後編~生
次に目を覚ましたとき、杉は驚愕した。
見たことがない服をまとった男女、見たことのないカラクリ。見上げるように高い、石造りの建物。夜空を仰ぎ見ると、見たこともない白く輝く月が浮かんでいた。
(どこだ、ここは……)
恐怖に囚われた杉は、たまらず走り出す。だが、地を踏みしめる脚は頼りなく、いまにももつれて転びそうだ。
そのとき、杉は――自分が齢二十七の、青年の肉体ではなく、少年の身体であることに気がついた。
自分の身に何が起こったのか、五十年以上たった今も、わからない。
杉が目を覚ましたのは、大正時代の帝都だった。養ってくれる身内も、住む家もない浮浪児として、生きてきたらしい。だが、杉にはその記憶がない。杉源十郎としての記憶が蘇った瞬間に、この世界でのそれまでの記憶がすべて失われてしまった。右も左もわからない杉のことを、それまで共に過ごしてきたらしい浮浪児仲間は、正太と呼んだ。それからは、生き抜くのに必死だった。盗み、奪った。身にしみついた剣の技術に、助けられた。腕っぷしと度胸とを武器に、またたくまに浮浪児たちのリーダー格となった。
そうこうするうちに、スリの大親分に拾われて気に入られ、正巳という名を貰い、人並み以上の教育を受けさせてもらえた。手慰みに絵を描き始めたのは、軍隊に入り、戦地に送られている間のことだ。意外に適正があったようで、戦後、いくつかの賞を貰った。そのおかげで、戦後の混乱の中、こうやって教師の職も得ることができた。
思えば、それなりに運がいい人生だったのはないか。還暦を迎えようとする今、そう思えるようになった。
だが、この世界で記憶を取り戻してからずっと、杉は言いようのない虚無感に包まれていた。どこか、現実から切り離されている世界で、己が仮初めの生を生きているような気がした。
旅の武芸者として血で血を洗う暮らしをしていた杉には、この見た目は平和このうえない生活が、虚構の世界のように見えてしょうがない。
きっと、朝になって目が覚めれば、血のにおいにむせ、体の痛みにうめいている日常に戻るはずだ。そう思っていた。だから、人との関わりをなるべく避けるように生きてきた。虚構の世界での人との交わりに、何の意味があろうか。
杉の顔立ちは理知的な二枚目として名を馳せた俳優に似ていたし、どこか陰のある雰囲気が異性を惹きつけた。あからさまに誘惑してくる女も、おずおずと気持ちを伝えてくる少女に対しても、杉は丁寧に詫びをいれ、けして誰とも交わらなかった。
杉の瞼には、常にあの日の――少女の躯をしっかりと抱きかかえた祖父の躯が焼きついていた。
(爺も叔父貴も、師も……みなを守るために戦った。俺は、誰も守れなかった)
そう悔やむ気持ちが、ずっと杉の心に住みついていた。
女を抱いて心の安息を得たい、身体を満たされたいという気持ちが、若い頃の杉になかったわけではない。だが、杉は自らの戒めとして、あえてそれらを遠ざけた。
(どうして、俺だけ安息を得ることができよう)
やり場のない気持ちが高ぶったとき、杉はひたすら剣を振るった。今は亡き師の姿を思い浮かべ、打ち込む。師の動きをなぞり、それを超えるため、来る日も来る日も、剣を振るった。
(剣はいい。無心になれる)
だが、ひとしきり剣を振るったあと、杉はいつも自問自答する。
(剣が何一つ役に立たない世界で、おのれの剣を高めて、いったい何の役にたつのか。所詮、人を斬るわけでもない。それに、俺には、守るべき相手も仕える主君もない)
そう思いつつも、杉は剣を捨てられなかった。ただひたすらに剣を振り続け、五十年以上の月日が流れた。
(そして、もう還暦か……結局、私は剣しかない人間だった。きっと、教師の職を辞したあとも、ひとり剣を振るい、この世界で朽ちていくのだろう)
杉には身寄りがない。自分ひとり死んだところで、悲しむものは誰もいない。
(死んだら、魂は私が生まれ育った世界に帰れるだろうか)
いつになく、そんなことを思いながら、杉は国鉄の駅で電車を降りて、家路を急ぐ。
駅前は、繁華街だ。いかがわしい店が立ち並び、いつもは客引きの男やけばけばしいネオンで溢れているが、さすがに三ヶ日の間は閑散としている。正月に行くあてのない客を目当てに、二、三件の店は営業しているようだ。
突然、ガラスの割れる音がし、女の悲鳴があがった。
ただならぬ雰囲気に、杉も足を止める。
続いて、男の怒号が聞こえ、再びガラスの割れる音がした。
人気の少ない通りに、あちらこちらから野次馬が集まってきた。駅前の交番に詰めている警官が駆けつけ、遠くからパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえる。
「カトレアの嬢に客が本気になったみたいでさ。嬢がけんもほろろにあしらって、客が逆上したらしいぜ」
「客が日本刀持ち出して、嬢を人質に立てこもってるらしいよ」
地元の水商売関係者の立ち話から、杉にもだいたいの事情はのみこめた。
次から次へとパトカーが乗りつけ、どこから現れたのか野次馬が人垣を作り、あたりは騒然とする。
警察官がメガホンで投稿を呼びかけるが、男は怒鳴り散らすばかりだ。
「あっ」
野次馬の人垣から歓声があがった。男が立てこもった店から、裸足の女が走り出してきたからだ。
きっと、解放されたのだろう。警官や野次馬たちが安堵したのもつかの間、歓声は悲鳴に変わった。
日本刀を持った男が、逃げ出した裸足の女に追いすがり、その背後から刀を振り下ろしたのだ。露出の多い背中に白刃を受けた女は、か細い悲鳴をあげて倒れた。
突然の凶行に警察官たちは拳銃を構えたが、至近距離に野次馬がいるため発砲できない。
女を斬って興奮した男は、野次馬の中にいた風俗嬢に狙いをつけ、白刃を振りあげて迫る。
(これはいかん!)
杉は警官隊を一瞥し、彼らが発砲する気配がないことを確認しながら、男に向けて駆けだす。
「まて!」
杉の発した制止の言葉を聞いて、男は白刃を振り上げたまま杉のほうを向き返り、渾身の力をこめて振り下ろした。
その瞬間、杉は身をかがめて膝を撓ませ、一足飛びに男の間合いに潜り込み、男の手から日本刀を奪い取った。そのまま、何が起こったかもわからず立ちつくす男のみぞおちに、当て身を入れる。男は胃液を吐きながら、その場に倒れ伏した。
一瞬の出来事である。
三十秒ほどたって、警官隊もようやく状況をのみこみ、倒れた男に手錠をかけて連行していった。
若い警察官が、頬を上気させて、杉に向かって敬礼をする。
「犯人の逮捕にご協力くださり、ありがとうございます!」
(この警察官は……いつも駅前の交番にいる子だな)
見覚えのある若い警察官の、きびきびとした立ち振る舞いに、杉は好感を抱いた。その警察官は、規則だから、と杉の名前や住所などを一通り書き留めていった。
翌日。
その日も、高校の美術室で絵筆を握っていた杉は、前日と同じくらいの時間に、昨日の事件現場を通った。昨日の騒ぎが夢だったかのように、通りは閑散としている。
(あれは……?)
杉は、電柱の影で寒さを堪えるように手をもんでいる人影を見つけた。相手も、杉が見ていることに気が付き、近づいてきた。
「ああ、あなたは昨日の……」
杉は、その若い男の顔を見て、昨日の若い警察官だと気づいた。非番なのだろう、制服ではなく、革ジャンにジーンズというラフないでたちだ。
若い警察官は杉に一礼をして、話しかけてきた。
「昨日はありがとうございました。おかげ様で、被害を広げることなく犯人を確保できました」
「いえ、たまたま通りがかったものですから」
と言いながら、杉は怪訝に思った。
(わざわざ非番のときに待っているくらいだ。この子の要件は、そんなことではないだろう)
若者は、昨日のように顔を上気させて、杉に尋ねた。
「私は、高木といいます。杉先生は……古流の剣術を遣われるのですか?」
「ええ、剣術といっても、我流ですので大した腕ではありませんが。なぜ、それを?」
高木は、恐縮したような様子で、答えた。
「真剣を持った相手だというのに、先生の踏み込みにはまったく迷いがありませんでした。それに、無刀取りの冴えが、素晴らしく鮮やかでした。
私はずっと剣道をやっているので、県内の高段者の先生がたの名前はだいたいわかりますが、杉正巳先生という名前は聞いたことがありません。ですから、きっと古流の先生だと思ったのです」
高木は、言おうか言うまいか一瞬、逡巡するような表情をみて、思い切ったように杉に告げた。
「杉先生、私を弟子にしていただけませんか」
高木から発せられた予想外の言葉に、杉は返す言葉を失う。
「なぜ、私の弟子になりたいと?」
「昨日の先生の技を見て、世の中には名も知れぬ剣の名手がおられるのだと、感銘を受けました。私はまだまだ未熟ですが、一生をかけて、剣の道を追求したいと思っています。先生の技を見て、少しでもその高みに近づきたいという気持ちを、抑えられません。お願いします。私を弟子にしてください」
情熱をこめて訴える高木の姿に、杉はふと、少年時代の自分を重ね合わせた。
(私も、こうやって師に頭を下げて、剣を教えていただいたな)
懐かしい思い出に、杉の表情が緩む。
(私の剣が、誰かの道標になる、か。そんなことは考えてみたこともなかったが、それも悪くない)
何よりも、高木というこの若者の、迷いのないまっすぐな眼差しに、杉は惹きつけられた。かつては自分も、こういう迷いのない目をしていたのだろうか。
この若者は、ただひたすらに剣の道を行く。いつかきっと、自分の手で高みに到達するだろう――杉は、そう確信した。
「いいでしょう。練習場所もろくにありませんが……それでも構いませんか?」
高木の顔が、ぱっと輝くのを、杉は優しいまなざしで眺めた。
それから二年の月日が過ぎた。
高校の教職を辞した杉は、古い民家を買い取り、この町に移り住んだ。納屋を改造して作った道場に、高木は今も通ってきている。高木は剣道歴が長いので、どうしても剣道の癖が出てしまう。だが、人一倍熱心に修行に励む高木は、いつか自分自身で課題を克服するだろう、と杉は思っている。
弟子をとった今も、自分が何のために剣を振るうのか、自分は何のためにこの世界にきたのか、杉は自分自身に問いかけ続けている。だが、高木や他の弟子たちに剣を教えることで、幾分かは気が紛れている。
昼間は、天気が良ければ庭で剣を振るうのが日課だ。
(誰かいるな……女の子か)
杉は、自分が剣を振るう姿を、ひとりの少女が生垣の向こうでずっと眺めていることに気づいていた。
こういった子供は、ときどきいる。子供は好奇心が旺盛だ。いつもならば、子供が飽きて勝手にいなくなるのに任せていただろう。
だが、この日はなぜか、この少女に声をかけたいと思った。
「ずっと見ていましたね。剣に興味があるのですか?」
生垣の角から、懐かしい面影を宿した少女が姿を現し――杉は目を瞠った。
(名もなき剣士・完)




