表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/92

江戸っ子も戦々恐々

 夏の日差しを遮るように、真っ白な入道雲が盛り上がる。


 山の向こうでは、きっと一雨降っているのだろう。風が、少し湿った土の匂いを運んでくる。五感を研ぎ澄ませ、空気の動きを感じ取る。

 

 目の前には、木刀を正眼に構えた父――冴木源次郎がいる。


 父の視線や筋肉のわずかな動き、剣気の流れに神経を集中する。父が右足を一歩踏み出すのと同時に、木刀の切っ先がわずかに下がるのが見えた。


 来る――そう認識すると同時に、自分の身体が勝手に動いた。膝や足首のわずかなため(・・)をばねにして地を蹴り、瞬時に父との間合いを詰める。がらあきの首筋に向かって、渾身の一太刀を浴びせる。


 きまった、と思った。


 だが、父はわずかに身体を後ろに反らせて間合いをはずし、右下段からの強烈な切り上げを放つ。


 自分の左脇に木刀の物打ちが触れるのを感じた瞬間、右斜め前に飛び込み、体勢を崩しそうになるの踏ん張りつつ、振り向きざまに父の胴を横一閃に薙ぐ。苦し紛れの一太刀が父の左脇腹に食い込むのと同時に、私の木刀は父の木刀に巻き上げられ――手首に衝撃を感じ、私は木刀を取り落とした。


「参りました」


 膝をつき、肩で息をしながら父に頭を下げる。


「ゆき、最後の一太刀は、しっかり俺の腹にきまっていたぞ。見事だ」


 父が左脇腹を手でさすりながら、笑顔を見せる。


 いや、でもなあ。最初に父からくらった脇腹への一撃、あれを父が本気で振りぬいたならば、あの時点で私はあばらを何本か持っていかれていた。父が当て止めにするつもりで加減したから、なんとか間合いを外せただけだ。


「いえ、父上。最初の逆袈裟で、ゆきは斬られています。それに、最後の私の一刀は浅い」


 そう言った私の顔がよほど憮然としていたのだろう。父は思わず噴き出した。傍らで見ていた彦佐爺も、くっくっと笑いをこらえている。


「もう……父上も、爺も、なにがそんなにおかしいのか」


 溜息をつく私に、


「いや、悪かった。俺はこう見えても、一対一の立ち合いで相手にひけをとったことは、数えるほどしかないぞ。それを、たった十五歳のお前が打ち込むのだ。それなのに、お前があまりにも不満そうなので、おかしゅうてならぬ」


と笑いながら父が説明する。


「おゆき坊、旦那様のおっしゃるとおりだ。俺はずいぶんと長い間、旦那様のお供で諸国をめぐったが、旦那様に打ち込めた相手は、俺が知る限りおゆき坊だけだぜ。まったく、てえしたもんだ」


と、彦佐爺は褒めるけれど……いやいや、爺は私に相変わらず甘いもん。忍びの術の修行のときは、厳しいけどね。


「さて、そろそろ約束の刻限だ。長の屋敷に行くとするか。昨日、江戸へ探索に出ていた小平太と源太が帰ってきたから、きっとその件だろう」


「兄は夕べ遅くまで小平太と話していましたんで、きっとそうでしょう。さ、そろそろ夕立がきますぜ。ちょっと急ぐとしましょうや」


 足早に、三人で長の屋敷に向かう。


 桐生の里が初めて敵の襲撃を受けた日から、六年の歳月が過ぎた。


 私は十五歳になった。背も伸びて、五尺五寸。前世でも、女性にしては身長が高いほうだった。もう、定寸の大刀を扱えるようになったよ。


 幼かったころは、自分の顔が前世と――相原有希のときと同じかどうかなんてわからなかったけれど、いざ成長してみると、やっぱり同じ顔だった。まあ、源太にぃが先生と一緒の顔だから、だいたい予想していたけれど、ね。


 お婆の秘術で、源太にぃと私があの世界に霊送りされたのはわかったけれど、生まれ変わって容姿まで一緒とは、これいかに。向こうの世界で再会したとき、相手のことがわかるように、って天の計らいかなあ……なんて想像している。本当のことは誰にもわからない。


 五年前と三年前に、大規模な敵の襲撃があった。だが、いずれも敵は里を取り囲む山と森とに阻まれ、里に到達することなく一族の反撃により全滅している。最初の襲撃のときに手引きをした三次さんが死んだ今、敵も里を攻めあぐねているのだろう。三年前の襲撃を最後に、敵に大きな動きはない。


 だが、桐生の一族は、今も敵の動きに目を光らせている。敵の黒幕である老中・村上主膳は今も権勢を欲しいままにしている。また、村上主膳の娘が嫁いだ篠崎藩主、山科正勝は幕閣入りを噂されている。


 人とは、権力を得れば得るほど、それにしがみつきたくなるものだ。敵はきっと、また里を狙ってくるだろう……というのが長の見立てだ。以来、里からは絶えず三、四人の精鋭が交代で江戸や篠崎藩界隈に出向き、探索を続けている。


 暗殺された老中・相馬忠良様の弟である相馬忠興は、昨年、病死したということになっている。ただ、探索にあたっていた伊佐次さんの話では、相馬忠良様の嫡子である忠孝様の毒殺を謀ったことが明るみになり、腹を切らされたらしい。こうして、相馬家のお家騒動は私たちの知らない間に幕をおろした。


 相馬忠良様や子飼いの若年寄・佐久間様が新型の焙烙玉で爆殺された件については、世間では相馬忠興の謀ということになっている。一方で、兄の生前から蟄居も同然の身だった相馬忠興が、そのような大それたことをできるわけがない、と世間では噂されていた。だが、本当の黒幕が誰か、ということに関しては、口さがない江戸っ子たちも大っぴらには口に出さない――いや、出せないらしい。なんでも、うっかり『ご老中様が怪しい』と口走った大工が、翌朝、土左衛門になっていた、という話だ。


「そういった話が一つや二つじゃねえ。どこでどう見はっているのか、見当もつかねえ。もしや、長屋の壁に耳でもついてるんじゃねえか、と、江戸っ子も戦々恐々としてやがる」


と伊佐次さんが呆れたように話すのを聞いたのは、つい三月(みつき)前のことだった。


 江戸かあ。いったいどういうところなんだろう。父や爺に助けられてから、ずっと里で育ったしな。去年から、里の誰かと一緒に五ノ井で探索の任務につくようになったけど、私が知っている都会って、それくらいだよ。


 伊佐次さんたちの話を聞く限りは、私が前世で知っている江戸っ子のイメージどおりだけど。華のお江戸、といえば、親分、てえへんだ! とか言いながら、下っ引きが往来を爆走したり、火消しがもろ肌脱いで喧嘩しているような、そんな感じ。やっぱり、火事と喧嘩は江戸の華、だぜ。ああ、気になるなあ。今回、源太にぃが小平太さんと一緒に江戸へ行くっていうんで、実をいうと、ちょっとうらやましかった。源太にぃに、江戸の話をいろいろ教えて貰わなきゃ。


 そんなこんなを考えているうちに、長の屋敷につく。寄合の間に行くと、権蔵さん、伊佐次さん、新八さん、小平太さん、源太にぃが長を囲んで座っていた。弥助さんは、小平太さん、源太にぃと入れ替わりで、江戸にいる。


 最近は、このような重要な話し合いの場に、伊佐次さんや小平太さん、新八さん、弥助さんのような比較的若い世代が参加するようになった。長もかくしゃくとはしているものの、齢七十五だし、長の右腕を務める権蔵さんも七十台だ。そろそろ次の世代に引き継ぐ準備を始めているのだろう。


「長、待たせたな」


 父が腰をおろすと、長が軽く頭を下げた。


「いえ、冴木様。伊佐次も新八も、今ついたばかりにございます。突然にお呼びたていたし、申し訳ございません」


「構わん。そなたが皆を集めるくらいだ、よほどのことであろう」


「おっしゃるとおりです。私と権蔵で、この小平太と源太から話を聞き、冴木様にもご意見を頂戴したいと思いまして」

 

 長に促され、小平太さんが話し始める。


「ご老中の酒井信友様が病のためお城にあがれないってんで、江戸の町じゃ次の老中は誰かって噂でもちきりです。普段だったら、ご老中が誰かなんて話は雲の上の話だ。下々の者にゃ関係ねえことです。それが、江戸の連中は老中村上主膳のやりかたには飽き飽きしていると見えて、長屋住まいの爺さん婆さんまで、顔を合わせりゃその話になっていますぜ」


 彦佐爺が、興味津々といった風で尋ねる。


「それで、下馬評じゃいったい誰がいったい次のご老中になりそうなんでぇ」


 彦佐爺の問いに、小平太さんは一瞬間をおき、新八さんのほうを見ながら答えた。


「それが、十中八、九、白沢藩のお殿様らしいってことですぜ」


 新八さんの細い眼が、鋭く光った気がした。


 六年半前、新八さんは塚田千之助殿という侍とともに、公儀のお役目で白沢藩に潜入した。当時から白沢藩主の殿村重次様は幕閣入りを噂されており、それに反対した老中相馬様と、子飼いの若年寄佐久間様の暗殺を仕組んだという疑いがもたれていた。そこで、塚田殿は白沢藩を探るよう指令を受けた。


 だが、白沢藩主は聡明な名君として名高く、叩いても埃がまったくでない。城に潜入した新八さんは、暗殺を謀ったという疑いを裏づける証拠をいくつか見つけたが、どれもこれもわざとらしく――何者かが白沢藩を陥れようと罠を仕組んだものと判断し、塚田殿にそれを伝えた。


 いったん江戸にもどり、白沢藩はシロで、ご公儀に偽の情報が流れている、と報告することに決めた塚田殿と新八さんは、途中の宿場で敵に襲われ、塚田殿は旅篭ごと焙烙玉の爆発に巻き込まれて死に、新八さんも敵との闘いで深手を負い、結果として右脚を失った。


 新八さんは、主の仇を討つため、血のにじむような修行を重ねた。今では、右脚に義足をつけているとは思えないほどの動きだ。


 今にして思えば、白沢藩主のような、清廉潔白で優秀な人物が老中になると困るのは、村上主膳の一味だ。当時の黒幕も村上主膳だということは、想像に難くない。白沢藩を陥れようとする企みに気付いた塚田殿と新八さんが江戸に戻り、報告をあげると困るから、ことに及んだのだろう。


「それでは、また白沢藩のお殿様が狙われるな。老中になる前か、なった後かはわからねえが」


 新八さんの言葉に、長が頷いた。


「そのとおりだ。そこで、考えがひとつある。それを皆に聞いてもらいたい」


 長の話はこうだ。


 桐生の一族をつけ狙う村上主膳と一味は、絶大な権力を握っている。一族の総力をもってすれば、村上一派の首をとることは可能だろうが、村上主膳を暗殺したが最後、桐生の一族は大逆人として追われる立場になる。そうすれば、遅かれ早かれ一族は滅亡するだろう。今まで里が防戦に徹していたのは、そういう理由だ。


 だが、村上主膳が失脚すれば……罪を犯し国許で蟄居となった者が暗殺されたところで、公儀はきっとその事実を揉み消し、病死あるいは切腹として公表するだろう。そこに、一族の活路がある――


「多少回りくどいようだが、我ら一族が安寧な暮らしを取り戻すためには、それが一番いい方法だろう。そのためには、白沢のお殿様には、なんとしてでもご老中になってご政道を正していただく必要がある」


 長がいったん言葉を切り、父を見る。


「なるほど。筋は通っているな。いくら村上主膳が極悪党でも、老中の座にいる間に手出しするのは得策ではない。下手をすれば、相馬様や佐久間様が暗殺された件も、桐生一族の企てということにされてしまうからな」


 父は頷きながらも、腕を組み、目を閉じている。これは、なにかを考えて、迷っているときの癖だ。


「冴木様にそう言っていただき、この老体も安心いたしました」


と、長が軽く頭を下げた。


「だが兄者、いったいどうやって?」


 伊佐次さんが問う。

 

「おそらく、白沢藩の領内では、お殿様がお命を狙われることはあるまい。それができるならば、とっくにやっておろう。塚田様と新八がお殿様に危機をお知らせしてから、お殿様も何らかの手をうたれたのだろう。江戸に向かう道中と、江戸の市中が危なかろうよ。警護の勝手が、ご領内とは違うからな。伊佐次と源太は、白沢藩の手の者とつなぎをつけて、お殿様の身辺をお守りしろ」


 伊佐次さんと源太にぃは、互いにちらりと視線を交わしたあと、頷く。


「小平太には、江戸に行ってもらう。今、江戸にいる弥助にはそのまま江戸にとどまってもらう。二人で、白沢のお殿様を狙う企みについて、探れ」


 長の話を黙って聞いていた父が、口を開く。


「長、話はわかった。白沢藩主、殿村重次殿をお守りすればいいわけだな。俺も手伝わせて貰おう」


「いえ、冴木様。これは我ら一族の存亡をかけた(はかりごと)にございます。冴木様のお手を煩わせるわけには、まいりません」


 思いがけない父の言葉に、長が顔色を変えて断る。だが、それで引くような父ではない。


「なに、お役目についていたときのことを思い出し、妙に血が騒ぐのだ。それに、ずいぶんと長い間、この里の厄介になっているのだ。俺も一口、のらせてもらうぞ」


 父は、にやりと笑った。父は……ときどき、少年のような無邪気な顔をする。父が言い出したら聞かないことを、長もよくわかっている。


「冴木様がそこまでおっしゃってくださるなら……かたじけのうございます」


 長は父に深々と頭を垂れた。


 父が行くなら、当然、彦佐爺も行く気満々だ。なにしろ、付き合いの長い主従だ。いまさら別々に行動するはずもない。 

 

「皆が里の外に出てしまい里の守りが手薄になるが、お婆の秘術のおかげで、敵はしばらくこの里に近づけねえだろう。兄者、俺も冴木様と一緒に行かせてもらうぜ。ただ、秘術の効果があとどれくらい持つか、お天道様にもわかるめえ。なんとか、里が守られているうちにカタをつけてえが」


 彦佐爺のいうとおり、里はお婆のかけた秘術で守られている。大井街道を逸れて里に向かう道のりは、山と森に阻まれている。里に近づこうとする侵入者は、方向感覚を失い同じ場所を堂々巡りする。


 五年前の襲撃があった直前に、お婆はこの秘術を施した。

 

 お婆が秘術をかける前、たまたま長の屋敷に来ていた私は、お婆と新八さんが言い争いをしているところに出くわした。


「お婆、俺にも手伝わせろ。さ、その秘術のやり方をさっさと教えてくれねえか」


 温厚な新八さんが、語気を荒げてお婆に詰め寄っていた。


「バカをお言いでないよ。こういうのは年寄りの役目さ。お前みたいなひよっこに任せられるかえ。お前はまだ、源太に教えなくちゃならないことが沢山あるだろう。それに、塚田様の仇をとるのが、お前の悲願だろうさ」


 このやりとりで、私は何となく悟った。お婆が使おうとしている秘術は、守護の秘術と同じように、術者の寿命を縮める代物だ。


「まあ、私も九十九だ。ここまできたら、百歳を迎えてみたいね。あと一年くらいは生きさせてもらうだけの、余力は残しておくとするよ」


 お婆が里の周りの森に秘術をかけたことを、長が一族の皆に伝えたのは、それから一週間後のことだった。


 その一年後――お婆が数えで百歳を迎えた翌々日、お婆は体の具合が悪い、といい床に臥せた。お婆の直系の子孫である長、彦佐爺、伊佐次さんと、源太にぃ、弟子の新八さん、そしてなぜか私、が順にお婆に呼ばれた。皆、お婆の死期が迫っていることを感じ取っていた。


 私を枕元に呼び寄せたお婆は、


「どうやら、あっちの世界での、私の霊送りの秘術は悪くなかったようだね。お前のおかげで、退屈しない人生だったよ。どれ、これからお前がどういう人生を送るか、じっくり見守らせて貰うよ」


といい、かすかに微笑んで、目を閉じた。そうか、お婆は本当に、何もかもお見通しだったんだね。


 お婆が百歳の生涯を閉じたのは、その翌日だった。お婆の魂は、あっちの世界の新八さんの魂のように、しばらくこの世にとどまって、一族の行く末を見守っているはずだ。


 こうして、お婆の死後も、お婆の秘術は力を発揮し続けている。


 だが、それも永久に続くわけではない。いつかは、その効果が切れるときがくる。それまでに、村上主膳を失脚させて、討たねばならない。父と彦佐爺も白沢藩に行くのか。伊佐次さんと源太にぃも一緒だな。すると私も白沢藩に行くことになるのかな……


 そう考え始めたとき、父の一言で、頭の中が真っ白になった。


「ときに源太、ゆき、お前たち、夫婦(めおと)になるつもりはないか?」


――な、なんだってえ?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=280266431&s ツギクルバナー script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ