源次郎と彦左
宿場町で一夜の宿を得た冴木源次郎と彦左の主従は、近頃このあたりを騒がせている無法者の噂を聞いた。食い詰めた浪人者が徒党を組んで、街道筋で追剥ぎを働いているという。
源次郎は、五十代半ば。編み笠に隠れているが、彫りの深い顔は、長年の旅廻りの生活のため日に焼けている。源次郎は、ひと月前まで、幕府の隠密廻りの役目についていた。旅の武芸者として諸国を巡り、各藩の内情に探りをいれる日々を、三十年ほど続けていたのである。
もっとも、源次郎自身は実直な武辺者だったので、搦め手はもっぱら忍びである彦佐の役割であったが。彦佐は忍びのなかでも特異な術を使うことで名の知れた桐生の里の出で、齢六十になってもその腕に衰えはない。
幼少時から剣の才が傑出していた源次郎には、成人すると各藩から仕官の声がかかった。だが、源次郎としては人間関係に煩わされるのは御免こうむりたかったし、かといって道場を開いて弟子をとり、剣だけで身を立てられるほどの器用さは自分にはないと考えた。それ故、縁あって隠密廻りの役目を続けてきたのである。何より、主である老中・上柴忠隆の人柄や政治の手腕に、男として惚れ込んでいた。
ふた月前、上柴忠隆が急な病で亡くなったため、源次郎は暇を願い出た。こういっては何だが、後任で老中となった村上主膳は、凡庸な人物であった。老中までのぼり詰めた人間をつかまえて凡庸、とはあんまりな評価ではあるが、
(村上様は、一命を賭して仕える価値のない御仁よ)
と、源次郎は見ている。源次郎の功を知る者からは引き止められたものの、ようやく役目を離れる許しを得たところだ。
浪々の身となった源次郎は、天涯孤独の身であったため、彦佐の故郷である桐生の里に向かうことにした。
俗世を離れ、畑を耕し、山でひとり剣を振る余生は、血なまぐさい日々を過ごしてきた源次郎には、魅力的に思える。
江戸から桐生の里まで、徒歩で十と四日の道のりだ。源次郎と彦左が追剥ぎの噂を耳にしたのは、江戸を出て三日目のことであった。なんでも日暮れ前、街道をいく人影がまばらになったときに、運悪く通りがかった商人が狙われやすいという。
これは放っておけぬ、と、源次郎は彦佐を伴い、小雨降るなか、賊が出るという場所へ向かった。
(役目を離れたのに、俺も物好きなことだ)
源次郎は、心のうちで苦笑する。
遠くに人影が見えた。
「旦那様、浪人者が九人だ。親子連れが囲まれていやすぜ」
源次郎はうなずき、主従は人影に向かって走った。
夫婦者らしい人影が倒れるのが見えた。その娘らしい少女が、今まさに斬られようとしている。
(間に合わんか!)
源次郎がそう思った刹那――
少女に襲い掛かった男がその場に崩れ落ちた。次に斬りかかった男は、刀を取り落として、少女に腕を捻りあげられている。少女とも思えぬ身のこなしである。
だが、少女はすぐに男の腕を離し、背をむけて走り出した。なにが起こったのかは、源次郎たちからは見えなかったが。
そして、無法者のひとりに肩口を斬りつけられた少女は、その場に倒れ伏す。
「いかん! 彦佐!」
源次郎が叫ぶやいなや、彦佐は懐から棒手裏剣を取り出し、少女にとどめを刺そうとした男の頭に向かって放つ。棒手裏剣は、彦佐の手を離れた瞬間に白く発光し、加速しながら光球となって、男の頭に吸い込まれ――その頭を文字通り蒸発させた。
頭部を失って仲間が倒れるのを見て、男達の動きが止まった。その瞬間、源次郎の剣が一閃し、二人の男の頸動脈を切断した。血飛沫をあびて男たちは我にかえり、怒声をあげながら源次郎に襲い掛かったが、瞬く間に全員が骸となる。無駄なく急所のみを断つ、恐るべき太刀筋である。
先に少女のもとに駆け寄り抱き起した彦佐は、右の肩口から左の腰にかけて袈裟がけに斬られた傷を見て、呻いた。
「旦那様! こりゃ、ひどい傷ですぜ」
源次郎主従が見ている前で、みるみるうちに少女の顔から生気が失われていく。
「これはいかん。おい、娘! 死ぬな。死ぬなよ」
源次郎が呼びかけにも、少女は目を開かない。
「こんな小せえ子に、むごいことをしやがる。旦那様、血止めをしやすが、この娘っこの身体がもつかどうか」
肩口からは、おびただしい血が流れ続けている。彦佐がそこに右手を添えて何かをつぶやくと、白煙をあげて血が止まる。
源次郎は少女の体温が失われないように、少女の体を手早く拭きあげて抱えあげ、宿場町への帰路を急いだ。
彦佐を伴って宿場町に戻った源次郎は、宿屋の主人に今しがたの出来事を手短かに伝え、役人に届け出るよう頼んだ。
少女を自分の部屋に寝かせたあと、源次郎は宿屋の女将に命じて医者を呼んだ。あまりうだつのあがらぬ風采の医者は、脈もとらずに
「残念ですがもって今日いっぱいでしょう」
と言い残して帰っていた。
「この娘っこの具合が相当悪いのはちげえねえが、ロクな診察もしないたあ、ありゃあとんだヤブですぜ」
と、憤慨している彦佐を苦笑しながらなだめたあと、源次郎は真顔に戻って彦佐に問う。
「なあ、彦佐よ。さきほどの、この娘のはたらきを見たか?」
「へえ、この両の眼でしかと。賊の背に娘っこが隠れていたから、よくは見えやせんでしたが、一人目の男はおそらく顎を揺さぶられて膝の力が抜けたかと」
源次郎はうなずいた。
「俺もそう思う。そして二人目の男は、柔に似た技をかけられ、刀を取り落としている」
「ええ、あれだけの動きは、よちよち歩きの頃から仕込んだとしても、とても五つや六つの子供ができるもんじゃありやせん」
「そうだ。無手で真剣と立ち合うとなると、かなりの猛者でも間合いを見誤る。あるいは、怖いもののない子供だから、できたのかもしれぬが。そうであっても、あの娘の武の才は、なみなみならぬものよ」
彦佐は、源次郎の眼が、いつになく熱を帯びていることに気がついた。
「なあ、彦佐。あの娘が命をつないだときは、俺のもとで育てて剣を仕込もうと思う」
「えっ、旦那様が、ですかい」
源次郎がこれまで弟子をとったことがないことを知っている彦佐は、驚く。
「俺はな、彦佐、これまで工夫を積み重ねて剣の腕をみがいてきた。一流を興す気はさらさらないが、役目を離れてからは、自分の剣を誰かに受け継がせたいという欲が出てきてな」
彦佐は、得心したように頷く。
「おっしゃるとおりで。桐生の里も、うちの孫の源太のほかは、年寄りばかりだ。忍びの世界でも一目おかれていた桐生の技が、この世から影も形もなくなるかと思うと、どうにもたまらねえ」
源次郎が名付け親となった源太は、もう十五になる。忍びとしての鍛錬を嫌い、幾度も里を抜け出しては連れ戻されているという源太の顔をふと思いだし、源次郎は頷いた。
「俺は初めて、心から剣を教えてみたいという相手に出会った。だから、この娘を死なせたくない」
源次郎と彦佐は、交代で少女の看病を続けた。
その次の朝には、少女の荒い呼吸が幾分か穏やかになった。
その次の日の夜には、顔に赤みが戻ってきた。
「やっぱりヤブ医者はあてにならねえ」
と、嬉しそうに言いながら、彦佐は少女の背中の傷が膿まぬよう手当を続けた。
少女が意識を取り戻したのは、明くる日のことであった。