くだらぬ意地
怪しい爺ちゃんがいるよ、というのを源次郎さんに伝えるため、私の右手をひく源次郎さんの左手をクイクイっと引っ張る。
「ゆきも気がついたか? あの老人、さきほどから後藤殿を妙に見つめていた。それに、左足を引きずっているものの、草履の傷みが左右で変わらぬ。引きずっているほうの草履は片減りするからな。あれはおそらく、忍びであろう」
源次郎さんは、なにもかもお見通しだ。
私はこっくりと頷いた。そろそろ、ショックで口がきけなくなっている設定は止めにしないとなあ。不便でしょうがないや。
「どれ、旅籠に戻りがてら、名物の店でも見てまわるか」
そのとき、笠を目深にかぶった行商人がすれ違いざまに
「あとを追いますぜ」
と言い残し、熊さんや老人が消えた方向へ足早に去っていた。
――こいつはびっくり。彦佐さんだ
源次郎さんと私が、相手の油断をさそうために、のんびり五ノ井の町の見物をしている間、敵の様子を探っているのだろう。
ほんと、神出鬼没だなあ。
帰り道は、商家の店先を覗きならゆっくりと歩く。
春日井の特産は鰻だ。
鰻だよ! 鰻があるんだよ! しかも天然物だよ! 天然物の鰻なんて、食べたことないよ!
魚屋の店先で興奮しながら鰻を凝視する。ああ、しゃべれない設定にしているのが恨めしい。鰻食べたいよう。
「なんだ、ゆきは鰻が好きか。どれ、一匹買っていって、宿で焼いてもらうか」
と、源次郎さんが鰻を買ってくれた。わあい、察しがよくて助かる。さすが元・公儀隠密。
私がにこにこしているのを見て、
「ゆきは、大人びているのか子供らしいのかよくわからぬ。本当に面白い子よ」
と、源次郎さんに笑われた。うぐぐ……すみません、中身は大人です。
でも……源次郎さんも、彦佐さんも、すごく頼もしい人達だから、今の私は、自然に甘えることができている。不思議だな、前の人生では、他人に甘えるのがあんなに下手だったのに。
この人達となら、家族になれるかな。うん、多分、大丈夫だと思う。
私達が旅籠に戻ってしばらくしてから、彦佐さんも戻ってきた。どこで着替えたのか、戻ってきたときには行商人姿ではなく、いつもの町人の旅装だ。
「あの爺さんのあとをつけて、連中の仲間の面をこの目に焼きつけてきましたぜ。爺さんのほかは、手下が七人、で間違いごやいせん。その場にいたのは爺さんいれて五人だけでしたが。その中に、この間、手負いにして逃がしちまった奴がいました」
彦佐さんが思い出したように歯がみする。
「連中、名倉の忍びですぜ。連中のねぐらに仕掛けてあった忍び避けの仕掛けに特徴がある。あの爺さんは、たぶん中忍だ」
「どこの家中の手先かはわかるか?」
「いや、そこまでは。あと、連中、あの後藤って浪人を金で仲間に引き入れやしたぜ。連中の話では、ざっと十五人くらいかと。仕官希望の腕自慢を集めたそうで、手柄を立てた暁には、お取立てがあるぞ、と爺さんが後藤に吹き込んでいやした」
「しめて二十五人、か。無役の俺を狙うには、いささか大層な人数だな」
源次郎さんの顔が険しくなった。
「因果な役目ゆえ、命を狙われることには慣れているが、役目を離れた俺に、なにゆえこれほど執着するのか」
名倉の忍びは、この世界の忍びの中で最大手の一族らしい。私がいた世界の、伊賀一族みたいなものか。大手すぎて雇われ先も多岐に渡るから、これだけでは源次郎さんを狙っているのがどこのどいつか、まったくわからない。
ひとまず、その都度襲撃を凌いで、黒幕が尻尾を出すのを待つしかなかろう、ということになった。
「彦佐よ、今日はご苦労だったな。そろそろ夕餉にするか。今日は、ゆきが選んだ鰻があるぞ」
「えっ、おゆき坊が選んだ鰻ですかい。こいつは楽しみだ」
一気に破顔する彦佐さんを見て、私もついつい笑顔になる。
うん、本当に自分の爺ちゃんだと思えてきたぞ。
一夜明けて、今日も源次郎さんと一緒に外出だ。
彦佐さんは、一人で敵の様子を探りにいっている。
昨日の鰻は、背開きで蒸してから焼いてある、関東風の蒲焼で出てきた。大変おいしゅうございました。丸焼きで出てきたらどうしようかと思ったぞ。
それにしても、不思議な世界だ。春日井藩は江戸から結構離れていて、交通手段もほとんど発達していないのに、『お国訛り』ってものがほとんどない。これじゃあ、諸国漫遊の某国民的時代劇みたいだ。
「今日は寺にでも参るか」
源次郎さんに手を引かれて、町屋をゆるりと歩く。五ノ井は商業の町で、観光名所というものはない。商家と寺社くらいしか、見物できないんだよな。
途中、鈴屋橋のたもとを通り過ぎたけれども、熊さん――後藤又七郎と名乗った浪人の姿はなかった。あの忍びの一味に雇われたらしいから、この春日井で仕官の口を探す必要がなくなった、ということだろう。
次会うときは、源次郎さんとは敵同士だ。
ちくり、と胸が痛んだ。
あの髭面の浪人は、どこか憎めないところがあった。確かに、態度が不遜で加減を知らぬ大バカ者だ。でも、次の相手に源次郎さんを指名したときに、私の姿を見てすぐに諦めたし、節度のある態度だった。見さかいのない、狂犬のような男ではない。武の道一筋で、ほかに生きる術もなく――仕官の道に一縷の望みをかけても、あんなパフォーマンスでしか自分を売り込めない、愚直な男だ。
次に源次郎さんと熊さんが会うときには――十中八九、熊さんが死ぬことになる。そう思うと……
――いかんいかん
我にかえり、頭をぶんぶんと振る。なまじ関わりがあっただけに、ついつい情が移りそうになる。気をつけないと、こういうのが私の命取りになりそうだ。
五ノ井で一番大きい寺院の近くまでくると、遠方からの参拝客でごった返す。ゆっくり歩きながら、参道の両先に並ぶ店を覗き込む。だんごや甘酒、汁粉などを出す店が多い。食べ歩きにはもってこいさ。
源次郎さんと串だんごを頬張りながら参道を歩く。ときどき、じっとりとした誰かの視線を感じるけれども、無視だ、無視。私たちがのんびり楽しんでいるのを見せつけて、油断してもらう必要がある。
いや、それにしても、この串だんごは美味しいな。よもぎの香りがしっかりしているし、こし餡の甘さも上品だ。伊勢名物の赤福みたいな餡だな。彦佐さんにも教えなきゃ。
そう思って歩いていると、急に、
「邪魔だ、どけ!」
「おい、何をなさるんで」
「あ、ひでぇや、年寄りが転んじまってるじゃないか」
という怒声や抗議の声が聞こえたかと思うと、人混みがさっと分かれた。私の手をひいたまま、源次郎さんが立ち止まる。
荒々しい足音をたてながら、一人の浪人者が私たちの前に現れた。
「冴木源次郎殿とお見受けする」
熊さんに負けず劣らずの、むさくるしい風体だ。歳は三十前後か。割と若いな。薄汚れた顔のなかで、双眸だけがギラギラと光っている。
「いかにも」
私を背にかばいながら、源次郎さんが落ち着いた声で答えた。
「拙者は、倖田の国の浪人、木村兵吾と申すもの。貴殿にはまったく恨みはないが、訳あって斬ることになった。御免!」
抜刀し源次郎さんに向かって正眼に構えた男を、観察する。
殺気を四方八方にまき散らしている。腕にある程度覚えはあるのだろうが、こういうのべつまくなく殺気をまき散らす相手の腕は、たかが知れている。殺気のせいで、打ちこんでくるタイミングが手によるようにわかる。これじゃあ、源次郎さんの敵じゃないな。
きっと、名倉の忍びに金で雇われた連中だろう。功をあせって、単独行動に出た、というところか。
「ゆき、さがっておれ」
頷き、私が一間ほど後ろに下がるのと同時に、男が源次郎さんにむかって渾身の一撃を浴びせてきた。
固唾をのんで見守る人の輪から、
「あっ」
と、いくつもの悲鳴があがった。
それもそうだ。浪人が渾身の力を振りしぼって斬りかかってきたのに対し、源次郎さんは大刀の柄に手をかけてすらいなかったのだから。
源次郎さんは、浪人が打ちこんでくるのに合わせて、すっと軽く踏み込んだ。次の瞬間、浪人は刀を取り落とし、腹を押さえてその場にうずくまった。
無刀取り。
無手で、刀を持つ相手を制する技だ。
前世で先生の無刀取りを見慣れている私には、浪人の右側に踏み込んだ源次郎さんが、浪人の両の手首に手刀をいれたあと、右脇腹に当身をいれるまでの一部始終が見えた。
傍で見ている者には――いや、やられた本人ですら、何が起こったのか理解できなかっただろう。
あれは、レバーにはいったな。右脇腹、すなわち肝臓の部分は、筋肉が薄く打撃によるダメージをくらいやすい。クリーンヒットした場合は、痛みよりも呼吸ができない苦しさが勝り、身体を動かせなくなる。
空気を求めて口をパクパクと開きあえぐ浪人を一瞥したときの源次郎さんの顔は、今まで見たことがないくらい、無表情だった。
「来い、ゆき」
再び、源次郎さんに手を引かれて参道を歩きだす。三十間ほど進んだときに、
「おのれぇ!」
という、悲鳴とも絶叫ともつかぬ声が背後から聞こえてきた。
源次郎さんは振り返りも、立ち止まりもしない。
そして、その後すぐに
「てぇへんだ、浪人が参道で腹を切ったぞ」
「なんだって、そりゃ本当かい」
と、私達が今来た方向に幾人かが走っていった。
――え?
私は困惑して、源次郎さんの顔を見上げた。
「参道での殺生を避けるため、無刀取りにしたが……やはり腹を切ったか」
先刻まで無表情だった源次郎さんの顔は、いまはかすかに憂いを帯びていた。
「無刀取りをかけられた相手はな、赤子扱いされたと感じる。それをこのうえない恥辱ととらえ、腹を切る。侍とはそういうものよ。くだらぬ意地だというのに」
せっかく生きながらえた命を、むざむざ自ら捨てたのか。なんてことを……
「剣に生きるということは、相手を斬ろうが斬るまいが、その命を踏み台にしているということだ。それを、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
私の手を引く源次郎さんの手に、少し力が入ったような気がした。
そう……か。
前の人生では、剣が好きで好きで、何も考えずに剣を振っていた。事故で両脚が自由に動かなくなってしまっても、剣が好きだから、剣を捨てられなかった。
この世界では……いや、本来、剣術は人の命を絶つための技術だ。剣に生きるということは、相手の命を奪い続けることだ。
そして、たとえ相手に情けをかけたとしても、相手はそれをよしとしないこともあるだろう。
くだらぬ意地、か。
どこかでその言葉を聞いた気がして――十年前に、先生から聞いた言葉だったことを、ふと思い出す。
侍とは……いや、人間とは、かくも不自由な生き物だ。
もう、今までみたいに、無邪気に剣を振れない。
一太刀一太刀に、相手の命を刻み込む覚悟で振ろう。
今日、私はそのことを学んだ。




