前編~死
短編として公開した作品を加筆修正し、本編第二部と第三部の間に組み込みました。
夕日がガラス越しに差し込むなか、杉は絵筆を動かし続けていた。元旦の校舎には、残務整理をしにきた他の教師がひとりいるだけで、生徒は誰もいない。
(まったく、正月早々、学校に絵を描きに来るなんて……私もとんだ物好きだな)
この高校に美術教師として赴任して二十年。この春には、定年退職を迎える。
戦後の混乱の中、教師という道を選んだのは、ただただ食べるためだった。人を教え導こうなどという、崇高な動機ではない。ただ、こうやって絵筆を動かしている間は、ひたすら無心になれる。
(剣を振るっているときと、絵を描いているときだけか。生きているという実感があるのは)
美術室の戸が開き、守衛が部屋を覗き込む。
「先生、まだ残られますか」
「いや……そろそろ帰りましょう。三十分くらいで出ますから、施錠をお願いします」
「わかりました。寒いですから、帰りはお気をつけて」
画材を片付け、外套を着て校舎を出る。吐く息が白い。空を見あげると、まだほのかに明るい空に、白い月がぽっかりと浮かんでいた。
この月を見上げて、喩えようもない恐怖に打ち震えたあの日から、もう五十年以上の月日が流れた。
(ついに、帰ることは敵わず……か。とうとう、還暦になってしまうな)
赤い月の輝く世界に帰りたい。この世界は夢の続きで、目が覚めたら元の世界に戻っているのではないか。最初の頃は、そう思っていた。赤い月が輝く空の下で、何人ものごろつきに囲まれ、刀で斬りつけられたときの生々しい感触を、今でも鮮明に思い出す。
(私は、あのとき、確かに死んだ。そして、この世界に来た)
杉は、遠い昔の記憶に想いを馳せる。
杉が生まれ育ったのは、忍びの隠れ里だった。名を源太、という。父も母もおらず、大叔父の家で育てられた。源太が生まれる前に、一族は忍び狩りにあい、父や働き盛りの者達はそのときに死んだらしい。身重の母を含めた一族郎党は、遠く離れた山里に移り住んだ。その母も、産後の肥立ちが悪く、源太を産んでまもなく亡くなったという。源太は、一族にただひとり残された子供だった。
一族の皆は不思議な術を使った。源太自身も、妖や人の魂を見ることができた。忍びの一族に生まれた以上、忍びとして生きるのが定めだ。一族の大人たちは、源太に忍びの術や秘術を教え込もうとやっきになった。だが、源太はそれに反発した。絶えかけようとしている一族と心中するのは、ごめんだ。そう考えた源太は、修行を抜け出しては大人たちに連れ戻された。
そんな源太が夢中になったのは、剣術だ。忍び狩りのときに一族を救ってくれたという剣客が、ときどき里に現れた。大人たちが言うには、その剣客は公儀の隠密で、源太の祖父とともに諸国を巡るお役目についているのだという。隠れ里で生まれ育った源太は、外の世界を知らぬ。外界で公儀のお役目についているというその剣客が、眩しくみえてしょうがなかった。自分も剣をならい、外の世界に飛び出したい――幼い源太がそう思ったのは、無理もない。
源太が十歳になったある日、里を訪れたその剣客に、剣を教えてほしいと頼んだ。もしかするとただの気まぐれだったのかもしれないが、剣客は、源太に剣の振り方を教えてくれた。
剣客は、半月ほど里にとどまったあと、源太の祖父を伴い、姿を消した。またお役目の旅に出たのだろう。源太は、里の大人たちに隠れて、山の中で剣を振り続けた。
次に剣客が里を訪れたのは、一年半後だった。源太は師の前で、剣を振るった。
「お前はなかなか、見込みがあるな」
そういって師に褒められ、源太は誇らしさに胸を膨らませた。
(俺はもっともっと、強くなれる。強くなって、里を抜けてやる)
源太は、里の大人たちに隠れて、今までにも増して剣術の修行に打ち込んだ。
十五歳になったとき、師が六歳くらいの愛らしい少女を連れて、里に現れた。源太の祖父が言うには、師は公儀のお役目を辞して、この里で暮らすことになったのだという。少女は、両親を野盗に殺されたところを師に助けられ、その養女となったらしい。名を、ゆきという。
最初は、生まれて初めてみる子供という生き物が、物珍しかった。だが、少女は源太に懐き、源太もそんな少女を愛おしく思うようになった。
「お前に何があっても、俺が守ってやるからな」
源太がそう告げたときの、少女の嬉しそうな笑顔が目に焼きついている。
源太は師のもとで剣の腕を磨き――十七歳になったときに、里を出た。自分の腕がどれだけ通用するか、試したかった。里の大人たちはもはや、源太を忍びとして育てるのはあきらめていたため、止めなかった。
剣の腕にはある程度の自信があったつもりだった。だが、世の中は広い。名も知れぬ名人達人を相手に仕合を挑み、無残に負けることもあった。冷たい地面に横たわりながら、死霊が自分に寄ってくるのを見えたことも、一度や二度ではない。だが、源太は生き延びた。
ときどき、里に残してきた少女に思いを馳せた。少女のことを守ってやる、という誓いは、いつも頭の片隅にあった。だが、少女には師がついているから――自分ごときがいなくても、大丈夫だろう。そう自分自身に言い聞かせて、武者修行の旅を続けた。それに、さして名をあげることもなく里に戻ったところで、里の大人たちに、それ見たことか、と揶揄されるだけだ。
里を出て十年の月日が流れ――源太は杉源十郎と名乗り、ひとかどの剣客として名を知られるようになっていた。これならば、祖父にも大叔父にも、そして師にも胸をはって帰ることができる。
だが、里に戻った杉が見たのは、生きているものが誰もいない廃墟だった。
杉は、言葉にならぬ叫びをあげて、自分が育った大叔父の家に走った。途中、風化した骸が、いくつも打ち捨てられていた。あるものは錆びた忍び刀を持ったまま骨と化しており、あるものは四肢の骨がばらばらになった状態で朽ちていた。それを眺めながら、杉は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
(いったい、なにが……)
思考もまとまらぬまま、杉は走った。大叔父の家は、焼け落ちて、炭化した柱の一部が残っていた。中には、誰の骸もない。
(師は……ゆきは?)
きっと、里は忍び狩りにあったのだ――杉はそう理解した。ならば、みな、長の屋敷に集い、戦ったはずだ。
長の屋敷も、やはり焼け落ちていた。炭化した骸の四肢が、風雪にさらされて崩れかけている。きっと、みな、ここに立てこもって戦ったのだろう。杉は、心臓が早鐘のように打つのを感じた。
奥の間だった箇所は焼かれた形跡がなかった。たぶん、ここはお婆――杉の高祖母の部屋だ。朽ちて崩れた柱の間に横たわるものを見て、杉は叫び声を上げた。
柱の下につぶされるように横たわっているのは、お婆だろう。骨が弱くなっているせいで、骨自体が崩れかけていたる
そして、その傍らで――小柄な骸が、少女の骸を抱きかかえていた。祖父と――ゆきだ。祖父は、ゆきのことを溺愛していた。きっと、最後の最後まで、この少女を守って死んだのだろう。
杉は、 全身の力が抜けるのを感じ、祖父と少女の骸の前に、膝をついた。震える手で、少女の顔に触れる。
「爺――ゆき、それにお婆も……」
双眸から涙が溢れ出る。
「爺、ごめん……ゆき、ごめんな……何も知らなくて……何もできなくてごめん……」
杉は、一族のみなの骸をひとりひとり集め、里のはずれの墓所に埋葬した。墓所の近くで、定寸の刀の脇に横たわる骸を見つけ、師も一族と運命を共にしたことを知った。
里のあちらこちらに、一族のものたちの霊がいた。無念のあまり成仏できなかったのだろうか。秘術の修行を積んでいない杉は、人の霊体を見ることはできるが、言葉を交わすことができぬ。ただ、一族の霊たちが、自分のことを責めるような目つきで見ているような気がした。
それからのことは、杉もよく覚えていない。毎日、酒を浴びるほど飲んだ。酒をうまいと思ったことはない。もともと酒には強くないほうだった。ただ、酒を飲んで泥酔しているときだけは、何もかも忘れられた。そうしないと、里で見た光景をまざまざと思い出し、胸が押しつぶされそうだった。
その日、いつものように泥酔した杉は、いつのまにか十人くらいのごろつきに囲まれていた。
「おぬし……ら、俺に……な……んのようだ?」
呂律の回らぬまま、ごろつきたちに話しかける。
「めんど……うなやつら……だな。よおぉし、まとめ……てかかってこい」
杉が言い終わるまえに、ごろつきたちは抜き身を振りかぶり、杉に斬りつけた。杉は刀を抜こうとし……手が震えて力が入らないことに気がついた。
首や胸や背中の肉が裂かれる。
そのまま杉は崩れおちた。体中から血が失われるのがわかる。にわかに酔いが醒め、頭がはっきりとしてきた。
(あっけないものだな。これも、里を捨てた報いか)
誰も守れず、何も成せず、死ぬ。
(俺は……本当に馬鹿な男だ)
意識を失う瞬間、杉は自分の身体が――魂が、誰かに抱きかかえられるのを感じた。




