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これで、あいこ

 振り返り、声の主を見る。数馬さんの顔には、いつもの朗らかな笑みはなく、のびやかな体躯が一回り小さくなったように見える。


「すまない」


 いきなり、数馬さんに頭を垂れられて、なにに謝られているのかがわからず、思わず聞き返した。


「え? なにが?」


 きょとんとする私を、数馬さんが不思議そうに見る。


「いや……俺のせいで、ゆきさんを危険な目に合わせてしまった」


 なんだ、そこか。


 数馬さんは、言いにくそうに、言葉を続けた。


「賊を俺ひとりで食い止めようと思ったが、結局、食い止めきれなかった。それに、養生所が襲われたのは、あの頭巾の侍を仕留められなかった俺の失態だ」


 いやいや、さすがに十人ほどの賊をひとりで食い止めるのは、無理でしょう。それに、頭巾の侍にとどめをささなかったのは、私も同じだし。


「いえ、危険な目にあったなんてことは、これっぽちも思っていません。どうか、気にしないでください」


 それでも、まだ、数馬さんは申し訳なさそうに、しょんぼりとしている。


「あと……これは、ゆきさんのだろう」


 数馬さんが懐から取り出したのは、私の棒手裏剣だった。


 そうだった。さっきも、数馬さんに聞かれたっけ。黒田の手の者が養生所を襲う直前だったから、話が途中で終わったんだ。


「はい……」


「ゆきさんは、これを投げて、三好先生と俺を助けてくれたあと、あの侍をつけて、薬事奉行の屋敷に潜り込んだ。それで間違いないね」


 今度は、私が言いにくそうに答える番だった。どういった事情にせよ、数馬さんのあとをつけていたのは事実だ。気まずいにもほどがある。


「はい。秋月先生の道場から帰ってくる途中、三好先生のあとを数馬さんがつけているのを見かけて――どこに行くんだろう、って思い、二人のあとをつけました。あの……ええと……こっそり後をつけて、ごめんなさい!」


 弁解の余地もないから、勢いに任せて、ぴょこん、とばね仕掛けのように頭を下げる。暫しの耐え難い沈黙のあと、頭上から、ぷぷっと噴き出す声が聞こえた。


 んんん?


 おそるおそる顔をあげると、数馬さんが拳で口を押えて、笑いを堪えているところだった。

 

「――ゆきさんは、これほどの大立ち回りをした後なのに、ちっとも気にしていないんだな。よっぽど真剣での立ち合いに慣れているんだろうが。逆に謝られるなんて、俺のほうがびっくりしたよ」


 それから、数馬さんは真顔になった。


「あのとき、ゆきさんがこの手裏剣を投げてくれたから、三好先生が血を失いきる前に助けることができた。それに、薬事奉行の手先がこの養生所を襲うことを、ゆきさんから聞いていなかったら、それこそ三好先生を守り切れなかっただろう。本当に――ありがとう」


 深く頭を垂れた数馬さんの姿に、どう答えていいかわからず、私は立ち尽くした。真っ向から誠意をぶつけられると、途方にくれるってやつだ。最初は得体のしれない人だと思っていたけれども、知れば知るほど、まっすぐな人だ。もちろん、上柴様の隠密だったこの人が、なぜ、この養生所に戻ってきたのかは、わからないが。


 顔を上げた数馬さんは、軽く微笑んだ。


「俺はあのとき、ゆきさんにつけられていることに、まったく気がつかなかった。ゆきさんは、忍びの術の心得があるね」


 ふと、診療室で寝ている三好先生のことが気にかかり、様子をうかがう。規則正しい寝息を立てて、よく寝ているようだ。これなら、今から話すことを、三好先生に聞かれる心配もないだろう。


「それに答える前に、私も数馬さんに聞きたいことがあります。薬事奉行の黒田ってやつの屋敷に忍び込んだときに、黒田が――数馬さんの正体は、御老中だった上柴様の隠密だろう、と、あの頭巾の侍に話していました。それは、きっと本当の話ですね」


 まっすぐに私の眼を見つめながら、数馬さんは口を引き結び、頷いた。数馬さんが手のうちを明かしてくれた以上、私もこの部分については隠し立てするようはやめよう。


「私の父、冴木源次郎は、上柴様にお仕えして諸国を巡り歩く、隠密でした」


「知っている。冴木殿は、上柴様の懐刀とまで呼ばれた御仁だ。世に武芸者は数あれど、剣をとっては並ぶもののない名人と聞いていた」


 こんな状況だけれども、父を褒められると、ちょっと――いや、結構、うれしい。秋月先生も父のことを名人と言っていたしな。うん。


「父の供の者から、幼き頃より忍びの術を学びました。この身はまだ未熟ではありますが、一通りの手ほどきは受けています」


 桐生の一族のことは、まだ数馬さんには伏せておくことにした。数馬さんのことは疑っていないけれども、万が一、一族の手のものが江戸に入り込んでいることが村上主膳の一味にばれたら、小平太さんや弥助さんの身に危険が及ぶ。それに、村上主膳を失脚させるという一族の目的が果たせなくなってしまうかもしれない。事は、私の身ひとつで済む話ではないから――隠し事をして心が痛むけれども、数馬さんには黙っていよう。


 私の答えを聞いた数馬さんは、私の眼を見据えたまま、穏やかに問う。


「ゆきさんは――俺を探るために、この養生所に来たわけではないのだな」


 多分、数馬さんが一番聞きたかったのは、このことなのだろう。思えば、初対面の昨日、巳之吉親分が私の腕前を褒めたときから、私のことを警戒していた様子だったしな。


「違います。父が三好先生に私の身柄を預かるよう頼んだのは――本当に、私が江戸で暮らすための生計(たつき)を心配してのことですから。まさか、江戸に来た初日から、こんなに騒動続きとは、思ってもいませんでしたが」


 くくくっと笑いを押し殺して、数馬さんは言った。


「ゆきさんが、冴木殿の娘御と聞き、最初はもしやゆきさんが村上主膳の手先で、俺のことを探りにきたのかと思ったんだ。しかも、だ。女の身で、しかもその若さで、めっぽう腕が立つ、と巳之吉親分から聞いたから、只者ではないのだろう、と踏んでな。だが、ゆきさんは隠し事ができない人だ。思っていることが、すぐに顔に出るからな。いや、俺の、とんだ見込み違いだった。ゆきさん、疑ってすまない」


 私が村上の手先だと思った、だってえ? いや、それは全力で否定しなければ。


「村上主膳の手先だなんて、とんでもない! 九年前、上柴様が亡くなり、父が御公儀のお役目を辞して春日井の国に向かう途中、父は村上主膳の手の者に、執拗に命を狙われました。まだ幼い私も、父と一緒にいました。父にとっても、私にとっても、村上主膳は敵です!」


 結構な剣幕で私が噛みついたから、数馬さんはしどろもどろになる。


「いや、実をいうとな、俺たち――江戸市中隠密廻りの役目を上柴様から仰せつかった者達は、九年前、上柴様が病死されたあと、村上主膳の命で、皆殺しの憂き目にあった。俺はすぐに江戸を離れたから、その後の状況は知る由もない。だが、きっと、諸国隠密廻りの役目についていた者たちも、同じ目にあったのだと思っていた。むろん、冴木源次郎殿もな」


 数馬さんは、沈鬱な様子で続ける。


「ゆきさんがここに現れて、冴木殿が存命と知り、てっきり冴木殿が九年前に村上に寝返り、村上の手先として動いているやもしれん、と疑ってしまったんだ。本当に――本当にすまない」


 痛恨の極み、といった体で謝罪を口にする数馬さんを見て、胸がちくりと痛んだ。仔細はわからないけれども、九年前に仲間がみな殺され、数馬さんは江戸から逃げ延びた。その後も、おそらく村上主膳の追手がかかり、気が休まることはなかっただろう。人を疑ってかかるのは、この人が生き延びるためには必要なことだったに違いないから……それを責めるわけにはいかない。


「数馬さん、事情も知らずに責めるようなことを言ってしまい、ごめんなさい。それに、私も、数馬さんに謝らなきゃいけないことがもう一つあって」


「なんだい」


「昨日の晩、数馬さんが長屋を抜け出したのに気がついて、こっそり後をつけたんです。そうしたら、数馬さんが消えた先で、杉原先生が斬られてこと切れていたので……数馬さんのことを、医者殺しの下手人じゃないか、って少し疑ってしました」


 あとは、一気に謝るしかない。


「黒田の仕業ってことがわかったし、数馬さんはそういうことをする人じゃない、ってのもわかりました。数馬さんのことを疑った自分が、恥ずかしいです。ごめんなさい」


 数馬さんは、ぽかーんとした表情だ。


「昨日の晩も、俺をつけていたのかい」


「はい。そのあと、数馬さんを見失ったので、長屋に戻ってさっさと寝ましたけれど」


「なんてこった、まったく気づかなかったぜ。忍びを追ったり追われたり、にも慣れているが、俺もヤキが回ったか……いや、ゆきさんが手練れなのか」


「数馬さんを疑っていたのは、私も同じです。これで、あいこです」


 にこっと笑いかけると、ようやく数馬さんにも笑顔が戻る。


「そうか。そうだな」


「でも、数馬さんは……なぜ昨晩、あの場に?」


「これまでに殺された中井亮雲先生も、田崎玄信先生も……人柄も腕も申し分がなく、貧しい者達には手ごろな値段の薬種を使って治療をしていた。医者殺しがもし、そういう医者を狙っているのだとしたら……次に狙われるのは、うちの三好先生か、杉原長按先生だろう。俺はそう見立てて、手掛かりがないか、養生所の周りや、杉原先生と三好先生の家の周りを張っていたんだ」


 数馬さんの表情からは笑みが消え、憂いを帯びる。


「敵の正体も狙いもわからず、手探りの状態だったが、昨晩、偶然に杉原先生が襲われた直後の現場に出くわした。俺は、その場を走り去る下手人を追い、やつが黒田の屋敷に戻ったのを見届けた。ゆきさんの話からも、黒田が黒幕で間違いはなかろう」


「それで……黒幕が黒田だとわかって、数馬さんは、いったいどうするつもりですか」


 上柴様亡きいま、数馬さんは公儀の隠密でもなんでもない。むしろ、村上主膳の一味からすると、お尋ね者だ。なんの権限もないし、下手をすれば命さえ狙われかねない。町奉行所は管轄違いだし、村上主膳が関わっているなら、評定所も正当な沙汰を下すとも思えない。まさか……討ち入り?


「さあて、どうするかなぁ」


 数馬さんは、大きく伸びをしながら、呑気な返事をしてはぐらかす。


「まだ、連中がなぜ医者殺しを仕組んだのか、そのからくりが見えてこない。どうするかを考えるのは、それからだな。それまでは、三好先生に危険がないよう、守らなくては、な」


 言っている内容はもっともだけれども……質問の答えをはぐらかす人って、だいたい、ここ一番で無茶するんだよなあ。ううむ、心配である。


「俺としては、ゆきさんにも、養生所から離れていて貰いたいんだ。どんなに危険な目に会うかもわからない……って、言いたいが……」


「お断りします」


 ぴしゃりと言うと、数馬さんは苦笑した。


「まあ、そういうと思ったぜ。まあ、ゆきさんの剣の腕と、忍びの技があれば、あまり心配はないと思うが――もし何かのときには、俺や三好先生に構わず、逃げろ。逃げて、生き延びろ。な、頼む」


 それが、数馬さんの心の底から出た言葉と理解し、私の胸は不安に包まれた。ふと、目の前から消えてしまいそうな儚さを感じる。この人は、死に急いでいるのか? 


「数馬さんも……お願いだから、命を大切に」


 私の言葉に、数馬さんは、ふと記憶をたどるような遠い目をして、つぶやいた。


「命、か。死んだ俺の仲間たちが、俺を死なせてくれないのさ」


 その寂しげな表情に、私はかける言葉を失った。

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