閑話 とんだ色男
仕事道具を手に養生所から帰る道すがら、弥助は何者かの視線を感じていた。
(見張られているな。おおかた、大番屋にしょっぴかれた侍を殺めた、忍びの一味だろうさ)
そうあたりをつけ、弥助は何食わぬ顔をして往来を歩く。
表向きの顔は、『よろず直し屋』の弥助。敢えて西町奉行所と目の鼻の先に住まい、実直な職人を装う。江戸にきて早々に、職人仲間の伝手で、巳之吉親分と懇意になった。実のところをいうと、
(このあたりを仕切っている、十手持ちの巳之吉ってえ男は、人望もあるし顔も広い。顔なじみになって損なことはあるめえ)
と思い、弥助のほうからそれとなく、仲間の職人に口利きを頼んだのだ。
実際に顔を突き合わせてみると、巳之吉は頭が切れるし気風もいい。もちろん、弥助としては己の正体を知られるわけにはいかないが、仕事で付き合うには、申し分のない相手だった。しかも、大っぴらには口にはしないものの、この巳之吉という男は、村上主膳のやりくちに不満を抱いているようだった。そういった事情もあり、弥助は巳之吉のことをなかなかに気に入っている。
父親譲りの手先の器用さと、真面目な仕事ぶりとを巳之吉親分に買われ、最近は奉行所絡みの、小口の仕事も頼まれるようになった。このたびの養生所の修繕も、そういった流れで引き受けることになったのだ。
(おゆき坊と大っぴらにつなぎをつけられるようになったのはいいが、予想どおり、面倒な連中までついてきやがったぜ)
弥助としては、自分のあとをつけている相手を撒いたり返り討ちにしたり、は朝飯前だ。だが、敵の仲間がどれくらいいるかがわからない状況では、下手に動くのは得策ではない。相手の気が済むまであとをつけさせて、『ただの職人が、奉行所からの依頼で養生所に出入りしている』という事実を確認してもらうのがよかろう――そう思った弥助は、まっすぐ長屋には戻らず、巳之吉が女房にやらせている立ち食いの蕎麦屋に向かった。ちょうど昼どきならば、巳之吉が店に寄っているはずだ。
予想どおり、蕎麦屋の店先には巳之吉がいた。
「親分さん、ちょいと隣で失礼いたしやす」
そう挨拶をしつつ弥助は巳之吉の隣に陣取り、おかみに蕎麦きりを頼んだ。弥助のあとから、三十半ばくらいの歳の、職人風の男がやってきて、弥助や巳之吉と少し間をあけて、おかみに蕎麦きりを注文する。
(気配からすると、こいつが俺をつけていた奴か。しゃらくせえ)
そうとも知らず、巳之吉は、弥助に気安く声をかける。
「おう、弥助さんじゃねえか。頼んでいた奉行所の仕事はどうだい」
「へえ、きのう下見をすませて、今朝からさっそく、仕事に入りやした。今日をいれて三日もあれば、終わりまさあ」
巳之吉は、弥助の返事をきき満足気に頷いた。
「あのひでえ有様を、三日で何とかするたあ、さすが弥助さんだ。お前さんに頼んで、正解だったぜ。どれ、養生所の仕事がかたついたら、もう一件、頼みてえ仕事がある。また、ここに寄ってくれ」
「ありがてえ。親分さんには、御礼の言葉もありやせん」
そのあとは、出てきた蕎麦をすすりながら、巳之吉と他愛のない世間話をした。忍びらしき男は、黙って蕎麦をかきこみ、一足先に立ち去った。弥助の思惑どおり、弥助が養生所に出入りしているのは、奉行所の依頼があったからだと、納得したのだろう。
「じゃあ親分さん、あっしはこれで」
そう言い残し、弥助は自分の家に向かった。もう、後をつけられている気配はない。
『よろず直し屋』の看板がかかった我が家に戻り、懐から錣を取り出す。さきほど養生所に行った際に、ゆきから預かったものだ。ゆきが使っている錣は弥助が作ったものだ。軽く、薄く、携帯性に優れ、切れ味もいい。だが、その分、耐久性には難があるため、こまめに目立てをする必要がある。ゆきは一昨日、薬事奉行・黒田の屋敷に忍び込んだ際に、錣を使ったのだという。
(おゆき坊も、もう一人で立派に忍び働きができるようになったか。早えもんだ)
そう感慨にひたりながら、錣の歯を立て直す。
冴木源次郎に伴われ、ゆきが桐生の里に来てから、もう九年の歳月が過ぎた。この九年間、本当にいろいろなことがあった。三次が一族を裏切り、桐生の里は、村上主膳の手の者により三度の襲撃を受けた。そのたびに、一族は一丸となって危機を乗り越えてきた。
(二十四年前、一族のほとんどが忍び狩りで殺されちまってから――俺たち一族は、ひっそりと終ぇを迎えるつもりだった。まさか俺たちのような年寄りが、こんな忍び働きをもう一度することになるたぁ、思ってもいなかったぜ)
一族の若手が皆殺しにあい、一族に残された跡継ぎは、孫の世代にあたる源太だけだった。当然のように、一族の皆は源太に忍びの技や秘術を教え込もうとした。厳しい修行で身につけた技は、自分たちが生きてきた証だ。それを誰かに伝えたい、伝えなくてはならない、と、皆、躍起になった。そして――それに、少年だった源太は反発した。
その様子を、当時の弥助は、どこかあきらめにも似た、冷めた気持ちで眺めていた。
(源太じゃなくても、ああ寄ってたかって責めたてられちゃ、嫌気がさすってもんだぜ。それに、いまさら源太が忍びの術や秘術を身に着けたところで、源太一人だけいても、どうせ一族はお終ぇだ。運がよけりゃ、新八や彦佐のとっつぁんのように、いい主に仕えることもできるだろうが、そうでなければ、たかが忍び、と使い捨てにされるのがオチさ)
だが、源太はゆきに出会ってから、忍びとして生きる道を自ら選んだ。そして、それまで横道に逸れていた刻を取り戻すかのように、一心に修行に打ち込み、今では里の年長者たちも認める実力者だ。実戦経験は、里の手練れたちには遠く及ばないが、これから経験を積めばいいだけのことだ。それに、お婆や新八の後継者として、秘術の腕もあげつつある。
(どれもこれも、おゆき坊が来てからだ。みんな、いいほうに転がっているぜ。本当に――不思議な子さ)
源太やゆきに、忍びの術を仕込むことで、里の年長者たちは気持ちの張りを取り戻した。弥助もまた、例外ではない。なにしろ、この二人は、どんな厳しい修行にも音をあげずに食いついてくるし、覚えも早い。弟子としては、理想的だ。
その気持ちの張りがあってこそ、長をはじめとする一族の皆は、村上主膳の企みに対して、徹底的に抗戦する決意を固めたのである。
ある日、源太やゆきが修行でいないときをみはからって、長が里の者達を集めて寄合を開いた。
「源太が一族のひとりとして生きるならば、われら老骨は、その居場所を守ってやらねばなるまい。源太が妻を娶り子をなしたとして、その子たちが忍びになるとは限らぬが――どうせ我らも老い先短い命よ。それくらいの夢を見て、最後の忍び働きをするのも悪くはあるまい」
という長の言葉に、反対する者はひとりもいなかった。
(今の源太は、俺たち年寄りが勝手にそんな期待をかけようが、まったく重荷に思っちゃいねえ。まったく、でっけぇ男になりやがった)
そう感慨にふけりながら、弥助は規則正しく手を動かし、錣の歯を立て直す。
(それにしても、今日はことのほか、愉快な気分になったぜ)
養生所での出来事を思い出し、弥助は顔をわずかにほころばせた。
「弥助、邪魔するぜ」
そう声をかけて、長屋の戸口をくぐったのは、小平太だった。小平太は、弥助の顔を一目見るなり、不思議そうな顔をした。
「なんでえ、妙に機嫌がいいじゃねえか。何かいいことでもあったのかい」
「ああ、小平太さん。さっき、仕事で養生所に行ってきたんだがな。おゆき坊のやつ、あの数馬って医者に、惚れていると思うかい?」
弥助の問いに、小平太は腕を組んで首をひねる。
「そういうことかい。いや、源太と同じで、おゆき坊も相当の奥手だからな。今のところは数馬の野郎のやることなすことが危なっかしくて、おゆき坊からすると放っておけねぇってところだろうさ。俺の見立てじゃ、おゆき坊のほうは、まだ好いた惚れたまではいっちゃいねえよ」
「ふうん、そういうもんかね」
「ああ、おゆき坊は、お前も知ってのとおり、情の深ぇ子だからな。数馬が今にも死にそうな勢いなのが、心配でなんねえってとこよ。だけど、どうした、藪から棒に」
男女に仲に限らず、こういうときの小平太の読みは鋭い。
「いやな、数馬の野郎が、相変わらず青臭ぇもんだから、ついつい、からかいたくなっちまってな。俺が口を開くと、おゆき坊がはらはらしながら、心配そうに数馬を見てたからよ」
「まあ、そうだろうな」
「それで、数馬は数馬で、ときどき、妙に優しげな顔で、おゆき坊のことを見てやがる。これは、ひょっとして、ひょっとすると、と思ってな」
「で、どうした?」
小平太が、身を乗り出す。
「小平太さん、妙な話かと思うかもしれねえが――俺は、なんだか、孫娘を嫁にやるような気持ちになっちまってな。数馬に向かって、おゆき坊を泣かせたらただじゃおかねえ、と啖呵をきっちまった」
実際は啖呵をきったどころか、恫喝に近い調子だったが。小平太は、たまらず噴き出す。
「弥助、そんな若造相手に熱くなるなんざ、お前らしくもねえ。こいつぁ、傑作だ」
外に聞こえるのも憚らず腹を抱えて笑う小平太に、弥助はぽつりと言う。
「やっぱり、あんたもおかしいと思うかい?」
小平太は俄かに真顔になり、首を振った。
「いや、笑ってすまねえ。おかしかねぇよ。俺は元々、女房も子もいねえ。だが、弥助、お前はそうじゃねえ。娘を嫁にだす父親の気持ちっての知っているからな。しかも、相手はガキのときから知っている一族の男じゃねえ、他所の、素性もわからねえ野郎だ。お前が、一言口を出してえ気持ちになるのは当然だろうさ」
小平太は、人の心の機微に敏い。今も、弥助の胸につかえていた想いを、的確に代弁している。弥助は、小平太の言葉に頷いた。
「ああ。俺の倅も、腹にややのいた娘も女房も、二十四年前の忍び狩りで死んじまった。おゆき坊と数馬を見ているとな、俺がずっと忘れていた、娘を持つ親父の気持ちってやつが、胸の内によみがえってきやがる」
小平太は、弥助の話に黙って聞き入る。
「それに、孫娘がいたなら、俺はきっと相手の男に、こうやって凄んでいただろうさ。もう二度と味わうこともねえと思っていた、そういう心持ちになれたってのが、俺は無性に嬉しくてしかたがねえ」
気持ちを噛みしめるような弥助の言葉に、小平太が微笑む。
「そうかい。それで、お前が凄んだあと、数馬はどうしたんでえ」
弥助は今日の養生所での、数馬とのやりとりを思い返し、口元を緩ませた。
「それがな、俺が数馬ににらみを利かせたあと、奴は、こうぬかしやがった――俺はさんざん人を斬ってきた。いつかは、自分が命を落とすだろうという覚悟はできている。だが、俺が死ねばゆきさんは泣くだろう。だから、いつか死ぬその日まで、あがいて、はいつくばって、泥水をすすっても生き延びるってな」
小平太は目を丸くした。
「いや……そりゃ、おゆき坊のために生きます、って聞こえるぜ。とんだ色男だな。野郎、この何日かの間に、そんなにおゆき坊に惚れ込んだのかい」
「俺が言うと、そう聞こえちまうがな。数馬のやつ、まっすぐ射抜くように、俺の目を見つめながら言いやがった。ありゃ、色も欲もねえ。びっくりするくらい、優しくて、性根のまっすぐな男だぜ。青臭えどころの話じゃねえ。よくもまあ、あれで隠密廻りが務まったとも思うが……だが、俺は気に入ったぜ。まあ、信用するには、もう少し見極める必要があるがな」
弥助はそう言いながら、目立てが終わったばかりの錣を光にかざし、仕上がりを確認した。研ぎたての歯が、鈍い光を放つ。
「小平太さん、数馬は黒田を斬るつもりだぜ。おゆき坊も一緒に行くんだとよ。おゆき坊の話じゃ、討ち入りは、おそらく三、四日後だろうって話だ」
小平太はにやりと笑った。
「弥助、俺も、その数馬って野郎の顔を拝みたくなってきたぜ。お手並み拝見、といくか」
「ああ」
老練の忍びふたりは、どこか楽し気な気持ちを胸に、頷きあった。




