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ああ良い桜、酔い桜

 もうひとつ気になるのは……


「数馬さん、私が津坂の屋敷を抜け出すときに、入れ替わりで忍び込んだ男がいるんだ。もしかすると、私たちのほかにも、このヤマを探っている連中がいるのかもしれない」


 数馬さんは眉を顰めた。


「本当かい。盗賊改の、しかもたぶん与力、の役宅に忍び込むような酔狂なやつがそうそういるとも思えないな。ゆきさんの言うとおり、まず間違いなく、この一件に絡んでのことだろう。村上主膳が、自分の手先にも探りをいれている可能性はあるが」


 その男が塀を乗り越えるさまが、いかにも素人だったのを思いだし、私は頭を振る。


「ううん、それは多分違うと思う。忍び働きに慣れていない風だったもん。村上だったら、もう少しちゃんとした忍びを抱えているんじゃないかなあ」


 そう言いながら、とある人物の顔を思い浮かべた。


「もしかすると、黒田の屋敷にいた、あの浪人……」


 荒木又十郎と名乗った、寺子屋の師匠だ。そういえば、ここがごろつきどものい襲われたときに連中をとっちめてくれたけれど、たまたま通りがかったのではなくて、この養生所を……佐吉さんを見張ってのことだったとしたら?


 私と同じことを、数馬さんも思いついたらしい。


「ありうる話だな。どこの手のものかはわからないが、佐吉さんか、俺たちを見張っていたのかもしれない」


 私たちも、か。朝、荒木という浪人と話したときには、向こうから探りをいれるような素振りはなかったけれど――黒田の屋敷で大立ち回りをした数馬さんと私が、養生所の医者だとばれている可能性は否定できない。あのときは、村上主膳の子飼い同士が腹の探り合いをしているのかも、とも思ったが。


 ま、あれこれ考えてもしょうがないよね。


「数馬さん、明日、数馬さんの往診が終わったら、私ひとりで、その荒木って浪人のところに行ってくるよ。助けてもらった御礼もまだだしね」


 数馬さんはちょっぴり心配そうに眉根を寄せた。ああ、やっぱり私のことを心配しているな。数馬さんからすると、私なんぞまだ小娘だからな。鵜木様の件でわかるように、私は見た目に騙されやすいし、思っていることがすぐ顔に出ちゃうから、心配するのもわかるけど……それにしても、心配しすぎだよう。


「大丈夫、大丈夫! 長屋に行くだけだよ。何もされない、って」


 肩を叩きながら、数馬さんの目を覗き込む。数馬さんは、ふと口許を緩めた。


「わかった。気をつけて行っておいで。秋月先生のところに行ったときに、三好先生の様子も見てきてくれるかい」


「うん」


 私たちが話し込んでいる間も、佐吉さんは穏やかな寝息を立ててよく眠っている。明日の朝になれば、また目を覚ますだろう。そうしたら、佐吉さんがあの晩、いったい何を見たのか――そして、佐吉さんの身にいったい何が起こったのかを聞こう。


 そのあと、留守を私に任せて、数馬さんは番屋に行った。正体のわからぬ四人の侍が養生所を襲い、二人を捕えた、と伝えるためだ。数馬さんと一緒に、定町廻りの同心が中間を連れてすっ飛んできたよ。同心は鵜木様じゃない、知らない人だった。捕えた侍たちは盗賊改のものだから、身分が知れたら町方の手を離れるはずだ。


 引っ立てられていく侍を見送ったあと、その晩も、数馬さんと交代で、佐吉さんの傍で眠った。さすがに、一日に三度は襲われないと思ったけれども、二度あることは三度ある、というものね。


 何事もなく朝を迎え、私と数馬さんが見守るなか、佐吉さんはゆっくりと目を開けた。きょろきょろと顔と目を動かし、あたりの様子を見て、自分が養生所で治療をうけていることを思い出したようだ。


「佐吉さん、よく眠れたかい」


 数馬さんの問いに、佐吉さんは神妙な顔で答える。


「へえ、昨日よりも腰の痛みがだいぶ楽になってまさあ。先生がたのおかげだ。一人でいるおとっつぁんのことが心配だ。俺は家に帰らなくちゃなんねえ」


 起き上がろうとした佐吉さんは、激痛に呻く。


「佐吉さん、まだ動くのは無理だよ。七日もすれば、もうちょっと動けるようになると思うけれど。まだ、寝返りをうつのも怪しいはずだよ。不具合なく歩けるようになるには、ひと月半くらいはかかる」


 しばらくうんうん唸りながらも何とか布団から抜け出そうとした佐吉さんは、やがて諦めた。


「おゆき先生の言うとおりだ。まるで動けねえ。情けねえ」


 そんな佐吉さんに、上掛けをかけなおしながら、数馬さんが優しく声をかける。


「佐吉さん、丑松さんのことなら心配ないぞ。昨日も様子を見に行ってきたし、長屋の連中が佐吉さんの代わりに、しっかり丑松さんの面倒を見てくれているよ。あと、佐吉さんが大怪我をして動けず、養生所に入院していることも知らせてあるからな。佐吉さんが目を覚ましたと聞けば、親父さんがさぞかし喜ぶだろうさ。しっかり養生して、一日でも早く家に帰れるようにしないとな」


 そう言って、数馬さんは本題に入る。


「ところで、佐吉さん。こんな怪我をするなんて、いったい何が起きたんだい。それに、佐吉さんがまだ寝ている昨日の朝に、侍に雇われたっていうごろつきどもが、佐吉さんを狙って養生所を襲ってきた。しかも、佐吉さんも知ってのとおり、昨日の晩も四人の侍が佐吉さんの命を狙ってきた」


 数馬さんの言葉を聞き、佐吉さんは目をつぶり唇を噛みしめた。何を思っているのかは、表情だけでは窺いしれない。


「なあ、佐吉さん。俺は、佐吉さんが心底心をこめて親父さんの世話をしているのを、ずっと見てきた。俺は、これでも人を見る目はあるぜ。佐吉さん、いったい、何に巻き込まれたのかを教えちゃくれないか」


 佐吉さんは目を閉じたまま、呻くような声でつぶやく。


「それだけは……それだけは言えねえ。俺のせいで、先生方までとんだ危ない目に合わせちまって、申し訳ねえ。だが、これだけは言うわけにはいかねえ」


 佐吉さんが霞小僧だとしたら、義賊と呼ばれているとはいえ盗っ人だ。だが、盗みに手を染めていても、嘘はつけない人だ。適当な言い逃れをせず、口をつぐむ道を選んだ。


 数馬さんは、そんな佐吉さんの様子を予想していたのだろう。淡々と言葉を続ける。さきほどまでの穏やかな声音とは違って、どこか怜悧な響きを帯びる。


「佐吉さん。あんた、二代目霞小僧だろう。そして、親父さん――丑松さんが、初代の霞小僧だ」


 そう言い放ち、射貫くような目で佐吉さんを見た。つられてその目を見た佐吉さんは、魅入られたように顔の筋肉の動きも凍り付き、みるみるうちに青ざめる。


 おい、こら、数馬さん! 尋問してどうするの!


「ねえ、数馬さん。数馬さん、たら」


 ちょいちょい、と、隣から数馬さんの袖を引っ張る。ん? と私のほうを見た数馬さんは、びっくりするほど険しい顔だ。


「ちょっと、ちょっと! 顔と声が怖すぎるよ! 佐吉さんがびっくりしているよ」


 指摘された数馬さんは、あっと小さな声をあげ、とげとげしい雰囲気は、すっと掻き消されるようになくなった。もう……隠密廻りだったときの、悪い癖だな。きっと、職業病ってやつだ。当時はまだ若造だったろうから、仕事ぶりが荒っぽいんだよね。だんだん、わかってきたよ。


 きつい言い方になってしまってすまない、と佐吉さんに頭を下げる数馬さんを横目で見ながら、今度は私が佐吉さんに話しかける。


「いいかい、佐吉さん。これは、とても重要なことなんだ。まずね、私も、数馬さんも、佐吉さんと丑松さんの味方だ。二人を奉行所につきだそうなんて、思っちゃいないよ。まあ、巳之吉親分も佐吉さんのことを本物の霞小僧だと踏んでいるけれど、とりあえず佐吉さんを捕まえようなんて思っちゃいないよ」


 まずは、佐吉さんを安心させないと。ゆっくりと、噛んで含めるように話す私の言葉に、佐吉さんはじっと耳を傾ける。


「巳之吉親分も、私たちも、ここ二件の押し込み――呉服問屋の日高屋と湊屋が皆殺しにされた事件は、霞小僧を騙る偽者の仕業と考えているよ。佐吉さんは、怪我をした晩、偽の霞小僧と出くわしたんじゃないかい? 私たちは、あの晩、佐吉さんが何を見たのかを知りたい」


 佐吉さんは、観念した様子で頷いた。


「そこまで知ってなさるなら、もう隠し立てする必要はねえ。先生がたの見立てどおりさ。俺は、二代目霞小僧を名乗り、盗みを働いていた。おとっつぁんから盗みの話を聞いたことは、一度もねえ。俺が物心つく頃には、堅気の職人として立派に働いていたからな。俺は、おとっつぁんの実の子だと、信じて疑わなかった。俺が、おとっつぁんの過去を知ったのは、つい一年と半年ほど前のことだった」


 佐吉さんの話によると、丑松さんの昔の仲間――陽炎の伝七の手下の一人が、佐吉さんのもとを訪れたらしい。まだ肺の病がわかる前の丑松さんは、どこか具合が悪く、ちょうど養生所に出かけていて留守だった。


「その男は惣兵衛さんといって、俺の両親が手下に殺されたこと、おとっつぁんが俺を引き取り、育ててくれたことを教えてくれた。惣兵衛さんは、おとっつぁんに、また盗っ人をやらねえかと、誘いにきたのさ」


「丑松さんが盗みをやめてから、もう三十年になるのに……惣兵衛さんってお人は、なんでまた今頃、そんなこと言ってきたんだい?」


 数馬さんの問いに対する佐吉さんの答えは、私や数馬さんが予想だにしていないものだった。


「惣兵衛さんは、俺のじいさん――陽炎の伝七仕込みの、きれいな盗みを信条とするお人さ。じっくり下調べをして、だれにも気がつかれずにお宝を盗み、煙のように姿を消す。最近の盗っ人は、なにかあれば人を殺める。そんな盗みは、盗っ人の風上にもおけねえ、と惣兵衛さんは言っていてな。本当の盗っ人の仕事ってのがどういうものか、死ぬ前に世間様に知らしめて、あっと言わせてえ、ってのが、惣兵衛さんの望みだったんだ。それで、一緒にやらねえかと、俺のおとっつぁんを誘いにきたってえ寸法さ」


 きれいな盗みってのは名人芸だ。芸のひとつもない盗っ人がはびこっているのを憂いて、最後に世間様に名人芸を見せてから死にたい、ってことか。気持ちはわからないでもない、ぞ。


「男手ひとつで俺を育ててくれたおとっつぁんが、江戸じゃ知らねえ者はいねえ、霞小僧だってんだ。俺は――惣兵衛さんの話をきいて、年甲斐もなく心が躍ったよ。こう、胸のあたりがかーっと熱くなりやがった」


「無理もない、霞小僧といえば、江戸っ子の間ではいまだに生神様とあがめるやつもいる、義賊中の義賊さ」


 数馬さんも相槌をうつ。


「だが、おとっつぁんは先生がたも知ってのとおり、体を悪くし始めた頃でな。どっちにしろ、盗み働きをするのは無理よ。そう、惣兵衛さんに言った。惣兵衛さんは、肩を落として、帰ろうとした。だが、俺は――その背中に、思わず声をかけちまった。おとっつぁんの代わりに、俺に盗っ人をやらせてくれないか、とな」


 最初は驚き、渋っていた惣兵衛さんも、佐吉さんの熱意にまけた。佐吉さんは、丑松さんに隠れて、惣兵衛さんから盗みの技の手ほどきを受け始めた。


「俺の顔は、若いころの爺さんに瓜二つらしいぜ。その分、血も濃いんだろう。惣兵衛さんもびっくりするくらい、俺は盗っ人に向いていたようだ。こんなに飲み込みが早いと、教え甲斐がある、と惣兵衛さんも喜んでな。二人で、二代目霞小僧として盗みを働くようになったのさ。もとより、惣兵衛さんも俺も、盗んだ金には興味がねえ。みーんな、貧しい連中に配ったぜ。世間が霞様、と騒ぐのが愉快でしょうがなかった」


 そして、三月前(みつきまえ)――惣兵衛さんは、満足しながら死んだ。最後の様子をきく限りは、中風(ちゅうぶ)の発作だったようだ。惣兵衛さんには、近くに嫁いだ娘がいて、最期は娘夫婦や孫に看取られての大往生だった。


「惣兵衛さんも、最後にひとはな咲かすことができて、満足だったろうさ。そして、俺は盗みから足を洗うつもりでいた。二代目霞小僧を騙る、偽者が現れるまでは、な」


 悔しそうに顔をゆがめた佐吉さんは、握った拳を震わせながら、事の顛末を話す。


「霞小僧を騙る連中が、日高屋に押し込みを働き、皆殺しにしたってえ話を聞き、俺はかーっと頭に血がのぼったぜ。誰が、何のために? 俺には皆目、見当もつかねえ」


 興奮した佐吉さんは、徐々に早口になる。


「俺は、野次馬に紛れて日高屋の前に行ったよ。そこで、俺はとんでもねえ物を見ちまった」


 ごくりと唾を飲み込んだ佐吉さんは、声を潜めた。


「俺が惣兵衛さんから習ったなかに、盗っ人文字ってえのがある。陽炎の伝七が一味の中やりとりをするために、いろは四十七文字にあてはめて作った文字さ。俺は、日高屋の店先に、その盗っ人文字の書きつけが貼られていたのを見つけたのさ。落書きのように見えるよう、わざと崩して書いてあったが、間違いねえ」


 私は、思わず身を乗り出した。


「で、それには何と書いてあったんです?」


「おゆき先生、そこにはな、『あす みなとや おそう』とだけ書いてあった。敵の一味には、陽炎の伝七の――爺さんの手下だった野郎がいる。そして、本物の二代目霞小僧、つまり俺が来ると見越して、そんな書きつけを残してやがったんだ。これは、俺を嵌めるための罠だ。だが、お奉行所に届け出るわけにはいかねえ。俺だって、叩けば埃が出る身の上さ。それに、俺が霞小僧だとばれて獄門首になるならまだしも、何も知らねえ、おとっつぁんまで巻き込んじまう」


 佐吉さんは嗚咽を漏らした。実の父親ではないと思っても、佐吉さんが丑松さんを父と慕い、孝行する気持ちに変わりはない。三十年かけて培ってきた、父と子の絆の深さに、つい私も目頭が熱くなる。


「それで佐吉さんは、連中の正体を掴もうと湊屋を張っていたんだね」


「ああ、そうさ。なにしろ、霞小僧の名を騙って非道な押し込みをはたらくのが許せねえ。おとっつぁんや、惣兵衛さんの盗みの技を汚すような真似は、俺の目の黒いうちは、見過ごすわけにはいかねえ――盗っ人には、盗っ人の心意気ってもんがあらあな。相手の正体さえわかれば、大番屋に投げ文でもなんでもして、連中をしょっぴいて貰おうと思っていた。そうすりゃ、一件落着さ。だが、俺の見込みが甘かった。湊屋を張っていた俺は、いつの間にか偽の霞小僧の一味に取り囲まれていたのさ」


 一味の人数は、九人。敵に斬りつけられた佐吉さんは、すんでのところでかわしたものの、瞼に傷を負った。身の軽い佐吉さんは、夢中で屋根伝いに逃げたが、斬られた瞼から流れ出す血のため片目が見えず、遠近感を見誤って屋根から落ちてしまったのだ。


 数馬さんが倒れている佐吉さんを見つけたときには、あたりに追手の姿はなかった。おそらく、逃げる佐吉さんを見失ったのだろう。そして、佐吉さんが養生所に運ばれたことを鵜木様から聞いた敵は、佐吉さんを消すために、養生所を襲った――


「何か、連中の手掛かりになるようなことは、なかったかい?」


 そう数馬さんに問われ、佐吉さんは記憶をたどるように目を細めた。


「そう、俺が連中に取り囲まれたとき……頭目らしい奴が、手下の一人を『せんぞう』と呼んでいた。俺も動転していたから、よくは覚えていねえが……その『せんぞう』てえ奴は、たぶん年寄りだ。それに、そいつは右足を引きずってやがった。俺が屋根にのぼって逃げたとき、追ってくる奴はひとりもいなかった。たぶん、盗っ人の技の心得があるやつはいねえ。あれじゃあ、押し込み以外に芸がねえのも納得さ」


「せんぞう、という名の年寄りがいたんだな?」


 お、数馬さんが食いついたぞ。


「俺が丑松さんから聞いた話では、佐吉さん、お前さんの父親だった辰三さんを裏切り、お前さんの両親を殺めたやつが、千造という名だった。陽炎の伝七がいざという時のために隠したお宝を狙ってのことらしいが。もしかすると、同じ男かもしれないぞ」


 佐吉さんは、怒るでもなく呆れるでもない、なんともいえない表情になり、黙り込んだ。しばらくして、つぶやくような、かぼそい声でこう言った。


「俺の親は、丑松だ。それ以外にはいねえ。毎日毎日、酒も飲まず博打も打たず、俺を育てるために、真面目一徹で働いてきた丑松こそが、俺の親父さ。俺の実の二親を殺めたってのは、俺にとっちゃどうでもいいことだ。俺はもう、疲れたぜ……」


 そう言うと、佐吉さんは目を閉じて、再び穏やかな寝息を立て始めた。貧血が強いから、疲労しやすい。ずっと床に臥せていたのだ。急に興奮して話したのが、体に堪えたのだろう。さて、次はいつ目をさますか。


「数馬さん、ごめん。丑松さんからの伝言、伝えそこねちゃったね」


 そろそろ、巳之吉親分が佐吉さんの様子を訊きに来る時間だ。とりあえず、まだ眠っていることにすれば刻を稼げる――そう数馬さんと示し合わせた。だが、待てども待てども、巳之吉親分はやってこない。


 まさか鵜木様が盗賊改と内通していることを調べて、なにか危ない目にあっているんじゃ……? 不安が沸き起こる。だが、そうこうするうちに外来の患者がいつものように押し寄せてきて、考える暇がなくなった。


 外来が終わり、往診に出かけた数馬さんが戻ってきたあと、私は例の、荒木という浪人の家に向かった。


 手土産に菓子でも持っていくかな。それとも、ああいう人の場合は、酒のほうがいいんだろうか。うーん。目的地まで行く道すがら、目についた小さな酒屋に寄る。この近くにする、荒木又十郎殿への手土産にする、といったら、店の主が


「荒木様は酒ならなんでも大丈夫な御方ですが、手土産にされるならこのあたりがいいでしょう」


といい、宵桜(よいざくら)という酒を見繕ってくれた。その昔、花見をしながらこれを飲んだどこかの殿様が、『宵桜、ああ良い桜、酔い桜』と一句読んだのが由来という、由緒ある銘酒だとか、なんとか。


 行き交う人に道を尋ねると、荒木殿の家はすぐにわかった。古びているが、きちんと手入れされている長屋だ。近所の人によると、近くに老いた住職が一人で管理している寺があり、そこを間借りして寺子屋を開いているらしい。この長屋も、その寺の檀家が大家をやっているそうな。


 裏木戸をくぐり、洗濯物を干していたどこぞのおかみさんに挨拶をして、奥から二番目の部屋の戸口から声をかける。


「荒木殿は御在宅でしょうか」


 呼びかけから一拍おいて、あくびまじりの、少し間延びしたような、呑気な声が返ってくる。


「なんだ、俺に客とは珍しいな。いま開けるから、少し待っていてくれ」


 がたがたと引き戸のつっかい棒をはずす音がして、ガラリと戸が開く。


「これはこれは……養生所のゆき殿ではないか」


 荒木殿は、驚いた風に目を丸くした。私が来るとは、予想もしていなかったようだ。


「昨日はありがとうございました。助けていただいた御礼を、荒木様にきちんと申し上げる暇もなく、患者が来てしまいまして。本日は、あらためて御礼に伺った次第です」


 頭をたれる私を見て、荒木殿は納得した様子だ。


「いやいや、そういうことか。こちらも酔狂で手助けしただけだ。礼には及ばぬ。とはいえ、せっかく来ていただいたのだ。茶でも飲んで帰っていただこうか。おおい、おさきさん! 客人に茶でも出してもらえぬか!」


 洗濯物を干していたおかみさんに荒木殿が声をかけると、おさき、と呼ばれたおかみさんは陽気な返事を返す。


「あいよ。荒木の旦那に、こんな別嬪さんのお客さんが来るなんて、めでたいことじゃないか。今、持っていくから中で待っていておくれ」


 荒木殿に誘われるがままに、愛刀を腰からはずし部屋の中に入る。もちろん、なにがあっても対処できるよう、荒木殿の一挙一動やあたりの様子をうかがいつつ、だ。場合によっては、この長屋に住む全員が、荒木殿と同じような素性――つまりは、どこぞの隠密――かもしれないからな。さきほどのおさきさんも、ただのおかみさんに見えるが、なにしろ私は騙されやすいのだ。用心に越したことはない、さ。


「おさきさんはな、俺の飯の準備やら洗濯やらで世話になっている人でな」


 そういって、荒木殿はにっこりと笑った。斬り合いのときにはハードボイルド風に見えた風貌も、こうやって普段の姿をみると、ちょいと濃ゆい顔の、渋い中年男にすぎない。笑い方すら、あのときと違うように見える。こんなどこにでもいそうな男が、抜き打ちで黒田の手下をばっさり、だ。いやはや、人は見かけによらぬものだよ。くわばら、くわばら。


 すすめられるがままに、荒木殿の斜め前に座る。


「では、あらためて。荒木様、昨日はあやういところをお助けくださり、御礼の言葉もございません。本当に、荒木様のおかげです」


 そういって、また深々と頭を下げようとしたところを、荒木殿に押しとどめられた。


「いやいや、拙者なんぞが差し出がましいことをしてしもうた、と恥じ入るばかりだ。一度、お手前の腕前を拝見したいものだ」


 そう謙遜しながら、荒木殿は私を観察している。なんだか、視線を感じるんだよね。


「いえ、私の剣術など、所詮は田舎剣法。それよりも、荒木殿がたちどころに無法者を倒した手際をこの目で見ることができず、残念でなりませぬ。荒木殿は、あのときは無手にて相手を取り押さえておられましたが、剣も相当につかわれるとお見受けいたします」


 実際は、黒田の屋敷で剣のお手並みは少し拝見しているんだけど。いやあ、我ながら白々しい。


「これは、私からのほんの御礼の気持ちにございます」


 そういいながら、持参の酒を手渡す。荒木殿は、ほくほくとした笑顔で酒瓶を受け取った。


「いや、これは拙者が好きな『宵桜(よいざくら)』ではないか。どこでこれを?」


「ここに来る途中に寄った酒屋で、荒木様の名を出したら、ぜひこれを、とすすめられまして」


 そう答えると、荒木殿はうんうんと頷きながら、酒を部屋の隅に置いた。その隙に、部屋の様子をざっと見渡す。男やもめの部屋、といったところで、必要最低限のものしかない。きちんとたたまれた布団の脇には、大刀が置いてある。寝ていても、すぐに手にとれる場所だ。寝ているときに襲撃されることを想定しているのかもしれないなあ。それに、床板をなんども剥がした痕なんかもあるよ。床下になにか、隠しているんだろう。


 まあ、まだ深入りは禁物だ。今日はこのへんにしておくか。


「では、私はこのへんで失礼いたします」


 そういって、立ち上がり、再度一礼をする。


「なんだ、もう帰られるのか」


 荒木殿は、いかにも残念そうに言った。


「まあ、養生所に入院している患者もいるだろうから、ゆき殿もあまり長くは留守にできまい。ときに、最近、佐吉という男が運び込まれたと巳之吉親分から聞いたが、具合は悪いのか? 拙者、巳之吉親分とはちょいと親しくてな」


 荒木殿の言葉に、全身の筋肉が一気に緊張する。これは、嘘だ。巳之吉親分は、口が堅い。鵜木様にだって、今後はめったなことを話さないつもりだった。ましてや、まったく関係のない荒木殿に、佐吉さんのことを話すわけがない。それに、巳之吉親分の話ぶりでは、荒木殿とそこまで親しくはないはずだ。


「いえ、佐吉さんはひどい怪我で、ずっと眠ったままなのです。いまは、乾先生か私がつきっきりで手当てをしていますよ。このまま、ずっと目を覚まさないかもしれません」


 嘘の応酬である。まったく、もう……疲れてしょうがないよ。

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