閑話 陽炎の伝七
安らかな寝息を立てて眠るゆきの肩に、数馬はそっと上掛けをかけた。ひとたび剣を持てば恐るべき腕前の持ち主も、寝顔は十五の少女のそれだ。
(金創の治療に関しては三好先生も敵わぬほどだし、忍びの腕前は俺も遠く及ばない。それに、どこか大人びたところがある。ついつい、ゆきさんの歳を忘れそうになるけれども、こうやって見ると年相応だな)
この歳になると、町娘も武家の娘も、うっすらと化粧などをしているものだが、ゆきは化粧をしない。それに、若衆髷などを結い、服装も小袖に小袴で数馬と変わらず、男のなりだ。だが、ととのった顔立ちのゆきは、どこか中性的な美貌で、見たものを惹きつける。
もっとも世間の男は、自分よりも強い女には興味がない。医者殺しの一件で養生所が襲われたとき、凄腕の女武芸者が賊を全員切り捨てた、と世間は騒ぎ立てた。その頃は、
「どうせ瓦版がおもしろおかしく、大げさに騒ぎ立てているだけだろう」
「所詮は女の細腕、たいした腕前ではなかろう」
との声も少なくはなかった。だが、ゆきに立ち合いを申し出た剣術自慢の侍が、ことごとく敗れ去ったとの噂が広まり、近頃はゆきのことを男女と揶揄する者もいるくらいだ。もっぱら、ゆきを見て騒ぎたてるのは、町娘たちだ。
この間も、往診の行き帰りのゆきを見た町娘たちが、歓声をあげながら頬を赤らめる姿を見て、数馬は苦笑した。養生所に来る患者によると、気の早い絵草紙屋は、これぞ商売のネタとばかりに、絵師にゆきの絵姿を書かせているらしい。とうの本人は、そんなことなどつゆ知らず、
「人の噂も七十五日っていうけれども、養生所が襲われて半月も経っていないのに、だいぶ騒がれなくなったね。歩きやすくなってよかったよ」
と、呑気なものだ。それがまたおかしくて、数馬は必死で笑いを噛み殺した。本人が過ごしやすくなったといっているのだ、わざわざ余計なことを知らせる必要もあるまい。
そんなことなどを思い出しながら、ゆきの穏やかな寝顔を眺める。
(これだけぐっすり寝ているのだ、俺のことを信用してくれているのだろう)
そう思うと、どこかくすぐったい気分になる。くすり、と笑った数馬は、傍らで死んだように眠る、佐吉を見た。
(佐吉さんが盗っ人、か。それに、本物の二代目霞小僧かもしれないと親分が言っていたが。人に騙され、裏切られ続けて疑い深くなってしまった俺ですら、見抜けぬのだ。本当に、人は見かけによらぬものだな)
そう溜息をつき、数馬もその場にごろりと横になり、目を閉じた。
翌日、午後の往診を終えてすぐに、数馬は丑松の家に向かった。ゆきは、佐吉を守るために養生所に居残りだ。
(佐吉さんはおそらく、二代目霞小僧を騙って呉服問屋の湊屋を襲った連中と出くわしたに違いない。そして、連中に斬られそうになりかろうじてかわしたけれども、屋根の上なぞから落ちてしまったのだろう)
その場で賊が佐吉にとどめを刺さなかった理由は、わからない。なにしろ、押し込み先の店の者を皆殺しにする凶悪な盗賊だ。佐吉が賊の正体を見る見ないに関わらず、その場で殺されてもよさそうなものだ。だが、数馬が地面に倒れ伏している佐吉を見つけたときには、賊の影も形もなかった。
(もしかすると、地面に落ちて動けないでいる佐吉さんを見て、死んだと思ってその場を立ち去ったのかもしれん)
なぜか、嫌な予感する。もし佐吉が生きていると、何らかの伝手で連中が知ったならば、佐吉の命を狙って賊が襲ってくるかもしれない。巳之吉も同じ読みだった。むろん、ゆきの剣の腕は嫌というほど知っている。だが、不意討ちや多勢に無勢という状況では、いくら剣の達人といえども遅れをとることはある。それが数馬には不安だった。だが、さすがに日の高いうちから養生所を襲うような無茶な真似はするまい、と思い、ゆきと佐吉を残してきたのだ。
丑松が佐吉と住む裏長屋は、養生所から七、八町ほどの距離にある。桶屋や小間物屋の間にある古い路地木戸をくぐり、二軒目の裏店が丑松たちの住処だ。
「丑松さん、俺だ。養生所の乾だ。はいらせてもらうよ」
そう声をかけて、戸を開ける。戸板は古いが、滑るように開くのは、佐吉がよく手入れをしているからだ。
裏店ではあるが、この部屋はさほど日当たりも悪くなく、風通しもいい。四畳半の部屋に敷かれた布団に、丑松が横たわっていた。歳は七十と二つ。若いころは屈強であった体躯も、昨年、肺を病んでからは、見る影もなく痩せさらばえた。息切れと咳が激しく、一日のうちのほとんどを、寝て過ごしている。だが、息子の佐吉が下の世話から何から何まで、献身的に世話をしているため、丑松の身なりはわりと整っている。そのことを知っているからこそ、昨晩、数馬は倒れている佐吉を見捨てることができなかったのだ。
「ああ、これは若先生。朝からこんな場所に、すまねえ。倅の――佐吉のことでござんすね」
丑松は上半身をもたげ、数馬に話しかけた。体は衰えたとはいえ、頭はしっかりとしている。それに、両の眼は力強さを失っていない。その両目をしっかり見つめて、数馬は説明した。
「ああ。丑松さん、巳之吉親分から幾らかは聞いていると思うが、佐吉さんが大怪我をして養生所で手当てをしている。腰の骨が折れて、腹の中に血が流れ出ているらしい。それに、頭をぶつけたせいで、眠ったままだ。このまま目を覚まさずに、命を落とすかもしれない。だが、俺たちの見立てでは、峠は越していると思う」
数馬の言葉を聞き、丑松は息を大きく吐いて、両目を閉じた。悲しんでいるのか、息子の不運を呪っているのかは、窺いしれない。そのまま何か考えるそぶりの丑松を、数馬は黙って見守った。
しばらくの後、丑松は再び目を開いた。開け放した戸の外からは、井戸の周りで語り合う、裏長屋住まいの女房たちの姦しい笑い声が聞こえる。
「先生、こんなことは頼めた義理じゃねえが、おめえさんを見込んで、話がある。まずは、ちょいとその戸を閉めちゃくれねえか」
「ああ、わかったよ」
言われるがままに、数馬は引き戸をぴたりと占めた。薄暗い部屋の中で、丑松の双眸が爛々と光る。
「ありがてえ。昨晩、巳之吉親分が来たときに、うちの倅が二代目霞小僧となにか関わりがあるかもしれねえ、と言っていた。若先生、これから俺が話すことは、他言無用に願います。もちろん、巳之吉親分にも、だ。俺が、この三十年間、ずっと胸の内にしまってきたことだ」
いつになく張りのある丑松の声に、数馬は思わず背筋を伸ばした。これからこの男が話す内容は、きっと、この男の一生に関わることだ、と予感したからだ。
「若先生がまだ生まれてもいねえ頃の話だが、陽炎の伝七ってえ盗っ人がいやしてね。手下の数は二十人をくだらねえ、大親分だ。けして人を殺めず、神出鬼没の盗っ人の技で、どんな倉でもやぶっちまう。俺はその伝七親分の、一の子分だった」
丑松は、昔を懐かしみ遠くを見るような目で、よどみなく語る。数馬は江戸の生まれではないが、陽炎の伝七、の名は聞いたことがある。霞小僧のように、貧しいものに金を恵むような真似はしなかったが、人を殺めず、あくどい大店ばかりを狙って見事に盗みをしてのける腕前は、今でも江戸っ子たちの語り草だ。
「だが、さすがの伝七親分も寄る年波には勝てねえ。ここらが潮時だと思った伝七親分は、倅の辰三さんに跡目を譲り、隠居の身となった。辰三さんは、俺にとっちゃ兄貴同然のお人さ。だが、伝七親分の手下の中には、一の子分だった俺を跡目にと言い張る者もおりやしてね。俺が一味に残ると辰三さんの立つ瀬がねえ。俺は一味を抜けることにして、伝七親分にも辰三さんにも、独り立ちを許されやした」
盗みはすれど、盗っ人には盗っ人の筋というものがある。伝七という親分も、この丑松も、その道の筋を通すまっすぐな気質だったのだろう。
「一味を離れた俺は、霞小僧を名乗り、独りで盗み働きを始めやした。人を殺めねえ、ってえ、伝七親分の教えをきっちり守りやした。盗んだ金子を裏長屋の連中にばらまいたのは、なあに、つまらねえ江戸っ子の心意気ってもんだ。金をため込むくらいだったら、少しでも世間様への罪滅ぼしってもんをしたほうが、てめえの心も、すーっと晴れるってもんでさあ。それに、正直、義賊だなんだって祭り上げられるのは、悪い気はしねえ」
そういって、丑松は右の拳で胸を叩き、笑った。だが、その笑顔はどこか弱弱しい。
「だが、俺が義賊だ、霞様だ、と騒がれている間、本家――辰三さんのほうは、ちと振るわねえ。伝七親分の頃には二十人いた手下も、一人はなれ、二人はなれ、最後には七、八人になった。飛ぶ鳥をおとす勢いだった陽炎の一家も、こう人が減っちまったら大きな盗みはできねえ。そして辰三さんが陽炎の一家の跡目を継いで十年くらいたち、伝七親分が亡くなったときに、手下の千造という男が裏切った。伝七親分がいざというときのために隠していたお宝を狙ってのことさ」
丑松は深いため息をつき、肩を落とす。
「陽炎一家に残っていた昔の仲間で惣兵衛ってやつから、辰三さんの身が危ねえと聞いた俺は、辰三さんに加勢しようと辰三さんの家に駆けつけたが、一足違いで間に合わなかった。辰三さんとその女房は、千造の手にかかって死んじまった。辰三さんの女房が、体の下でしっかり抱きしめていた赤子だけが助かりやしてね。それが、佐吉さ」
丑松の話に聞き入っていた数馬は、ためらいがちに問う。
「佐吉さんは、そのことを――伝七親分や、実の父親のことを知っているのかい?」
丑松は、頭を振った。
「いや、俺からは一言もその話はしてねえ。それに、俺が霞小僧という盗っ人だったことも知らねえはずさ。大恩ある伝七親分の孫だ。裏切られ、無残に殺される盗っ人なんぞじゃなく、お天道様の下で胸を張って生きられるようにしてやりたかった。だから、俺は盗っ人から足を洗い、堅気の仕事をしながら、佐吉を我が子として育ててきたのさ。佐吉は、まっすぐで気立ての良い男に育ってくれたよ。本当に、俺にはもったいねえ息子さ。俺がこんな体になっても、孝行を尽くしてくれる」
数馬は、黙ってうなずいた。佐吉は、本当に気立てがよく、優しい男だ。酒や博打はやらず、女に現を抜かすこともない。真面目な働きぶりは近所でも評判だ。佐吉を見れば、この丑松が、足を洗ってからの日々を、どれだけまっとうに生きてきたかがわかる。
丑松は目を伏せて、しばしの沈黙のあと、再び語り始めた。
「佐吉の様子がおかしくなったのは、一年くれえ前のことだ。月に二、三べんほど、俺に黙って夜中に家を抜け出し、明け方に帰ってくるようになった。そのうちに、二代目霞小僧が世間様を騒がせるようになった。二代目が盗みを働いた夜は、きまって佐吉が家を抜け出した日だ。どこをどうしたか知らねえが、佐吉は俺が霞小僧だったのを知ったに違えねえ。何度も、佐吉を問い詰めようと思ったが……俺にはできなかった」
そう言うと、丑松は激しく咳こんだ。数馬は、丑松の傍に寄り添い、右手でその背をさする。この病には、治療法がない。徐々に体力を奪われ、死に至る。今も、右の胸には耐えがたい痛みがあるはずだ。数馬ができるのは、症状をやわらげ、死に至るまでの日々をできるだけ穏やかに過ごさせることだけだ。
「先生、すまねえ。俺は……佐吉が二代目霞小僧を名乗り、盗みを働いていると薄々勘づいていた。佐吉が何を考えて、こんなことをしているのか。どこの誰から、何をどこまで聞いたのか……だが、本当のことを知るのが怖くて、佐吉には聞けなかったぜ。俺は本当に、意気地がねえ男さ」
また激しく咳きこんだ丑松は、口元を手ぬぐいで押さえた。手ぬぐいに血がついているのを、数馬は見逃さない。
(肺の臓が、破れかけているのだ。この様子では、丑松さんはもう、長くはあるまい)
息子として育ててきた佐吉が意識を取り戻さず――そして、佐吉のことで悲嘆にくれたまま、丑松はこの世を去らなくてはならないのか。そう思うと、数馬の胸は押しつぶされそうになる。
丑松は、数馬の左手を両手でぐっと握り締めた。骨と皮だけになった手だが、力は存外に強い。残った力を振り絞っているのだろう。
「だが、ここ二件続けて、霞小僧が押し込みを働き、店の者を皆殺しにしたってえのは――あれは断じて、佐吉の仕業じゃねえ。佐吉は、あんな非道なことができる奴じゃねえ。夕べ、霞小僧が押し込みを働いたが、佐吉が大怪我をしたからといって、佐吉が奴らの仲間とは限らねえ。どうか、先生だけでも信じちゃくれめえか」
必死ですがるように頼み込む丑松の手を、数馬は両手で包み込み、穏やかに語りかけた。この老人の心の苦しみを少しでも和らげてやりたかった。
「ああ。佐吉さんは、まっすぐな男さ。あれが佐吉さんの仕業じゃないってことくらい、俺にだってわかるよ。それに……巳之吉親分が言うには、町方だって、あの二件の押し込みは、二代目霞小僧を騙る偽者の仕業だと睨んでいるそうだ。みな、ちゃんとわかっているよ」
丑松は、にっと満足げな笑みを浮かべた。
「ありがとうよ。佐吉のやつを信じてくれるお人がいるってだけで、無性にありがてえ。なあ、先生。佐吉は目を覚まさないかもしれねえと言ったな。だが、佐吉がもし目を覚ましたら、俺にまっさきに教えてくれ」
いつのまにか、丑松はしゃんと背筋を伸ばし、数馬の両目を見据える。
「義賊だなんだともてはやされても、盗っ人は盗っ人。押し込みが佐吉の仕業じゃねえにしても、これまでに盗んだ金は十両をくだらねえはずだ。目を覚まし、命をとりとめても、死罪はまぬがれねえ。だから、そのときは――俺が霞小僧でござい、と奉行所に名乗り出るつもりさ。俺が代わりに死罪になれば、佐吉は助かる」
「それは……」
数馬は、言葉を失った。丑松の言うことは、理解できる。丑松の余命はわずかだ。その命を、我が子として育ててきた佐吉の身代わりとなって、捨てるというのだ。丑松は、それで満足だろう。だが、そのときに、残された佐吉はどう思うだろうか。
(俺とて、一度は自分の信念のために、命を捨てる覚悟で江戸に戻ってきた身だ。丑松さんの気持ちは、痛いほどよくわかる。だが、このまま丑松さんをむざむざと死なせてもいいものか)
人には、その者が望む命の使いかたがある。その意志を、覚悟を、尊重しなくてはならない。だが、本当にそれでいいのか。数馬は重い足取りで養生所へと戻りつつ、帰り際に丑松から託された佐吉への言伝を反芻する。逡巡するばかりで、答えは定まらない。
(俺は、こういうことにかけては、からきし駄目だな。ゆきさんにも相談しよう)
数馬がそう心に決めたとき――
「おい、聞いたか。また養生所が襲われたってよ」
「なんだって、朝っぱらから物騒だねえ」
と、誰かが話す声が聞こえ、数馬は全身の血の気が引くのを感じた。




