表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/92

胸騒ぎ

 午前中は、なんだかんだで切れ目なく患者が訪れ、休む間もなかった。患者の内訳は、骨折や脱臼が八割、切り傷や刺し傷が一割ちょっと、残りが老人の腰痛ってところだ。最後の患者の治療が終わり、ようやく一息つく。三好先生も数馬さんも、そろそろ最後の患者の治療が終わるとのことだ。


 とりあえず、早いうちに用意したいのが、ギプスの材料と、次はダーメンコルセットだな。


 ギプス包帯ってのは、水に漬けた後、普通の包帯と同じようにグルグル巻きにすると、発熱してカチンコチンに固まってくれるという優れものだ。いまどきの整形外科医は、これがないとおまんまの食い上げである。


 というわけで、桐生の里にいたときは、和紙を(にかわ)で何十枚も重ね張りをしてカチカチに固めることで、ギプスを作っていたんだよ。


 ダーメンコルセットは、裂いた竹を火であぶり手曲げして、帯に縫い付けて作るんだけど、里ではだいたい弥助さんに作ってもらっていたしなあ。弥助さんにコルセット作りを頼めれば、話は早いんだけど――江戸にいる間は、弥助さんや小平太さんとは別行動をとることになっている。自分で作るしかないか。


「ゆきさん、どうしたんだい? ぼーっとして。さ、往診の準備をしようか」


 数馬さんに声をかけられ、我にかえる。


「あ、はい。すみません、ちょっと考えごとをしてしまって。骨接ぎのときに、添え木の代わりに使うといい物があるんですけど、材料を早く調達しなきゃなあ、って考えていたんです」


 数馬さんは、例の興味津々、という表情になった。


「添え木の代わり、かい?」


「はい。骨接ぎをしてすぐに、紙と膠で張り子のように腕や脚を固めると、添え木よりもしっかりと固定できて、治りがいいんです」


 私の返事を聞いた数馬さんは、不思議そうな顔をする。


「紙と膠だけでいいのかい? それくらいだったら、今日の往診が終わった帰り道に、俺が買っておくよ」


 おおっ、渡りに船である。数馬さんと私のやりとりを聞いていた三好先生も、


「ゆきさんは、なにやら面白い治療をいろいろと知っているようだな。ゆきさんが育った里では、みなそのようなことをしているのか?」


と尋ねてくる。


「はい、五ノ井の町から離れた山里ですが、長が博識でしたから」


 説明が面倒なので、これからは『里の長がなんでも知っていた』という設定で行こう。そうしよう。


 すんなりと納得してくれた三好先生を残して、私と数馬さんで往診に出発だ。


 往診でまわるのは、体力が落ちすぎたり、痛みがひどかったりで、養生所まで通えない症状の患者だ。一番遠い家は、養生所から十町くらいの距離にあり、まずはそこに向かう。


 日当たりの悪い裏長屋の一室には、やせ細った老爺が床に臥せており、同じようにやつれた三十路手前くらいの女性が、濡れた手ぬぐいを老爺の額に置きなおしているところだった。


 数馬さんと私の姿をみた女性は、


「ああ、若先生。いつもありがとうございます」


と言って、深々と頭を下げた。


「おようさん、おとっつぁんの具合はどうだい?」


「それが、もう重湯も食べられなくなってしまって。昨日から、こうやって言葉も出さずに、ずっと眠ったままなんです」


 おようさんと呼ばれた女性は、ほつれた髪をかき上げながら、目を伏せた。


「若先生、とうとうおとっつぁんにもお迎えが来るようです。あたしはもう、覚悟しています」


「そうかい。できるだけの手をつくしたが……すまない」


 数馬さんの声音が優しい。


「いいえ、若先生には、本当に御礼の言葉しかありませんよ。今までずっと、こんな貧乏人の家まで三日とおかずに来て、お薬まで出してくださって。本当に、ありがとうございました」


 再び頭を垂れるおようさんの声には、どこかほっとしたような響きがあった。それが、年老いた父親を最後まで看病しきったという満足感か、看病から解放されるという安心感か、はたまたその両方なのかは、私にはわからないけれども。


「そうかい。おようさんも、達者でな。張りつめた気がゆるんで、看病していた人間が急に倒れることもあるから、気をつけるんだぜ」


 そう言葉をかけて、数馬さんは立ち上がった。


 おようさんの家を出て、古びた棟割り長屋がひしめきあう、狭い裏通りを歩く。遠い昔に、テレビ画面で見た江戸の、庶民の生活が目の前に広がる。


 井戸端では、女性陣がかしましく話し込んでおり、粗末な着物を着た幼子たちが手造りの竹トンボや風車をもって、無邪気に走り回る。どこかの家では夫婦喧嘩をしているらしく、ガチャンと食器が割れる音が盛大に聞こえる。よその家からは、トントンと槌を振るう音がリズミカルに聞こえてくる。たぶん、職人の家だろう。とにかく、四方八方からいろいろな生活音が聞こえてくる。


 五ノ井の町も都会だが、江戸ほど人口密度が高くはない。肩を寄せ合って日々を生きる江戸庶民の活気に、圧倒されそうだった。


 よほど私が物珍しそうにあたりを見回していたのだろう、数馬さんが話しかけてきた。


「ゆきさんは、こういった裏通りを歩くのは初めてかい?」


「はい、昨日は大通りを歩いていて、そのまま養生所に行きましたので。江戸はやっぱり、人が多いですね。田舎育ちなので、びっくりしています」


「そうだろうな。まあ、すぐになれるよ。このへんは、養生所に通ってくる患者が多い。ゆきさんも、すぐにみなと顔なじみになるさ。さっきの、おようさんの父親――長次さんも、十年前からの常連だったんだ」


――十年前? 十年間も見習い医者を?


「あの……数馬さんは、その頃から養生所に?」


「あ! いやいや、俺はな、一度そのころに養生所にいたんだが、悪い遊びを覚えてしまってな」


 数馬さんは、くいっと酒を飲み干す真似をして、笑った。


「酒とか女とか、まあそんなところだ。一年くらいで養生所を飛び出して、あとは諸国をふらふらとしていたのさ。でもまあ、俺もいい歳だ。これじゃまずいと思ってな。一年前に江戸にもどってきて、養生所で一から見習い医者をやり直しさ。まあ、つまらない話だ」


 出戻りか。よくある身の上話だけど――この数馬さんの話を信じられるかというと、『否』だ。だって、明らかに只者じゃないもん。この人は、なにか重要なことを隠している。


「まあ、長次さんも、ちゃんとああやって看取って、弔ってくれる人がいるんだ。悪い人生じゃなかったさ」


 自分の身の上から話を逸らすように、数馬さんがつぶやいた。


 ふと、傍らを歩く数馬さんの横顔を見ると、顔から笑顔が消え、どこか遠いところを見つめていた。今の数馬さんの言葉は、心の奥底から漏れ出たものだろうか。この朗らかな医者は、なにか人に言えない心の傷がある――そんな気がした。


 私が見つめていることに気づいた数馬さんは、また笑顔に戻る。


「さあ、次の患者のところに行こうか」



 六人目の患者を診終わり、養生所に戻ってきたのは、ちょうど昼八つの鐘が鳴る頃だった。


「今日はお疲れさん。じゃあ、俺はゆきさんに頼まれたものを買っておくから、ゆきさんは秋月先生の道場に行っておいで」


「すみません、お願いします。それと――夕餉はどうしましょう?」


「そうだなあ。俺はいつも、自分で作ったり、そのへんの飯屋に食べに行ったりだが。今日は、ゆきさんが来て最初の夕餉だ、お祝いもかねて、俺の行きつけの店にでも行くか。まあ、俺でも通える安い料理屋だが、味は保証するぜ」


 数馬さんの保証つきの味ってのも、あまりあてにならない気がするが――だって、米に芯が残った状態で炊いて、平気な人だもん。ちょいと不安を感じながら、愛刀を携えて、坂之上の道場に向かう。坂之上、という地名のとおり、外堀の養生所からみて南側にある坂を上ると、目指す道場があった。


 坂を上りきる前から、門下生たちが放つ、裂帛の気合が聞こえてくる。おお、やってるな。なんだかわくわくするぞ。


 数馬さんが江戸で五本の指に入る大道場、といっていたな。打ち合う音から察するに、確かに門下生が多そうだ。里での稽古は、いつも父と私の二人きりで、たまに源太にぃがいるくらいだったし、前世での先生の道場にしても、門下生は数人だ。こういった大人数での稽古は、警察学校のときに選択した、術科の柔道のとき以来だ。ちなみに術科は剣道と柔道のどちらかを選択できたんだけど、剣道は指導主任が高木さんだったから――なんだか照れくさくて、選択できなかったんだよね。そんなこともあったなあ。


 遠い遠い昔の、懐かしい記憶を思い出しながら、坂を上る。


 開け放しの戸から道場の中を覗き込む。道場は間口八間、奥行き五間。板敷の床は、見事に磨き上げられている。十数人の門下生が、袋竹刀を手に、組太刀の稽古をしていた。袋竹刀、とは、裂いた竹を束ねて革の袋でくるんだ、練習用の武具だ。木太刀よりも打たれたときの怪我が少ないのが特徴で、前世でもいくつかの剣術の流派で使われていた。


 門下生の相手をしていた秋月先生は、戸口から覗き込む私の姿をいち早く見つけ、満面の笑みを浮かべた。


「それまで!」


 秋月先生の一声で、門下生たちが一斉に動きを止める。


「よく来たな、ゆき殿。待ちかねたぞ」


 がはは、と豪快に笑いながら手招きをする秋月先生に向かって一礼をし、道場に足を踏み入れる。


「秋月先生、お言葉に甘えて、参上いたしました。よろしくお願いします」


「なんのなんの。ここでは、堅苦しいことは抜きにしてくれ。そなたの父上と俺とは、戯れとはいえ義兄弟の盃を交わした仲だ。俺のことも、身内とでも思えばいいさ」


 秋月先生はそう言って、豪快に笑った。うむむ、養生所で会ったときよりも、また数段と、さばけているぞ。

 

 周りの門下生たちは、いったい何事かと、突然の来訪者をじろじろ眺めまわす。そのうちの一人と目が合うと、その相手は


「あっ」


と驚きの声をあげて、手にした袋竹刀を取り落とした。ええと、昨日、新田さんを養生所に運んだときにいた人で――確か、中村さん、ていったっけ。


 秋月先生は怪訝な顔をして、中村さんを見た。


「どうした、中村」


 中村さんは、青ざめた顔のまま


「いえ、なんでもありません。申し訳ありません」


と、袋竹刀を拾いあげた。よくよく見ると、その手もなぜかわなないている。なにやら、ひどくショックを受けたみたいだけれども……


 秋月先生は中村さんの様子を一瞥し、少し首を傾げると門下生みなに向かって、大声を張り上げる。


「これは、俺の旧友の娘御で、冴木ゆき殿という。女子(おなご)の身ながら、春日井の国の育ちで、幼き頃より剣術の手ほどきを受けておる。普段は、医術の修行のため外堀の養生所にいるが、この道場で稽古をつむことになった。江戸に来たのは昨日が初めてだから、みな、ゆき殿が困らないように助けてやってくれ」


 門下生たちの間に、ざわめきが起こる。


「春日井の国は女武芸者が多いときくが、実際に見るのは初めてだぞ」


「なに、女武芸者といっても所詮は女だ。腰のものも、飾りだろう」


「いや、さすがに五ノ井あたりは剣術の強者が集うときく。女子おなごの身でも、そこそこ遣うのではないか」


 門下生たちの、囁きあう内容が丸きこえである。おーい、全部きこえちゃってますよう。うむむ。数馬さんの忠告どおりだなあ。よほど、女の剣術遣いが珍しいとみえる。


「静かに!」


 秋月先生の一声で、場は静まり返った。


「江戸では女武芸者はほとんどおらぬし、腕の立つ女子の話も聞いたことがない。されど、ゆき殿は、乱心した早川を無手でたやすく取り押さえたというぞ。俺も、ゆき殿の腕前をこの目で見てみたいのだ。まずは、誰かゆき殿と立ち合ってみようという者はおらんか」


 秋月先生の話を聞き、門下生たちが顔を見合わせる。


「早川を一瞬で倒したというのが、この女子(おなご)とは、まことか?」


「中村からは、まだ前髪を残した子供だったと聞いたが――まさか女子(おなご)とはな」


「どうする?」


「いや、さすがに女子おなご相手に、まともに打ち込むわけにはいくまい」


 門下生たちが、戸惑ったように言葉を交わすなかで、中村さんが血の気の失せた顔のまま、一歩前に歩み出た。


「先生、私にやらせてください」


 中村さんを一瞥した秋月先生は頷く。


「ああ。だが、おぬし、顔色が悪いぞ。どうした?」


 中村さんは、わななく唇を噛みしめ、かすれた声で言葉を発する。


「私は、早川には敵わないまでも、それなりに腕には覚えがあるつもりです。それなのに……このような年若い女子(おなご)に命を助けられたのかと思うと、私は自分自身を許せません。ゆき殿と立ち合いたい、立ち合って勝ちたい。私の誇りを取り戻すすべは、ほかにありません」 


 ああ、この人、昨日は私のことを少年武芸者と思い込んだままだったんだな。女だと知って、衝撃だったのかあ。


 秋月先生は困ったように眉根をよせて、私の耳に囁いた。


「ゆき殿、すまぬなあ。みな、女の武芸者を見たことがないのだ。相手を見た目で判断するなど、剣士の心構えとして言語道断だ。すまぬ、こうなったら、こやつらを思いっきり叩きのめしてくれ」


えええ?


「よろしいのですか?」


「ああ、構わん。なまじ手加減などをすると、余計にこじれるし、中村のためにならん。このようなときは、腕づくで叩きのめすのが一番だ」


 そう言って、秋月先生はにやりと笑った。いやはや、こういうところは父に似ているよ。こりゃ、父と意気投合するわ。


「わかりました。それでは、得物は袋竹刀、どちらかが参ったといえば勝負あり、でいかがですか?」


 門下生たちの間に、まだざわめきが起きる。一本勝負や三本勝負などではなく、どちらかが心から負けを認めなければ勝負は終わらない――普通ならば、この条件では、体力的に男よりも劣る女は余計に不利だ。


 中村さんは、


「承知した」


といい、別の門下生が持つ袋竹刀を私に手渡した。腰の愛刀を壁の刀掛けに置かせてもらい、袋竹刀の具合を確かめる。見たことがあるだけで、使ったことはない。重さ、重心、柄の太さが真剣や木刀と違うから、手の内の具合を少し調整する必要があるな。まあ、なんとかなりそうだ。


 およそ二間の距離をとって中村さんと正対する。


「それでは、ゆき殿も中村もいいか。では、始め!」


 秋月先生の声で、双方、袋竹刀を構えた。


 冷静に、相手の様子を観察する。中村さんは、勝とう勝とうという気持ちが先に立ちすぎだ。ふと、これと同じことを遠い昔――前世で先生に言われたことを思い出し、心の中で苦笑する。思えば、あの頃の私は若かった。先生にそう言われたことも、そのときにはどういうことだか理解できなかったっけ。


 中村さんは、私を攻めあぐねて、気合を発しながら間合いを少し詰めては離れる、という動きを繰り返している。それを見た他の門下生たちが、


「どうした中村、女子おなご相手に情けないぞ」


「新田たちが早川に斬られるのを見て、臆したか」


と口々に言うのを聞いた中村さんは、ひと際大きな気合を発して袋竹刀を振りかぶり、真っ向から打ち込んできた。


 その瞬間、右足で床を蹴り、中村さんの左側面に飛び込みながら、中村さんの右手首に向けて一撃を放つ。


「ああっ」


 中村さんが悲鳴をあげて袋竹刀を取り落とし――袋竹刀が鈍い音をたてて床に転がる音がした瞬間、中村さんの後ろに回り込ん私の袋竹刀の切っ先三寸は、中村さんの(うなじ)にぴたりと押し当てられていた。


「ま、参った」

 

 中村さんはがっくりと膝をつき、うなだれた。


「それまで!」


 そう声をかけた秋月先生は、大きく目を見開いている。


「なんと……これは、まさに冴木殿の太刀筋ではないか。その若さで、よくぞここまで……」


 かたや門下生達は、勝負が一瞬にしてついたことをすぐには理解できなかったのだろう――道場の中は、しーんと静まり返った。


 三呼吸ほどおいたのち、中村さんの負けを理解した者たちが口々に


「今のは、何が起こったのか見えたか」


「打ち込んだのは、中村のほうが早かったように見えたが、いつの間にやら袋竹刀を取り落としていたぞ」


「中村のやつ、手でも滑ったのではないか」


と、憶測半分でささやきあい始めた。


 人間は、注視している範囲以外は意外に見ていないものだ。それに、自分が予想していない動きは、視界に映っていたとしても、脳の処理からはじかれる。今の立ち合いでの私の動きは、けして速くない。みな、中村さんの一撃に気をとられていたし、中村さんの打ち込みに対する私の踏み込みは、彼らが予想している動きよりも一拍子早い――それだけのことだ。


 そして、私が放った一撃目は、相手の手首の腱や神経が密集している箇所をきわめて正確にうち抜いた。傍目からは、鋭いが軽い打ち込みにしか見えず、袋竹刀の先端が手首をかすっただけに見えても、打たれた相手は手や指の力を削がれて、柄を握ることができなくなる。


 その一部始終を見て理解しているのは、どうやら秋月先生だけのようだった。


 秋月先生は、大音声で門下生たちに告げた。


「今のゆき殿の剣を、しかと見たか。ゆき殿は、俺が稀代の名人と知る冴木源次郎殿の剣を、見事に受け継いでいるぞ。みな、またとない機会とおもい、ゆき殿に打ち込んでみよ」


 いいのかなあ……と心配になり、秋月先生の顔をちらりと見ると、それに気づいた先生が


「構わんぞ。これしきのことで剣士の誇りが、とぬかす奴や、へこたれて剣の道を捨てる輩などは、そもそも剣士として大成は望めぬ。ゆき殿、こやつらに発破をかけるつもりで、叩きのめしてくれ。これを糧にして、化けるやつも何人かはおろうよ」


といい、大きく頷いた。


 むむむ。そこまで言われてしまったら、やらざるをえないではないか。


――そして、四半刻も経たぬうちに、道場には意気消沈した門下生たちが肩を落として座り込み、さながら通夜のごとし、である。


 その門下生の前で、仁王立ちの秋月先生が訓示を垂れる。


「よいか。世の中には、ゆき殿のような名も知れぬ名人達人がいくらでもいるのだ。勝負というのは、人に負けて終わりではなく、そこからいかに自分の剣を工夫できるかが肝要なのだ。それを胸に刻み込み、今後の修行に励め。今日の稽古は、以上だ」


 秋月先生の言葉に、門下生の二割くらいは、目もうつろで心ここにあらず、といったていである。彼らはおそらく、もう、この道場には来ないだろう。道場主とは、いわば自営業だ。優れた弟子を育てたいという剣士としての建前だけでは食べて行けず、これだけの門下生が抜けるとすれば、秋月先生にとっても痛手だと思うんだが……


「さて、ゆき殿。少し時間はあるかな?」


 秋月先生は、道場のすぐ隣にある簡素な家に、私を招いた。秋月先生の御新造さんに茶をすすめられ、ありがたく頂く。


「ときに、ゆき殿。はじめて人を斬ったのは、幾つのときかな」


 世間話から始まると思ったら、とんだ質問である。思わず、姿勢を正して答える。


「六の歳にございます」


 秋月先生は、特に驚く様子もなく、納得したような表情だ。


「やはり、な。今日のゆき殿の太刀筋を見て、冴木殿に生き写しなのにも驚いたが、間づもりの冴えが際立っていた。真剣での立ち合いに慣れていないと、こうはいかぬ。六歳のときとは、俺が思っていたよりもずいぶんと早いが」


「おそれいります」


「俺の門弟がふがいなくて、すまぬ。しかも、女子というだけで、ゆき殿を侮るものまでおり、わが門弟の不徳に恥じ入るばかりよ。俺や冴木殿のように、武芸の腕を磨くために諸国を渡り歩くものは、この時世では珍しうてな」


 父が公儀のお役目で諸国を巡っていたというのは、公儀の者しか知らぬ話だ。父の飲み友達である秋月先生も、父のことはただの武芸者と思っている。


「みな、道場での勝ち負けに一喜一憂している。嘆かわしいことだが、俺もこのように道場を開いて弟子を集め、それで生計(たつき)を立てている身ゆえ、あまり大きなことも言えぬ」


 そう言うと、秋月先生はにっこりと笑いかけた。温かく、慈愛にあふれた笑顔だ。


「だが、今日は久々に痛快な思いをしたぞ。何人かは、嫌気がさして道場を去るだろうが……なあに、それまでの男だったということだ。ゆき殿は、くれぐれも気にせぬよう、頼むぞ」


 秋月先生は、門下生が減るのではないか、と私が気にしていることを見抜いていた。人柄は練れているし、気配りも申し分がない。まだ昨日会ったばかりだけれども、秋月先生は信頼に足る人物だと思う。


「ありがとうございます。ただ、私は父に比べれば腕前のほうもまだまだです。今後とも、ご指導のほどよろしくお願いいたします」


 私が頭を下げると、秋月先生は、豪快に笑った。


「なんのなんの。次は、俺もゆき殿と一手、手合わせをお願いするぞ。よろしく、頼む」


 秋月先生と御新造さんに礼を述べ、秋月邸を出た。


 今度行くときは、秋月先生に一手ご指南願おう。秋月先生はどんな剣を遣うんだろうな。楽しみだなあ。


 そんなことを考えながら、養生所に戻る道すがら、三好先生らしき人影が、供もなしで歩いているのを見つけた。


――あれ? 三好先生が外出するとは、聞いていないけれど。


 そして、三好先生の十間ほど後に、数馬さんがいた。あれは……三好先生のあとを尾けているな。


 なんだろう。胸騒ぎがする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=280266431&s ツギクルバナー script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ