一目見ただけで、ぞっこん
一瞬、思考が停止した。とりあえず、源太にぃと私の名前が呼ばれたのはわかった。そのあとは、なんて言ったっけ、ええと……めおと……め、夫婦だってええっ?
おそらく私は、五秒くらい口をぽかーんと開けて、呆けていたと思う。我にかえり、斜め前に座っている源太にぃを見ると、切れ長の目を真ん丸に見開いている。源太にぃって、こんなに目が丸くなるんだ……
そっと周りを見回すと、彦佐爺も伊佐次さんも、目が真ん丸だ。さすが家族、驚きすぎたときの反応がみんな同じだよ。
とりあえず、なにか言わなきゃ。
「え、ええと、父上……」
口の中が一瞬にしてカラカラに乾き、うまくしゃべれない。
「なんだ、ゆき?」
やたら爽やかな笑顔の父をみて、げんなりと気分が萎える。この爽やかな笑顔に見覚えがあると思ったら、あれだ。警察官だったころ、独身の部下に片っ端から見合い話を持ち掛ける上司がいたわ。あのとっつぁんと同じ笑顔だよ。たしかに警察官は出会いが少ないし、結婚相手にも身辺調査が入るから、結婚相手を手配するのも上司の務め、とばかりに気合いれる人が少なくないんだよなあ。そういうとっつぁんて、見合い話を持ち掛けたときに「ほら、いい話だろう」って、すごくいい笑顔をするんだよなあ。
そりゃ、十五歳といえば結婚適齢期ですよ。それにしても、唐突すぎる。そもそも、一族の命運について話し合っている場で、なんでまた源太にぃと夫婦になる話を持ち出すのか。
「おいこら、源太!」
私が何を言おうか逡巡している間に、彦佐爺がえらい剣幕で源太にぃの胸倉をつかみ、いまにも殴りそうな勢いだ。
「お、お前ってやつは……いつの間におゆき坊にそんな真似をっ! なんて、大それたことをしやがるんでい! 俺は……俺は……冴木様に申し訳がたたねえ!」
へ……? なんだか、彦佐爺が思いっきり勘違いをしているよ……
彦佐爺に詰め寄られた源太にぃも、一瞬なんのことかわからず、呆気にとられたまま、胸倉をつかまれて爺にぶんぶん揺さぶられていたが、勘違いされていることに気づき、慌てて頭を振る。
「じ、爺! 俺はゆきに金輪際、手なんぞつけてないぞ!」
泡をくって身の潔白を訴える源太にぃに、小平太さんが助け舟を出す。
「そうだぜ、彦佐のとっつぁん。源太のやつと一緒に江戸で過ごしたが、こいつはこの面だ。女どもが放っちゃおかねえ。いかにもおぼこな町娘から、意気と侠気がうりの芸者の姐さんまで、一目見ただけで、こいつにぞっこんだぜ。俺だって、今の源太くらいの歳だったら、むしゃぶりつきたくなるようないい女に惚れられたら、おっ立ってたさ。それなのに、こいつときたら、どんなに言い寄られても、顔色ひとつ変えやしねえ。俺が心配になるくらい、女に対する欲がねえぜ。そのうちに、こいつは男色だって噂までたって、今度は男が言い寄ってくる始末さ。いくらなんでも、妹みたいに可愛いがっているおゆき坊に、手なんて出さねえだろう」
彦佐爺は、釈然としないようだったが、とりあえず源太にぃの胸倉から手を離した。解放された源太にぃが、苦しそうにせき込む。
涼しい顔で、父が彦佐爺の肩をポンと叩いた。
「ゆきもそろそろ年頃だし、源太も身をかためてもいい歳だろう。ゆきはこのとおり、武芸に関しては並の男では相手にならぬ。源太が相手なら俺は似合いだと思うぞ。歳の差もちょうどよいではないか。源太、ゆき、お前たちはどう思う?」
咳がようやく止まった源太にぃは、呼吸を整えながらしばくら考え込む。そして、父に向けて居住まいを正し、父の目をまっすぐ見ながらしっかりした口調で答えた。
「冴木様、ゆきは、一族が大恩ある冴木様の子だ。俺のようなものは、身に余るもったいないお話だと思っています。ゆきは、気立てがいいし、見目もいい。ゆきのことは好ましく思っています。ですが……」
源太にぃは、一度言葉をきり、私のほうを一瞥して続けた。
「俺は忍びとして育ち、日の当たらぬ世界で生きるほかはない男です。それに、俺は一族の血を絶やさぬため、この里で子を成し、俺が受け継いだ技や秘術を子孫に伝えていかなければなりません。ゆきは、剣の腕は言うまでもないし、医術の心得もある。この里で一生を終えるのではなく――武芸者や医者として、表の世界で名を成す生き方もあるのではありませんか」
源太にぃの言葉を聞き、不思議な感覚におそわれる。
先生が前世で目指した、武芸者として表の世界で名をあげるという生き方――この世界の源太にぃが捨てた、そういう生き方を、託された気がした。
そして――源太にぃは、私のことを好ましく思っているって言ったけれども、それはあくまでも家族としてだ。それは私も同じだ。兄として、同志として、戦友として、大切な人だ。だから、父からいきなり『夫婦になる気はないか』と言われても、ぴんとこない。
「父上……源太にぃのことは大好きです。でも、まだ戦いも終わっていない。今はただ、皆とともに剣を振るうことだけを考えたいのです」
父は黙ってうなずいた。
それまで、父や源太にぃのやりとりに耳を傾けていた長が、口を開く。
「無理もない。おゆきも源太も、幼いころから自分たち以外の子がおらぬまま育ってきたのだ。それに、修行と戦さの日々だ。夫婦になり、子を産み育てるという気持ちになれぬのは、仕方のないことであろうよ」
長の指摘は的確だ。前世の記憶がある私はともかく、小平太さんがいうように源太にぃがやたら禁欲的なのは、育った環境も一因だろう。
私は――相原有希として生きた前世の記憶があるから、源太にぃとは事情が違うけれども、恋愛や男女の愛情には疎い。前世で警察官だったときに、相手に告白されて、形ばかりの交際をしたことは何度かあった。でも、どうしも相手に愛情を持てず――それが申し訳なくて自分から別れを告げ、長続きしたことはない。
たぶん、不仲な両親や、父の浮気を目の当たりにして育ってきたから、男女関係や夫婦というものに対して、潜在的な恐怖心や嫌悪感があるのだろう、と、当時の私は自己分析していたっけ。
だから今の私は、源太にぃとそういう仲になるのが怖いのかもしれない。私にとって大切な人だから、余計に。今は、このままの関係が心地よい。みんなと一緒に戦い、自分の腕でだれかを守れることが誇らしい。
源太にぃが、じっと私を見ている。その視線をまっすぐに受け止めて、私は続ける。
「私が剣や忍びの術の修行を続けてきたのは、父上や爺や、もちろん源太にぃもね、私にとって大事な人たちを守るためだよ。まだ、一族を狙う敵がいるもん。村上を討つまで、私は一族のみんなの許から離れるつもりはないよ。村上を討ったあとは……そのときはそのときに考える」
源太にぃは、絶対に私の覚悟を受け止めてくれるはずだ。そういう人だもん。
「お前の覚悟はわかった。敵を討つまで、俺たちと共にいろ。まったく、お前は小さいころから変わらず、まっすぐだな」
源太にぃは爽やかな笑みを浮かべている。周りにいる新八さん、小平太さんもみな笑顔だ。
新八さんが言う。
「俺たちは、おゆき坊がもし里を出るというなら、止めやしねえ。俺たちはみな、おゆき坊のことを、自分の子や孫みてえに思っているんだぜ。どんな道でも、幸せになってくれりゃ、それが一番さ」
伊佐次さんも、口を開く。
「おゆき坊、さっきは兄者が先走って、とち狂ったことを抜かしちゃいたが、俺はよ、それでもいいと思っているぜ。何しろ源太のやつときたら、おゆき坊が小せえときから、おゆき坊一筋だ。さすが兄者の孫だぜ、って、俺はこの九年の間、ずーっと思ってたぐれえだ。お似合いの夫婦になるだろうさ」
「おい、伊佐次の叔父貴、勘弁しちゃくれないか」
苦笑しながら頭をかく源太にぃの横で、
「いや、源太、すまねえ。さっきはすっかり勘違いしちまったぜ。この通りだ。申し訳ねえ」
彦佐爺が、何度も頭を下げて謝る。その様子をみて、さきほどの爺の剣幕を思い出し――なにを勘違いされたのかも思い出し――頬が火照るのを感じた。これ、たぶん、耳まで真っ赤になってるよ。
場がすっかり和やかになったところで、長が父に尋ねた。
「して、冴木様。おゆきは、冴木様とともに白沢藩に向かうということで、よろしいですかな?」
「いや、ゆきは、できれば江戸に行かせようと思う。小平太や弥助と一緒に、江戸で一味の企みを探る手助けをさせようと思うが……長、どうか?」
「白沢藩にせよ、江戸にせよ、人手の足りぬ我らにはおゆきの手を借りられれば願ってもないことです」
長が父に頭を垂れた。
江戸か……
「父上、ゆきは長の許しがあれば、喜んで江戸にまいります。でも、なぜ江戸に?」
「お前の剣の腕は、いまやひとかどの武芸者でも太刀打ちできない域にある。だが、良くも悪くも、お前の剣はまっすぐすぎるのだ。世の武芸者には一癖も二癖もある連中が多いぞ。ずっとこの里にいて、俺や敵の忍び相手に剣を振るうだけでは、これ以上の剣は練れぬだろう。俺の許から離れ、腕を磨いてこい。お前のその剣が世の名人達人相手にどこまで通用するのか、試すのがよかろう」
父の眼に、少年のような輝きが宿る。ああそうか、父上も剣術バカだもんなあ。自分の練り上げた剣を受け継ぐ私が、どこまでやれるのか気になるのだろう。
いやだがしかし……ええと、探索の任務なのに、つまりは道場破りみたいなことをしろ……と?
「でも父上、試す、といっても、どうやって? 探索のために江戸に行くのであれば、あまり目立つことは……」
父はにやりと笑った。
「なあに、武芸者というものは、腕が立つ相手をみつけると、仕合を挑みたくなるものさ。お前は普通にしていればよい。勝手に揉め事が飛び込んでくるだろうさ。それにわざと目立つのも、探索の手の一つだ」
そ、そういうものなの?
うんうんと、父の隣で彦佐爺が頷いた。
「まあ、俺たち忍びはひっそりと動くのが基本だが、目立てば目立ったで、先方からちょっかいをかけてくるぜ。おゆき坊は忍びの術もできるが、侍の子で剣術遣いだ。俺たちにはできねえやりかたで、相手の懐に潜り込めるかもしれねえ」
なるほどね。そういうことなら合点がいく。
長が父に問う。
「冴木様、委細承知いたしました。おゆきには、明日、小平太とともに発って貰います。敵のお膝元だ、万が一のこともありましょう。くどいようですが、それでもよろしゅうございますね」
「構わん。気立てが優しすぎるのが心配ではあるが、ゆきの剣の腕と、そなたらが仕込んだ忍びの術とがあれば、たいていのことはどうにかなるだろう。ゆきも、もう十五だ。俺の許を離れ、一人で生きていく術を身につけねばならぬ。ゆき、江戸で、どんな生き方があるのか、よく見てこい。この戦いが終わったあと、お前が里にとどまるか離れるか、それを見て決めても遅くはあるまい」
父の言葉は、突き放すようでいて、親としての情にあふれていた。私が戦いのあとの己の生き方を選べるように、世を見る機会を与えてくれたのだ。
「冴木様、承知いたしました。それならば、この老体もこれ以上は申しますまい。先ほど彦佐めが申したとおり、おゆきには目立ってもらい、寄ってくる相手から情報を集めて貰うことにいたしましょう。腕は立つし、この器量だ。いやでも目立つでしょう。ですから、江戸では、小平太や弥助とは、別々に動いてもらうことになります。おゆきが江戸で暮らすにあたり、冴木様に何かあてはありますかな」
「うむ、二人ほど思いつくが……一人は、外堀の養生所の医者で、三好宗哲という男だ。亡き御老中の上柴様の伝手で、何度か顔を合わせたことがある。医者見習ということで、居候はできるだろう。もう一人は、坂之上で剣術道場を開いている、秋月左馬之助という男でな。昔、手合わせをしてからの付き合いで、酒を酌み交わす仲だ」
長の問いに、父は即答した。私が江戸でどのように生計を立てるか、あらかじめ、考えていたのだろう。
長は大きく頷いた。
「ようございます。小平太、おゆき、出立は明日だ」
敵の本拠地に乗り込み、自分が何をどれだけできるか……この里の生活しかしらない私には、見当もつかない。
でも、父も彦佐爺も、揉め事は勝手に舞い込んでくる、という。確かに、時代劇では、主人公やレギュラー陣の知り合いが事件に巻き込まれたり、人が襲われているときに、たまたま主人公が通りかかったり……って感じだけど。あの遭遇率は異常だよなあ。
とにもかくにも、こうして私は江戸に行くこととなった。




