懐かしい声
伊佐次さんと別れたあと、再び彦佐さんの先導で藪漕ぎをしつつ里に向かう。今は源次郎さんも私のすぐ後ろを歩いている。
「ねえ、爺も伊佐次さんみたいに、木の枝を飛び移ったりできるの?」
「ああ、あれは木渡りの術といってな。桐生の里の者にとっちゃ、基本中の基本よ。まあ、伊佐次は、とりわけ身が軽いがな。見てのとおり、桐生の里は道もねえ山の中だ。旦那様やおゆき坊がいるから、今は藪の中を歩いちゃいるが、木の上を飛んで歩くほうが楽だわな」
ええと、忍びの身体能力って、みんなこうなの?
私がよほど微妙な表情をしていたのか、源次郎さんが笑いながら教えてくれる。
「ゆきよ、桐生の里の者は特別なのだ。不思議な術を使うし、化鳥のように跳びあがる。おれも長年、諸国の忍びを見聞きしてきたが、こんな一族は他におらぬ」
桐生の里に着くと、一族の長が私達を出迎えてくれた。
「冴木様、ようおいでくださいました。何もない鄙びた村でございますが、どうぞ長年のお役目の疲れを癒してくださいませ。ただ、伊佐次めが申すには、旅の途中で名倉の者に何度か襲われたとか」
長は、彦佐さんよりも何歳か上に見えるが、背筋はピンと伸びており足取りもしっかりしている。声にも張りがあり、目を瞑って声だけきけば、四十代といっても通るだろう。
「うむ。さきほど伊佐次にも話したが、一度目は行平街道で襲われてな、二度目は五ノ井の町だ。この彦佐のおかげで、無事に切り抜けることができたぞ」
長は源次郎さんの言葉に頷いた。
「彦佐がお役に立てたようで、ようございました。冴木様が伊佐次に命じられましたように、私の家に里の皆を集めてありますのでお越しくださいませ。それとも、長旅でお疲れでしょうから、先に一休みされますか」
「いや、皆に早く話しておきたいことがあるゆえ、先に案内ねがおう」
長の家に向かいつつ、里の様子を観察する。本当に山あいの農村といった風情だ。茅葺屋根のころんとした家が、畑の間にポツリポツリと建っている。今は初冬だから葉も落ちているけれど、家の庭先に植わっている木はきっと果樹だろう。私が育った田舎町の風景に似ていて、すごく懐かしい気持ちになる。
長の家は、一際大きい萱葺屋根の屋敷だ。名主さんの家って感じだな。六間くらいの高さの物見やぐらが、屋敷のすぐ隣に立てられている。屋敷の中にはぶち抜きの土間があり、そこが寄合の間だ。私達が入ると、既に四十人くらいの男女が集まっていた。若くて五十代くらい、上は七十代かな。男も女もみな、引き締まった身体つきだ。田畑を耕して暮らしているわりに、老人も背筋がピンと伸びている。
伊佐次さんが長に報告する。
「兄者、家で寝たきりの年寄り以外は、全員集まったぞ。源太の野郎、さっきまでいたんだが、姿が見えねえ。すまねえな」
ああ、長は彦佐さんと伊佐次さんのお兄さんか。どうりで雰囲気が似ていると思ったよ。長って、上忍とは違うのかな? 上忍だと地侍のはずだけど。まあ、私の知識はテレビ時代劇がソースだから、相当怪しいけれど。
「わかった。伊佐次、ご苦労だったな。冴木様、桐生一族で忍び働きができるもの総勢三十八名、ここに集まりましてございます」
長は、源次郎さんに深く一礼したあと、里の人たちに告げた。
「このたび大恩ある冴木様が、ご公儀のお役目を退かれて隠居されることとなった。だが冴木様と彦佐が、この旅の途中で、二度も襲われたとのことだ。彦佐よ、冴木様を狙ったのはどんな奴らだ」
「どこの家中の手先かわからねえが、名倉の忍びがしめて十五人。五ノ井の町では、浪人者を十六人も引き込んで、旅籠に夜討ちをかけてきたぜ。どんな料簡か知らねえが、忍びのくせに町のど真ん中でとんだ荒働きよ」
彦佐さんは、畳みかけるように一気に説明する。
「名倉の連中が使った焙烙玉が、馬鹿げた威力だったぞ。たかだか握りこぶしくらいの大きさの焙烙玉で、三間四方が木っ端みじんよ。あれはいけねえ。忍びが使うにしては、過ぎた代物だ。使い方ひとつで、ご政道を揺るがしかねねえ」
里の人たちの間に、小さなざわめきが起きる。確かにあの威力があれば、要人の暗殺も思いのままだ。多少護衛がいても、何発か放りこめば丸ごとドカン、だしな。
「なんと、五ノ井の町でそのような荒働きをしでかしたか。町育ちとはいえ、忍びの風上にもおけぬ連中だな」
彦佐さんの話を聞いて、長の顔が曇る。どうやら忍びの世界では、町育ちと山育ちの間に、相容れぬものがあるようだ。
「あと兄者よ、それだけじゃねえ。大井街道からこの里に向かう道を二里ほど入ったところで、熊に襲われて死んだ忍びの骸があったぜ。あいつは名倉の忍びじゃねえ。それに、俺たちをつけていたわけじゃなさそうだ」
「彦佐よ、それは確かか。冴木様をつけてきたわけではないとすると、狙いはこの桐生の里か」
長は目を閉じて一瞬黙り込み、しばらくして口を開いた。
「思い当たることがあるぞ。二月ほど前から、山の鳥や獣がやたらに騒ぎ立てる。見慣れぬ者が出入りしているのを見て、警戒しているのだろう。どうやら、我らのことを探っている奴がいるようだな」
「長、そなたたち一族が桐生の里を再興して以来、かようなことは初めてか?」
源次郎さんの問いに、長が答える。
「はい。この十五年間、里の見張りには手抜かりはありませんが、このように不穏な動きがあったのは初めてのことにてございます。ご覧の通り一族を継ぐ若い者もおらず、我ら一族は絶える運命と知り、どこかの家中のお抱えとなるといった望みもありません。今さら我が一族が狙われる覚えもありませぬ。せめて何かのときに冴木様のお役に立てればと思い、皆で忍びの技を磨く日々でございます」
源次郎さんは長の両手をとり、深く頭を下げた。
「そうか。そなたたちの真心、この冴木源次郎、心から感じ入ったぞ。改めて礼を言う。この里が狙われているのと関係があるかどうかはわからぬが、この道中で俺たちを狙った黒幕に、存外な大物がいるやもしれぬ」
「それはいかようなことで?」
「俺たちを襲った浪人どもは、ことが成れば篠崎藩にお取立てがあると言われていたらしい。篠崎五十万石には、今の御老中・村上主膳殿の御息女が輿入れされてな。もしかすると、御老中や篠崎藩がこの一件に絡んでいるやもしれぬのだ。もっとも、俺には御老中や篠崎藩に狙わる覚えはないのだが」
「御老中や五十万石の御大名、ですかい。名倉の連中が使っていたという焙烙玉といい、桐生の里をつけ狙う奴らといい、きな臭い動きばかりだぜ」
伊佐次さんが唸る。里の人たちも、驚いたように囁きを交わし合う。
「それでな、俺たちがこの里にとどまることで、そなたらにいらぬ火の粉が降りかかるのではないかと、俺は思うておる。せっかく安住の地を得たそなたらが、また血なまぐさい戦さに巻き込まれるのを、俺は好まぬ。何日か里にとどまり骨を休めたら、また旅に出ようと思う」
「旦那様、そりゃねえぜ」
大きな声で抗議する彦佐さんを片手で制して、長は静かに源次郎さんに語りかけた。
「冴木様、我ら、忍びの世界で少しは名の知れた桐生の一族です。生き残ったこの者たちは、齢を重ねたとはいえ皆、名うての手練ればかり。大恩ある冴木様のためなら、命を惜しむものはおりません。むしろおのれの技を冴木様のためにふるえるのは、本望といえましょう。なにしろ、冴木様の供についた彦佐めを羨んで、俺も俺も、とみな煩そうてしょうがありませぬ」
男衆の何人かが、そうだそうだ、と大きく頷く。
「あいわかった。そこまで言うならば、俺はこの里に留まり、そなたらと共に備えることとしよう。ただし、俺のために命を捨てるようなことは、ゆめゆめしてくれるなよ」
「さすが旦那様だ、話がはええ」
彦佐さんが、ほっとした様子だ。
つられて私も安堵する。その途端、源次郎さんにぐいと肩を抱き寄せられた。
「それはそうと、これは俺の娘で、名をゆき、という。まだ幼いが、二親を失い俺が育てることにした。剣術はもちろん俺が仕込むが、この子に、忍びの術も教えてはくれぬか。むろん、生半可な修行でないことは存じておる」
長や里の皆さんの視線が、一斉に私を向く。ううう、居心地が悪いぜ。
「差し支えなければ、理由をお聞かせ願えますでしょうか」
長が源次郎さんに問う。
「おかしな話と思うだろうが、この子の武の才を目のあたりにして、俺はどうにもこうにも、この子に自分の剣を教えこみとうてしょうがないのだ。だが所詮は女の身。いくら剣の腕が優れようとも、膂力では男に敵うまい。俺は、この子が生き延びる術を身に着けさせたい」
長は、にやりと笑う源次郎さんと私の顔をしげしげと見比べたあと破顔し、大きく頷いた。
「ようございます。冴木様がそこまで惚れこみなすった子だ。忍びの術も、きっと覚えがはやいことでしょう。うちの年寄り連中も、教え甲斐があるに違いありません。それに、うちの彦佐が、その子のことを相当気に入ったようだ」
「兄者の子供好きは今に始まったこっちゃねえが、その子のことを話しているときの兄者ときたら目尻がすっかり下がりきってやがる。俺は生まれてこのかた、こんなに顔の締まりのねえ奴には、お目にかかったことがねえ」
と、伊佐次さんが茶々をいれる。
「おいこら伊佐次! なに抜かしやがる!」
ごつんと伊佐次さんの頭を小突く彦佐さんに、里の人達が笑いながら
「おい彦佐のとっつぁん、すっかり孫をあやす爺の顔になってるぜ」
「お前のところの兄弟喧嘩は見飽きたわ。憎まれ口もたいがいにしやがれ」
と野次をとばす。
その後、里の見張りをこれまで以上にかためるよう長が指示し、寄り合いはお開きになった。
「さて、冴木様がお住まいになる家に案内いたしますゆえ、どうぞこちらに」
長みずからの案内で屋敷を出た瞬間、何やら熱い視線を感じた。んんん?
長、源次郎さん、彦佐さん、私の四人が、ばっと同時に左後ろを振り向いた。
屋敷の陰から、十四、五歳の少年が熱い眼差しで源次郎さんを見ている。
「なんだ、源太じゃねえか」
彦佐さんの声に、私はまじまじと少年の顔を見た。
彦佐さんの言葉に、少年――源太さんが一瞬、きまり悪そうな顔をした。ああ、さっきの寄合をさぼっていたもんね。
「源太、久しいな。そんなところに隠れていないで、こちらに来い」
源次郎さんの声に、源太さんがぱっと顔を紅潮させ、駆け寄ってきた。
「冴木様、里にいらっしゃるのを心待ちにしていました。また俺に、剣術を教えてください」
源太さんの言葉に、彦佐さんはおかんむりだ。
「おい、源太! お前、忍びの術の修行もしないくせに、旦那様のお手を煩わせるなんざ、どういう料簡だ!」
彦佐さんが源太さんに小言を言っている横で、源太さんの顔を見あげる。
十五歳といえば、そろそろ成人とみなされる年齢だ。声変わりはすっかり終わっているが、まだ顔立ちには少年のようなあどけなさが残っている。
某国民的時代劇のお奉行様に似た、端正な顔立ちと、若々しい張りはあるが、聞きなれた懐かしい声の響き――この人は紛れもなく、若き日の先生だ。そう確信した途端、胸がいっぱいになり、気がつくと両目からポロポロ涙が流れ落ちていた。
頭ではわかっている。この人は先生だけど、先生じゃない。どういう訳か顔も声も先生と同じだけど、大正時代に生まれ変わったあとに杉正巳として生きてきた人じゃない。その前世の人だもん。
「おい、おゆき坊、どうした?」
声も出さすにポロポロ涙を流す私をみて、彦佐さんがあせる。
「わから……ないけれど……なんだか……すごく懐かしい感じがして」
懐かしすぎて、自分の感情が暴走している。なんだなんだ、涙が止まらないぞ。
「この子は?」
訝しむ源太さんの問いに、源次郎さんが答える。
「この旅の途中、野党に襲われた親子連れがいてな。役人の調べだと、親は小間物問屋らしいが、本当かどうかは知らぬ。この子だけが助かり、俺が自分の娘として育てることにしたのだ。襲われたときの恐怖からか、それまでの記憶をすっかりなくしてしまっているが、もしかするとお前くらいの兄がいたのかもしれぬな」
源太さんは、腰をかがめて膝をつき、私の顔を見つめた。
「そうか。俺は源太という。冴木様が名付け親だ。父は俺が生まれる前に死んで、母も俺が生まれたときに死んだ。お前も俺と同じ身の上だな。お前の名は?」
「ゆき……です」
「そうか。ゆき、つらい目にあったな。俺のことは兄と思うがいいぞ。俺もなぜか、お前のことが他人とも思えん」
源太さんの優しげな笑顔を見て、遠い昔のことを思い出した。
先生と初めて出会ったときも、こうやって私と視線の高さを同じにして、優しく話しかけてくれたっけ。前世でも、やっぱり先生は変わらないな。
「さ、泣き止んだか。ゆきは強い子だな」
と言いつつ、自分の着物の袖で私の顔を拭う源太さんを見て、源次郎さんと彦佐さんがにこにこ笑っている。
「彦佐よ、源太の子供好きは、どうやらお前譲りだな」
「へえ、どうやらそのようで」
小言は言っても、源太さんだって彦佐さんの孫だもの。そりゃ、可愛いよね。
「それにしても、こんなに屈託のない源太を見るのは、何年ぶりか……」
長が、そうつぶやくのが聞こえた。
前世で先生からきいた話だと、里の大人達が先生に忍びの術を教え込もうと躍起になって、先生は反発したんだよね。忍び狩りにあって一族の若手は全滅、たった一人残された子孫だもの、大人達の気持ちもわかるし……源太さんが反発する気持ちもよくわかる。
うんうん、源太さんも大変だったね。そういう気持ちを込めて、源太さんにぎゅっと抱きついた。
「爺、里に子供がいないから知らなかったが、子供がこれほど可愛いものだとは思わなかったぞ。こんなに手も小さくて柔らかい生き物がいるとは、本当に不思議だ」
源太さんの声音に、はしゃぐような響きが混じる。
「旦那様、こりゃいけねえ。源太の野郎、すっかりおゆき坊に参っちまってますぜ」
「まあ、お前の孫だからな。血筋とは争えぬものだ。ほれ、あの笑っている目許とか、お前に瓜二つではないか」
彦佐さんも、源次郎さんのことばに苦笑いだ。
「いいか、源太。その子は、冴木様と共にこの里に住まうことになった。妹と思い、しっかり守るんだぞ」
「ああ、わかった」
その様子を見守っていた長が、口を開いた。
「源太よ、その子はな、才を見込んだ冴木様が剣を教えなさるそうだ。それに、冴木様からのお頼みで、我ら一族が忍びの術を、この子に教えることになった。むろん、秘術は使えんだろうが」
「長、それは本当か?」
源太さんと目があった源次郎さんが、小さく頷く。
「ゆきは、父上や爺を守れるくらい強くなりたい。忍びの術も、強くなるために覚えたい」
源太さんの目を見ながら、そう答えた。守りたい相手には、源太さん、あなたも入っているんだよ……今は言えないけれど。
「源太、おゆき坊はな、こう見えても、旅の途中で二人も浪人者を斬り捨てている。歳に似合わぬ、凄腕よ。野盗に襲われる前のことをすっかり忘れちまっているから、どういう素性かはわからねえが、どう考えてもただの小間物問屋の娘じゃねえ。どんなつらい生い立ちかもわからねえ。ただな、本当に気立てがよくて、賢い娘よ。この子が冴木様や俺を守るために、忍びの技を覚えたいっていうんだ。え? 泣かせるじゃねえか」
彦佐さんがずずっと洟をすする。
「そうか……こんな小さな子が、な」
源太さんは、私を見つめ黙りこくった。しばらく何か考え込むような様子だったが、やおら立ち上がり、長に向かって告げた。
「俺も負けていられないな。長、爺、俺も心を改めて、忍びの術の修行に身をいれることにするぞ」
源太さんの端正な顔に、晴れやかな表情が浮かぶ。彦佐さんは、口をポカンと開けたまま固まっている。
源太さんが、やる気を出した……だと?




