てえへんだあ!
いつもより早く眼が覚めた。
今日は、里を発つ日だ。父はまだ、隣の布団で寝息を立てている。また目を閉じてひと眠りしようと思ったが寝つけず、愛刀を片手に、そっと外へ出る。
外はまだ薄暗い。もうじき、東の山の上から朝日が顔を覗かせるだろう。
抜刀し、立ち会う相手の姿を頭の中に思い浮かべ、剣を振るう。この里に来たばかりの頃は、先生や高木さんの姿を思い浮かべ、その動きに合わせて打ち込んでいた。いつの頃からだろう、立ち会う相手の姿は父に変わっていた。父の動きを眼に焼き付け、その一挙一動をなぞり、先を取る。前世でも今世でも、愚直な修行の積み重ねの上に、今の私がある。父よりも腕の劣る相手ならば、そうそう負ける気はしない――最近では、そう思えるようになってきた。
ふと、視線を感じて振り返る。いつからそこにいたのか、源太にぃが私の稽古を眺めていた。
「おはよう、源太にぃ」
「ゆき、出立の朝も稽古とは、せいがでるな」
どことなくぎこちない様子で、源太にぃが近寄ってきた。あたりに人影がいないか、きょろきょろ見回している。んんん? なんだか挙動不審だぞ。
「お前に、江戸の土産を買ってきたんだが……お前が江戸に行くことになるとは、思ってもいなかったのでな。それで、昨日は冴木様があんなことをおっしゃるし、爺はとんだ勘違いをするし、伊佐次の叔父貴にはからかわれるし、で、すっかり渡しそびれてしまった」
そう言いながら、源太にぃは懐から細長い包みを取り出した。
「これを、お前にやる」
ぽん、と無造作に手渡された包みを開くと、白銀色に輝く、平打ちの簪が出てきた。円形の飾り板の部分に、鳳凰の姿が透かし彫りになっている。美しく、精巧な細工だ。そして、銀製だろうに、触るとほんのりと温もりを感じる。
これを私に? 白銀の簪から源太にぃに視線を移す。
「いや、なにかいい土産はないかと考えたんだが、思いつかなくてな。月並みだが、簪を買ってみたぞ。お前はいつも、男のようななりをしているから、簪が入りようかどうかはわからんが……まあ、せいぜい勇ましい細工にしてみた」
思わず、嬉しさと――なぜか笑いがこみあげてくる。源太にぃ、いつもより早口だし視線が泳いでいるよ。挙動不審だしな。これは照れてるな。でも、『勇ましい細工』って、ちゃんと私の好みをわかってくれてるよ。花柄とか、嫌いだもん。
「源太にぃ、ありがとう! うれしいよ。大切にするね」
いろいろ考えて、買ってきてくれたんだね。私も口下手だから、言葉にはしきれないけれど――本当にありがとう。
「あとな、その簪には秘術をかけてある。しばらくお前に会えぬしな。それに、江戸でどんな目に合うかもわからん。お前の身が危険にさらされて、お前の力ではどうにもならないときには、この簪に神気を込めろ」
「秘術って――まさかとは思うけれど、守護の秘術みたいに、術者に危険が及ぶ、物騒なやつじゃないよね? 私のために、源太にぃが危ない目にあうのは嫌だよ」
じとーっと源太にぃの顔色をうかがう。いまや別人とはいえ、基本的な思考パターンは先生と同じだろうしな。私になにかあったときに、似たような行動をとりそうで怖い。
「いや、その心配はない。そんなことをしたら、お前が嫌がるのは知っているからな。お前が呼んでいるのがわかる、とだけ思っていてくれ」
ちょっとひっかかる言い方だけれども、嘘は言っていなさそうだ。源太にぃも私と同じで直球勝負の人だしね。
「わかった。肌身離さず、持つようにするよ。江戸にいったら、女のなりをすることもあるだろうから、そのときには使うね」
「ああ」
源太にぃは、私の言葉に満足した様子だった。
「源太にぃ」
「なんだ?」
「源太にぃも、気をつけてね」
「ああ。俺はもちろんだが、冴木様や爺や、伊佐次の叔父貴にも、怪我ひとつさせるつもりはない。俺は、忍びの術では爺や叔父貴にはかなわぬが、お婆や新八さんから受け継いだ秘術があるからな。こっちのことは心配せずに、思いっきり江戸で暴れてこい」
私の背中をポンと押し、そのまま源太にぃは去っていった。
その半刻ほど後、私は小平太さんとともに里をあとにした。
里を取り囲む山を木渡りの術で抜け、大井街道に向かう。私は総髪を若衆髷風に結い上げ、簡素な武家の旅装に身を包んでいる。笠を被っているかぎりは、旅の武芸者に見えるはずだ。というか、下手をすると笠をとっても男に見えるかもしれない。もともと中性的な顔立ちだからね。前世でも、高校時代には、下級生の女子からラブレターなんぞを受け取ることが多かったっけ。当時の同級生からは、『お前は美少年顔だ』と評されていたが……いやはや。
小平太さんは行商人姿だ。六尺近い長身で、いなせな職人風の風貌だから、どんな格好でもよく似合う。街道に出たら、小平太さんとは離れて歩くことになっている。お互い、江戸まで一人旅だ。女の旅はなにかと目立つ。男のなりをしておくのが無難であろう、とは父の言だ。
樹上から地上に降り立ち、街道に出る直前、小平太さんが話しかけてきた。
「おゆき坊、昨日の話だがな。源太のやつも、お前も……いつかは、誰かを好いた、惚れたってのが、自然にわかるようになるぜ。安心しな。じゃあ、俺は先に行くぜ」
そう言い残して、小平太さんは荷物を担ぎ、足早に街道へと向かった。
安心しな、か……
異性を本気で好きになったことがない自分自身に、どこか引け目を感じている気持ちを、小平太さんに見透かされたような気がした。
小平太さんと同い年で親友でもある伊佐次さんが言うには、若いころの小平太さんは、潜入先でずいぶんともてて、ちゃっかり遊んでいたらしい。まあ、確かに年齢を重ねた今も、男の色気らしきものが漂っている。
「小平太の野郎、わけえ頃はあれだけ遊び倒して、気がつきゃ、忍びのくせに、江戸や上方にイロまでいやがってな。まったく、俺はびっくり仰天したぜ。それでいて、女と修羅場になったことがねえ。俺は、あのからくりだけは、納得いかねえぜ」
と伊佐次さんが冗談交じりにこぼしていたけれど、きっと小平太さんは人の心の機微ってやつに敏いのだろう。
この先、敵を倒したあと、源太にぃと私の関係がどうなるかはわからないけれど……ま、今は今さ。そのときに考えればいい。
私は荷物を手早くまとめて、大井街道を東へと歩き出した。
江戸まで徒で十と一日の道のりだ。
道中は特に何事も起きなかった。五ノ井で行平街道に入り、ひたすら東に進む。九年前に父や彦佐爺と一緒に旅をしたときの記憶を逆にたどりながら、旅を続けた。
途中、父と彦佐爺に助けられた場所を通った。商人の子だった私は、ここで両親とともに野盗の一味に襲われ、殺されかけた。相原有希としての前世の記憶を、取り戻した場所でもある。前世の記憶がよみがえるとともに、この世界でのそれまでの記憶は消え去ってしまった。
私の実の両親がどういう人たちなのか、顔すら思い出せない。父――冴木源次郎の話では、実の父は江戸で小間物問屋を営んでいたが、事件の起こる八年前に突然江戸の店をたたみ、それ以来、行方をくらましていたのだという。実の母の素性も、行方知れずの八年の間、どのような暮らしをしていたのかも、二人が死んだ今、すべては謎に包まれていた。
だが、この先も、私がそれを知ることはないだろう。私の父は冴木源次郎で、今の私は桐生の一族と運命を共にする者だ。失われた過去に興味も感慨もなかった。
それから三日後、私は江戸の土を踏んだ。
とうとう江戸に来た。
江戸――前世の私がいた世界では、徳川幕府が置かれていた大都市。むろん、昭和生まれの現代人だった私が、江戸の風俗や町並みをまともに知るはずはない。私が江戸で思い浮かべるのは、テレビ時代劇のセットの町並みや小道具だ。目抜き通りには小ぎれいな商家が軒を並べ、庶民の長屋もなんだか小ざっぱりしていて、武家屋敷にはちゃんと苗字や藩の名前を大書した表札がかかっている――そんな町だ。
五ノ井の町も、この世界ではれっきとした『都会』だけど、なんといっても江戸は別格だ。そして江戸は、テレビ時代劇フリークにとって、聖地中の聖地である。暴れん坊の将軍様が町中を徘徊し、べらんめえな町奉行がいて、将軍家縁者や大名のご落胤が浪人として長屋住まいをしている町。この世界の江戸は、どんな町なんだろう。
目的地は外堀の養生所だ。外堀の養生所は、父が仕えていた上柴様が江戸の庶民のために開設した医療施設だ。いわば、前の世界でいうところの、小石川養生所のようなものなのかな。
これまた、テレビ時代劇ファンにはツボな場所である。養生所の医者っていえば、あれだ。やたら男前で、総髪の前髪がファサーッと額にかかりカールしている、謎の髪型がポイントである。
まあ、もっとも、この『前髪がカールしている、やたら男前な小石川養生所の医者』のイメージは、南町のお奉行様が主役の某国民的時代劇と、『死して屍、拾うもの無し』で有名な、某番組のせいなのだけど。
ああ、また思考があらぬ方向に迷走してしまった。ええと、外堀の養生所はどこだろう。
悲しいかな、田舎育ちの私は江戸の町でさっそく道に迷っている。桐生の里の山では、絶対に迷わないのにな。都会は調子が狂うなあ。人が多すぎて、クラクラするよ。
それにしても、江戸の町は飯屋が多い。辻売りが目立つし、蕎麦屋とか、てんぷら屋とか、寿司屋も店を構えている。江戸時代は外食が発達した、っていうけれども、この江戸でも同じらしい。
「さあさあ、こいつは天下の一大事だ!」
あっちのほうで、大声を張り上げているのは、読み売り――つまり、瓦版売りだ。通りを行く人達が、少し足を止めて瓦版売りのほうを見ている。
「名医と名高い、川原町の中井亮雲先生が、昨晩、辻斬りにばっさりだ! 腕はもちろん、人柄も評判の大先生だ、患者に恨まれるようなことは金輪際ないってこった」
瓦版売りの周りを取り囲む人垣から、どよめきが沸く。
「しかも、殺しはこれだけじゃないってのが驚きだ! 先々週も名医と評判の田崎玄信先生が、こいつも何者かにばっさり一太刀で殺されている。さ、一部始終はこの瓦版に事細かに書いてある。さあさあ、買った買った!」
医者殺しか……穏やかじゃないなあ。本当は、瓦版を買ってじっくりと読みたいし、江戸の町の様子を観察しながら歩きたいのだけれども、まずは日が暮れるまでに、外堀の養生所に着きたい。ぐっとこらえよう。
きょろきょろと左右を見ながら歩く。人が多いので、ちょっと気を抜くとぶつかりそうだ。案の定――前から歩いてきた人相の悪い着流しの男が、すれ違いざまに、こっちにぶつかってきた。おっと、こいつはきっと『当たり屋』だぜ。絵に描いたような小悪党面だ。ぶつかってきて、因縁つけて小遣いをせしめようって腹だろう。そうは問屋が卸しませんよ、っと。
ぶつかってくる相手をひょい、と身をかわして避ける。勢い余った相手は、そのままおっとっと、と二、三歩つんのめって転びそうになる。
「な、何をするんでい!」
気色ばんでくってかかる男に、
「おっと、すまぬ。そなたが転びそうになっているので、ついつい避けてしまった。抱き留めたほうがよかったか?」
と、男言葉で無難な返事をする。前の世界だと、中世では現代よりも男性の変声期が数年遅い。きっと、この世界でも男性の変声期が遅めのはずだ。私の声は成人男性よりも高めだけれど、元服前の少年武芸者で通らないこともないだろう。
「ちっ! 田舎侍かと思ったら、ガキじゃねえか」
小悪党面の男は、ぶつぶつ独り言をいいながら、人混みに消えていった。
うーん、いきなり揉め事を抱えるところだったぞ。江戸とは実に物騒なところだ。油断も隙も……
そう思いかけたところで、
「てえへんだあ!」
と叫びながら、下っ引きらしい風体の男が全速力で目の前を駆け抜けていった。
なんだありゃ。時代劇で見慣れているシーンだけれども、本当にこういう下っ引きっているんだ。てえへんだ、てえへんだ、と連呼しながら走り去る下っ引きの背中を、ある種の感動とともに、見送る。まあ、なにが『てえへん』なのか、さっぱりわからなかったけれど。
道行く人達が
「侍が暴れて、何人か斬られたんだとよ」
「へえ、そいつは一大事じゃねえか」
と言葉を交わすのを聞き、なんとなく何が大変なのかはわかった。
とりあえず事件だな。ちょいと、行ってみるか。




