爆死必至
夜になり、城下町は暗闇に包まれる。今日は新月だ。
武家の居住地や旅籠から、ポツリポツリと灯かりが漏れる。この世界では――少なくとも、この五ノ井の町や、これまで通った宿場では、油はさほど貴重品ではなさそうだった。煤も少なく、おそらくは植物油だ。安定した供給が得られているのだろう。
たつ乃屋の主には、昨日のうちに源次郎さんがことの次第を説明してある。他の泊り客が四組ほどいたが、雨漏りの修理をするから、と旅籠の主がうまく説明をして、すでに全員が他の宿に移っている。暮六つ前に、宿の者たちも他所に避難済みだ。
今、旅籠の中には源次郎さんと彦佐さん、そして私の三人だけだ。他に人がいないのを敵に気取られぬため、いくつかの部屋には灯かりをつけてある。
夜五ツの鐘とともに、各部屋の灯かりを消して回る。
源次郎さんは小袖に襷をかけて野袴、といういでたちだ。彦佐さんは、柿渋色の忍び装束で、背に小さな弓矢と忍び刀を背負っている。
弓は鉄製の組み立て式で、普段は行李の中に隠されている。この間の一里塚の戦いで、二人の敵の頭部を続け様に射貫いた武器だ。彦佐さんが弓を組み立て終わったあと、ちょっと触らせてもらった。弓を引こうとしたけれども、びくともしない。うんうん唸っていたら、彦佐さんに
「こいつは大の男でも、なかなか引けねえ剛弓だ。おゆき坊には、さすがに無理ってもんだぜ」
と、笑いながら言われちゃったよ。ちょいと悔しいぜ。
夜四つになると、周りの旅籠や商家の灯かりも、すべて消えて、町全体が暗闇に沈む。
彦佐さんは旅籠の土間に耳をつけて、微動だにしない。
「来ましたぜ。思ったとおり表の通りと裏の通りの二手に分かれていやがる」
彦佐さんの報せに源次郎さんが頷き、私達はそれぞれの持ち場についた。
私は源次郎さんに伴われて、角部屋の前の廊下に移動した。この角部屋は、壁の向こうが商家の土蔵になっており、壁越しに槍で突かれる心配がない。天井裏には撒菱が撒かれ、鳴子の仕掛けも張り巡らされている。床下には、細い割竹と縄で組んだ細工が縦横無尽に渡してあり、侵入者を寄せ付けない。この部屋にうまく敵を誘い込めば、しばらくは正面からの敵に集中できるって寸法さ。
源次郎さんの背後で、息を潜めて敵襲を待つ。時間が、やたらゆっくりと流れている気がするよ。
旅籠のすぐ横にある、雀がねぐらにしている木から、小さな羽音とともに雀が一斉に飛びたった。
「待ち伏せか!」
「後ろだ! 後ろだぞ!」
と、裏通りのほうから数人の男の狼狽した声が聞こえる。
きっと、彦佐さんが弓矢で射かけんだろう。
「なあに、最初に、七、八人は減らしておきまさぁ」
と言い残して屋根の上に消えた、彦佐さんの不敵な笑みを思い浮かべる。
「おのれ、姿を見せぬとは卑怯な!」
「かたまるな! はやく、戸をっ」
浮足立った裏通りの敵の、怒号や悲鳴が、ぱたっと止んだ。卑怯なのはどっちだよ……と思った瞬間、旅籠の玄関が荒々しく開けられ、慌ただしい足音とともに
「冴木源次郎はおるか!」
「手向かうものは、容赦はせん!」
という、怒鳴り声が近づいてきた。
そろそろ、その廊下の角を曲がって、敵が――よし、現れたぞ。むさ苦しいなりの浪人が四人。私達からおよそ五間の距離だ。
「いた……」
先頭の浪人は、いたぞ、と言おうとしたであろうその瞬間に、ガクンと膝をつき、前のめりに倒れこんだ。敵の姿を見るやいなや、源次郎さんが懐から取り出した棒手裏剣を放ったのだ。全力で投擲された手裏剣は、一回転しながら、狙いたがわず敵の頭蓋を砕き、瞬時に相手の命を絶った。
うわ。手裏剣の殺傷距離って、せいぜい三メートルくらいじゃなかったっけ。精度も威力も、規格外だ。
源次郎さんの続く一投により、もう一人の浪人がその場に崩れ落ちる。二人の浪人の骸が廊下に積み重なり、押し寄せようとする敵にとってはちょっとした障害物となった。
「いたぞ、こっちだ!」
最初は不意討ちをくらい茫然としていた浪人達が、我に返り加勢を呼ぶ。
仲間の骸をまたぎ、二人の浪人が近寄ってきた。
「冴木源次郎だな」
「なら、どうする?」
八相に構えた右側の浪人の問いかけに、源次郎さんがゆっくりと鯉口を切りながら答えるのを待たず、左側の浪人が真向から斬りかかってきた。
源次郎さんが右手を大刀の柄に乗せてたまま腰を一瞬低く落とし、右足から踏み込むと同時に刀が鞘走る音が鳴った。次の瞬間、相手が刀を振りかぶったまま棒立ちとなり、一拍おいて、右の頸部から鮮血が噴き出す。
もう一人の浪人は、血飛沫に一瞬気を取られ、動きが止まった。その機を逃さず、源次郎さんが右上段からの一閃で、左の頸動脈を跳ね飛ばす。
顔にかかった血しぶきを、手の甲でぐいっと拭う。たったいま目にした光景に、胸が高鳴る。源次郎さんの一撃目……あれは居合だ。私が、先生から教わらなかった技術。刀を鞘から抜くときに鞘の中を走らせてタメをつくることで、初撃の剣速が数段あがる。実際、今の一撃は私の眼にも速すぎて見えなかった。
私も、高木さんも、先生からは居合を習っていない。高木さんは剣道家だから当然、全剣連の制定居合はできたけれど。
知らない技がある――自分の血が滾るのを感じる。私は……源次郎さんの剣の、すべてを学びたい。
「ゆき、少し下がるぞ。脇差を抜いておけ」
源次郎さんの言葉に、脇差を抜いた。白刃の輝きを見ると、気持ちが一気に鎮まる。よし、いける。私は、戦える。
荒々しい足音とともに、後続の浪人どもが廊下の角から姿を現した。剣術遣いが三人、槍遣いが一人。みな、横たわる骸をみて、警戒の色を強める。その後ろから、ぬっと、身の丈六尺の髭面の大男が顔を覗かせた。
――あ、熊さんだ
私が心の中で勝手に熊さん、と呼んでいる長田流十文字槍の遣い手、後藤又七郎。
「なんだ、貴殿か」
熊さんが、源次郎さんを見て、目を丸くした。
熊さんが呆けているのをおかまいなしに、他の四人の浪人が源次郎さんににじりよる。槍の浪人が先頭で、長さ六尺の直槍の穂先を源次郎さんに向けて、少しずつ間合を詰めてくる。その後ろから、抜き身の刀を手にした三人が控えている。
狭い廊下だとどうしても直線的な動きになる。間合で勝る槍相手に、剣での戦いは不利だ。源次郎さんは、淀みのない動きで、ゆっくりと後ずさる。この廊下で槍の間合に入ってしまうと、左右に攻撃を避けられない。角部屋に誘い込むつもりだろう。
源次郎さんの背後にいる私が、例の角部屋に足を踏み入れた瞬間に、真上の天井裏で鳴子の音がして――そして、断末魔の絶叫が聞こえた。一瞬、足の運びが止まる。さらに、別の悲鳴がもう一回。
「大丈夫だ。行け」
源次郎さんの声に促され、部屋の中にはいる。天井を見上げると、部屋の入口付近の天井板の継ぎ目から鮮血が滴り落ちてきて、畳の上に赤い染みを作りはじめている。
天井裏から忍び寄ってきた敵を、彦佐さんが仕留めたのだろう。彦佐さんは無事だろうか。
部屋の入口まで迫った槍の浪人が、やおら天井めがけて槍を突き刺す。槍を引き抜いた勢いで天井板が抜け落ち、茶色の忍び装束を身にまとった男が、目の前に落下してきた。左の脇腹に槍で深手を負い、畳の上でのたうち回る名倉の若い下忍を見て、槍の浪人が舌打ちをする。
倒れた忍びの喉笛には深々と棒手裏剣が刺さっており、ヒューヒューと気管から空気が漏れる音がする。これは多分、彦佐さんの仕事だ。忍びは、ゴボッという音とともに大量の血を吐き、そのまま動かなくなった。
「何をする!」
四人の浪人の後ろから、気色ばんだ声が聞こえた。壮年の忍びが、槍の浪人を睨みつけていた。この男には見覚えがあるぞ。一里塚の襲撃で、薬売りに扮していた男だ。見ると、左の肘から先がない。そういや、彦佐さんが『手負いにした』って言ってたっけ。
「天井裏で鼠のように潜んでいる、こやつが悪いのだ」
槍の浪人が忌々しそうに、倒れている忍びを一瞥した。
「うぬらがいると邪魔だ。下がって見ておれ」
槍の浪人と、やや低めの正眼につけた源次郎さんが対峙する。私はそっと、部屋の隅へと移動した。私が近くにいたら、源次郎さんの邪魔になってしまう。
槍の浪人は、穂先を源次郎さんにつけてゆっくりと回す。突きを繰り出す機を探っているのだろう。だが、源次郎さんが左足を一歩踏み出すと、浪人は慌てて飛びのくように二歩下がった。
源次郎さんの構えには隙がない。刀と槍の間合の差を補って余りあるほど、二人の技量の差は大きい。槍の浪人の額に、汗が噴きだす。
「なにをやっておる。早うせんか」
片腕の忍びが叱咤するも、浪人は動けない。
「うるさい。忍び風情が口を出すな!」
浪人は源次郎さんの剣の切っ先を凝視したまま、怒鳴った。
そのとき、である。
おや? 廊下のほうで、片腕の忍びが、剣術遣いの浪人どもに何か指図しているぞ。えっと、なになに? 冴木の娘を捕えて囮にしろ、って? うーん、そいつは御免こうむりたい。
部屋の外で控えていた浪人が二人、部屋の中に駆け込んできた。狙いは――部屋の隅にいる私。
源次郎さんが部屋への乱入者を一瞥した瞬間、槍の浪人が、源次郎さんの胸をめがけて強烈な突きを繰り出した。
源次郎さんは、左足を大きく踏み込みながら身体を右に開き、右手で槍の柄を握ってぐいっと引く。勢いあまった槍の浪人は、体勢を崩して前のめりになる。源次郎さんが左手に持つ剣が一閃するのが、私の視界の片隅に映った。
源次郎さんから私まで、距離三間。私の目前には、私を捕えようと、抜き身を下げた浪人達が迫ってきている。
呼吸を整え、下腹に力を溜める。先頭の浪人が私を捕えようと左手を伸ばした瞬間、左下段に構えた脇差を右上に跳ね上げ、浪人の左手の腱を切断する。そのまま浪人の左脇に走り抜け、浪人の背後から返す刃で両方のアキレス腱を断つ。これで立ち上がれまい。
「おのれえ!」
仲間がやられたのを見て、もう一人の浪人が刀を上段に振りかぶり、私の右横から斬りかかってきた。
冷静に、右下段から斬り上げて、両手の内側の腱を切断する。手首の掌側には、指を曲げる腱が集中している。この腱を断てば、相手はもう剣を握れない。刀を取り落とした浪人の右の頸動脈を、切り返しの一閃で断つ。噴きだす鮮血を横目で見ながら、部屋の反対側で戦っている源次郎さんのほうを窺うと、忍びが一人、絶叫とともに倒れこむところだった。槍の浪人と、もう一人の浪人の骸もある。
廊下の動きに耳を澄ますと、片腕の忍びと熊さんが押し問答をしているところだ。
「おい、早くお前も行かんか」
「いや、断る」
お、熊さんが断ったぞ?
「あの冴木という男、拙者よりも強い。前に見たときには仕合を、とも思うたが、これほどの腕とは思わなんだ。拙者も命が惜しいからな。負ける戦をわざわざするのは、只の阿呆よ。拙者はこの仕事から抜けさせて貰うぞ」
どこか飄々とした熊さんの言葉に、思わず拍子抜けする。なんだ、やたら現実的だなあ。でも、二人が立ち合わずにすんで、ちょっとほっとしたよ。熊さんって、どこか憎めないところがあるもん。
「ゆき、無事か」
源次郎さんが鋭い視線でこちらを見る。頷こうとした刹那、部屋の入口にいる忍びが、源次郎さんを吹き矢で狙っているのが見えた。源次郎さんは私のほうを見ていて、忍びの動きに気がついていない。
「あぶない!」
咄嗟に、叫んだ。
源次郎さんは左に飛びすさり、転がっている浪人の骸をひっつかみ盾にした。そのまま立ち上がり、部屋の入口ににじりよる。忍びは、吹き矢を捨てて忍び刀を抜き源次郎さんに飛びかかったが、源次郎さんが放り投げた骸にぶつかって体勢を崩し、そのまま斬り伏せられた。
「この小童が!」
憤怒の形相で、片腕の忍びがこちらを向く。振りかぶった右手に持つ焙烙玉が見え、血の気が引くのを感じた。
前に見た焙烙玉の威力が、脳裏をよぎる。まずい、爆死必至だ。
「ゆき!」
源次郎さんが叫びながら、こちらに駆け寄ろうとする。
焙烙玉を振りかぶった片腕の忍びの動きが、コマ落としのように、ゆっくりと見える。焙烙玉が右手から離れようとした瞬間、片腕の忍びが両目をかっと見開いた。
片腕の忍びの左脇腹に、十文字槍が深々と突き刺さっていた。穂先が肺と心の臓を貫いたのだろう。口から泡混じりの鮮血を吐き出し、右腕が焙烙玉を握ったまま力なくダラリと垂れる。
熊さんが槍を引き抜くと、片腕の忍びの身体はその場に崩れ落ちた。ちょうど焙烙玉の上に身体が覆いかぶさり、くぐもった音とともに骸が爆散した。
熊さんが……私を助けてくれた?
熊さんのほうを見ると、六尺豊かな巨躯がぐらりと傾いだ。熊さんの顔が、苦悶に歪む。
――え?
熊さんの背後から、忍び刀を手にした小柄な茶色い影が、さっと離れた。小柄な忍びは、そのまま脱兎のごとく廊下を走り去る。
ドスンと音をたて、うつ伏せに廊下に倒れた熊さんに、慌てて駆け寄る。左の背中から、鮮血が拍動しながら流れ出している。あの小柄な忍びに刺されたのだろう。おそらく、腹部大動脈が損傷している――これは、もう助からない。
小柄な忍びが走り去った方向から刀を斬り結ぶような音が聞こえ、顔を向ける。ちょうど廊下の角のところで、彦佐さんが匕首を振りおろし、小柄な忍びが倒れるのが見えた。
熊さんの傷口に手ぬぐいを当てて、源次郎さんと一緒に身体を仰向けにする。
「いやいや、爆発にびっくりしている隙に、不覚をとってしまったわ」
飄々とした口調だが、熊さんの顔はすでに青白く、死相が漂っている。
「後藤殿、といったか。拙者の娘の命を助けてくれたこと、礼を言う」
源次郎さんが、深く頭を下げた。
「なんのなんの。ただの拙者の気まぐれよ。橋のたもとで、そこもとらの親子を見たとき、本当に羨ましう思うたぞ。父が子を大切にし、子が父を慕うているのがよくわかってな」
熊さんの左手を両手で握る。もう……手が冷たくなりかけている。
いつの間にか、彦佐さんも私の隣にきて、片膝をついて熊さんを覗き込んでいた。彦佐さんが、神妙な顔をして首を横に振った。うん、わかってる。手の施しようがないよね。
「拙者にも生きていれば坊くらいの娘がいてな。拙者に甲斐性がないせいで、貧乏暮らしの末に流行り病で死なせてしまった。駄目な父親よ」
自分の両目から、涙が溢れていることに気がつく。
「坊、父御のことが好きか?」
「うん……」
「坊の父御は、誰よりも強い、立派な武士だ。自慢していいぞ」
「う……ん……」
熊さんは、私の返事を聞いて、満足そうに頷き、両目を閉じた。
「死なないで! 死んじゃ嫌だ!」
思わず、熊さんの胸に抱きつく。どうしよう、たまらなく悲しい。
「こんな俺でも……死んで悲しんでくれる者がいるか……悪くない……な……」
独り言のようにつぶやき、熊さんは事切れた。
「ゆき、後藤殿の死に顔は、安らかだぞ」
顔を上げて、熊さんの顔を見る。熊さんの髭面は、どこか微笑んでいるように見えた。その様子に、また訳もなく悲しさがこみあげてきて、私は泣きじゃくった。




