閑話 悪い夢
まるで悪夢を見ているようだ。
鵜木精一郎は、右手で額を抑えて、頭を振る。
秋晴れの空は、さわやかに澄み渡っているはずだ。だが、鵜木の目には、どんよりと曇って見える。世の中がすべて、灰色がかっているようだ。
(俺は――津坂様に、たばかられたのか?)
江戸の治安を守るのが務めだ。鵜木は、定町廻り同心という職務に誇りを持っていた。
鵜木の父は、齋藤伝三郎といい、西町の定町廻り同心だった。齋藤は、当時の江戸三大道場のひとつ、正木道場で五本の指に入る腕前と言われていた。同心には、剣の腕は必須ではない。剣を抜くことは稀で、十手術にたけていればよい。だが、剣術で養った胆力のおかげか、齋藤は多くの手柄をあげた。そんな父のことを、鵜木はいつも、まぶしく見上げていた。
(俺は父のように、強く、正しくありたい)
幼い鵜木にとって、厳しくも優しく、強い父は、憧れの存在であった。
鵜木は次男で、家は兄が継ぐことが決まっていた。同心の次男坊など、先が知れている。身を立てるには、武か学問で人に認められる必要がある。鵜木は剣の腕は今一つだったが、努力の人であった。学問所ではめきめきと頭角をあらわした。
母方の伯父には子がなく、鵜木は十二歳になったときに、伯父の養子となった。伯父は東町奉行所の例繰方――つまり、記録を管理する役目だった。鵜木が養子にはいったあと、伯父には子ができたが、伯父は鵜木を邪険にすることもなく、公平に扱った。そして、伯父のあとを継ぎ、鵜木も東町で例繰方の役目についた。
だが、運命とはわからぬものだ。父が職を退き、そのあとを継いで同心となった兄が、半年前に流行り病に罹り、ひと月も経たぬ間に死んだ。父も、そのあとを追うように世を去った。実父の葬儀が終わったあと、鵜木は西町奉行、風間内匠頭に呼び出された。町奉行直々の呼び出しに緊張する鵜木に、風間内匠頭は問うた。父や兄のあとを継ぎ、西町の定町廻りになる気はないか、と。
鵜木は耳を疑った。そんな人事は、聞いたこともない。だが――
(俺も、父が辿った道を歩みたい)
その一念で、鵜木は定町廻り同心となる道を選んだ。風間内匠頭がどこをどう調整したのか、話はすんなりと進んだ。例繰方の職は十四歳下の弟が継ぐことになった。鵜木は、もともと弟に家を継がせる気でいたから、妻を娶っていない。鵜木家としては万事、丸くおさまる。
異例の人事に、西町奉行所の中では陰口をたたくものもいた。だが、昼夜を問わず精力的に働く鵜木の姿と、実直な人柄のおかげで、鵜木を悪くいう者もいなくなった。
だが、鵜木の心には焦りがあった。
(俺は、父や兄のようには剣をつかえぬ。これで、思うような働きができるのか。賊を取り押さえ、人々を守ることができぬ)
先日、同僚の篠田という同心が、乱心した早川左門という男に斬られ、命を落とした。早川は、坂之上の道場で一番腕が立ったという。その早川の凶刃に、篠田は為すすべもなく倒れた。
(いくら正しく生きようと思うても、力がなければ道半ばで果てるしかない。俺も、いつかは篠田さんのように、役目の途中で死ぬのだろうか)
篠田の死に伴い、定町廻りの配置換えがあり、鵜木は篠田の持ち場を引き継いだ。そこで、鵜木は、冴木ゆきと出会った。女の身ながら、早川を無手で取り押さえたという。そして、養生所が医者殺しの一味に襲われ、冴木ゆきが全員を返り討ちにしたあと、養生所に出向いた鵜木は瞠目した。凄腕の女武芸者ときき、鵜木は筋骨たくましい大女を想像していた。だが、どうだ。眼前の冴木ゆきは、背丈こそ高いが、体つきはほっそりとしており、美少年と見まがうような、不思議な美貌の持ち主だった。
累々と積み重なる賊の骸と、冴木ゆきとを見比べて、鵜木は笑い出したい気持ちに襲われた。
(このような女子がいるのか。世の中広いものだ。たとえ俺が剣をもう少しつかえたところで、到底、ゆき殿の足許にも及ぶまい。俺は――俺にできることをしよう)
実際は、賊の半分は数馬が斬っている。見る者が見れば、ゆきが斬った者と、数馬が斬った者では、太刀筋がまったく違うことに気がつく。それに気がつかなかったことからも、鵜木の剣の腕は推して知るべし、である。
(自分に足りぬものは、他の力を借りればいい。なにも凶悪な賊を奉行所で取り押さえなくてもよいのだ。早川を、ゆき殿が取り押さえたように、な。餅は餅屋さ)
そう割り切った矢先に、二代目霞小僧が押し込みを働くという大事件が起きた。江戸の庶民に義賊と呼ばれている二代目霞小僧のことを、もともとは鵜木も悪く思ってはいない。盗っ人には違いないが、二代目霞小僧が狙う相手は、あくどい商売で庶民を泣かせているような店ばかりだ。それに、けして人を殺めない。昔ながらの盗っ人を彷彿とする、鮮やかな手口に、奉行所の古株の間でも、喝采するものがいたのは、ここだけの話だ。
だが、二代目霞小僧の名で立て続けに二件起きた押し込みは、狙う店も、手口も、二代目霞小僧の仕業とも思えなかった。これは、霞小僧の名を騙る偽者の仕業だろう、と、奉行所の中でも、皆が囁き合った。鵜木は途方にくれた。まっとうに商売を営んでいる商家を狙い、皆殺しにするような凶悪な賊だ。放ってはおけぬ。だが、証拠も、賊の狙いも、わからない。
そして、二度目の押し込みがあったあと、手下である目明しの巳之吉が
「どうぞ、他の旦那がたにはご内密に」
と念押しをして、佐吉という男が、養生所で手当てを受けていると知らせてくれた。巳之吉が言うには、どうやら佐吉は、霞小僧を騙る一味を見て斬られたらしい。
ようやく得た手掛かりに、鵜木の胸は高鳴った。そんな鵜木に、声をかけてきた相手がいる。盗賊改の津坂という与力だ。
あれは、奉行所を出た鵜木が役宅に帰る途中の出来事だった。
「もうし、人違いならすまぬが、西町定廻りの鵜木殿か?」
背後から呼び止められた鵜木が振り返ると、編み笠の侍がいた。身なりからすると、浪人ということはあるまい。
「いかにも。そこもとは?」
編み笠の侍は、笠の端を少し持ち上げて、笑みを浮かべた。
「いきなり呼び止めてすまぬ。拙者、盗賊改を仰せつかっている、津坂政之助と申す」
盗賊改と奉行所は、犬猿の仲だ。なにしろ、奉行所が追っているヤマに、盗賊改が横やりをいれる。それだけならまだしも、重要な容疑者を、問答無用で斬り捨てるようなことが日常茶飯事だ。町方の同心からすると盗賊改のやり口は気に食わないこと、この上ない。
「拙者になにか?」
津坂は盗賊改の与力だと名乗った。その津坂が、町方の、たかが同心に過ぎない鵜木に声をかけるなど、尋常ではない。
(どうせ碌な話ではあるまい)
当然のように、そう思った鵜木だったが、津坂に伴われて、とある料理屋の二階に案内された。表情硬く腰を下ろした鵜木に、津坂はにこやかに声をかけた。
「さて、このようなところまで足労願ったのは、ほかでもない。霞小僧が続けて押し込みを働いた件、鵜木殿が追っているときいたが、相違ないかな」
やむを得ず肯定した鵜木に、津坂は語った。
「かような凶賊は、放ってはおけぬ。どうか、町方で知っていることを教えてくれぬか」
(餅は餅屋、凶賊には盗賊改、か。それもやむをまい。これで江戸の治安が守れるならば、それでよい)
そう思った鵜木は、養生所に佐吉という男が運び込まれたことを、津坂に話した。
「津坂様、おそらくはその佐吉という男、霞小僧一味の姿を見ているか、と」
それを聞いた津坂は、大きく頷いた。
「よくぞ教えてくれ申した。その佐吉という男、きっと霞小僧の一味に命を狙われるに相違ない。我が手のものを差し向けて、養生所の周りを固めることにしよう。我ら盗賊改と、奉行所が手を組めば、この一件、早急に解決するであろう」
津坂の言葉に、鵜木は安堵した。佐吉は、大怪我をして眠り続けているという。それに、怪我のために養生所から動かせないらしい。養生所を奉行所の手で固めたとしても、凶悪な賊を相手に、佐吉を守りきれるかどうかわからない。冴木ゆきがいかに手練れといっても、賊の一味に襲われたら、佐吉を守れぬだろう。下手をすれば、ゆき自身の身もあぶない。
(荒事に慣れている盗賊改が警護についてくれるなら、間違いあるまい)
「鵜木殿、凶賊を相手に、町奉行所も盗賊改もない。賊を捕えるため、これからも手を取り合おうぞ」
津坂のその言葉に、鵜木は共感した。そして、霞小僧の一件に関して、知っているかぎりのことを津坂に伝えた。
だが――
その翌日の昼下がり、養生所が無法者たちに襲われた。幸い、揉め事によく首をつっこんでいる荒木という浪人が無法者どもを取り押さえたとのことで、大事には至らなかったが。番屋にひったてられてきた無法者どもは、編み笠の侍に、佐吉を殺すため金で雇われたのだと言った。
(養生所が襲われたとは……盗賊改が警護をしていたのではなかったのか?)
鵜木はいぶかしんだ。
(もしかすると、賊を一網打尽にするために、無法者どもが佐吉を襲うのを、あえて見逃したのかもしれない)
そのように、自分に言い聞かせた。信じたくないことを自分に信じ込ませるための、都合のいい解釈にすぎない。迷う鵜木に、巳之吉が投げかけた言葉が刺さる。
「ねえ、旦那。佐吉が養生所にいるのは、先生がたとあっしのほかは、鵜木の旦那しか知らねえこった。なんで、ごろつきどもが知っていたんですかねぇ」
鋭く射貫くような巳之吉の眼を、鵜木はまともに見ることができなかった。
そして、その晩――養生所は再び襲われた。役宅にいた鵜木は、奉行所からの使いの者からその話を聞き、青ざめた。急ぎ、奉行所に出仕した鵜木は、上役である与力の橋本から呼び出された。
「養生所が二度も襲われるとは尋常ではない。それに、こんどの賊は侍だときくぞ。幸い、あの女武芸者殿が賊を取り押さえたとのことで、怪我人はいないが。鵜木、貴様、なにか知っているのではないか?」
返す言葉もない。養生所が襲われたのは、間違いなく、佐吉の命を狙ってのことだ。
(なんということだ、俺の失態だ。大事な生き証人を危うく死なせるところだった)
こうなると、さすがに鵜木も、津坂のことを疑わざるをえない。
(津坂様は、佐吉が殺されるのを、あえて見過ごそうとしたのか? なぜだ……)
ふと、津坂がこの一件の黒幕なのではないか、という考えが沸き起こる。だが、そのたびに、そんなはずがなかろう、とひとり、否定する。思考がまとまらず、考えは堂々巡りだ。
「旦那、どうしたんです? 真っ青な顔をして」
奉行所の門の前で、巳之吉に声をかけられ、我に返る。お前が悪い、お前のせいだ、と巳之吉に責められているような気がして、鵜木は胸が詰まりそうになる。
(なんということだ。これでは、父にも、兄にも、お奉行にも顔向けができぬ。この一件、俺自身で責任をとるしかない)
思いつめたように、鵜木は巳之吉に言葉を投げかけた。
「いいか、巳之吉。お前はこの一件から手を引け。養生所にも行くな。この一件、俺がかたをつける」
巳之吉が呼び止めるのも聞かず、鵜木は駆け出した。




