舌先で、ぺろっ
養生所が襲われ、数馬さんと私で賊を迎え討った、その夜は――結局、血の臭いでむせかえる診療室で、眠り続ける三好先生を交代で見守りながら、一晩をあかした。
翌朝、明け六つの鐘が鳴る少し前に、三好先生は目を覚ました。
「――ここは?」
身体を起こそうとする三好先生を、数馬さんが押しとどめる。
「先生、まだ横になっていてください。先生は、昨日の夕方、赤松の武家地を歩いているときに、頭巾の侍に襲われたんです。どこへ行くんだろう、と、俺とゆきさんの二人で先生の後を追っていたら、先生がその侍に右腕を斬りつけられて――俺も危ないところでしたが、ゆきさんが頭巾の侍を追い払ってくれたんです」
「そう……か……」
三好先生は、目を瞬かせた。まだ、記憶が混乱しているのだろう。
「先生を養生所に連れて帰り、手当をしましたが……九人組の侍に襲われ、養生所の中はめちゃめちゃです。侍は全員、ゆきさんが斬り捨てて、生け捕りにした一人は、番屋に連れていかれました。奉行所の役人の話では、世間を騒がせている医者殺しの仕業だろう、と」
「そうか。私が、医者殺しに狙われたか。数馬も、ゆき殿も、危険な目に合わせてしまった。申し訳ない……」
数馬さんの話を聞いている間に、三好先生は少しずつ頭がはっきりしてきたようだ。
「俺たちのことなら、大丈夫です。怪我ひとつしていませんから。ですが……先生は、あんな時間におひとりで、どこに行こうとされていたんですか?」
数馬さんの問いに、三好先生は、かすれる声で答えた。
「私は……薬事奉行様の配下で、寺本殿という御仁に呼び出されたのだ。実は、以前から、薬草園で採れる薬種をおかみにすべて差し出し、養生所で使う分は薬種問屋から購入せよ、との御老中様直々の御下命があってな」
三好先生は、深いため息をつく。
「薬種の流通を一本に絞ることで、価格の安定をはかり、幕府の財源にするという狙いがあるとはいえ……この養生所が、貧しい町人にも薬を出せるのは、薬種の大半を薬草園で賄えるからだ」
薬種問屋を通すとなれば、今までのような治療はとうていできないだろう。ただでさえ、養生所の台所は火の車だ。隣で三好先生の話に耳を傾けている数馬さんも、難しい顔をしている。
「先日、そのようにおかみに訴えたところ、昨日――数馬もゆき殿もいないときに、寺本殿が養生所に来られてな。私の訴えを薬事奉行様が直々にお聞きになるゆえ、すぐに来るように、との指示を受けたのだ。それが……まさかこのようなことになろうとは」
三好先生は、目を閉じた。貧血がひどいと、疲れやすい。三好先生は、再び眠りに落ち、規則正しい寝息を立て始めた。
数馬さんと顔を見合わせる。
「数馬さん、もしかして殺されたほかの医者も、三好先生のように薬種がらみで?」
「そうとは限らないが、薬事奉行が噛んでいる以上、その可能性はあるな。裏をとれればいいんだが。さて、どうするか……」
調べる先は、薬事奉行の屋敷、出入りの薬種問屋、殺された医者の家ってところか。殺された医者にかかっていた患者が、どういう薬を出されていたかってことも、わかれば何かの手掛かりになるかもしれない。
だが、私と数馬さんじゃ、いかにも人手が足りない。村上主膳が関わっているとはいえ、小平太さんや弥助さんとは別行動をとることになっているから、巻き込むわけにもいかないしな。うーむ。
「ごめんくだせえ。先生がた、朝からすまねえが」
すっかり聞きなれた声がして、開け放たれた戸口から巳之吉親分が顔を覗かせた。
「若先生、三好先生の具合はどうですかい?」
「ああ、血を多く失ったせいで、疲れて寝ておられるよ。命に別状はない。このまま養生して、体力の回復につとめれば大丈夫だ。ゆきさんの見立てによると、斬られた右手は、やや不自由になってしまうだろうが」
数馬さんの返事を聞き、巳之吉親分は安堵の表情を浮かべた。
「そうですかい。利き手が動かねえと不便には違いねえが、あれだけの大立ち回りのあとだ。命あっての物種でさあ」
巳之吉親分はそう言うと、懐から小さな包みを取り出した。
「それと、若先生。昨日、お願いした件で――杉原先生が早川に出していた薬が、これですぜ。早川の御新造さんによると、最近、気分が塞ぎがちで疲れやすいってんで、二十日ほど前に杉原先生にかかり、この薬を出されたそうで」
どれ、と数馬さんは巳之吉親分から薬を受け取り、包みを開く。薄い朽葉色の細かい粉末からは、風味の落ちた干し椎茸のような香りが、ほのかにただよう。
うん、こりゃキノコだわ。
数馬さんは指先にちょんと粉末をつけて、舌先でぺろっと舐めた。
「うん、特に混ぜ物もなさそうだ。キノコを使った薬で、間違いないだろう」
――今のぺろっと舐める仕草に、妙に感動したよ。テレビ時代劇でよく見る
ぺろっ 「こりゃあ、阿片だ」
ぺろっ 「こりゃ、猛毒だぜ」
ていうアレを、ここで目にするとは……いやはや。実に絵になる。絵になるぞ。
私の感動をよそに、数馬さんは巳之吉親分に説明を続ける。
「鬱々とした気分を軽くして、活力を取り戻す目的ならば、杉原先生が処方したこの量で、間違いはないだろう。けして、先日の早川のように、中毒で錯乱するようなことはないはずだが」
それを聞いた巳之吉親分は、なんともいえぬ複雑な表情をした。
「それがね、若先生。御新造さんが言うには、最初は早川も杉原先生に言われたとおりの量で飲んでいたらしいんですが……こりゃよく効くってんで、早川の野郎、最近になって、一度に何倍もの量を飲み出したって話ですぜ」
うわ、なんてこった。過量内服によるキノコ中毒か。思わず数馬さんの顔を見ると、数馬さんも渋い顔だ。
「親分、薬ってのは、飲めば飲むほど効くと、誰しも思うものだ。だが、分量次第で、毒は薬にもなるし、そのまた逆も然り、だ。きっと、杉原先生もそのあたりをしっかりと言い含めていたと思うが……まいったなあ」
医師から指示された用法用量をお守りください、ってやつだ。
乱心騒ぎを起こした時間帯からすると、きっと指示された朝晩だけではなく、昼過ぎにも薬を内服したのだろう。結局は、早川の自己責任ということか。なんとも言えぬ後味の悪さに、三人とも黙りこくった。
沈黙を破ったのは、私だ。
「親分さん、この薬を出されている患者がほかにいないか、調べられますか?」
数馬さんが、私の言葉に補足する。
「また、このあたりで乱心騒ぎでも起こった日には、おおごとだからな」
巳之吉親分は、大きく頷いた。
「そりゃ、もっともな話で。よし、すぐにうちの平吉も使って、調べるとしやしょう。あと、養生所の建屋がこんな有様では診療に差し障るだろう、と鵜木様がおっしゃいましてね。奉行所からの手配で、職人が一人来ますんで、使ってやっておくんなせえ。じゃあ、あっしはこれで」
巳之吉親分は、急ぎ足で去っていった。巳之吉親分が快く引き受けてくれたので、数馬さんの顔は心なしか明るい。
「本当は、殺された他の医者がどういう薬をどれだけ出していたかも知りたいが……薬事奉行が関わっている以上、町奉行所は管轄外だ。まずは、攻めやすいところから巳之吉親分の手を借りるとしようか」
「そうですね。親分さんの手を借りれれば、調べも早い。助かります。それにしても、町奉行所が職人を手配してくれるなんて。あの鵜木様って同心、本当にいい人ですね」
私の言葉に、数馬さんは苦笑した。
「ゆきさん、あまり鵜木殿に気を許すのも、危ないぞ。人を信じやすいってのは、ゆきさんらしいが。巳之吉親分は古い付き合いだから俺も人となりをよく知っているが、鵜木殿のことは俺もよく知らないからな。村上にあだなすと思われた時点で、俺たちもいつお縄になってもおかしくないぞ」
うむむ。信じやすいというか、騙されやすいのは、自分でも自覚している。ちょっと親切にされると、ころっと信じちゃいそうになるもんな。しかし、出会ってからまだ三日目なのに、数馬さんは痛いところをついてくるよ。さすが元・公儀隠密。
それはさておき、建屋や建具の修繕は、奉行所が手配してくれた職人が来るのを待つとして、まずは医者殺しや薬種絡みのからくりを暴くための算段と、三好先生を守る手筈を決めなきゃ。
だが、これが中々に頭が痛い。午後は数馬さんが往診で、私は先生を守るために養生所で留守番、ということなってしまい、身動きがとれない。せめて、もう一人、人手があれば――
そのとき、聞き覚えのある声が戸口から聞こえた。
「ゆき殿、邪魔するぞ」
秋月先生である。
養生所が侍の一味に襲われた、という報せは、瓦版でいち早く江戸の町に知れ渡った。それを小耳にはさんだ秋月先生が、様子を見に来てくれたのだ。
「うちの門弟を治療していただいた礼もあることだし、三好先生は拙宅でお預かりしよう。ゆき殿がいくら腕が立つとはいえ、一人で三好先生を四六時中守るのは、骨が折れるだろう。拙宅なら拙者の門弟もいるし、助けを借りられそうな剣客なら、幾人か心当たりがある。任せては貰えぬか」
と秋月先生が提案してくれた。
さすがにそれは申し訳ないので、一度は断ろうとも思ったが、秋月先生は、父が「なかなかの腕前」と評した剣客だ。ここ一番で頼らないと、逆に失礼にあたる。
それに、
「秋月先生の道場には、幕閣の子弟も出入りしているときく。敵も、そこならば手を出しにくいだろう」
と数馬さんからも耳打ちされ、ありがたく、秋月先生のお言葉に甘えることにした。
「それでは、拙者は今から一度道場に戻るぞ。人手を集めて、すぐに三好先生のお迎えにあがろう」
そう言って、がははという豪快な笑いとともに、秋月先生は去っていった。
困ったときには、助け船が入る。なかなか素敵な日じゃないか。数馬さんと顔を見合わせ――二人とも、思わず顔がほころぶ。
だが、素敵なできごとはまだまだ続く。
「ごめんくだせえ」
戸口から聞こえる聞きなれた声に、私は思わず飛び上がった。
え? この声って……
聞き間違える筈もない。弥助さんの声だ。でも――弥助さんと小平太さんは、私とは別々に行動することになっているのに、なぜ?
「ああ、戸は壊されているから、どうぞ入ってくれ」
数馬さんが返事をすると、壊れた戸口から道具箱を担いだ弥助さんが現れた。
「定町廻りの鵜木様からご依頼いただきやして、この養生所の建屋の修理に参りやした。お奉行所の近くで、よろず直し屋なんぞを営んでおりやす、弥助ってもんです。先生、どうぞお見知りおきを」
弥助さんは、数馬さんに向かって愛想よく挨拶をした。普段は寡黙でぶっきらぼうな印象の弥助さんも、時と場合によっては、こういった役割を演じることができる。
うーむ、紛れもなく弥助さんだ。これはいったい、どういう……
弥助さんの登場は、まったくの想定外である。いったい、なんのために? でも、数馬さんがいるから、弥助さんには聞けない。私は目立って厄介ごとを引き寄せるのが役目だし、弥助さんたちは生粋の忍び仕事のために江戸にいるんだもん。ここは、まったくの他人の振りをするところですよね? そうですよね、弥助さん?
混乱した思考を整理できないままの私に向かって、弥助さんが話しかけてきた。
「おゆき坊、養生所での仕事はどうだい?」
――えっ?
弥助さんの台詞に反応できず、凍りつく。そんな私の様子と、弥助さんの顔を見比べながら、数馬さんが興味深そうに問う。
「弥助さんとゆきさんは、知り合いかい?」
「ええ、このおゆきさんは、あっしと同じ里の出でね。おゆきさんが、小さい頃からよく知ってまさぁ。里じゃ食っていけねえもんで、こうやってあっしは江戸で食い扶持を稼いでる始末で。へえ。なあ、おゆき坊?」
こちらを見て、にっと笑う弥助さんを見て、私もあわてて頷く。
「う、うん。そうだよ! 江戸に来たら、弥助さんに会いたいなあ、って思ってたんだ。でも、養生所の修理に弥助さんが来るなんてこと、ぜ、全然知らなかったよっ」
あわわ。舌を噛みそうだ。我ながら、明らかに挙動不審だよ……
数馬さんは、いつになく動揺している私を見て、なにか言いたそうな顔をした。だが、数馬さんはふいっと弥助さんのほうを向き、にっこりとほほ笑んだ。
「そうでしたか。ゆきさんが来てくれて、うちは大助かりです。医術も剣術も、おどろくほど腕が確かだ。どのようなところで、ゆきさんのような人が育ったのか、私も興味があります。また、そういった話を弥助さんから伺いたいですね」
明らかにかまをかけている数馬さんの問いに、弥助さんは何食わぬ顔で、
「なに、あっしらの里は、爺婆が田畑を耕すだけの、なんの変哲もない山里でさあ。おゆきさんが江戸で一旗あげたら、それこそ里の誉れってもんです」
と答える。うわあ……自分が探られているみたいで、冷汗が出てきそうだ。
だが、数馬さんはそれ以上のことは聞かなかった。
「なるほど、そうですか。さて……修繕のほうは、何日くらいかかりそうですか?」
弥助さんは、部屋の中を見回した。床も壁も天井も、惨憺たる有様だ。血が大量に付着しているだけではなく、悪臭もただよう。壁には、ところどころ大穴も開いている。診療室の引き戸にも、血飛沫が扇状にずばっと飛び散った痕があり、妙に生々しい。
「ざっと、全部直すのに三日間頂戴すれば、なんとかなりまさあ」
弥助さんの見立てに、数馬さんは目を丸くした。
「たった三日間でいいのかい?」
あらら。よほどびっくりしたのか、数馬さんてば、素の口調に戻ってるよ。
「ええ、午前中は、あっしは家で直し屋の仕事があるんで、昼下がりからの仕事になりやすが、三日もあれば綺麗になりますぜ。じゃあ、今日はこれでいったんお暇して、材料を見繕って明日から始めることといたしやしょう」
帰り際、弥助さんは、私に笑いかけた。
「おゆき坊、江戸のうまい菓子を買っておくから、今度遊びに来な。西町のお奉行所の近くで、『よろず直し屋』の弥助って聞けば、誰か教えてくれるからよ」
「う、うん! 弥助さん、ありがとう!」
「じゃ、あっしはこれで」
弥助さんは、数馬さんに軽く頭を下げて、去っていった。その後ろ姿を見送ったあと、数馬さんは、おもむろに私に声をかける。
「ゆきさん?」
き、来た!
「な、なんでしょう?」
いったい、何を問い詰められるかと身構える私をよそに、数馬さんはぷっと噴き出した。
「い、いや、すまない……あまりにも、ゆきさんが動転しているもんだから、おかしくて、おかしくて……」
笑いを堪えられず、数馬さんは口と腹とを押さえて、身をよじった。ひとしきり大笑いしたあと、数馬さんは目にうっすらと涙を浮かべながら、私のほうへ向き直る。
「いや、大笑いして悪かった。ゆきさんの様子から察するに、どうせあの弥助って人も、ただの直し屋じゃないんだろう?」
その問いには、答えられない。黙り込む私に、数馬さんは続ける。
「いや、答えたくなければいいんだ。でも、弥助さんはきっと、ゆきさんのそういう態度も織り込みずみだろうさ。二人が話しているのを見るかぎり、弥助さんがゆきさんのことをずっと昔から知っているのは、間違いなさそうだしな」
じんわりと、脇の下に汗がにじむ。
「だが、ゆきさんの不自然な態度に比べて、弥助さんの所作や態度は、本当にただの職人しか見えない。きっと、熟練の忍びってところだろう」
うむむ。図星である。どうしよう。数馬さんが直接、弥助さんたちに何かをしでかすってことはなさそうだけれども……何かの拍子に村上主膳の一味に数馬さんが捕まったりしたら……弥助さんのことを敵に教えたりしたら……私のせいで弥助さんや小平太さんたちに危険が及んでしまうかもしれない。私は両の拳をぎゅっと握りしめた。
数馬さんの声音は、穏やかだった。
「ゆきさん。きっとゆきさんも、弥助さんも、何か目的があって、この江戸にいるのだろう。きっと、人に知られたくない事情があるんだろう。大丈夫だよ。それを俺が役人や他の奴らに漏らすなんてことは、しないよ」
数馬さんは私の心配ごとなど、お見通しか。
「いきなり俺のことを信用しろとは、言わない。だが、ゆきさんが俺に話してもいい、と思えるようになったら……その事情ってやつを話してくれないか。もしかすると、力になれることがあるかもしれない」
優しく言いきかせるような口調に、自分の警戒心が緩むのを感じる。数馬さんは――不思議な人だ。私の心に、すっと入ってくる。
「ありがとう……ございます。数馬さんも、わざわざ危険をおかして江戸に戻ってきたのは、なにか訳があるんですよね。それに――数馬さんはきっと、ずっと前から、夜中に養生所を抜け出していますよね。その事情を、いつか教えてもらえる日がくるといいな、って思います」
今後は、数馬さんが驚く番だった。
「確かに、杉原先生が殺された晩に、ゆきさんが俺のあとをつけていたとは聞いたが……なぜ、俺がずっと前から、抜け出していると思ったんだい」
「数馬さんが塀を飛び越えたあたりの地面に、踏み切った痕がいくつも残っていましたから。ここ数日の話ではないと思って」
数馬さんは、こりゃ一本とられたな、といった体で、頭をかいた。
「俺は詰めが甘いな。忍びの技は、ゆきさんのほうが何枚も上手だ。それに、昨夜みた限りでは、剣の腕も俺より上だろう」
いや、忍びの術に関しては、確かに私のほうがずっと上なんだけれども、剣に関してはどうかなあ。ああいう剛剣の遣い手とはやりあったことがないもん。
数馬さんは一瞬黙り込み、真顔になる。
「ゆきさん、俺のことも、いつか話すときが来るだろう。だが、俺がやろうとしていることに、ゆきさんを巻き込みたくないんだ。ゆきさんのことを迷惑だとか、そういうことじゃない。腕前も信用している。今はただ……俺が何をやろうと、見逃してくれないか」
数馬さんも、何か人には言えない理由を抱え込んでいる。それは、きっと他人が立ち入れない領域で……いつになく真摯な瞳に、私はそれ以上の言葉を失った。
「ごめんな、ゆきさん。本当に、ごめん」
ぽつりと漏らす数馬さんに、あわてて手をふる。
「ううん、数馬さん、気にしないでください。でも……あまり抱え込まないで」
数馬さんは、弱弱しく笑った。
「ありがとう。そうだ、ゆきさん、秋月先生が三好先生を迎えにきてくれたら、弥助さんのところに遊びに行っておいで。今日の往診は、それほど時間もかからないし、俺ひとりでやっておくから」
「いいんですか?」
「ああ。弥助さんも、俺がいる前で、わざわざゆきさんを誘ったんだ。よほどなにか、伝えたいことがあるんだろう。それに、巷では養生所が襲われた話でもちきりだろう。ゆきさんが賊を全員斬り捨てたとあっちゃ、弥助さんのところにも気軽に行けなくなるぜ。なにしろ、時の人だからな。行くなら、今日のうちさ」
そうかも……しれない。医者殺しで、瓦版が出るくらいだもん。養生所が襲われたなんてネタは、それこそ江戸っ子が放っておくまい。行動に気をつけなきゃなあ。うーん、くらくらするぜ。
「弥助さんのところに寄りづらくなりそうだったら、明日以降は、弥助さんと養生所で相談するといいさ。なに、そのときには俺は薬草園にでも行って席を外すから。さて、往診の支度でもするかな。ゆきさん、手伝ってくれるかい」
いつものような朗らかな表情に戻った数馬さんを見て、私も少しほっとする。いつか……この人が事情を話してくれる日が来るんだろうか。そうだといいな。
「あ! 数馬さん、お願いしたいことが、ひとつあるんです」
「ん? なんだい」
「今度一手、手合わせをお願いしたいんです。ううん、一手といわず、何度でも立ち合いをお願いしたくて。昨夜、数馬さんの剣を見てびっくりしました。あれほどの剛剣の遣い手を見るのは、初めてです」
数馬さんは、頷いた。
「ああ、そういうことなら、いくらでも。勘定方も中間も助手もいないから、養生所にいるのは俺とゆきさんだけだしな。長屋の前ならば、稽古をしても、外から見られることはないだろう。ゆきさんなら、俺も稽古相手として不足はない」
よかった。引き受けてもらえたぜ。
「ありがとうございます! じゃあ、今日の夕方にでも!」
私の勢いに、数馬さんは苦笑いだ。
「おいおい、お手柔らかに頼むぜ。よし、じゃあ、往診の支度をするか」
往診用の薬を調合し終わったところで、秋月先生が九人の門弟を引き連れて、三好先生を迎えにきた。門弟のなかには、中村さんの姿もあった。
私の顔を見た中村さんは、駆け寄ってきて、深々と頭を下げた。
「ゆき殿、といったか。昨日の、拙者の無礼な振る舞い、ひらにご容赦願いたい」
痛恨の極み、といった口調だ。
「昨夜、養生所が曲者に襲われ、ゆき殿が九人の侍を斬ったときいた。拙者、それほどの剛の者は、秋月先生以外には聞いたことがござらん。真剣での立ち合いすらおぼつかない拙者が、ゆき殿が女子だというだけで、なんと身の程も知らぬことを申してしまったのかと、この身を恥じ入るばかりだ」
「え……あの……」
こういう場合、どう答えればいいんだろう。あたふたと動転する私を見て、秋月先生は愉快そうに笑う。
「ゆき殿、朝から江戸っ子は大騒ぎだぞ。瓦版が飛ぶように売れているようでな」
……や、やっぱり。嫌な予感しかしないぞ。
「これからは、ゆき殿のもとに腕自慢が続々と現れて、手合わせを所望するだろう。俺の道場をいくらでも使ってくれ。名人同士の仕合は、俺の門弟たちにもよい刺激になるだろうからな」
「ありがとうございます。中村殿も……どうか気になさらず」
それだけを言うのが、せいいっぱいだった。
うーん、これからどうなるんだろう。頭が痛いぞ。




