頼む、とは、これいかに
夜の間はだいたい一刻ごとに起きて、佐吉さんの容体を確認した。脈も呼吸も乱れていない。よし、骨盤からの出血はなんとかなった……かな。
ひとたび出血して血圧が下がってしまうと、この世界ではどうしようもない。点滴での水分補充ができないからね。腹のなかに布を詰めての圧迫止血――ガーゼパッキングと呼ばれている方法――を試みるのがせいぜいだ。とにかく、そんなことにならずにすんで、本当によかった。
脳に出血があるかどうかはわからないけれども、とりあえず今のところは大丈夫だ。なんとか、凌ぎきったかな。
翌日も、佐吉さんは眠り続けた。水分を口許に含ませると、ごくりと飲み込む。その様子を見て、数馬さんと笑みを交わす。よかった、もうじき目を覚ましそうだ。
外来が終わってすぐに、数馬さんは出かけた。佐吉さんのお父さんである、丑松さんのところに行ったのだ。押し込みを働く凶悪な一味でも、いくらなんでも日中に養生所を襲うような真似はしないだろう、というのが数馬さんの読みだ。
「先生方、邪魔しやすぜ」
お、巳之吉親分が来たぞ。親分は、苦み走った顔に少し疲労の色を浮かべている。きっと、夜通し走り回っていたのだろう。
「親分さん、おはようございます。佐吉さん、まだ目を覚まさないけれど、とりあえず命に別条はないですよ」
それを聞き、巳之吉親分はほっとした表情だ。
「そりゃよかった。それで、佐吉はいつ目を覚ましやすかね」
「それはなんとも言えません。今日、目を覚ますかもしれないし、ずっと覚まさないかもしれない。佐吉さんが起きたら、親分さんに報せましょう」
「ありがてえ。ご面倒をおかけしやす。あと、若先生は?」
「数馬さんなら、丑松さんのところに行きましたよ。佐吉さんが怪我をして心配しているだろうって」
丑松さんは肺を患っており、家からほとんど出られない。朝夕の食事は、隣の家のおかみさんが用意してくれているらしいから、大丈夫だろうけど。
巳之吉親分は、得心した様子だ。
「そうですかい。若先生とは、ひよっこ医者だった頃からの付き合いだが、昔から患者には優しくて、面倒見のいいお人だった。今でも、ちっとも変わらねえ。おゆき先生、ちょっといいですかい?」
そういって、巳之吉親分は、どっかりと診療室の板の間に座り込んだ。なんだろう?
「若先生が江戸から姿を消した八年の間、どこでどういう暮らしをしていたのか、俺には見当もつかねえ。だいたい、十年前に初めてこの養生所に来た頃にもですね、あの通りくそ真面目なくせに、どうも呑気なところがある。三日に一度は養生所の仕事を放りだして、ふいといなくなっちまう。三好先生も途方にくれていたくらいだ。どこで何をやっていたのやら」
仕事をほったらかし――ああ、隠密廻りのお役目のせいだな。上柴様直轄の隠密なら、少数精鋭のはずだ。慢性的に人手不足だから、探索に駆り出されていたってところだろう。なんとなく想像がつくよ。見習い医者と隠密という組み合わせで二足の草鞋ってのに、そもそも無理があるぞ。
「だが、一年前に若先生が戻ってきたとき、あっしは自分の目を疑いやしたぜ。すっかり目つきが鋭くなったし、どこか人を寄せつけない雰囲気があった。別人じゃねえかと、思ったくらいだ。理由を聞くつもりはねえ。あれだけ人が変わるんだ。よっぽど、つれぇ目にあいなすったに違えねえ。笑顔を見せても、腹の底から笑ってないのが透けて見えちまう」
「そう……でしたか」
巳之吉親分の、人を見る目は確かだ。数馬さーん、ばればれですよう。
「あっしはね、若先生のそんな笑顔を見るたびに、胸のここが苦しくなってしょうがなかった。こんないいお人が、何を抱え込んでいるんだろう、ってね」
そう言って、巳之吉親分は自分の心の臓のあたりに手を当てた。
「ですがね、おゆき先生が養生所に来てから、若先生の険が取れて、なんというか、こう、柔らかくなりやしてね。昔のように、朗らかに笑うようになってきた。人ってのは、こんなに短けえ間に、変わるものかと、あっしもびっくりですぜ」
え、そうなの? きょとんとする私に向かって、巳之吉親分は笑いかけた。
「とにかく、あっしはそれが嬉しくてしょうがねえ。なんだかんだで、若先生のことを気に入ってるんだ。これからも、若先生を――数馬先生のことを、よろしく頼みますぜ。あっしが見ても、お似合いの二人だ」
「え、あ、はい」
頼む、とは、これいかに。それにお似合いって、お似合いって……なんだってえっ?
なんですか、その、うちの父と同じような話の振りかたは。いや、弥助さんも似たようなもんか。
狼狽した私は、たぶん、耳まで真っ赤になっている。その様子をしっかりと見たであろう巳之吉親分は、にっこりと笑って立ち上がった。
「いけねえ、すっかり長話をしちまった。それじゃ、あっしはこれで」
んー。なんだか、言い逃げされたような気がするぞ。
巳之吉親分が帰ってしばらくののち、外で何人かの足音がした。まだ、養生所が開くまでに時間がある。んん? 急患かな。怪我人ならなんとかするけれど、数馬さんがいないから、ちょっと待ってもらうかな。
――いや、これは患者じゃない
戸の外にいる来訪者たちが放つ、荒々しい殺気を感じ取り、私は身構えた。佐吉さんを狙ってきた、賊か。こんなに白昼堂々と現れるとは、数馬さんの読みが外れたな。だが、こんなこともあろうかと、愛刀は傍に置いてあるぞ。足音からすると、人数は五人だ。二手に分かれられると、佐吉さんを守るのも大変だ。診療室の前で迎え討つとしよう。
「おい、佐吉ってやつはいるかい」
粗暴な声とともに、戸が蹴破られる。身なりと雰囲気から察するに、このあたりのヤクザ者の手下ってところだ。抜き身の長脇差を手にしている。先頭に立つごろつきが、まさに建屋に足を踏み入れようとした刹那――
「な、なんだてめえっ!」
「やっちまえ!」
という怒号とともに、ごろつきの姿が、戸口から消えた。間を置かず、戸口の外で、悲鳴やら、誰かが地面に転がってのたうちまわっているような音が聞こえる。
「数馬さん?」
戻ってきた数馬さんが、ごろつきどもをとっちめたんだろうか。だが、戸口から現れた男は、私が想像もしていない相手だった。
「すまぬな。こやつらが刃物を振り回して、養生所に押し入ろうとしていたのでな。お節介とは思ったが、懲らしめておいたぞ」
思わず、あっと声を上げそうになり、あわてて言葉を呑み込む。男の顔には見覚えがあった。黒田の屋敷に討ち入ったとき、「また会うこともあるだろう」と言い残して立ち去った、浪人者だ。あのときは小袖に袴というなりだったけれど、今日は灰色の着流しという姿だ。この男、私たちが養生所の人間と知って、ここに現れたんだろうか。とりあえず、警戒するに越したことはない。
「これは、危ないところを、どうもありがとうございました。わたくし、この養生所で見習いをしております、冴木ゆき、と申します」
そう名乗り、丁寧にお辞儀をする。私の顔をまじまじと見た浪人者は、にかっと破顔した。
「なんと、貴殿が剣術小町と名高い、養生所の女医者か。いやはや、それがしが手出しするまでもなかったな。これは余計なことをしてしもうたわ。だが、こやつらのようなごろつきは、ゆき殿の刀の錆にする価値もなかろう。どうか、勘弁してくだされ」
そういって、男は整えた総髪に手をやり、頭をかいた。剣術小町って、なんだそりゃ。そんな呼び方、初めて聞いたぞ。この男の口から出まかせかい。口がうまいやつは、信用ならんわ。
私がじとーっと男を見つめていると、男は愛想のよい笑いを浮かべた。
「申し遅れたが、拙者、ここの近くで寺子屋などを開いている、荒木又十郎と申す。以後、お見知りおき願いたい」
黒田の屋敷で見たときには、ハードボイルドな雰囲気だったが、今日はやたら愛想がいい。なんだか軽い雰囲気だなあ。うむむ、やっぱり信用ならん。
「寺子屋のお師匠様でいらっしゃいますか。この身は所詮、女の細腕。大勢のごろつきに囲まれたら、手も足も出なかったでしょう。本当に、お礼の言葉もございません。また改めて御礼に伺いましょう」
そう丁寧に礼を述べて、深々とお辞儀をする。この男の狙いはよくわからないが、とりあえず今日のところは、このままお引き取り願おう。
「なんのなんの。ゆき殿のような美女に礼を述べられるなど、男冥利につきるというもの。何か困ったことがあれば、声をかけてくだされ」
うわ、歯の浮くようなお世辞に、さぶいぼがでるぜ。まったく、読めない男だなあ。ますます疑わしい目で、荒木って浪人を見てしまうよ。荒木又十郎という名前も、本名かどうか怪しいもんだ。
「拙者はこれで失礼するとしよう。おもてに転がっているごろつきどもは、拙者が縛っておいたゆえ、安心めされよ。じきに町方が捕らえにくるであろう。では、御免」
荒木と名乗る浪人が帰ったあと、どっと疲れが出てくる。うーん、腹の探り合いは苦手だよ……
時間をおかず、巳之吉親分が飛んできた。
「おゆき先生、こりゃとんだことで。すまねえ、まさか白昼堂々、養生所が襲われるとは、思っていやせんでした。本当に、面目ねえ」
親分は平身低頭だ。いや、数馬さんも日中は襲ってこないと踏んでいたし、これはしょうがないと思うよ。気になるのは、佐吉さんが養生所にいるということを、連中がどうやって知ったか、だ。
「いいえ、親分さん。寺子屋の師匠をやってるっていう、荒木又十郎って御仁が助けてくれたから、私も佐吉さんも、何ともありませんでしたよ。せっかく直してもらった戸が、また壊れてしまったけれど」
「えっ、荒木の旦那が、ですかい?」
むむ。どうやら巳之吉親分は、荒木って浪人を知っているようだぞ。ちょいと親分にも訊いてみるか。
「ええ、ごろつきがそこの戸を蹴破ったところに、ちょうど荒木殿がきて、戸の外で連中をとっちめてくれたんです。今度、御礼にうかがおうかと思うけれど、どういうお人ですか?」
「荒木の旦那は、西町の端で寺子屋を開いている御浪人でさあ。確か、三年くらい前に、どこからかふらりと現れて住み始めたはずですぜ。あのあたりは、奉行所の周りでも、とくに貧乏人が多いところだ。荒木の旦那は、貧乏人からは謝礼をこれっぽっちも受け取らねえ。だが、三日に一度は寺子屋が休みになるってんで、いくら貧乏人でも荒木の旦那のところにゃ通わせたがらねえって話ですぜ」
三日に一度、休みって……なんだか、さっき巳之吉親分から聞いた、昔の数馬さんみたいだな。数馬さんの場合は、隠密廻りのお役目のせいだろうけど、荒木って浪人はいったい何をやっているんだろう。
「揉め事がありゃ、のべつまくなしに首をつっこみ、なんだかんだで解決するから、便利屋みてえなお人さ。腕っぷしは、折り紙つきですぜ。まあ、酒さえ飲んでりゃ機嫌がいいし、悪い酔い方もしねえから、近所の評判は悪くねえ。おゆき先生、こんなとこでいいですかい?」
おお、さすが巳之吉親分。私が知りたいことを、簡潔にまとめてくれたぞ。
「ええ、十分です。ありがとう、親分さん」
「いえ、おやすい御用で」
軽く頭を下げた巳之吉親分は、声を潜めた。
「だが、あっしが解せねえのは、連中がなんでここを襲ったか、ってところです。佐吉がここにいることを知っているのは、先生方とあっしのほかは、鵜木の旦那だけだ。先生方が話を漏らすわけがねえ。なにしろ、お二人とも佐吉を助けようと一生懸命だ。てえことは……」
巳之吉親分は言葉を濁す。鵜木様、か。鵜木という男を信用しすぎるのは禁物、と私に釘をさした、数馬さんの言葉を思い出す。
「おゆき先生、このことは、若先生以外には他言無用に願いやす。なあに、悪いようにはしねえ。だが、あっしも鵜木の旦那との付きあい方ってのを、ちょっと考えなくちゃなんねえ」
そう囁く巳之吉親分の表情は、真剣そのものだ。
「さあて、ごろつきどものお取り調べが、そろそろ始まる頃だ。あっしは、これで失礼するとしやしょう。佐吉のこと、よろしく頼みやすぜ。壊れた戸の修繕は、弥助さんに声をかけておきますんで」
帰ろうとした巳之吉親分の背を見て、ふと心配になり声をかける。
「親分さん、くれぐれも、鵜木様のことで危ない橋を渡らないようにしてくださいね」
振り返った巳之吉親分は、にやりと笑った。
「なあに、あっしだって命は惜しい。無理はしても、無茶はしねえ。おゆき先生、心配するこたぁねえですぜ」
巳之吉親分が帰ったあと、入院患者用の大部屋にいる佐吉さんの脈をとる。よし、容体は安定しているな。もうちょっと風通しのいいところに移動するか。
なにしろ、骨盤が折れているので乱暴には扱えない。布団ごと、ずるずると引きずって移動させていると、数馬さんがもの凄い勢いで戸口から飛び込んできた。
「ゆきさん、養生所が襲われたって聞いたけれど、無事かっ?」
「お帰り、数馬さん。うん、何ともないよ。さすがに、真昼間から襲われるとは思っちゃいなかったから、ちょっとびっくりしたけれど」
私が呑気な声で答えると、数馬さんは安堵したように、その場に座り込んだ。
「やれやれ、昼間は襲われないだろうっていう、俺の読みがはずれちまったな。でも、無事でよかったよ。ゆきさんの腕前は十分わかっているけれど、不意をつかれると何がおこるかわかったもんじゃないからな」
全速力で走ってきたのだろう。数馬さんの顔には、玉の汗が浮かぶ。よっぽど心配してくれたらしい。
「うん。ごろつきがが五人、長脇差を振り回して入ってこようとしたんだけどね、通りすがりの浪人が全員、とっちめてくれたんだよ。その浪人がね……」
私は声を潜めた。
「この間、黒田の屋敷で最後に去っていた、あの男なんだ。荒木又十郎って名乗ったよ。巳之吉親分の話では、三年くらい前から、西町の端で寺子屋をやっているらしい」
巳之吉親分から聞いた話を、一通り数馬さんに説明する。三日に一度は休みをとる、の件で、数馬さんが身を乗り出す。
「その男、もしかすると、どこぞの隠密かもしれんな。公儀の手のものか、諸藩の手のものかはわからないが」
――まあ、隠密廻りだったころの数馬さんと、似たような働き方だもんね。そう思うよね、うんうん。
「黒田の屋敷にいたのが、私たちだってことを知って、ここに来たのかと疑ったけれども、よくわからなかったよ。御礼もちゃんと言えていないから、時間があるときに、御礼に行ってくるね。その間、佐助さんのことをお願いしてもいい?」
数馬さんは、一瞬、躊躇した。
「いや、だが、得体のしれん相手だ。ゆきさん、一人で行くのは……」
「大丈夫だよ。三年間も、同じ場所で寺子屋を開いていて、長屋の人たちからの評判もいいらしい。それこそ、真昼間から物騒なことはしないと思うよ」
「それも、そうだな。すまん、ここが襲われたもんだから、俺もついつい用心深くなっちまう。心配しすぎだな」
数馬さんは、笑いながら頭をかく。なんだかんだで私のことを心配してくれるのは、ちょっと嬉しい気もするけれどね。今のうちに、あのことも話しておこう。
「巳之吉親分が言うには、佐吉さんがここにいることを知っているのは、私たちと親分、それに鵜木様だけらしい。巳之吉親分は、鵜木様のことを疑っているよ」
「そうか……」
数馬さんは驚かない。ある程度は想定のうち、なのだろう。
「町方がごろつきを使って証人を始末するというのは、ありそうな話さ。あくどい連中とつるんでいる役人も多いからな。だが、鵜木はそういう役人どもと同じ連中には見えない。ほかに理由があるんだろう」
鵜木様は、見るからに実直そうな役人だ。番屋での検分に立ち会ったときも、霞小僧を名乗る連中の凶行に憤っていたのは本心だと思う。いくら騙されやすい私でも、そこまではごまかされない、と思いたい。
「たとえば――悪い連中にわざと情報を流して、黒幕をあぶりだすとか、かなあ」
と、思ったことをそのまま口にする。数馬さんは頷いた。
「いかにもありそうな話だぜ。まあ、鵜木はそこまでする男には見えないがな。あと、荒木という男が、我々に近づくために、敢えて仕組んだことという可能性もある。今のところは、なんともいえないな」
よし、と言いながら、数馬さんは腰を上げた。
「番屋にしょっぴかれた連中から、何かわかるかもしれん。巳之吉親分がまた来るだろうか、そのときに調べの様子を訊くとするか。あと、丑松さんのことで、ゆきさんに話しておきたいことがある」
佐吉さんを大部屋に残し、数馬さんに促されて診療室に移動する。佐吉さんはまだ眠り続けているけれども、万が一にも佐吉さんには聞かせちゃならないってことだろう。いったい何の話かなあ。
数馬さんは、私の前に腰をおろした。
「丑松さんのところに行ってな。佐吉さんがここにいることと、だいたいの容体は、巳之吉親分から聞いていたそうだ。佐吉さんが目を覚ますか、ずっと眠ったままになるかはわからないが、峠は越したと思う、と丑松さんに伝えたら、ずいぶんと安心した様子だったよ」
丑松さんは肺を患っていて、咳と息切れがひどく、外を出歩くこともままならない。孝行息子である佐吉さんが、生死の境をさ迷っているときいて、本当は丑松さん自身が養生所に来たいはずだ。それができず、夜通し家で待ち続けるつらさを想像して、やるせない気持ちになる。
「それで、佐吉さんが、もし目を覚ましたら伝えてほしい、と、丑松さんからの頼まれたことがある」
数馬さんは、声を潜めた。
町方やほかの者には聞かれたくない話だろう。自然と姿勢をただし、こぶしを握り締めて数馬さんの話に耳を傾ける。
「丑松さんは、こう言ったんだ。霞小僧は自分だ、とお前のかわりに番屋に名乗りでる。こんな死にぞこないの老いぼれの命なんぞ、惜しくもなんともない。佐吉、お前はまだ若い。お咎めをうけて、三尺高い木の上にあがるこたあねえ、とね」
そこまで一気に言い切ると、数馬さんは悲しそうな眼差しで、私を見つめた。
「ゆきさん、丑松さんはね、三十年前に江戸を騒がせた初代霞小僧だったのさ。巳之吉親分が佐吉さんのことを本物の二代目霞小僧だと睨んでいると知り、親分には内緒で、と仔細を打ち明けてくれたよ」
「そんな……」
数馬さんが言うには、丑松さんは陽炎の伝七、という盗っ人の大親分の下で修行を積んだそうだ。老齢になった伝七が息子に跡目をゆずったときに、丑松さんは独立を許され、霞小僧として一人で盗み働きをはじめたらしい。
その後、陽炎の伝七の死と時を同じくして、一味が仲間割れで解散したときに、伝七の息子夫婦も殺された。恩人である伝七の孫である佐吉さんが一人残されたことを知った丑松さんは、佐吉さんを引き取って自分の子として育てると決心し、盗みから足を洗った――
「これが、かつて江戸を騒がせた霞小僧が、すっぱりと姿を見せなくなった理由さ」
それからの丑松さんは、身軽さを生かして大工としてまっとうに働き、そして三十年の月日が流れた。
「二代目霞小僧が世間を騒がせた日には必ず、佐吉さんが夜中に出歩いていたことに、丑松さんは気づいていてな。薄々、佐吉さんが二代目を名乗って、自分の真似事をしていると察していたらしい。だが、佐吉さんがなぜ二代目霞小僧を名乗って盗みを働くようになったのかは、丑松さんも知らないそうだ」
知らない、というよりは、聞くに聞けなかったというのが真相らしい。
「佐吉さんが目を覚ましたら教えてくれ、と丑松さんに頼まれたよ。ゆきさん、人を殺めず貧しい者に施す義賊といえども、盗みは盗み、十両以上の盗みは死罪をまぬがれまい。丑松さんは、佐吉さんの身代わりになって死ぬつもりだ」
そこまで話すと、数馬さんは深く息を吐き、目を伏せた。
「さて、どうしたものか」
数馬さんは、そうつぶやくと、押し黙った。血のつながりはなくとも、丑松さんと佐吉さんの間には、実の親子以上に情が通う。佐吉さんが目を覚ましたとして、丑松さんが子を思う気持ちを尊重し、丑松さんの望み通りにすれば、佐吉さんが悲しむ。
「数馬さん、ずいぶんと重い頼みを託されちゃったね……」
わが身を顧みず佐吉さんを守ろうとする丑松さんに、前世で私を――相原有希を守るため、自分の命と引き換えに守護の秘術を使った先生や――もう一つの冴木ゆきとしての前世で、私をかばって爆死した父・冴木源次郎の姿が重なる。
「ゆきさんは、どう思う?」
「えっ……わたしが?」
ふいに話を振られて、面食らう。
「俺は、実の親と過ごした子供のころのことは、かすかにしか覚えていない。俺を育ててくれた寺子屋の師匠との関係は、親子という感じではなかった。だから、こういう情の通う親子の間に立ち、どうふるまえばいいのか――俺にはわからないんだ」
心底、困ったように、数馬さんは言葉をつづけた。
「ゆきさんは、きっと、冴木殿や弥助さんたちから、大事に育てられたろう? むろん、ゆきさんは幼い頃から厳しい修行を積んできたろうから、普通の童と同じような育ちとは思わないが……でも、弥助さんたちが、ゆきさんのことを大切に思っているのは、さすがに俺でもわかるさ」
数馬さんのいうとおりだ。父も彦佐爺も、私を実の子や孫として接してくれている。源太にぃも、私のことを妹のように可愛がってくれている。里の大人たち皆に見守られて、私は育ってきた。
「ゆきさんなら、きっと、丑松さんが佐吉さんを思う気持ちも、佐吉さんが丑松さんを大切にする気持ちも、よくわかるだろうから……二人にとって、よりよい方法を考えつくかもしれない」
数馬さんは大きなため息をつき、自嘲気味に付けくわえた。
「丸投げするようですまない。だが、こればかりは、俺には無理なんだ」
数馬さんの言葉の端々から、人の情ってやつに引け目を感じていることがわかる。 数馬さんの生い立ちを聞いたのは、初めて手合わせをしたときだけだ。父親が腹を切り、母親も自害したと聞いた。そのとき、塚田千之助様に助けられて、寺子屋をやっている浪人に預けられて育ったんだよね。数馬さんがどんな幼少期を過ごしたのか、興味本位で詮索してはいけない気がして、私からは聞いていない。だけれども、そのときの経験が、数馬さんの心に影を落としているようだ。
ふと、前世の、相原有希としての記憶がまたもや甦る。小学生のとき、授業参観に両親が来たことがない、って話をしたら、高木さんが非番のときに、授業参観に来てくれたことがあったっけ。周りのお母さん方が、高木さんがカッコいい、と騒然としていたな。高木さんは少し居心地が悪そうだったし、私も照れくさかったけれど、何よりも高木さんの気持ちがうれしかった。あの頃の私は、実の家族とのかかわりは薄かったけれど、先生や高木さんから優しさを沢山貰っていたよ。
目の前の数馬さんを見て思う。数馬さんは優しいし、人がいい。朗らかな笑顔も、まやかしじゃない。あれは数馬さんの素顔だ。私にだって、それくらいわかるさ。今回も、倒れている佐吉さんを見捨てておけず、町方に目をつけられるかもしれないという危険を承知で、養生所に連れ帰ってきたもん。それに、さんざんつらい目にあって苦労してきたから、人の心の痛みもわかる人だ。
――大丈夫、引け目を感じる必要なんてないんだよ
その気持ちを数馬さんに伝えたいけれども、今それを言葉に出したところで、空々しいだけだ。
「わかった。佐吉さんや丑松さんにとって、どうするのがいいかなんて、他人にはわかりゃしないけれど、丑松さんや――佐吉さんが目を覚ましたら佐吉さんとも話して、二人にとってなるべくいい方法を探してみるよ。だから、数馬さんも一緒に考えよう」
そう数馬さんに笑いかける。数馬さんは戸惑いの色を浮かべたが、小さく頷いた。
「ああ。任せっきりにするのはよくないな。俺も、考えるとしよう」
さて、まずは佐吉さんが目を覚ますのを、待つとするか。




