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表の顔と裏の顔

 番屋に行くと、犠牲者たちの遺体が(むしろ)の上に並べられていた。医者殺しの一件で養生所に来たことがある、鵜木(うのき)という定町廻りの同心が、遺体の傍らにしゃがみ込んでひとりひとりの刀傷をあらためている。


「鵜木の旦那、養生所の先生がたが、仏の検分を手伝ってくださるそうで」


 巳之吉親分の声に、鵜木様は顔を上げた。善良な商家を襲った惨事に憤っているのか、険しい顔だ。


「ああ、乾殿とゆき殿か。すまぬな。そなたたちが手伝ってくれるなら、心強い」


 数馬さんと私は、鵜木様に軽く一礼をして、遺体を見させてもらう。


 どの遺体も、深々と斬りつけられた傷がある。二十代と思しき女性――これが多分、おかみだろう。心の臓への一突きが致命傷になっている。正面から背部へと突き抜ける、深い傷だ。この傷口は絶対に匕首ではない。もっと刃渡りが長い凶器だ。刺し傷には乱れがない。刀身に反りのある刀だと、もう少し縦長の傷になる。直刃(すぐは)の刀か、手槍にやられたか。


 番頭らしき風体の男は、背中を深く切り裂かれている。肩口から腰まで、袈裟斬りだ。刀身が短いと、これだけ深く、長く斬りつけるには、よほどの膂力が必要だ。普通に考えれば、定寸の大刀を使ったんだろうな。一太刀目が致命傷となっているから、そこそこ殺しに慣れている奴の仕業ってとこか。


 日高屋の主だ、と鵜木様が指し示した骸は、六回斬りつけられており、(うなじ)への一撃が致命傷だろう。無駄な斬撃が多いし、一太刀が浅い。これは、番頭を殺めた下手人とは別人の仕業だ。


 ほかの遺体も傷を確認し終わり、私は顔を上げた。


「鵜木様、下手人はおそらく三人です。得物は、一人は直刀か手槍、一人は大刀。この二人は、まあまあの遣い手でしょう。もう一人の得物はなんとも言えませんが、殺しには慣れていない(やから)の仕業かと」

 

 私が話す内容を、書記の役人がサラサラと書き留める。その様子を見ながら、前世でのささやかな疑問が脳裡によみがえる。桜吹雪の町奉行様が主役の某番組って、お白洲で桜の彫り物を悪人どもに見せつけて啖呵を切っている間もずっと、書記が筆を動かし続けているんだよね。あれ、『この桜吹雪が……』のくだりを、一語一句書き留めている……のかなあ。うむむ。


 私がそんな碌でもないことを考えているとは露知らず、鵜木様は実直そのものといった顔に、安堵の色を浮かべた。


「かたじけない。ゆき殿の見立てなら、間違いなかろう。いや、本当に助かり申した」


 定町廻りの同心なら、たいていは江戸生まれ、江戸育ちのはずだ。江戸は陰謀渦巻く跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)の町だが、表向きは治安がいい。辻斬りや、やくざ者の刃傷沙汰などはあれど、真剣での斬りあいを町方が目にすることは稀だ。江戸の町で五本の指に入る坂之上の道場でも、真剣での立ち合いを経験したことがある者はわずかだと聞く。だから、こういった金創――刀傷の検分には、私のように剣術の心得がある金創医がうってつけだろう。まあ、これからも、いろいろな事件に首をつっこめるかもね。


「鵜木様、これを本当に霞小僧が?」


 数馬さんが尋ねると、鵜木様は少し困ったような表情で答えた。


「いや、それは拙者にもわからん。ただ、これまでの霞小僧の仕事ぶりからすると、まるで別人の仕業であることは、我らも十分にわかっておる。この一件、慎重にあたらねばなるまいな」


 ひととおりの検分が終わり、数馬さんとともに番屋を後にした。


「鵜木様は、真面目そうなお人だね。ああいう定町廻りばかりなら、いいのだけれど」


 養生所に戻る途中、あたりに人がいないのを見計らって、数馬さんに話しかける。


「ゆきさん、鵜木という男を信用しすぎるのは、禁物だぞ」


「ご、ごめん」


 数馬さんの声音は、少し硬い。数馬さんらしからぬ、咎めるような口調に、思わず謝ってしまう。私の謝罪を聞いた数馬さんは、しまった、という表情になる。


「すまない。俺のことを、疑い深い、嫌な奴と思うかもしれないが……こういう性分なんだ」


「ううん、騙されやすい性質(たち)なのは、自分でもわかっているから……心配してくれているんだよね。ありがとう、数馬さん」


「ああ」


 数馬さんは、少しほっとしたように頷いた。数馬さんとて、元は優しい、お人好しだ。まだ短い付き合いだけれども、言動の端々から、それがわかる。信じられる相手のいない長年の逃避行が、数馬さんを変えた。かたや私は、といえば、ずっと信頼できる人たちに囲まれて育ったから、どうしても甘さを捨てきれない。里を離れて暮らすうえで、直さなけりゃいけないところさ。うん、わかってるよ。


「ねえ、数馬さん。ああいう、まっすぐで義侠心の強いお役人がいたら嬉しいなあ、って思ってしまう。もしかすると、まやかしかもしれないけれど」


 歩きながら、とりとめもなく話を続ける。


「でもね、もし鵜木様が見た目どおりの、まっすぐな人だとしても、信じる物が違えば、敵になることもある。仕える相手で、敵にもなる。それは、わかっているよ」


 まっすぐであればこそ、その人が信じる正義を守るために、なんでもやりかねない――そういう危うさを持つ人間が、世の中には確かにいる。


 それに、数馬さんや私とて、つい先日、薬事奉行の黒田を斬ったばかりだ。弥助さんによると、予想どおり黒田は病死と発表され、黒田の嫡子が家を継いだそうだ。表向きは波風たたずにことが済んだし、医者殺しの一件も解決した。だが、私たちも大きな声ではいえない真似をしでかしていることには、変わりない。いつ、捕縛されてもおかしくはない。十分、気をつけなきゃね。


 その晩、数馬さんが自分の部屋を抜け出す気配で目が覚めた。また、なにかの手掛かりを求めて、夜の町を駆けているのだろう。だいぶ気心もしれていたけれども、数馬さんが江戸に戻ってきた目的は、まだ聞いていない。九年前、数馬さんの仲間が村上主膳の手先によって皆殺しにあったことに関わるのは、間違いがなさそうだけれども。


 いつかは、私にも話してくれると言っていたし、死ぬつもりはないと言ってくれた。だから、私はここで待つ。いや、でもね、無事を祈って待つのって、ものすごく(しょう)に合わないんだよな。追いかけて、なにかあったら手助けできたほうが、こっちも安心なんだよ。でも、それじゃ、数馬さんを信用していないことになっちゃうから、ここはじっと我慢だ。


 そんなことを考えながら、私は再び眠りについた。


 私が目を覚ましたのは、それから一刻くらい経った頃だろうか。荒い息遣いや呻き声が、耳に飛び込む。


――数馬さんじゃない


 気配を悟られぬように飛び起きて、愛刀を持つ。


「ゆきさん、起きているか?」


 数馬さんの呼ぶ声に、安堵する。どうやら、数馬さんが誰かを連れ帰ったらしい。


「うん。数馬さん、誰といるの?」


 その問いには答えず、数馬さんは引き戸を開けて、顔を覗かせた。戸の開きが狭くてよく見えないけれども、誰かをおぶっている。


「ゆきさん、養生所の門のあたりを見てきちゃくれないか。俺も十分に注意したが、誰かにつけられているかもしれん」


「わかった」


 愛刀を手に、駆け出す。


 数馬さんは、いつもならば薬草園の奥の塀を飛び越えて出入りしている。だが、この男を背負ったまま、塀を飛び越えるのは無理だ。養生所の正面から、戻ってきたのだろう。


 門の内側で地面に耳をあてる。誰かが走り去る気配はない。そっと門を開けて、あたりを探る。大丈夫、潜んでいる奴もいなさそうだ。


 養生所の建屋に戻ると、数馬さんが大部屋に布団を敷き、連れてきた男を寝かせようとしているところだった。


 年の頃は三十を少し超えたくらいだろう。日に焼けた顔が苦悶に歪んでいる。左の瞼に、うっすらと刀傷のような切り傷がある。血がにじむ程度だから、おそらく眼球には影響がなかろう。数馬さんが、抱え上げた男を敷き布団の上にそっとおろした瞬間に、男は一際大きな呻き声を上げた。どうやら、痛みが強いようだ。


 男の顔には、なんとなく見覚えがある。往診で行っている患者の家族だ。確か、肺を患っている患者の息子だったっけ。だが、この男の身なりは……濃い藍色の腹かけ、半纏、股引に身を包んでいる。これじゃ、盗っ人装束だな。


「数馬さん、これはいったい……」


「玉木町の西の端あたりを通ったときに、高いところから落ちるような音と、悲鳴が聞こえてな。様子を見に行くと、この男が倒れていたんだ。様子からすると盗っ人らしいから、そのまま捨ておこうかと思ったんだが……」


 数馬さんは、手早く痛み止めの薬を用意し始める。


「倒れているやつの顔を見たら、往診でみている、丑松さんの倅の佐吉さんだったのさ。近所でも評判の孝行息子で、俺がみても人柄のいい男だ。何か事情があるのだろう、と思い、連れて帰ってきたんだ」


 高所からの墜落、か。


 頸動脈の拍動は、しっかり触れる。脈は少し早いが、問題になるレベルではないだろう。大出血があったら、血圧が下がって脈が触れなくなるんだ。意識は朦朧としており、後頭部には皮下血腫――いわゆるタンコブがある。頭をぶつけているな。頭の中に出血がなければいいけれど。瞼をこじ開けて、瞳孔の大きさを左右で比較する。頭の中で出血があると、瞳孔の大きさが左右で違ってくるんだけど……よしよし、今のところは左右で同じ寸法だ。痛みのせいか呼吸は早いが、胸を大きく動かしてしっかりと呼吸をしている。手の甲をつねると払いのけるような動きをするし、脚ももぞもぞと動かしているから、脊髄損傷ってわけでもなさそうだ。


 実際のところ、前世から引き継いでいる謎の能力のおかげで、診た相手の骨や神経のどこらへんが損傷しているかは何となくわかる。まあ、脳や内臓に何かあってもわからないけど。だが、骨や神経にしても、あくまでもなんとなく(・・・・・)、だ。確実に診断し、的確な治療を行うためには、こういった診察がとても重要だ。


「佐吉さん、どこを怪我しているか、今から診るよ。着物を脱がすね。いいかい」


 そういいながら、佐吉さんの帯を解き、半纏をはだけ、腹かけをめくりあげる。股引を脱がせようとすると、痛みで一際大きな声をあげた。やっぱり、予想どおりかなあ。


「佐吉さん、ちょっと痛いかもよ」


 佐吉さんの骨盤――俗に腰骨(こしぼね)と言われる部分を両の(たなごころ)で左右から挟み込み、そっと圧迫する。本来、人が掌で押したくらいではびくともしないはずの骨盤が、少したわむ感触がある。それと同時に、佐吉さんが声にならぬ悲鳴を上げる。


「どうだい、ゆきさん」


 私の傍らで、片立膝をつき見守っていた数馬さんが、心配そうな面持ちで尋ねる。


「これは、腰骨が折れちまってるよ。触ったけれども、骨がぐらぐらだ。落っこちたときに、左の腰を強くぶつけたせいだろうな。見た目は派手に壊れていないけれど、これは命に関わる怪我だよ」


 俗にいう腰骨の骨折、つまり骨盤骨折ってやつだ。骨盤骨折といっても、いろいろだ。しばらく安静にしていれば治るレベルのやつから、ほっとくと体内で大出血を起こして命に係わるものもある。佐吉さんの場合は、骨がぐらぐらだから、後者の可能性がある。


 とはいっても、所詮、できる治療には限界がある。だって、江戸時代だもん。


「数馬さん、この人の腰を二寸ほど持ち上げてもらえるかな」


「こうかい?」


 数馬さんが腰を持ち上げてくれている間に、佐助さんの太ももの付け根の下あたりに、横に長いさらしを敷く。


「よし、おろして」


 さらしの両端を佐吉さんの体の前で交差させて、股の前に結び目が来るようにぎゅっと縛る。これでよし、と。


「こうやって縛っておくと、折れた腰の骨がちょっとだけ固定されて、血が出にくくなるんだ。まあ、駄目なときは駄目だけど」


 現代では、シーツラッピングと呼んでいる方法だ。不安定な骨盤骨折に対する応急処置として使われる。


「そうか、こういう治療は初めてみるよ。勉強になった。ありがとう……あと、すまない」


「え、なにが?」


 突然、私に向かって頭を下げる数馬さんを見て、何のことだかわからずに呆ける。いや、別に謝られるようなことは何も……


「どうみても、佐吉さんのこの身なりは、盗っ人装束だ。それに左目を誰かに斬られている。盗っ人仲間の内輪もめかもしれん。俺が佐吉さんを連れ帰ってきたことで、もしかすると町方や盗っ人仲間がこの養生所に目をつけるかもしれない」


――なんだ、そこか。私はくすりと笑った。数馬さんてば、人一倍用心深いくせに、怪我をして動けない佐吉さんを見て放っておけなかったんだな。本当に超のつくお人好しだよ、この人は。


「大丈夫だよ、数馬さん。降りかかる火の粉は振り払えばいい。町方に目をつけられるのは御免こうむりたいけど、怪我している佐吉さんが養生所の前で倒れていた、で通そうよ。どうせ聞き込みに来るのは巳之吉親分だろうし、大怪我で動かせません、と言えば無理やりは連れて行かないよね」


 巳之吉親分は話がわかる人だし、鵜木様のおぼえもいいようだ。ある程度のことは何とでもなるさ。でも、早川さんの乱心事件といい、この間の医者殺しの件といい、こんどの佐吉さんの件といい、江戸ってほんと、事件が多いなあ。


「ねえ、数馬さん」


「ん? なんだい」


「江戸って、本当に揉め事が多いね。江戸に来てからまだ半月だけど、こんなに事件が多いなんて、思ってもいなかったよ」


 数馬さんが、驚いたように目を見開く。んん? 私、なにか変なこと言ったっけ。私がきょとんとしていると、数馬さんは笑いをこらえきれず、ぷっと噴き出した。


「いや、俺だって養生所に戻って一年になるが、こんな事件は一回もなかったぞ。そればかりか、隠密廻りをしていた十年前ですら、養生所にいて事件に巻き込まれるなんてことは金輪際、なかったよ」


 そう言い切り、数馬さんは破顔する。


「ゆきさんは、よほど揉めごとに好かれているんだな」


 な、なんだってえ? つまり、私の引きが強いってことですかい。うわ、なんてこった。


「でも、こういうのも悪くない。ずっと忘れていたが、仲間と共に剣を振るうのは悪くないよ」


 そう言いながら、数馬さんは佐吉さんに痛み止めの薬湯を飲ます。吸い口に口をつけた佐吉さんは、朦朧としつつも薬湯を口に含み、ごくりと飲みこむ。数馬さんは、私の顔を見て朗らかに笑う。


「それに、ゆきさんは強い。安心して背中を任せられる仲間だ。俺はゆきさんと出会えて、本当によかった」


 私のことを仲間、と言ってくれるのか。じんわりと暖かい気持ちが身の内に満ちる。仲間……か。心の中で、その言葉を噛みしめる。まだ、話していない秘密が沢山ある。数馬さんも、私に話していないことがある。それに、まだ出会ってほんの半月だ。でも、医者殺しの一件を経て、すでに運命共同体のような感覚が私の中では育まれている。数馬さんも同じ気持ちでいてくれたんだ。それが、やけに嬉しい。


 それに、数馬さんには、なにか不思議な懐かしさを感じる。この人を裏切りたくない、この人を守りたい、って思うんだよ。なんでだろうな。


 物思いに耽ろうとした瞬間、外から呼びかける声が聞こえた。


「ごめんくだせえ。先生方、いらっしゃいますかい?」


 この声は、巳之吉親分だ。数馬さんと顔を見合わせる。佐吉さんがここにいることを、さっそく嗅ぎつけたんだろうか。それにしちゃ、ちょいと早いけど。


「ああ、お二人ともいらっしゃいやしたか。とんだ夜分にすいやせん」


 診療室を覗き込んだ巳之吉親分は、軽く頭を下げた。


「親分、こんな夜に奉行所の使いかい。大変だな。なにかあったのかい?」


「へい、霞小僧のやつが、またお店を襲ったんで。今しがた、油問屋の湊屋で、またもや一家皆殺しの大惨事でさあ」


 そう語る巳之吉親分は、苦虫を噛みつぶしたような顔だ。


「え、今夜もか」


 数馬さんも驚きを隠せない。


「過去に凶悪な盗賊が立て続けに事件を起こしたことはあるが、昨日の今日、というのは聞いたことがないな」


「へえ、あっしもです。若先生も知ってのとおり、うちは親の代から十手をお預かりしている身だ。あっしも、ガキのころから町方の旦那がたの使いっ走りなんぞをやっておりやしたが、二日続いての押し込みなんざ、聞いたことがねえ」


 霞小僧は初代も二代目も、盗まれたお店の者が気がつかぬうちに、金を盗み取る。いわゆる、きれいな盗みの名人だ。こういう盗みには、入念な下調べが必要だ。それこそ、この前の医者殺しの一件で、私が黒田の屋敷に何度も忍び込んだように。そういった『芸風』の持ち主が、急に手管を変えるとも思えない。


「それで、霞小僧の仕業に間違いがないのかい?」


 私と同じ疑問を持ったであろう数馬さんの問いに、巳之吉親分もあらかじめ予想していた風に答える。


「そこですがね、今回も霞小僧参上、の書きつけがありやしたぜ。だが、湊屋といえば、あこぎな商売とは無縁の、地道で堅実な商いで通っているお(たな)ですぜ。このヤマも、霞小僧を騙る偽者の仕業って線もあると、鵜木の旦那も仰せだ。それはそうと、何か変わったことはなかったですかい?」


と訊きながら、親分さんの視線はしかりと佐吉さんに向いている。ありゃ、やっぱり見つかっちゃったか。まあ、隠す気もないけれどね。


「つい四半刻ほど前に、養生所の前で呻き声がしたので様子を見に行ったら、その男が倒れていたんだ。うちで診ている丑松さんという患者の(せがれ)で、佐吉という名前だ。やたらに痛がるので、いま、ゆきさんが治療をしているところさ」


 さきほど打ち合わせをしたとおり、数馬さんがすらすらと説明する。ううむ、さすが元・公儀隠密。


「親分さん、この佐吉さんて人、腰の骨がひどく折れていて、ここから動かした途端に腰の骨からの血が止まらなくなって、そのまま死んでしまうかもしれません。頭もぶつけたせいか、目も開けず口もきけません。目を離せない容体です」


 数馬さんほど自然に言えたかどうかはわからないけれど……どうやら巳之吉親分は、私たちの言うことを信じてくれたようだ。


「どれ、おゆき先生、ちょっとその野郎の面を拝ませてもらってもいいですかい?」


 巳之吉親分は、診療室の板の間にあがり、片膝をついて佐吉さんの顔を覗き込んだ。


「確かにこれは、丑松さんとこの佐吉だ。丑松さんは真面目一徹の職人だったし、佐吉も悪い噂は一切きかねえ。酒も飲まずに働き、親父をしっかり養っているってえ評判の孝行息子じゃえねえか」


 巳之吉親分は、左目の刀傷に気がつく。


「これは刀傷ですかい?」


 私が頷くと、巳之吉親分は腕を組んで思案顔だ。


「腰の骨を折ったとあっちゃ、どうせ高いところから落っこちでもしやがったか。湊屋が襲われたのは、つい先ほどだ。しかも、佐吉が刀で斬りつけられているときたもんだ」


 独り言のように言ったあと、巳之吉親分は私の顔を見た。

 

「これはただの、あっしの勘ですがね、佐吉は、あんな外道のような真似をする連中とはつるまねえ筈だ。だが、佐吉は何かを見たに違いねえ。この男は、今は死なせちゃならねえ。あの外道どもをお縄にする、大事な証人だ。おゆき先生、お願えだ、佐吉を助けてやっちゃくれませんかね」


 熱を帯びた眼差しの巳之吉親分は、つぶやくように言い添えた。


「もしかすると、この佐吉が、本物の霞小僧かもしれねえ」


 そこまでは考えつかなかった。隣を見ると、数馬さんも不思議そうな顔をしている。


「親分、どうしてそう思うんだい?」


 巳之吉親分は、にやりと笑った。


「さっきも言ったとおり、ただのあっしの勘でさあ。こんな仕事をずっとやっていると、そこらへんの勘働きが冴えてくるんで。人間には表の顔も、裏の顔もある。そうでしょう、若先生」


 巳之吉親分は、数馬さんの眼をじっと見た。巳之吉親分は、数馬さんとは十年来の付き合いだ。九年前に数馬さんが突然江戸から消えたことについて詮索もしないし、数馬さんが実は剣の達人だということを知った上で、それを奉行所の役人には告げずにいてくれている。


 数馬さんは苦笑した。


「そうだな。巳之吉親分には、かなわないな」


 二人のやりとりを聞きながら、思う。本物の霞小僧と、偽物の霞小僧か。巳之吉親分の言うとおり、立て続けに善良な商人を襲い、一家や使用人を皆殺しにした凶行は見過ごせない。だが、佐吉さんを助けられるかどうかは、また別問題だ。


「親分さん、この佐吉さんって人、助かるかどうかは私にもわからない。もしかすると、目を覚まさないまま事切れるかもしれない。やるだけはやってみるけれど……」


 自信がこれっぽっちもない私の声音に、巳之吉親分は申し訳なさげだ。


「すまねえ、おゆき先生。そこを何とか。いや、無茶を言っているのは承知だ。俺と同じ長屋に住んでいた火消しの末吉って野郎も、火事場で屋根から落ちて、腰が痛え、腰が痛えと呻いている間に、ぽっくり逝っちまった。だが、こいつは大事な生き証人だ。どうしても生き延びて貰いてえ」


 そう言うと、巳之吉親分はやおら立ち上がった。


「つい長居しちまって申し訳ありやせん。また、朝になったら佐吉の野郎の様子を見に来ますぜ。それと、佐吉がここにいることは、ご内密に願いやす。佐吉を狙って、賊が押し入るかもしれねえ。それじゃ、あっしはこれで」


 巳之吉親分が立ち去ったあと、数馬さんはしげしげと佐吉さんの顔を覗き込む。


「よく寝ているな。痛み止めが効いたんだろう。目が覚めるといいが」


 呼吸は規則正しく、脈もしっかりと触れる。もう一度、両の瞼をこじ開けて、瞳孔の寸法が左右で同じであることを確認する。とりあえず、全身の状態としては、今のところ落ち着いているな。


「私は、朝までここで眠ることにするよ。佐吉さんの容体が急に悪くなるかもしれないから」


 数馬さんは頷いた。


「佐吉さんを狙って、賊が押し入るかもしれない。俺もここにいることにするよ」


 そう言って、数馬さんは板の間にごろりと横になった。私も、同じように横になる。秋の気配を感じるとはいえ、まだ夜も暑いくらいだ。上掛けなしで寝ても、寒くないぞ。


 横になったまま、数馬さんが話しかけてくる。


「巳之吉親分は、鵜木って同心に、佐吉さんが養生所にいることを知らせるだろう。それと、佐吉の親父さん――丑松さんにも、これから聞き込みにいくはずだ。まあ、佐吉が二代目霞小僧って疑うなら、巳之吉親分はきっと、丑松さんのことも初代じゃないかって疑っているだろう。だが、親分なら今の段階で、無体な真似はしないはずだ」


「うん……」


 無体な真似ってのは、番屋に連れて行って責め苦三昧、みたいなことか。ううっ、ぞっとしないなあ。まあ、いま、町方が躍起になって追っているのは、凶悪なほうの霞小僧だ。数馬さんのいう通り、丑松さんがそういう目にあうことはないか。


「佐吉の様子がわからず、丑松さんが心配するだろうから、俺も朝いちで丑松さんのところに行ってくるとするよ」


 うん、て返事をしようと思ったけれど、半分寝かけているから、声がでないぞ。寝ているときに、気配を感じてすぐに飛び起きることはできるんだけど、こういう寝入りばなの中途半端な状態は、どっちつかずだ。


 くすり、と数馬さんが笑っているのを感じる。


「寝ちまったかな。おやすみ、ゆきさん」


 なんだか、すごく優しい声だなあ。お休み、数馬さん。

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