三途の川に逆戻り
次の朝、父とともに長の屋敷に向かう。彦佐爺の報せによると、新八さんの意識が戻ったらしい。
父は、新八さんが仕えていた塚田千之助という、やはり隠密廻りのお役目についていた侍と、多少の面識があった。父によれば
「塚田殿は四十絡みで、剣はそこそこに遣う。人柄が練れており、機転も効く人物」
だそうだ。
新八さんが寝ている部屋に入ると、すでに長、彦佐爺、源太にぃ、弥助さんが新八さんの枕元におり、新八さんは皆が見守る中で重湯をすすっていた。
「なんでえ、人が飯食っているところを雁首そろえて見るこたぁねえぜ」
と、新八さんは弱々しいながらも笑っている。もともと細い目が、笑うと本当に糸のように細くなる。伊佐次さんや小平太さんよりも若いといっても、十八年前の生き残りだから歳は五十台半ばだろう。だが、若く見える性質なのか、見た目は四十そこそこだ。
「そんなこというな、新八。昨日まで死にかけてたんだ。みな、お前がまた三途の川に逆戻りしねえか、心配でしょうがねえのさ」
弥助さんが心底嬉しそうに、新八さんを見守る。いつもはぶっきらぼうな弥助さんが、嬉しそうにしているのを見ると、胸がほっこりするよ。
「それにしても、たかが重湯がこんなに旨えとはな。五臓六腑に染み渡るようだぜ」
と言ったところで、新八さんは私と父の存在に気がつき、椀を置く。
「これは冴木様、お久しぶりにございます」
新八さんが頭を下げ、急に動いたせいか痛みで顔をゆがませる。
「堅苦しいことは抜きだ。このたびは偉い目にあったな。せっかく命拾いをしたのだ、よく身体を労われよ」
「もったいねえお言葉、よく肝に銘じます」
父に一礼した新八さんは、私に話しかける。
「お前が、おゆき坊かい。お陰で命拾いしたぜ。お前は命の恩人だ。いくら礼をいっても言い足りねえ」
わわっ、急にお礼を言われると、どぎまぎしちゃうよ。
「それはそうと、新八、いったい何があったのだ。それに塚田様はどうされた」
長の問いに、新八さんは表情を曇らせた。
「長、半年ほど前から、たて続けにお上のお偉方が何者かの手にかかって殺されているのを知っているか」
「五ノ井で張らせている者たちから、なんとなくは、な。ただ、お上は事の仔細を民草に知らせるつもりはないと見える。誰が、どのように殺されたかすらわからぬ」
新八さんは、さもありなんと頷く。
「これから話すことは、公儀のお役目についている者でも、ごく一部の者しか知らねえ話だ。うっかり洩らせば首と胴体が離れちまうくらいのな」
新八さんは目を閉じて、記憶を辿るように話し始めた。
「一連の殺しについて白沢藩の動きを調べよという御下命を、塚田様が受けなすったのは、二月前のことだ。半年前に、御老中の相馬様が曲者に襲われて御命を落とされ、三月半前には若年寄の佐久間様が御命を落とされた。どちらも、駕篭で江戸城に御登城される途中で賊に襲われたってえ話さ。生き残った家臣によれば、賊は丸い壺のようなものを幾つも駕篭に向かって投げたらしいぜ。それが一斉に爆発して、お殿様も周りの家臣もドカン、だ。話だけ聞けば焙烙玉みたいなものだが、それにしちゃ威力が馬鹿げている」
思わず、彦佐爺と顔を見合わせる。その焙烙玉って……
「こりゃ、ご政道に関わる一大事ってんで、仔細は伏せられているてえ訳だ。花のお江戸のど真ん中でドカンと花火を上げたら、口さがねえ江戸っ子の連中のかっこうの餌だが、連中ですら話すネタがなくて、瓦版屋にも閑古鳥が鳴く有様よ。塚田様のお役目は、白沢藩が一連の殺しの黒幕であることの、動かぬ証を見つけることだった。なんでも、白沢藩のお殿様が幕閣入りするにあたり、相馬様が反対されたので、その意趣返しじゃねえかって話だった」
「白沢五万国の藩主は、殿村和泉守様か。若年ではあるが、聡明な名君と聞いているが。少なくとも悪い噂は聞かぬな」
父の評に、新八さんが頷く。
「実際に白沢藩であれこれ見聞きしても、お殿様や重臣の悪い噂はこれっぽっちも聞こえてこねえ。いまどき、こんな真っ白な藩はねえ、と、塚田様も俺も、心から感心した次第でして。ただ、一度は白沢の殿様の身辺を徹底的に調べにゃなるめえ、ということで、俺が城に忍び込んだのが、半月前のことです」
「それで、何かあったのかい」
話の先を急くように、彦佐爺が訊ねる。
「いや、それがな、あるにはあったんだが……帳簿を漁れば、妙に火薬の買取の記録が多いし、矢倉にはご丁寧に焙烙玉まで置いてあった。どれも、確かに白沢藩が事件の黒幕だという証にはなる。だが、なにか変だ。帳簿は、一度紙をばらして綴じなおした形跡があった。紙の古さや墨の色が、その火薬云々の箇所だけ不自然だ。筆跡も違う。それに、焙烙玉が納められていた箱も、妙に手前に置かれていやがってな。見つけてくれ、と言わんばかりだ。つまりは、相馬様や佐久間様を殺したという濡れ衣を白沢藩にきせようとしている連中がいて、俺たちはそのだしに使われたってこった」
新八さんは、記憶を辿るように、宙を見つめる。
「塚田様の命で、俺は次の晩、白沢藩の殿様の寝所に忍び込み、塚田様からの書状をお渡ししたのよ。書状には、俺たちが暴いた企みについて、したためてあった。塚田様は、いったん江戸に戻ることに決めなすった。白沢藩を嵌めようとした奴が誰かはわからねえが、公儀がはなから偽の情報を掴まされているのは尋常じゃねえ。塚田様は、御老中に報告をせねばなるまい、との考えだった。そして――大井街道を江戸に向かって戻る途中、三隅の宿場町で、俺たちは何者かに襲われた」
新八さんが唇を噛みしめる。病み上がりで蒼白な顔色が、さらに血の気を失っているように見えた。
新八さんは、振り絞るような声で続けた。
「白沢藩に入ったあたりから、誰かにずっと尾けられていたのは気づいていた。その晩、俺はただならぬ気配を感じて、目を覚ました。塚田様を起こし、外の様子を探るために旅籠を抜け出した瞬間、旅籠がドカンと爆破された。塚田様や旅籠のものたちや、よその泊り客ごと、な。塚田様を助けに行きたいが、猛烈な炎に包まれて、とても中には入れねえ」
みな、身じろぎもせずに、新八さんの話に聞き入る。
「それに、俺も光と煙で目をやられちまって、ろくに見えねえ始末よ。そうこうしているうちに、敵に取り囲まれちまった。十人くらいはいたか……目が見えず死に物狂いだったから、よく覚えちゃいねえ。なんとか全員を仕留めたが、俺もこのとおり、右脚に深手を負っちまった。ほうほうのていで宿場を逃げ出しところまでは覚えている。一生お仕えすると誓った、塚田様の骨すら拾えなかったんだ。これが本当の負け犬だ。俺は……俺は……自分が情けねえ」
腕を両の目にあてて、男泣きに泣く新八さんを見て、みなが言葉を失った。
しばらくして、彦佐爺が新八さんの肩を抱き、穏やかに話しかけた。
「なあ、新八。俺も、これぞと惚れ込んだ御方にお仕えしている身だ。お前の悔しさは、よーくわかるぜ。だからな、自分を責めるななんてことは、口が裂けても言えねえ。俺だって、同じ目にあったら、今のお前みたいに泣き崩れるに違えねえ」
優しく、言い聞かせるような口調だ。
「だがな、お前は右脚こそ失っちまったが、命はちゃんとある。塚田様の仇を取るために、両の腕も、左脚もちゃんと残っているしな。それに、お前にはお婆直伝の秘術がある。これからの命の使いみちを考えるにゃ、十分なもんが残っているじゃねえか。それにな、俺も冴木様も、塚田様や幕府のお偉方を吹き飛ばした、どえらい威力の焙烙玉に、覚えがあるのさ」
新八さんは血相を変えて、彦佐爺の手を握る。
「彦佐のとっつぁん、それは本当か!」
「ああ、嘘はつかねえ。三年前、この里に戻ってくる途中に、冴木様も俺も、その焙烙玉を持った名倉の忍びに襲われたのさ」
彦佐さんの言葉を、父が引き継ぐ。
「そのときから、忍びが使うには過ぎた代物よ、と思ってはいたが。幕閣や若年寄の暗殺につかわれるとはな。俺たちを狙った輩の黒幕と、このたびの幕府要人の暗殺を仕組んだ黒幕は、なんらかの繋がりがあると踏んでおる。それにな、その俺達を狙った黒幕と、この里を狙うやつらは無縁ではなかろう、と長が言うていてな」
「長が?」
新八さんは長に視線をうつし、長が重々しく頷くのを見て、また大粒の涙を落とす。
「俺は……塚田様の仇が誰かも検討もつかねえ……しかも、この身体じゃ仇も討てねえと諦めていたが、とっつぁんや冴木様の話を聞いて、神も仏も捨てたもんじゃねえと思ったぜ。長、後生だ。俺に、塚田様の仇を討たせてくれ。な、頼む」
長は、諭すような口調で新八さんをなだめる。
「新八よ、お前の無念は俺もよくわかる。だが、敵の正体もわからずにあせって動き回るのは、敵の思うつぼよ。せっかくとりとめた命、無駄に散らすことはあるまい。まだ、黒幕の正体は知れぬ。この里自体を罠として敵をおびき出し、黒幕の正体に少しでも近づくくらいしかあるまいよ。まずはその身体、しかと治せ。その間に、我らは敵をおびき出す策を練り、準備を始めるとしよう。新八、お前の働きを期待しているぞ」
「新八、長の言うとおりだぜ。俺達一族が生きるか死ぬかの瀬戸際だ。お前の力があれば、心強え。よろしく頼むぜ」
弥助さんが新八さんの肩に手を置く。
「そうだな。俺の力はお婆には程遠いが、ここ一番ではそこそこ役に立つ。弥助の兄ぃ、心配かけてすまねえ」
新八さんの顔に弱々しいながらも笑顔が戻り、みな安堵した様子だ。
「弥助、新八の手当を頼むぞ。冴木様、あと他の者も、こちらへ。策を練るとしましょう」
新八さんと弥助さんを残して私達は別室に移動し、長の秘策を聞いた。
次の朝、長は寄合の間に里の人達を集め、敵の一斉攻撃を敢えて誘い、十分な備えを持って迎え撃つという計画を伝えた。
そして翌日、伊佐次さん、小平太さんを含め計4人の精鋭が里を旅だった。目的は、幕府要人を襲った賊の動きを探ることだ。三次さんが里の襲撃のときに現れるだろう、という予想は、この四人には伝えられている。
父と彦佐爺は公儀に顔が割れているため、里に残った。父も長も、幕府の中枢に、このたびの一件で糸を引くものがいる、と踏んでいる。そして、その者が父や里を狙った者たちと、なんらかの繋がりがあるという読みだ。
そして表立っては敵にさしたる動きもなく、五か月が過ぎた。
季節は初春だ。里の周りの山にも、春の息吹が訪れている。
冬の間は敵の襲撃はなかろう、と長が見立てたとおり、この冬は何事もなく過ぎた。山里の冬は厳しい。道案内に三次さんがいたとしても、余所者にとっては里に近づくのすら困難だろう。
昨日、里では長の葬式が執り行われた。もちろん、それは敵を誘い込むための策で、当の本人はぴんぴんしている。
そして、ひと月ほど前から、五ノ井の町や近隣の諸国で、長が危篤だという偽の情報を流している。三次さんや敵は、里の長が死に、次の長による体制が整うまでの間を、襲撃の好機ととらえるはずだ。そこを万全の体制で迎え撃つ、というのが長の目論見だ。
そして今日、長の屋敷に集まるよう指示があった。長は里の男衆や女衆が揃っているのを確認し、話し始める。
「見張りについている為吉から報せがあったぞ。里に向かって、戸狩の者と、名倉の者と思われる忍びが向かっておる。里までは、あと二刻くらかかるだろう。戸狩者は七人と八人の二手に分かれ、名倉者は総勢五十三人とのことだ」
「全部で六十八人か。相手に不足はねえ」
彦佐爺が不敵に笑う。
「里の外で探索に当たっている伊佐次によれば、戸狩の忍びは、殺された御老中、相馬様の弟君の手の者とのことだ」
長の言葉を聞き、父は記憶を辿るように腕を組み、しばらくして口を開いた。
「相馬様の弟といえば、聡明な兄とは違い、若い頃からの放蕩三昧で、兄弟仲はすこぶる悪かったはずだ。俺が知る限りでは、蟄居も同然の扱いではなかったか」
「冴木様、仰せのとおりです。だが伊佐次めが申すには、兄君が身罷られてから、お世継ぎの千代丸様も病に伏せられたとのことで、一部の重臣が弟君を担ぎ出しましてな。家督は弟君が継ぐらしいとの話が、幕府の中枢にも聞こえ始めているとか」
「なるほどねえ、御老中の暗殺には、お家騒動も絡んでいるってわけか。お世継ぎの病も、どうせ毒でも盛られたんだろう」
彦佐爺が納得したような様子で相槌を打つ。
「そして、三年前の冴木様のお見立てどおり、名倉の者どもは篠崎藩の手の者でした。こちらは、小平太が動かぬ証拠を掴んでおります。それに……おそらくは、御老中の村上主膳様もこの一件に関わっておられるかと」
里を狙うのは老中、村上主膳。思いがけない大物の名を聞いても、里の皆に動じた様子はない。江戸のど真ん中での、幕閣の暗殺。不老不死の妙薬を欲して、これだけの手勢を動かす権力。そんなことができるのは、日ノ本広しと言えども、限られている。
父によれば、暗殺された老中の相馬様は、幕閣のなかでも清廉潔白な人柄で、上様にも重用されていたという。暗殺された若年寄の佐久間様も、相馬様の信頼あつく、将来を嘱望されていた。
「筋書としては合点が行くな。村上様は凡庸この上ないが、大店の商人との結びつきが強く財には事欠かない。人に取り入るのも上手いと陰口をたたくものも多かったしな。今の地位を得たのも、相当な賂をばらまいたのであろうよ。殺された相馬様が、村上様の不正を暴こうとしているとの噂もあった。村上様からすると、相馬様も、その子飼いの佐久間様も、目の上のこぶだろう」
「さすれば、村上様からすると、相馬様と佐久間様を亡きものにし、その咎を幕閣入りが噂されていた白沢のお殿様に被せれば、一石二鳥といったところでございますな。それに、村上様からすると、御息女の嫁ぎ先である篠崎藩主の幕閣入りを推したいというところしょう」
父と長のやりとりで、一連の企みが解き明かされていく。
「ですが冴木様。三年前に、あなた様がこの里にお越しになる途中で名倉の忍びに襲われたのは、いったいどういう訳でございましょうな」
長の問いに、父は首を傾げる。
「それは俺も解せぬところよ。俺が公儀のお役目を辞する際に、村上様からは随分引き留められたのだ。それを無理やり振り払ってきたようなものだ。ひょっとすると、村上様は俺が不正の証を掴んだとでも思うたのかもしれぬな」
「なんでえ、御老中ともあろう御人が、肝の小せえこった。枯れ尾花が幽霊に見えちまったな。それだけ気が小さけりゃ、不老不死の妙薬なんぞの出鱈目に飛びつくのも無理はねえ」
彦佐爺が肩をすくめた。
長が、歳に似合わぬ凛とした声で、里の皆に語りかける。
「皆の衆、聞いたとおりだ。五か月前に里を抜けた三次めが、我ら一族の女衆の生き血が、不老不死の妙薬などという出鱈目を言いふらしているせいで、どうやら、我らは欲の皮がつっぱった御老中の野心に巻き込まれてしまったようだ。今度は、我らが敵を狩る番よ。昨晩の計画から変更はない。おのおのの持ち場につき、手筈どおり進めよ。以上だ」
里の男衆や女衆は、一斉に立ち上がった。
「おゆき坊、源太、そろそろ行こうか」
という新八さんの声に促され、三人で屋敷の外に出る。
新八さんは、右脚を失ったものの、驚異的な回復をとげた。意識を取り戻してから三日後には、両手で杖をついて外を歩けるようになった。その二か月後には、片脚と両手を使って木渡りの術ができるようになった。
今では、私が絵図面を書いて弥助さんに作って貰った棒義足――紀元前からあるタイプのつっかえ棒みたいな義足をつけて、杖なしでもなんとか歩けるようになった。いつか主の仇を討つ、という新八さんの執念がなせる技だ。
今日の戦いでは、新八さんがお婆譲りの秘術で敵の気配を探り、里に入ってくる敵があれば私と源太にぃで討つ。そういう手筈になっている。
三人とも柿渋色の忍び装束に身を包み、愛用の得物を携えている。懐の手裏剣や、背におった半弓や矢筒、そして腰に帯びた脇差に不備がないか、最後の確認をする。まだ九歳の少女であるこの身体には、定寸の大刀はまだ扱いが難しい。日々の稽古でも、三年半前と同じように、父から借りた脇差を使うことにしている。源太にぃは、里の人たちと同じように長脇差くらいの長さの忍び刀を背負っている。
外に出て四半刻ほどたったころ、西の方角に炎があがり、一息おいてから花火のようなこもった爆音が鳴り響いた。驚いた鳥の群れが、一斉に木々から飛び立つ。襲撃をうけた敵が、虎の子の焙烙玉を使ったのだろう。
「はじまったな」
源太にぃが呟いた。




