いったい、どこのどちら様
朝餉のあとは、数馬さんの案内で薬草園を見て回る。
この薬草園が作られた当初は、薬草を安定して供給するための研究施設としての役割を担っていた。上柴様が御老中だった頃は、水や堆肥などの具合を変えて栽培し育ち方を記録する専門家がいたそうだが、養生所の手当が削減されてからは人手もなく、研究する余裕もない。
「この広い薬草園の端のほうは、草ぼうぼうだよ。いいのか悪いのか、いろいろな薬草が勝手に増えていてな。 叢を掻き分けて薬草を摘み取るのもまた、楽しいものだぞ」
そういって、数馬さんは笑った。
「手間をかけなくては育たない品種だけ、手入れして育てているんだ。薬種問屋から仕入れると、値段の上下が激しいからな。最初は、なんで医者が薬草の栽培までやらねばならんのだ、とも思ったが、これが意外に面白くてね。手間をかければかけただけ、よく育つ。育つのを見るのも楽しいし、自分で育てた植物を摘み、自分で干して薬種にし、薬研ですりつぶして調合する。それがこんなに面白いものとは、思ってもみなかった。しかも、それで患者が良くなるのを見るのは、医者冥利につきる」
目を輝かせて語る数馬さんを見て、ふと自分の顔がほころぶのを感じた。この人が、養生所での仕事にやりがいを感じているのは、間違いなさそうだ。
ただ、それはそれで……昨晩の出来事が脳裏をよぎってしまい、自分自身の人を見る目、ってのを信じられなくなっている。うーむ。自分で言うのもなんだけど、私はころっと騙されやすいのだ。まだ、数馬さんに気を許すわけにはいかないなあ。
薬草園を一回りして、養生所に戻る。途中、昨日の晩に数馬さんと私が飛び越えた塀の前を通った。塀から二間ほど離れた場所だけ、雑草の茂みが薄く、土が軽くえぐれている。これは、数馬さんが昨晩だけではなく、何度も何度もこの場所で踏み切って塀を飛び越えている証だ。
やっぱり、数馬さんは――夜の江戸の町で、何かをしている。それが人斬りかどうかはともかく。
朝五つを少し過ぎてから、受付の役人がやってきた。やたら無愛想なその役人は、幕府の勘定方からの派遣だ。出仕してきて無言で受付に座り、何やら出納帳を確認している。医者のほかは、この役人と、番をしている中間、それに通いの助手の男しかいない。
「なにしろ、大きな声では言えないが、養生所への手当が少なすぎて、最近は患者をおいそれとは入院させられんのだ。 患者を入院させると、その面倒を見る人間も雇わないといけない。飯も食わせないといけない。養生所は、そういう余裕もないのさ。昨日の新田殿もだが、引き取れる身内がいる患者は入院させずに、往診で診ているんだ」
午前中は養生所に来る患者の診察と治療、午後は往診、というのが通常の業務体系らしい。昨年までは三好先生と数馬さんで一緒に往診に出かけていたけれども、今年に入ってからはもっぱら数馬さんだけで往診に出かけて、三好先生は診療所に残ることがほとんどだそうだ。
「午後の往診は、だいたい八つ半には終わるから、そのあとは自由な時間だ。どうせ養生所の裏手に住んでいるから、俺は養生所に戻って薬草園で過ごすことが多いが……病人が来たら、中間の与一さんが呼びにくるしな。ゆきさんは、どこか行くあてはあるかい?」
「父の旧友が剣術道場を開いているので、そこを訪ねようかと思います」
「そうか。まあ、江戸では女武芸者はほとんどいない。いや、少なくとも俺は見たことがない。もしかすると、道場の連中からは物珍しそうな目で見られるかもしれないが、まあ、気にしないことだ」
おお、なんだか私の心配をしてくれているぞ。ちょっと親切にされただけで、その人を信用してしまいそうになるのは、前世からの悪い癖だ。用心、用心、と。
薬研で薬種をすりつぶす手伝いをしながら、数馬さんから養生所の細々としたことを教えてもらっていると、入り口で何やら物音がし、
「入れ」
という、受付の役人の声が聞こえる。
お! 患者さんかな?
「ごめんくだせえ、ちょいとばかり、若先生に聞きてえことがあるんですがね」
そう言いながら、ひょっこりと顔を覗かせたのは、昨日の昼間に出会った、十手持ちの巳之吉親分だった。
「おお、親分か。朝からせいが出るな。また、おふくろさんが熱でも出したのかい?」
と、気安く声をかける数馬さんの横で、私も親分さんに会釈する。
「若先生、隣のお人は、いったい、どこのどちら様で?」
親分さんは、私を見て目をしばたたかせた。あ、そうか。昨日は旅装で編み笠も被ってたしなあ。今日は、鉄紺色の小袖小袴といういでたちだから、わからないよな。刀も差していないし。
「親分さん、冴木ゆきです。昨日はどうも」
あらためて挨拶をすると、親分さんはびっくり仰天した風で、一瞬動きが凍りついた。
「あ! 昨日の……こいつはびっくりだ」
「なんだ、親分とゆきさんは、もう知り合いか」
数馬さんが不思議そうに、私と親分さんの顔を見比べる。
「若先生、いやね。昨日、新町であった侍の乱心騒ぎで……」
「ああ、それなら聞いたぞ。うちにも、斬られた侍が運ばれてきたからな」
「へい、それで、その早川って侍を、無手でとりおさえたのが、この……えっと、おゆき様なんでさぁ」
数馬さんが一瞬、息を呑み、両の拳をぎゅっと握りしめたのが視界の片隅に映る。うっ、警戒されちゃったか……
「あっしも、自分のこの両の眼で一部始終を見やしたが、今でも自分で見たことが信じられねえ。なにしろ、乱心した早川って侍が、町人三人、侍四人と、西町同心の篠田様を一太刀で斬り殺したあとだ。その早川は、坂之上の剣術道場で一番腕が立つって話だ。誰も手が出せねえ。下手すりゃ死体が山積みだって思ったところに、このおゆき様が通りがかり、あっという間に早川の顎に当て身をいれて、取り押さえちまったんで」
立て板に水というか、伊佐次さんの軽口に調子が似ているけれども、これがこの世界の典型的な江戸っ子の語り口なんだろうか。
「これはとんだ腕利きだってんで、早川をふんじばりながらご挨拶したら、とんでもねえ、女武芸者の先生だったんで、あっしはもう仰天しましたぜ。しかも、そのときは編み笠でお顔を拝めなかったが、なんでえ、こんな若くて、美丈夫……じゃねえや、別嬪さんとは、神様仏様でも思いつくめえ。いやはや、あっしはこんなにびっくりしたのは、生まれて初めてでさぁ」
むむむ。なんだか、話がいろいろ盛られている気がするぞ。
「親分がそんなに興奮して喋るなんて、珍しいな。ゆきさんの武芸の腕は、それほどまでに凄いのか?」
例の、興味津々といった表情で問う数馬さんの眼の奥に、どことなく警戒の色がある。
「いえ、なにしろ、私は本当に山里育ちで……自分の腕がどれほどのものかは、わかりかねますゆえ……」
いや、ほんと、凄腕かどうかって聞かれても困る。何しろ、比べる相手が父と里の人達しかいないのだ。父に比べれば、私の剣の腕は劣る。それしか言いようがない。父よりも腕が劣る相手なら、なんとか勝てるかもなあ、と思うけど。それに、徒手格闘の腕も、私より小平太さんのほうが上だ。手裏剣だったら彦佐爺やおときさんのほうが上だし。弓は当然、彦佐爺や吉兵衛さんのほうがずっと腕利きだし。
名倉や戸張の忍び連中相手に実戦経験は積んでいるとはいえ、あれは集団戦だ。そもそも世の武芸者がどれほどのものか、こちとら、よく知らんのだよ。
よほど、私が困った顔をしていたのだろう。数馬さんから警戒するような気配が消え去り、柔らかな笑顔が戻る。
「そうか、いつか、ゆきさんの腕前を見てみたいものだな」
「それで、そのおゆき様がなんで、養生所に?」
巳之吉親分の疑問は当然だが……それはさておき、おゆき様って言い方が耳になじまず、妙に居心地が悪いぞ。
「三好先生が、ゆきさんの父御と面識があるらしくてな。ゆきさんは、養生所の医者見習いとして、ここに住むことになったのさ。見習いといっても、金創に関しては三好先生も教えることがないそうだぞ。親分も、怪我をしたら、ゆきさんに診てもらうといい」
「へえ……女武芸者で、お医者の先生ですかい。こりゃ、大したもんで。おゆき様、西町からここらにかけては、あっしがにらみを効かせてやすんで、何か困ったことがおありでしたら、何でも言ってくだせえ」
昨日の巳之吉親分の行動からするに、肝も据わっているし、侠気もありそうだ。たぶん、この親分さんに頼ることもあるだろう。
「親分さん、こちらこそよろしくお願いします。それで……あの……親分さん、その『おゆき様』ってのはやめて、ほかの呼び方になりませんか」
「えっと、それじゃあ……おゆき先生で、どうですかい?」
やっぱり聞きなれず、微妙な気がするが……まあ、おゆき様より数段ましだ。
「それはそうと、親分、何か用があって来たのではないか?」
数馬さんの問いに、巳之吉親分が頷く。
「へい、若先生、ここひと月で、二度、お医者の先生が何者かに斬られているのはご存知で?」
「ああ。二人とも、三好先生の知り合いでな。それがどうした?」
「昨晩も、この近くで三人目の医者が殺されたんでさぁ。杉原長按先生ってお人で、前の二人と同じく袈裟懸けでばっさり斬られていやす。供の男も、一緒に殺されやして、手掛かりなし、だ。奉行所の調べでは、太刀筋からして前の二人と同じ下手人だろう、って話ですぜ。なにか、この近くでおかしなことはありませんでしたかい?」
「なんだって、杉原先生もか。この近くで、名医と評判の先生じゃないか。いや、俺は昨晩、ずっとこの建屋か、裏の長屋にいたが、怪しい者の出入りや物音などは聞かなかったぞ」
しれっと答える数馬さんは、杉原という先生が殺されたことに、心底驚いているような表情だ。うわっ、私より数段演技派だよ。こりゃ、とんだ食わせ者だ。
「なにか、気づいたことがあれば、すぐに親分に知らせるよ」
おっと、私も、親分さんに聞いてみたいことがあるんだ。
「親分さん、わかったらでいいけれども……あの早川って侍、番屋でどんな様子ですか?」
あの早川という侍、様子がおかしかった。発症前の人となりはもちろんわからないけれども、あの錯乱状態は、精神疾患か薬物によるものか……専門外の私には判断しかねる。
「ああ、先ほども番屋でちょいと様子をきいてきましたがね、なんでも、しょっぴかれて四半刻ほどで目を醒まし、それから三刻くらいの間は吠えたり騒いだりで変わりなかったんですが、それ以降はけろっとして普通に戻っちまったんで」
「なんだって?」
意外にも、巳之吉親分の返事に、数馬さんが食いついた。早川の症状だけ聞いたら、なんとなくキノコ中毒に似ているなあ、っていう気がするけれども。
「若先生、どうしたんですかい? 血相を変えて」
「いや、毒きのこから作られる薬の一種で、気分を高揚させる効能のものがあるんだが、それを大量に使いすぎると、そのような症状が出ることがあるのだ」
「えっ、それは本当ですかい」
「うむ。取り扱いが難しい薬だから、薬種問屋でもおおっぴらには扱っていないはずだ。原料を手に入れた医者が、自分で調合するのが普通だろうな」
「じゃあ、早川に薬を出した医者がいるってことですかい」
「ああ、そうなるな。どこのだれかはわからんが。俺も、書物で読んだだけだから、詳しいことは知らんぞ」
「なんてこったい、こりゃ、同心の旦那に早くしらせねえと。ああ、若先生、それと……」
「なんだ?」
「医者殺しがどこのどいつかはともかく、狙われているのは、名医と評判の医者ばかりですぜ。ここの三好先生も狙われてもおかしくねえ。十分に注意してくだせえ。なにしろ、三好先生がいなくなったら、ここいらの裏長屋住まいは途方にくれちまう」
「ああ、十分に気をつけるよう、三好先生に伝えるよ。親分も気をつけてな」
「ありがとうごぜえます。では、あっしはこれで」
巳之吉親分が帰ろうとした矢先、受付の役人が診察室を覗き込み、数馬さんに声をかけた。
「若先生、坂之上の剣術道場の主で、秋月左馬之助殿という方がおみえです」
おっと、患者はなかなか来ないけれども、会いたい人が来たぞ。
診療室を覗き込んだ秋月左馬之助殿は、一礼をして部屋に入ってきた。
「それがしは坂之上で剣術を教えている秋月左馬之助と申す。当方の門弟で、新田敬之進と申す男が、昨日こちらの養生所に御厄介になったとことで、遅ればせながらご挨拶に伺った次第だ。いやあ、昨日はそれがしにも町方の調べがあり、こちらに参るのがすっかり遅うなってしもうたわ」
秋月先生は、父と同じくらいの歳だろう。身の丈五尺九寸と上背があり、全体的にがっしりした体つきだ。何よりも、大きめの角ばった顔に迫力がある。うむ、このド迫力の顔面と眼力は、なんだか桃太郎侍の人を彷彿とするぞ。
「秋月先生、こりゃどうも。昨日はどうも、とんだことで」
頭を下げた巳之吉親分を見て、秋月先生は
「ああ、巳之吉親分もここに来ていたのか。昨日はご苦労だったな」
とねぎらいの言葉を返し、部屋中をぐるりと見回した。
「して、三好先生に新田の件で礼を述べたかったのだが、留守にしておいでか」
三好先生が養生所に来るのは、だいたい昼四つくらいだ。秋月先生に待っていてもらうにしては、中途半端な時間だ。
「三好先生は四つ頃に来られます。もし御伝言等があれば、私がしかと先生に申し伝えます」
そう答えた数馬さんに、秋月先生は両手を顔の前で振って、
「なんのなんの、それがしの門弟がすっかり世話になったのだ。言伝では礼をつくせぬ。またこちらに邪魔する故、その旨だけ先生にお伝えいただきたい」
と言い、がははと豪快に笑った。
偉ぶるとことがないし、さっぱりしている人だなあ。豪放磊落という表現がぴったりだ。父と飲み友達だというのも、頷ける。それに、桃さん――桃太郎侍の人に似ている。私としては、好感度大だ。
「それと、このたびは当方の門弟が大変なことをしでかし、肝が冷えてしかたのうてな。乱心した男――早川という名だが――を取り押さえてくれた御仁が、新田をこちらまで運んでくださったというではないか。その御仁にも礼を述べたいのだが、名や住まいなど、もし知っておれば教えてはくれぬか。それに、早川を取り押さえたということは、並々ならぬ腕の御仁であろう。一献交わしながら、武芸談義でもしてみたいものだ」
濃い顔に満面の笑みをたたえながら秋月先生が話している間、巳之吉親分が私のほうをちらちら見ている。
「ええと、秋月先生?」
巳之吉親分が、声をひそめて秋月先生に話しかける。
「親分、なんだ?」
「その早川様ってお侍を取り押さえたのは、実はこちらのおゆき先生なんで」
うわっ、秋月先生に自己紹介する前に、巳之吉親分から紹介されちゃったよ。慌てて一礼をし、自己紹介をする。
「冴木源次郎が一女で、ゆきと申します。秋月先生のお名前は、父から伺っておりました。父から先生あてに書状がありますゆえ、しばらくお待ちください」
父の名前を聞いた瞬間、秋月先生が目を丸くするのが視界の片隅に映った。急いで長屋に戻り、旅行李の中から父の書状を取り出して、診療室に戻る。
「秋月先生。父から言伝では、よしなに、と」
そう言い添えて、秋月先生に書状を渡す。書状の厚みからすると、三好先生への書状に比べて、ずいぶんと長文のようだ。父は、九年前に桐生の里に住み着いてから、一度も江戸にもどっていない。きっと、積もる話があるのだろう。
秋月先生は、父からの書状に手早く目を通し――それから、一字一句確かめるかのように、じっくりと読み返しているようだった。書状を読み終えた秋月先生は、顔中に笑みをたたえて、私に話しかけた。
「委細承知つかまつった。ゆき殿、御父上は息災でおられるようだな。最後に江戸で酒を酌み交わし、あれからもう九年の月日が流れたとは、さてさて、それがしも耄碌するわけだ。冴木殿からは、それがしの道場でゆき殿に稽古をつけるよう頼まれたぞ。それに、冴木殿はいま、なにやら忙しうてならぬようだが、そちらが落ち着いたら江戸に来られるとのことだ。また酒を酌み交わし剣術談義に花が咲く日が来ると思うと、今から楽しみでならぬ」
秋月先生は、父からの便りを心から喜んでいるように見えた。
「ところで、ゆき殿。冴木殿に、ゆき殿のような娘御がおられるということを、それがし、いま初めて知り申したが」
「九年前、父が江戸を発ち春日井の国へ向かう旅の途中、野盗に襲われた幼い私を父が助けてくれたのです。私の実の両親は、そのとき野盗に殺められてしまい、身寄りのない私を父が――冴木源次郎が引き取って育ててくれたのです」
私の隣で、数馬さんが驚いたように私の顔を見るのを感じた。うーん、話すまでもないと思って、このあたりの話は、数馬さんには話していないもんなぁ。
一方で、秋月先生は納得したように、うんうんと頷いている。
「なるほど、冴木殿らしい。冴木殿は、昔から困っているものを見ると、ついつい助けてしまう気のいい御仁でな。それがしも、冴木殿のそういうところがいたく気に入っておる」
気がいい、というか、うちの父は厄介ごとを見ると首をつっこみたくなる、困った人ですよぅ。お役目についていたときには、彦佐爺がいつもハラハラしっぱなしだったらしいもん。でも、そんな話をするときの彦佐爺は、いつも嬉しそうに笑っていて、なんだかんだで似たもの同士の主従ですよ。
「それで、ゆき殿は御父上からずっと剣の手ほどきを受けておられたのだな」
「はい。六歳の頃から、父の教えを受けておりました」
「そうか。この巳之吉親分から、乱心したうちの早川をとらえたのは、ゆき殿だときいたが――冴木殿が手ずから育て上げた剣士ならば、納得できる話だ。それがしも、ゆき殿の腕前を早く見てみたいものだ。どうだ、今日、うちの道場に来てはもらえぬか?」
秋月先生の、迫力ある顔の迫力ある笑顔が、ずずっと迫る。むむむ。秋月先生の道場に行きたい。早く、江戸の剣術を見てみたい。なにせ、私は筋金入りの剣術バカなのだよ。
でも、午後は往診だし、養生所で覚えなけりゃいけないことが山積みだ。行きたいのはやまやまだけれども、初日から迷惑かけちゃいかんしなあ。ちらっと数馬さんの顔を見た。
「ゆきさん、往診は遅くとも八つ半には終わるから、その後は自由な時間だ。せっかく、秋月先生がこうおっしゃるんだ。いい機会だから、行っておいで」
数馬さんの気さくな一言で、憂いも悩みも吹き飛ぶ。わーい、とはしゃぎたくなる衝動を堪える。
「秋月先生、それではお言葉に甘えて、今日の夕刻までには道場に伺います」
「そうか、それではまた後でな。いや、すっかり邪魔をしてしまった。それでは御免」
いやあ、楽しみ楽しみ、と大声で笑いながら、秋月先生は帰っていった。
「あっしもすっかり長居しちまって。こりゃいけねえや。また、顔出させてもらいますぜ」
じゃ、と軽く頭を下げて、巳之吉親分も去っていき、後には数馬さんと私が残された。
「秋月先生は、気持ちのいい御仁だな。あれは裏表がなさそうだ。坂之上の剣術道場といえば、江戸でも五指にはいる大道場だ。きっと、秋月先生のお人柄にひかれて、門弟が集まるのだろうな。よかったな、ゆきさん」
と、数馬さんが素直な感想を述べる。本当に、好人物でよかった。もっとも、うちの父はあれで、長い年月を公儀隠密として諸国をまわってきた人間だから、人を見る目は確かだ。その父が人柄も剣の腕も褒めていたくらいだもの、きっと間違いはないだろう。
「それにしても、道場に行っても大丈夫だと俺が言ったときの、ゆきさんの顔ときたら、本当に嬉しそうだったぞ。ゆきさんは、本当に剣が好きなんだなあ」
「そ、そんなに嬉しそうに見えましたか?」
「ああ。ゆきさんは、考えていることがすぐ顔に出るな。わかりやすい」
うぐっ。高木さんとか源太にぃとか、親しい人たちには、揃って同じことを言われるのだ。どうも、隠し事ができない性質らしい。つくづく、隠密任務には向いていない人間だと、自覚している。だから、敵地潜伏みたいな真似は、そもそも向いていないのだよ。父が言うように、目立って揉め事を引き寄せるのが、私の性格にもあっていると思う。つまり、私の役割は――いわば撒き餌ですよ、撒き餌。
ふいに、数馬さんがくすっと笑った。
「急に、どうしたんですか?」
「いやな、ゆきさんはつくづく、隠し事ができなさそうな人だなあ、と思って、ちょっとおかしくてね」
ああ、さっきまで私のことをちょっと警戒している様子だったもんな。そりゃ、数馬さんも後ろめたいことがあるから、巳之吉親分の話から私が女にしては腕が立つと知り、役人の手先とかと勘違いして警戒する可能性はあるだろうな。まあ、私が隠し事に向いていないと理解して、全部取り越し苦労だったと思ったんだろう、きっと。
四つの鐘が鳴る少し前に、三好先生が来た。数馬さんは、秋月先生からの言伝を三好先生に伝えたあと、こう続けた。
「これは巳之吉親分からの言伝ですが――昨晩、この近くで杉原長按先生が例の医者殺しの手にかかったとのことで、三好先生も十分に注意してください、とのことでした。先生、なにか身の回りで変わったことがあったら、なんでも俺に教えてください。巳之吉親分に伝えますから」
数馬さんから、いつもの笑顔が消え、別人のような真剣な表情だ。そんな数馬さんを見て、この人はやはり、昨日の医者殺しの下手人ではないのでは……という考えが浮かぶ。
「そうか、親分がそんなことを。心配ない、特におかしなことはないと伝えておくれ。なに、こんな養生所の医者を、狙うものなどいやしないだろう。だが、巳之吉親分が心配してくれるとは、ありがたいことだ」
と三好先生が穏やかに言ったところで、一人目の患者がやってきた。三日前から熱が出て食が細くなったという七十歳くらいののお爺さんだ。大工をやっているという息子が、大八車に患者を乗せて連れてきた。それを皮切りに、次から次へと患者がやってくる。三好先生と数馬さんで手分けして診て、手際よく薬を処方している。
最初のうちは、三好先生の後ろで診察を手伝っていた私も、
「ゆき殿、初日からすまないが、金創の治療や骨接ぎが必要な患者を診てくれ」
と三好先生に頼まれて、いきなりの現場投入だ。
最初は、梯子から落ちて右肩が外れたといってやってきた、勘吉という名の若い瓦葺き職人だ。痛そうに顔をしかめて右肩を反対の手で押さえている。着衣を脱がせると、二の腕の付け根が内出血で真っ黒に腫れあがっている。よくよく聞くと、腕がぶらぶらだから肩が外れたと思い自分ではめようとしたが、痛くてどうしようもできないという。
うむむ。これは肩の脱臼ではなくて、上腕骨――二の腕の骨が肩の近くで折れているのだぞ。上腕骨頸部骨折ってやつだ。幸い、手の指はちゃんと動くし、感覚もあるし、指先の血のめぐりも特に悪くない。これだけ腫れているのは、骨折がそこそこ派手にずれているからだ。幸い、神経や血管には異常がなさそうだから、骨折を整復しておけばいいだろう。
「勘吉さん、これは肩が外れているんじゃなくて、肩の近くで二の腕の骨が折れているんだよ。骨接ぎをするから、ちょっと痛いぞ。辛抱しなね」
現代だったら、エックス線透視装置を使って、骨折のずれ具合を見ながら整復するんだけど、当然そんなものはない。だけど、前世で受けた守護の秘術のおまけでついてきた、例の微妙な能力のおかげで、骨折部がバラバラに粉砕していないことはわかる。まあ、なんとなく、だけどね。
布団に寝かせた勘吉さんの右肩を左手で押さえ、勘吉さんの肘の手前あたりを右手で握り、ぐいっと骨折部を軽く伸ばしながら、左手の親指でずれた骨を押し戻す。引っ張りすぎると、神経なんかが引き延ばされて障害が出ることもあるから、加減しながら、ね。
「ぎゃあ!」
と勘吉さんが絶叫した瞬間に、カチッとした感触があり、ずれた骨がいい感じで噛み合った実感がある。よし、戻った、戻った。あとは、三角巾で腕をつっておけばいいだろう。よいしょ、っと。
「勘吉さん、折れてずれた骨を、もとの位置に戻して、布で固定したよ。利き手だから、肩が固くならないように、七日後から肩の運動を始めよう。来週、また養生所に来てください」
勘吉さんは、肩をさすりながら
「本当だ、さっきよりも全然痛みがねえ。なんでえ、若い女の医者ってんで、もしや俺はこのまま右腕を切り落とすことになるんじゃねえかって心配でしょうがなかったが、こりゃとんだ取り越し苦労だったぜ」
といい、ありがてえ、ありがてえと帰っていった。来週、ちゃんとリハビリをしに来てくれるといいな。
よし、調子が出てきたぞ。じゃんじゃん行くぜ。




