亀の甲より年の功
桐生の里で暮らし始めてから、ふた月が過ぎた。源次郎さんと私が住む家は、伊佐次さん夫婦が源太さんと一緒に住んでいる家と、隣同士だ。十五年前から源次郎さんとともにお役目についた彦佐さんも、住む家がないので伊佐次さんの家に居候している。すぐ私の顔を見れる環境が気に入ったのか、彦佐さんはこのまま伊佐次さんの家に住み着きそうな勢いだ。
朝、庭で源次郎さんに稽古をつけてもらってから家に入ると、味噌汁の香りが漂う。いつものように、伊佐次さんのおかみさんが麦飯と味噌汁、梅干しの朝餉を準備してくれている。
「おとき、いつも悪いな」
と源次郎さんがいうと、伊佐次さんのおかみさん――おときさんは、
「いえいえ、これくらいはおやすい御用ですよ。おゆきちゃんは何でも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるってもんです」
とにっこり笑う。
おときさんは五十代前半。伊佐次さんとの間に三人の子供をもうけたが、十五年前の忍び狩りで三人とも命を落としている。彦佐さんの娘さんがこの里で源太さんを産み、産後の肥立ちが悪く死んでしまってからは、おときさんが源太さんを育ててきた。
桐生の里では、男も女も等しく忍びの術を鍛錬する。おときさんは手裏剣の名手で、私も先週から毎日手ほどきを受けている。最初は自分で私に手裏剣を教えようと考えていたらしい彦佐さんも、
「おときなら間違いねえ。的を狙う腕なら俺よりも上だ。それにおゆき坊も、里の女衆に早く馴染んだほうがいいだろう」
と言っていたっけ。
そして――源太さんの変わりようには里の人たちも仰天している。はじめの頃こそ、
「十の歳からまともに修行しちゃいねえんだ。いまさら修行といっても、三日と、もつめえよ」
「とうとう源太のやつ、とち狂ったか。あれだけなりばかり大きくなったやつは、きっと忍び歩きすらできめえ」
と隠すことなく言い張っていた男衆も、最近は
「いやはや、源太のやつ、存外にやるじゃねえか。何年も修行していない奴とも思えねえ」
「伊達に彦佐のとっつぁんの血をひいちゃいねえぜ。てえしたもんだ」
と、好意的だ。
里の大人達が、気安く源太さんに話しかけ、励ますようになったことで、源太さんも居心地がよくなったのだろう。源太さんが大人達と談笑している姿を、よく見かける。
源太さんが忍びの術の修行に打ちこむので、彦佐さんも大喜びだ。源次郎さんのとりなしもあり、源太さんは週に一度、源次郎さんのところで剣術を学ぶことを許された。
よかった、何もかもうまく回っている――三日前、無心で剣を振るう源太さんを見て、そう思うのと同時に、疑問が日に日に大きくなってきた。
剣の腕だけでいえば、今の源太さんより私のほうがずっと上だ。先生は十七歳のときに剣の腕に自信がつき、里を飛び出している。でも、あと二年で源太さんと私の技量の差が埋まるとも思えない。二年後の私、つまり推定八歳の少女に敵わない人が、『腕に自信がついた』とは言わないよね。
そうなると、源太さんが武者修行の旅に出るという未来も、くるかどうか怪しい。そもそも、源太さんは剣客ではなく忍びとしての生き方を選んでいる。私が前世の記憶を持ったままこの世界に生まれ変わったことで、私が先生から聞いた『過去』が変化したような気がする。そうすると、私が前世で見た夢やビジョン……桐生の里が廃墟となる事象が発生しない、という可能性もあるのだろうか。
「もうし、朝餉の途中で申し訳ありやせん」
彦佐さんの声で、我にかえる。戸口から、ぬっと彦佐さんが顔を出す。
「旦那様、長がおゆき坊を借りたいと言っているんですが、ちょっといいですかい?」
「無論、構わぬが。ゆきだけとは妙だな」
「いや、なんでも、うちの婆さんが、おゆき坊に会わせろって言ってるらしいんで。自分から人を呼ぶなんざ珍しいこともあるもんだ、と今も伊佐次の野郎と話していたところでさあ」
「その婆さんとは、お前の祖母の、おけいのことか? なんと、まだ存命であったか」
彦佐さんが頷く。
「おっしゃるとおりの、おけい婆さんです。恐ろしいことに、齢九十五を越えて、さすがに足腰は弱っちゃいるが、まだまだくたばる気配はねえ。下手すりゃ、俺や伊佐次のほうが先にあの世に逝きそうなくらいですぜ」
いきなりの呼び出しに、私はおときさんと顔を見合わせた。そのおけいさんが、私に何の用だろう? 彦佐さんの袖をちょいちょいっと引っ張って、訊く。
「爺のおばあさんはどういう人なの?」
「ああ、婆さんはな、秘術に関しちゃ里一番の使い手だ。婆さんは、妖や人の魂を見る力があるのさ」
彦佐さんによると、秘術にも得手不得手があって、妖を見たり、霊的な術を操れるものは、稀なんだそうだ。
「爺、源太にぃはどうなの?」
「源太は、婆さんと一緒で妖を見る力があるな。一族の秘術中の秘術を担うのは、婆さんや源太みたいな者さ。まあ、呪いみたいな特殊な術は、俺たちもやり方を教わっちゃいるが、俺たちとは力が段違いだ」
秘術中の秘術って、あれか。私が交通事故で死にかけたときに、先生が私に施した守護の秘術。他にも種類があるかもしれないけれど。
「ま、そんなこんなで、どういう風の吹き回しか、その婆さんがおゆき坊と話したいっていうんで。ちょいとおゆき坊を貸しておくんなせえ」
そういった次第で、彦佐さんに連れられて長の屋敷に向かった。
屋敷につくと、長が戸口で待ち構えている。
「おゆき、すまないね。うちの婆さんは、頭はしっかりしているが、足腰を痛めてからここ数年は人とも会わず、屋敷の中に閉じこもっておるのだ。それが急に、おゆきを呼べ、と騒ぎたててね。最初はついに耄碌したか、と思ったがそういう訳でもなさそうだ。いやはや、あまりにも煩うて家の者も眠れなくなってしまったわ。この通りだ、堪忍しておくれよ」
長は心底困ったようなていで、私に説明した。
「いや、この歳になっても、婆さんの前に出ると、なにもかも見透かれたような心持ちになりどうにも居心地が悪うてな」
ううう……常に冷静沈着な長が、こんなに困るとは。不安しかないぞ。
長の案内で、彦佐さんと一緒におけいさんの部屋に入る。やせこけた老婆が、布団の中で上半身を起こし、ぎょろっとした目で私達を見た。
「お前がおゆきだね」
おけいさんに見つめられた瞬間、一瞬、眩暈がして足許がふらつき、彦佐さんに両肩を抱きかかえられる。
「おっと、あぶねえ。お婆、こんな小せえ子にいきなり何しやがる」
憤慨する彦佐さんの言葉に、おけいさんはかかかと笑った。
「彦佐坊、まあそうお言いでないよ。噂のおゆき坊ってのを、早くこの目で見たかったのさ。なるほど、実に面白い子だ」
おけいさんが私を見つめる。ぎょろっとした目が、彦佐さんにそっくりだ。あれ、さっきと違って視線の圧力みたいなのは感じないな。もしかして、最初の一撃がおけいさんの術だった……?
「お前と源太が冴木様のご養女にご執心と聞いたが、いやはや、この子の源太との因縁は並々ならぬ深さだねえ」
ぎくっ。
「えっ、お婆、それはいったいどういう……」
身を乗りだす長に、おけいさんはにやりと笑い返す。
「嘉助坊、世の中には知らないほうがいいこともあるのさ。説明したところで、お前たちには理解できやしないさ。いやいや、長生きはしてみるものだね。いま見えたものを土産に、いつでも冥土に旅立てるわ」
最後の一言は、独り言のようにも聞こえた。いったい何が見えたんだろう。本当に、なにもかも見透かされているような気分だ。
おけいさんは、よいしょと布団の上に正座をして、長に告げた。
「さて、私も久々に里の者としての務めを果たすとするか。嘉助坊、週に一度、源太をここに寄こしな。秘術の手ほどきをするからね。もう十五になるか、ちょいと遅いし、その歳で仕込んでどれほどのものになるかはわからないけどね」
「お婆、それは願ってもない話だが、無理をして身体に障らないか。ここ数年、家の者ともほとんど話していないではないか」
長は心配そうな面持ちで尋ねるが、おけいさんは豪快に笑い飛ばす。
「馬鹿をおいいでないよ。気分がすっきりしたから、あと二十年は生きられそうさ」
「洒落にならねえ。こりゃ、本当に俺や伊佐次のほうが先に逝っちまいそうだ」
彦佐さんも呆れ顔だ。
「さて、嘉助坊、このおゆきのことだが――この子は、桐生の秘術を使えるかもしれないよ」
おけいさんの言葉に、長が目を見開く。
「お婆、それは本当か。秘術は俺たち一族の血を引いていないと、使えないはずだが。それとも何かい、このおゆきが、実は一族の血を引いているとでも?」
興奮のあまり、長の声が少し上ずる。一族の血脈が途絶えようとしている今、一族の血を引く子供は貴重だ。だが、長の期待はすげなく一蹴された。
「いや、そうじゃないね」
おけいさんは、ぎょろっとした目で私をじっと見つめた。
「この子から、かすかに神気の流れを感じるのさ」
「本当かい、俺は何も感じねえが」
おけいさんの言葉に、彦佐さんが首を捻る。
「ふん、お前たちみたいなひよっこにはわからないだろうが、間違うものかえ」
「亀の甲より年の功たぁ言うが、九十五まで生きる化け物に言われたかねえや」
ああ言えばこう言う、だ。あのう、盛り上がっているところ申し訳ありませんが、ちょいと質問が。
「神気、ってなに?」
おずおずと訊ねると、おけいさんが意外に優し気な声で話しかけてきた。
「桐生の一族ではね、万物には神気が満ちていると考えるのさ。そして私達一族はね、神気の流れをととのえることで秘術を使うのさ」
うおっ、急に説明が飛んだぜ。神気の流れをととのえるって、どういうことだよ。
「わかった……ような……わからない……ような」
「まだおゆきには難しかろう。そのうち、わかればいいさ。あれこれ考えずにやってみるのが一番だ」
おけいさんはこともなげにいうけれど、凡人にはそれが難しいんですよう。
「お婆、話の途中ですまないが、おゆきが一族の血を引いていないなら、なぜ秘術が使えるかもしれない、と?」
長の問いに、おけいさんは目を閉じて、呟くように答える。
「どこかの馬鹿が、命をかけて一世一代の秘術をこの子にかけたのさ。この子が死にかけたときに、守護の秘術をね。まったくしょうがない馬鹿だねえ、加減てものを知らないから、ありったけの力をこの子に注いじまって、そのせいでこの子の魂の奥底に、今もその力がくすぶっているのさ。よっぽど、この子のことを守りたかったんだねえ」
あまりのことに、息を呑む。おけいさんは……何もかもお見通しだ。
「な、なんだってえ! そいつは、どこのどいつだい」
「お婆、一族の生き残りが、我らのほかにもいるというのか? それに、守護の秘術をそれほどの力で使えるものなど、お婆と、百歩譲って新八くらいではないか」
彦佐さんや長の問いを、おけいさんはふんわりと笑ってはぐらかした。
「ふふふ、さあて、どこのどいつかねえ。私にはさっぱり見当がつかないよ。そのすっとこどっこいは、そのときに死んじまっているだろうしね。ともかくその秘術の名残で、この子の魂には私ら一族と同じ力が刻み込まれているのさ。一度、秘術の手ほどきをしてみるといい」
「秘術をかけられたほうに力が宿るなんざ、訊いたことがねえが……まあ、お婆がそういうなら間違いねえだろう。おゆき坊、何か覚えはねえかい?」
と彦佐さんに訊かれたけれども、いや、何をどう説明していいやら。身に覚えは大ありだから、余計に始末が悪い。
「おゆきに訊いても、何も覚えちゃいないよ。おおかた、秘術を施されたときに記憶をすっかり無くしちまったんだろうさ。彦佐坊、この子は小間物問屋の子っていったかい? それも怪しいもんさ。その殺されたっていう二親も、どうせこの子を拾ったばっかりってところだろうよ」
おおう、なんて適切な助け舟。思わずおけいさんの顔を見ると、にやりと笑いかけてきた。本当に、何もかもお見通しか。
「事情は概ねわかったが……お婆も同じようなことができるのか? その、相手に秘術の力を宿すようなことが」
「嘉助坊、そりゃ、この私だってやってみないとわからないがね、まあ無理だろう。やってみようとも思わないしね。命と引き換えにするには、相手に宿る力が小さすぎて、割りに合わないだろう。この子に秘術をかけた相手も、そこまでは予想しなかっただろうさ」
おけいさんは、あくびをしながら大きな伸びをした。
「さすがに、たくさん話し過ぎたかね。ちょいと眠くなってきたよ。私はこのおゆきと少し話があるから、二人とも四半刻くらい外してくれるかい?」
「ああわかった。話が終わったら呼んでおくれ。彦佐におゆきを送らせるから」
長と彦佐さんが出ていき、部屋にいるのはおけいさんと私だけだ。
さて……私も、おけいさんに聞きたいことが山ほどあるぞ。
長と彦佐さんが部屋を出て行ったあと、おけいさんが手招きをした。
「もうちょっと近くにお寄り」
言われるがままに、布団の上に正座をするおけいさんの傍に近寄る。
「ふふふ、今日は面白いものを見せてもらって、ありがとうよ。お前に秘術をかけたのは、源太だね」
本当に、おけいさんには何もかも見えているのか。いわゆる霊視だな。あらためて、おけいさんの能力の高さに驚く。
「はい……そのとおりです。なにもかも見透かされているようで、びっくりしています。おけいお婆さんには、いったいなにがどう見えているんですか」
「私のことは『お婆』でいいさね。こうやって目を凝らすと、お前の頭の後ろくらいに、うっすら影みたいのが映るのさ。お前の魂に強く刻み込まれている出来事がね。最初のは手荒なことをして悪かったね。ちょっと、霊降ろしをさせてもらったのさ。見るよりも魂が経験したことを直接、私の中にいれるほうが早いからね」
霊降ろしって、交霊……降霊ってことか。
「おゆき、彦佐坊にも冴木様にも話したくないことが沢山あろう。でも安心おし、見えたことは墓場まで持っていくからね。ふふふ、でも自分の玄孫が爺さんになった姿を見れるとは、思わなかったよ」
おけいさんの顔が、ふと緩んだ。
「爺さんになっちまった源太のやつ、優しい顔をしてお前を見ていたじゃないか。ああいう表情は、とっくの昔に死んじまった私の連れ合いに瓜二つだよ。懐かしいねえ」
おけいさんは、どこか楽しそうだ。なんだかんだ言って、源太さんのことは可愛いんだな。
「さて、おゆき。お前も私にききたいことがあるんだろう。そのうちの一つは、お前が見た夢のことかえ?」
私は頷いた。もう、おけいさんには隠し事は不要だろう。
「はい、もうお婆はお見通しかと思いますが、私には前世の記憶があります。前の人生で私が暮らしていた世界は、侍も忍びも過去のものとなった世界です」
さきほどまで機関銃のようにしゃべり続けていたおけいさんが、黙って耳を傾けている。
警察官時代の事故のこと、そして、先生の死。荒廃した里のビジョン。淡々と話しながら、おけいさんの反応を見る。おけいさんは目を瞑ったまま動かず、今の私の話にどう思っているのか、うかがい知ることはできない。
「この里がもし本当に、何者かに襲われるとしたら、私はそれを防ぎたい。彦佐爺や源太にぃたちを守りたいんです」
おけいさんの両手を手にとり、強く握りしめる。
「お婆、教えてください。私が夢でみたように、この里が滅びるようなできごとが起きるのか。どうすれば里の人たちを守れるのか」
「やれやれ、とんだ真っ正直な子だ。私はすっかり、毒気を抜かれちまったよ」
おけいさんが、ぎょろっとした眼を開き、私を見る。先ほどまでと違い、優しい眼差しだ。
「おゆき、お里の者のことを心底心配してくれて、本当にありがとうよ。皆にかわって礼をいうよ」
私に軽く頭を下げ、おけいさんが言葉を続ける。
「里を狙っている連中がいるのは、嘉助坊の見立てからも間違いなかろう。あの子の勘働きは、特別だからね。来るとわかっていれば備えようはある。どれ、私も策を練っておこうか。里が襲われる時期に、心当たりはあるかえ」
「早くて二年後、遅くて六、七年後だと思います。ただ、私が先生から聞いた『過去』と、いまの流れがすでに違ってきているので、確かなことはわかりません」
「そうかい、それではあまり猶予がないことも念頭において、備える必要があるね。嘉助坊とも話しておくとするよ」
やれやれ、頼もしい味方ができてよかった。幼女の身だと、できることに限りがあるもの。あとは……
「お婆」
「ん、こんどは何だい」
「私や源太にぃのように……魂がお互いの世界を行き来するようなことは、よくあるのでしょうか」
「さあて、それはさすがの私もわからないね。何かの術をかけた可能性はあるが……」
おけいさんは、何か思い当たることがあるのか、考え込む様子だったがすぐにかぶりを振る。
「まさか、ね。いやいや、それは私の考えすぎだろう。さて、おゆき、そろそろ帰る時間だ。嘉助坊と彦佐坊を呼ぼうか。お前にはまだまだ教えたいことや、訊きたいことがある。週に一度は、ここに来るがいい」
長の屋敷を出て家に戻る途中、彦佐さんが顔を綻ばせて話しかけてきた。
「おゆき坊、秘術を習えるぜ。よかったな」
「うん、爺の術も覚えたい。今度教えて」
「そうかいそうかい、いくらでも教えてやるぜ」
にこにこしながら私と手をつないで歩く彦佐さんの顔を見上げて、誓う。
大切な人達を守れる力を、この手に。
この手で――この腕で、みんなを守るんだ。




