むささびのなんとか
五ノ井の町を出て三日目。
このあたりは、海岸からすぐに、山が立ち上がっているような地形だ。山と海との間の僅かな平地を、大井街道が走る。大井街道は、東西の交通の要だ。行平街道よりも、道幅が広く、宿場や休憩所も段違いに賑わっている。
今日は、ときどき小雪がちらついている。海からの風がさほど強くないこともあり、歩いている分には、寒くはない。
宿場を出て三里半のところで大井街道をはずれ、山側に続く細い道を歩く。いや、道といえるのかどうか。こんもりとした常緑樹と、落葉樹の雑木の間に、下藪が生い茂る。よくよく見ると、多少は人が踏み固めたであろう痕跡はあるものの、普段は人っ子ひとり、通らないに違いない。
こりゃ、歩くというより藪漕ぎだよ。先頭を行く彦佐さんが五ノ井で調達した山刀で、下藪をざっくざっく薙いでくれるけれども、一里進むのも一仕事だ。大人の体格なら、一跨ぎできる藪でも、幼女の身体だとそうもいかない。ちょっとしたことで下藪に脚をとられる。ふう。ほんと、体力勝負だぜ。
「おゆき坊、この道を三日進んで山を二つ越えれば、もう桐生の里は目と鼻の先だ。ありがてえ、雪が本格的に降り始める前に着けそうだぜ」
三日間か……今、すごく軽く言われたけれど、三日間これが続くと思うと、なんだかくらくらしてくるぞ。それにしても、凄い山奥だなあ。確かに、先生も『山深い隠れ里』って言っていたけれど。
異変が起きたのは、日が傾く前に、と彦佐さんが野宿の支度を始めたときのことだった。
ざざざざっ、と何かがもの凄い勢いで藪の中を進んでくる音がする。
「まずい、熊だ! 頭に血がのぼっているのか、凄い勢いで来やがる。さ、旦那様はおゆき坊を連れて、この木の上に登ってくだせえ」
「爺は?」
「俺は大丈夫だ。さ、早く」
彦佐さんは、腰につけた袋から棒手裏剣を一本取り出し、右手に構えた。
藪をかきわける音が次第に大きくなり――熊が現れた。大きい。ツキノワグマくらいの奴がくるかと思ったら、やたら大きい。立ち上がったら、彦佐さんよりもずっと大きいじゃないか。
熊は、彦佐さんの姿を見ると、腹の底から響くような唸り声をあげ、牙をむいて彦佐さんに飛び掛かる。
思わず目をつぶった私の肩を、源次郎さんがしっかりと抱きかかえた。
「彦佐なら心配いらぬ」
その声に、震えながらも目を開ける。
彦佐さんが声にならないくらいの小声でなにかをつぶやき、棒手裏剣を放つ。手裏剣は、彦佐さんの手を離れた瞬間に白い輝きを放ち、光球となって熊の頭部に命中した。
光球は熊の頭部を蒸発させ、消失する。頭部を失った熊の身体は、突進する勢いを緩めぬまま前ののめりに崩れ、勢い余って三回転し、ようやく止まった。
「おゆき坊、終わったぜ。降りてきな」
彦佐さんの手をかりて木から降り、熊の骸を見た私は……その異様な光景に言葉を失った。
頭は綺麗さっぱり、無くなっている。残された首の断面は動脈の断端や、筋からの出血がまったくない。きれいに凝固している。しかも、まったく焦げていないから、高熱で凝固したわけでもなさそうだ。骨の断面も、信じられないくらい滑らかだ。
見れば見るほど、整形外科医的には異常な断端だ。どういう現象だ、こりゃ。前に、私が斬り殺そうになったときに、相手の頭が吹っ飛んだのも、多分、この技だったのだろう。
これが、彦佐さんの一族に伝わる、秘術……か。
「びっくりしたか、おゆき坊。もう大丈夫だ、安心しな」
彦佐さんに抱き寄せられて、自分の両脚がガクガク震えていることに気がつく。
「旦那様、見てくだせえ。この熊の右肩に刀傷がある。どっかの阿呆が、血迷って中途半端な浅手を負わせやがった。それで、頭に血がのぼったんでしょう」
彦佐さんが渋い顔をする。
「たぶん、その阿呆の骸がその辺に転がっていますぜ」
彦佐さんのいう通り、少し離れた場所に行商人姿の男が倒れていた。肩口から背中にかけて熊に切り裂かれた痕跡がある。彦佐さんが懐をまさぐると、車手裏剣や暗器のようなものがいくつか出てきた。傍には刃に血のついた仕込み杖が落ちていて――きっとこれで熊に斬りつけたのだろう。
「こいつは忍びだ。名倉のやつじゃなさそうだが……多分、俺たちを待ち伏せしようとして、熊に出くわしたんでしょう」
「それにしては、見張られている気配がなかったが」
「すると、狙いは旦那様じゃなかった、ってことですかい」
「おそらくは、な」
ふう。傍で二人のやりとりを聞いているうちに、ようやく震えがとまったぜ。
「ゆき、もう大丈夫か?」
「はい、それと父上……」
「ん? なんだ」
「ゆきは、父上も、爺も、熊から守れるくらい、強くなりたいです」
源次郎さんが微笑む。
「そうか、怖いおもいをしたばかりなのに、ゆきは本当に気丈だな」
怖かった。
荒れ狂った熊にかかると、人間の身体などひとたまりもない。彦佐さんに、さっきの秘術を教えてもらおう……かな。
野宿の支度が整う頃には、パラついていた小雪も止んでいた。
彦佐さんが、石と土くれを使って、簡単なかまどを作った。彦佐さんがバラした熊の肉を削った小枝に刺し、串焼きにして食べる。おお、サシが入った、なかなかに旨そうな肉だな。
「どれ、そろそろ焼けたか」
待ちきれずに源次郎さんが何度も手をのばすのを、
「父上! まだ駄目です。ちゃんと火を通さないと!」
と、必死でガードする。
だって、野生の熊だよ? E型肝炎が……寄生虫が……
「おゆき坊は、しっかりしてるぜ。旦那様も形無しだ」
彦佐さんが、くくくっと笑う。
――そうだ、いま、思いきって訊いてみるか
「ねえ、爺」
「なんだい、おゆき坊?」
「さっきの熊を倒した技って、なに?」
「ああ、あれはな、俺の一族に伝わる秘術だ。一族の血を引く者じゃなくちゃ、秘術は使えねえ」
せっせと肉を串にさす彦佐さんの横顔が、少し寂しそうだ。
「最近は、里の者も年寄りばっかりになっちまった。若ぇのは、うちの孫の源太くらいさ。他の若い衆は、みんな死んじまった」
彦佐さんの言葉に、凍りつく。確かに、先生は『一族の人数もかなり減っていた』って言っていたけれど……
「彦佐の――桐生の一族はな、もともとは別の地に住んでいたのだ。そこで忍び狩りにおうてな」
源次郎さんが、彦佐さんの話を補足する。
「桐生の一族は、腕がたつだけに、他の忍びの一族からすると目障だ。そやつらが家老と謀り、家老が桐生一族の皆殺しを命じたのだ」
愚かなことよ、と源次郎さんはつぶやいた。
「さっき旦那様が言ったとおり、俺の一族は忍び狩りにあってなあ。本当に不意討ちで――迎えうとうとして血気にはやって飛び出した若い衆は、男も女も、みな死んじまった。生き残ったのは、ちょっとした分別があった四十、五十がらみの俺のような連中と、動けねえ年寄り、それに腹にややがいた俺の娘だけさ」
なんて言えばいいんだろう。彦佐さんにかける言葉が思い浮かばず、かわりに、その背中に顔をうずめて抱きしめる。いつもよりも、背中が力なく丸まっているような気がする。思い出したくないことを、思い出させちゃったかな……ごめん。
「爺、ごめんなさい」
「もう十五年も前の話だ。いいってことよ。おゆき坊、ありがとな」
彦佐さんの背中が、しゃきっと伸びた。
「俺たちが、もはやこれまで、と思ったときに、ちょうどお役目で藩の不正を探っていた旦那様が駆けつけてくだすってな。御家老の蟄居により、忍び狩りの命令がお取り下げになったと、殿様の御下命があったおかげで、俺たちは命拾いした。だから、俺たち桐生の里の者は、旦那様には返しても返しきれねえ恩があるんだ」
「いや、あのとき、俺がもう少しはやく駆けつけていれば、お前たちの一族が無駄に死なずにすんだかと思うと、悔やみきれぬ。すまん」
源次郎さんが頭を下げる。慌てて、彦佐さんが源次郎さんの肩に手をそえる。
「どうか顔を上げておくんなせえ。助けていただいたうえに、生き残った一族郎党がここに移り住む手筈まで整えてくだすったんだ。恩こそあれ、恨むなんて気持ちは、桐生の里の者はこれっぽちも持っておりやせんぜ」
話しこんでいるうちに、すっかり日暮れ時だ。
「さ、そろそろ寝ましょうや」
彦佐さんが腰をあげる。
そうだね、明日も藪漕ぎだ。しっかりと体を休めなきゃ。
藪漕ぎを始めて三日目。初日こそ小雪が舞っていたが、昨日も今日も天候に恵まれている。
「爺、桐生の里の人たちは、いつもこんな大変な道を行き来しているの?」
「桐生の里はな、隠れ里だ。十五年前にこの地に一族郎党で移り住んでからは、外とのやりとりはほとんどねえ。もうみんないい歳だ。たいていのやつは、畑を耕して、ときたま猟に出るくらいだな」
源次郎さんは、彦佐さんと私の三十間くらい後ろを歩いている。少し離れて歩いたほうが、追跡者がいた場合に気配をつかみやすいからだ。
「うちの孫の源太は、忍びの術の修行をほったらかしにして、頻繁に里を抜け出しているらしいがな。俺は旦那様とお役目の旅に出ていることが多いから、直接は知らねえが。いったい、どこで何をしているのやら皆目見当もつかねえ」
ふと彦佐さんが足を止める。
「おゆき坊、見てみろ」
彦佐さんが指さしたほうを見ると、木々の隙間から猫の額ほどの盆地が見えた。いかにも農村、といった萱葺屋根の家が肩を寄せ合うように建っていて、周りに畑が広がる。ここが、故郷を追われた彦佐さんの一族が住む、桐生の里か。
「俺だ、彦佐だ! 今戻ったぞ!」
彦佐さんが大声で呼びかける。
ひゅっと頬を撫でる風とともに、私達の傍の木の上から一人の男が飛び下り、猫のように音もなく着地した。
彦佐さんよりよりも五歳くらい若いかな。小柄で細身の身体をつつむ野良着は、彦佐さんの忍び装束と同じ柿渋色だ。
「兄者、ようお戻りで」
男は彦佐さんの顔を見て、歳に似合わぬ屈託のない笑みを浮かべた。彦佐さんの弟さん? 言われてみれば、顔の造作は全然違うけれども、笑った目が似ている。というか、弟さんのほうが、顔の各パーツが先生と似ているな。おおっ、これはこれは。我ながら不躾だなと思いつつも、ついつい弟さんの顔を見つめてしまう。
「久しぶりだな、伊佐次。達者そうで何よりだ。すぐに冴木様も来られるぞ」
「ああ、ここまで飛んでくる途中で、冴木様のお姿も見たぜ」
と、飛んでくるだってえ? ぽかーんと呆けている私を、伊佐次さんと呼ばれた人が訝しげに見る。
「兄者、この子は?」
「この子は、冴木様の養女でおゆき坊ってんだ。この旅の途中で、野盗に襲われた親子連れがいてな。親は二人とも斬られて死んじまったが、この子だけはなんとか助けることができたのよ」
彦佐さんが伊佐次さんと話しているあいだに、ガサガサっと藪をかき分ける音がして、追いついた源次郎さんが顔をだす。
「伊佐次、久しいな。息災か?」
「へい、お陰様で。里の者一同、冴木様のお越しをお待ちしておりやした」
伊佐次さんが、ちょっと畏まった面持ちで、源次郎さんに頭を下げた。
「堅苦しいことは抜きだ。これから世話になる身だからな。俺にも娘ができてな、名をゆき、という。親子ともども皆の世話になるが、よろしく頼むぞ」
「へい、俺たちにできることならなんでも」
伊佐次さんが、またまた畏まって頭を下げるのを見た彦佐さんが、笑いながら伊佐次さんの頭を軽く小突く。
「おい、伊佐次よ。そんなに畏まっちゃ、冴木様もゆっくり休めねえ。なんとかしやがれ」
伊佐次さんが、こいつはいけねえや、とぺろっと舌を出すのを見て、一気に場がなごむ。なんだか仲のいい兄弟だなあ。ちょっと羨ましいぞ。
「おゆき坊、こいつは伊佐次といってな、見てのとおり俺の弟よ。若い時分は、『飛倉の伊佐次』の二つ名で鳴らしたやつで、身の軽さは天下一品だ」
「とびくら、って?」
きょとんとする私に、源次郎さんが
「飛倉とは、空を飛ぶ妖のことでな。つまり、むささびだ」
と、教えてくれた。
おお、むささびですか。時代劇で、たまに『むささびのなんとか』って二つ名の盗賊が出てくるな。私の感覚だと、『むささびのなんとか』って二つ名は、なにそれカワイイ、って感じだけど。うん、飛倉のほうが百倍かっこいいぜ。
いやだがしかし、いくら身が軽いにしても、さっきの『飛んでくる』って表現はこれいかに。
「それはそうと、伊佐次よ。俺たちが江戸をでて以来、しつこく命を狙ってくる連中がいやがってな。一回は十人がかりだ。二回目は、五ノ井の町でな、名倉の忍び八人と雇われ浪人十六人を相手に、大立ち回りよ」
「そんなに、ですかい。冴木様、よくぞ御無事で」
伊佐次さんが目を丸くする。
「今回襲ってきた連中は仕留めたが、どこの家中の手のものか、わからんのだ。この桐生の里まで追手がくるやもしれん。里に着いたら、長や、里のみなに話したいことがある。人を集めておいてくれぬか」
源次郎さんの頼みに、伊佐次さんが大きく頷いた。
「そういうことなら、おやすい御用で。兄者、里のまわりの見張りは小平太に任せて、俺は里に報せに行くぞ」
伊佐次さんは甲高い指笛を鳴らし、一拍おいて遠くの木立の上のほうから、同じような指笛の音が聞こえてきた。
「じゃあ冴木様、御免なすって」
ひとこと言い残し、伊佐次さんは軽く膝を曲げて跳躍した。小柄な身体が重力のくびきから解き放たれかのように地を離れ、五間ほど上の大樹の枝に音もなく降り立つ。そして、里に向かって木から木へと飛び移り、あっというまに視界から消える。
――え?
伊佐次さんが去ったほうを茫然と見つめる私の隣で
「おお、さすがに速いな」
と、源次郎さんの呑気な声がする。
いやいや、跳躍力とか感心するポイントとか、いろいろおかしい。どう考えてもおかしい。
なんてこった。どうやら私の知らない常識が、まだまだ沢山あるようだ。




