒ほどで刀身全体がまばゆい光に包まれた。
光の圧力を感じるような、圧倒的な光量だ。
先生は瞬きもせずに刀身を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「日ノ本の神々に奉る」
ひどく、胸騒ぎがした。
「我が魂を、この剣に」
刀身の輝きが一際強くなり、先生の体がグラリと崩れかけたのが見えた。左手を床につき、肩を大きく上下させている。老いてなお端正な先生の横顔が、苦痛に歪んだ。
だめだ、とめないと!
だが、私の体はピクリとも動かないし声も出せない。金縛りにかかったかのように、先生の様子を見続けることしかできなかった。
先生は左手を床について体を支えながら、言葉を続けた。
「この……剣をもっ……我が弟子……の守り……とす」
苦し気な声で先生が言い終わったのと同時に、刀身を中心に、まわりの光景がグニャリと歪んだ。光すら曲げる強大なエネルギーが、剣から放たれたのだ。
次の瞬間、剣は空間に飲まれるように消失し、先生の体はすべての力を失って、ゆっくりと床の上に倒れた。先生の心臓が止まろうとした瞬間、それに呼応するように私の心臓が力強く鼓動し始めたのがわかった。
「先生!」
――あ、声が出た。
私の声を聞いた先生は、私の姿をみて一瞬驚いたような顔をした。
「よかった……」
先生は少し微笑んで、そのまま目を閉じた。そして、もともと少し透けていた先生の姿も、道場の映像も、すーっとそのまま薄くなり、当たりは暗闇に戻った。
そうだ。これは、今日の記憶ではない。集中治療室で私が目を覚ます前の日、先生が亡くなった瞬間、私の魂はここで一部始終を見ていた。きっとこれは幽体離脱というやつだ。たぶん、私の命がそのとき尽きかけていて、先生がなにかの術を――いまの儀式のようなものを私に施して、私は命を繋ぎとめた。その代償として、先生は命を失った。
そう朧げに理解した瞬間、私は慟哭した。
いろいろな想い出が去来した。初めて先生にあったときのこと。幼い私が剣の修行をしているとき、いつも大きな暖かい手で構えをなおしてくれたときの感触。いつも、褒めてくれた。いつも、飛び跳ねそうになるほど、嬉しかった。うちの実の家族はあんなだったけど、先生と剣に出会えたおかげで、寂しい想いはしなかった。先生の背中を追うのに、いつも精いっぱいだった。ずっと私を見守っていてくれた。ずっとずっと、こんな関係が、こんな日々が続くと願っていた。でも、もう会えない。
声もあげずに泣き、とめどなく涙が流れ落ちた。
「……なぜ……こんなことまで……」
「私が自分で望んだことです」
先生の声が聞こえて、私は涙でぬれた顔をあげた。
暗闇のなかでしゃがみこんで泣いていた私の前に、先生が立っている。
今の先生よりもずっと若くて、ちょうど私が先生と初めて出会ったときくらいの姿だ。先生の体は淡い光を発しており、暗闇のなかでも表情がはっきりとわかった。
「先生……?」
先生は腰をかがめて片膝を床につき、私の肩に軽く手を置いた。
「あなたにつらい想いをさせてしまいました。許してください」
幻のはずなのに、先生の手のぬくもりを感じる。私の眼に映る先生の姿が、涙でじんわり滲んだ。
「私の……ために……先生が……」
「あなたはまだ若い。死なせたくなかった。それに……」
先生は穏やかな声で続けた。
「これは、私自身のためでもあります。聞いてくれますか?」
私は手で涙を拭い、頷いた。
「もう遠い昔のことです。私は、山深い村で生まれました。私の一族は、特別な秘術を先祖代々伝えていて、そのせいで時の権力者に利用されたり迫害されたりということもあって、いわゆる隠れ里のような村でした」
先生が自分自身のことを語るのを聞くのは、初めてだった。私は一語一句聞き漏らすまいと、相槌もうたずに先生の話に聞き入った。
「私が生まれたときには、もう一族の人数もかなり減ってしまっていて、大人たちは私に一族の技や術を教えこもうと躍起になっていました。子供だった私は、それに反発しましてね…… 里に出入りしていた武芸者にこっそりと剣術を教わり、剣ばかり振っていました」
今になると、里の大人たちの気持ちもよくわかるのですが、と先生は付け足した。
「剣の師のところには、小さな女の子がいて、私に懐いてしました。その子の相手をして野山を駆け巡っているときは、本当に気持ちが安らぎました。いつでもお前のことを守ってやるぞ、とその子と約束をしました……」
記憶を辿るように話し続ける先生の声は、どこか憂いを帯びていた。
「十七歳になって、剣の腕にある程度自信がついた私は、里を捨てました。自分の剣がどこまで通用するか、国中を旅して試したかった。いろいろな武芸者と立ち合って、相手を斬り続けました。いつ自分の命を失うかもわからない中で、私の心は荒みきっていました。斬られた傷の痛みで呻いているときに思い出すのは、懐かしい里での日々でした」
これは、明らかに現代の日本の話ではない――私は先生の話にどんどん惹きこまれていった。
「でも、里を捨てて飛び出した手前、私はどうしても里に戻れなかった。今思えば、くだらない意地です。十年経って武芸者として名が通るようになった私は、郷愁に駆られる想いを我慢できなくなり、里に戻りました」
先生は深いため息をつき、続けた。
「里に戻った私がみたのは、焼け落ちた村と、打ち捨てられて風化した、里の者たちの骸でした。焼き討ちにあったのだと思います。人っ子ひとりいない村の中で、私は立ちつくした。私は、里の者たちの骸を一人ひとり埋葬して弔いました。その中には、私の家族も、私が可愛がっていた少女もいました」
先生の声が憂いを帯びる。
「私は、その子を守るという約束を、守れなかった。自暴自棄になった私は、酒に溺れました。酔ってごろつきどもと揉め、十人がかりで斬り刻まれて、私はあっけなく死にました」
――え?
私が呆気にとられているのを見て、先生は少し照れたような顔をした。
「どんなに剣の道を究めても、最期はあっけないものだな、と、薄れゆく意識のなかで私は思いました。そして、私は確かに死んだはずでした。気がつくと、私は幼子の姿で、知らない世界を彷徨っていました。見たことのない高い建物、見たことのない服を着ている人々。私は前世の記憶を持ったまま、大正末期の帝都の浮浪児に生まれ変わっていました」
周りの浮浪児仲間は先生のことを知っているけど、前世の記憶が蘇った先生はというと、これまでのこの世界での記憶がまったくなかったらしく、周りからは頭がおかしくなった、と思われてかなり苦労したそうだ。
その後、先生はスリの親分に拾われた。その親分が実にできた人で、目端がきいて頭も回り腕もたつ先生を我が子のように可愛がり、これからは学問ができなきゃ話にならん、といって、学校にも行かせてくれたらしい。
「その後は食べるために軍隊に入りました。私を拾ってくれた親分は、空襲で死んでしまった。戦後は大学に入って教員の資格をとって、高校の美術教師として生きてきました。でも……私のような血で血を洗う日々を送ってきた人間が、なぜこの世界の、この時代に生まれ変わってしまったのか、ずっと悩んでいました」
それでも先生は、剣を捨てられなかった。
「自分でもただの未練と思いましたが、剣を振っているときと、絵を無心に描いているときだけは、すべてを忘れることができた。でも、あなたと出会ってからはすべてが変わった。あなたと初めて会ったときも、こうやって身をかがめてあなたと話したことを、昨日のことのように憶えています」
どこか寂し気だった先生の声が、ふと和らいだ。
「前世で私が可愛がっていた少女と同じ名前で、同じ面影を宿すあなたに出会い、なんという偶然だろうと思いました。最初は懐かしさからあなたに剣を教え始めました。でも、あなたはいつもまっすぐで、いつも一生懸命で……あなたに教えるのが、本当に楽しかった」
そうだ。先生はいつも、私が子供だからといって手を抜くことなく、いつも真摯に接してくれた。
「それに、ね。幼いころのあなたは、よく私の肩を叩いてくれたり、腰を揉んでくれたりしたでしょう。なんだか、本当の孫ができたみたいに思ったんです。家族も持たずに生きてきた私が、師としての喜びも、家族としての喜びも同時に得られて、なんて贅沢なんだろう、と思っていました。だから……」
先生の表情が曇る。
「あなたが勤務中の事故で重体だと高木君からきき――その少女を守れなかった記憶が、鮮烈によみがえってしょうがありませんでした……あなたが病院に運ばれて緊急手術を受けている間、無事を神仏に祈ることしかできない自分が、歯がゆかった」
救急車で運ばれた私は、破裂して出血が続く肝臓や脾臓の血管をカテーテルで詰めて、右脚の膝から下を切断するという手術を緊急で受けた。そのあと、2日間は出血が止まらない状態が続いて、いつ死んでもおかしくない状態だった。その後、全身状態が少し持ち直したあとも、原因はわからないが意識が戻らなかった……
「あなたの意識が戻らない理由は、私にはわかっていました。不思議なもので、前世で私が持っていた人の霊体や妖を見る力も、現世のこの体に宿っていました。でね、あなたの霊体が体から半分抜け出て、ベッドの上に寝ているあなたの体のちょっと上で浮いているのが見えていました。日に日にちょっとずつ体から離れているあなたの魂を見て、私は迷いました」
私の顔を見て、先生は少し困ったような笑みを浮かべた。
「私が前世で祖父から受け継いだ秘術を使えば、自分の命と引き換えに、あなたの魂を現世に繋ぎとめることができるかもしれない……でも、両脚の自由を失ったあなたは、おそらく剣を捨てざるを得ない。あなたに重荷を背負わせるだけなのではないか、と、私は来る日も来る日も逡巡しました」
胸がちくり、と痛む。守りたい相手を守る。それは先生の、前世からの悲願だ。
「でも、私はやはり、あなたに生きてほしいと思いました。あなたはきっと、剣以外の生甲斐を見つける。そんな確信が私にはありました。あなたはいつも、まっすぐに前を見る人だから」
そう言って、先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「この術は、自分が一生に一度、守りたいものを守るために使え、と祖父に厳しく言われて教えられたものです。剣を依り代に自分の魂を載せて、相手に守護の力を与えることができます。私が術を使ったときに、あなたの魂が傍まできて見ていたとは思いませんでしたけれど。命を失う瞬間、あなたの声が聞こえ、姿が見えた。私はあなたが助かったことを理解して……安心して逝くことができました」
先生の言葉に呼応して、ドクン、と自分の鼓動が聞こえた。言葉にできない感情と一緒に、温かさが全身に広がる。
そして、私は先生から、ある重大な内容を告げられた。




