ニートは異世界転生して変わるのか
兄が交通事故で死亡した。
三十八歳になるのに働いたことがなく、大学を卒業してからずっと実家に引き込もって惰眠を貪っていた兄が死んだ。
何でも、母の財布からお金を抜き取ってパチンコへ向かっていた途中、赤信号を無視して道路を横断し車にはねられ、強く頭を打ち付けたそうだ。
毎日甲斐甲斐しく兄の世話を焼いていたらしい母は、葬式で体を丸めて泣いていた。
労働意欲を見せない兄を叱りつけていたらしい父は、遺体を目にして声もなく涙を流した。
私は、兄が出棺しても、残された骨を見ても、悲しいとか寂しいとかそういう感情がわき出てくることなどなく、涙も出なかった。
私にとって兄は両親を苦しめていたクズだった。それに、私が帰省した際に金を貸せとせびられたことだって数えきれないほどあった。そんな男に、同情など出来なかった。
兄の口癖は、「社会が悪い」だった。
就職活動に身を入れず忠告に耳を貸さず遊んでばかりいたくせに、自分が就職出来ないのを周りのせいにして、注意しなかったお前のせいでこうなったのだと母に当たった。その後激怒した父に殴られ泣き喚き、部屋に閉じこもった。母はごめんなさいごめんなさいと泣き、元々寡黙ながらも優しかった父はどんどん無口になっていった。
当時高校生だった私はその空気に耐えられず、大学生になって一人暮らしを始め、家から逃げた。盆と正月以外は帰らなくなった。時折、母の泣き声と父の怒った顔が夢に出てきたけれど、あの家に帰りたいとは思えなかった。
やがて私は結婚し、子供を産んだ。兄を追い出さない父と母の気持ちが、少しだけ理解出来るようになった。
でも、兄が死んで悲しいとは、思わなかった。
兄が死亡して四十年。子供と孫達に囲まれて私は天寿を全うした。
だが、奇妙なことに気が付いたら私は子供になっていた。髪の毛は金色で、明らかに日本人ではない。言葉も違う。車も飛行機もない。不可思議な魔術と精霊が存在する。時代を越えた輪廻転生というものだろう。犯罪はしなくとも徳を積んだ覚えはないが、前世の記憶を保っているのはどうしたことなのか。
だが考えるに、おそらくこれは、神が私に課した使命なのだろう。
前世では逃げ出した私が、兄の行く末を見届けるための。
不思議なことに、一目見て兄だと悟った。
魔王とかいう独裁者を打ち倒すべく、国が選んだ勇者の一行。その主役となる青年。背が高く、目鼻立ちも整っている。今の私の年齢とは十つ程違うだろうか。彼はまるで王様か何かのように堂々と振る舞っており、自信に満ち溢れ、翳りは見当たらない。
私は魔術の神童として、勇者に同行することになっていた。顔合わせでは兄は私を見ても動揺する様子はなかったので、もしかしたら前世の記憶はないのかもしれない。それならそれでいい。あんなクズはもう十分だ。
勇者である兄に、魔術師の私。武闘家のお嬢様に精霊術師のお姫様。そして兄の幼馴染みの筋肉質な剣士の青年。この五人で魔王討伐を目指す。
盛大な見送りの後、私達は魔王の待つ魔大陸へと出発した。
共に旅をしてはっきりした。兄には前世の記憶がある。
誰も分からないのをいいことに日本語で幼馴染みを罵倒したり、お嬢様とお姫様にセクハラしたり、魔王が生み出している凶悪な魔物を倒すのは幼馴染みに丸投げし、自分は安全な場所で彼女達といちゃついていたり。他人任せなところは全く直っていない。
どうやら私もその仲間に加えたいらしく度々猫なで声で誘ってくるが、きっぱり断って兄の幼馴染みと行動している。私はまだ十二歳なのだが、兄がぼそっと日本語で「育てがいあるよなあ」と呟いたのを耳にした時は心底ぞっとした。
お嬢様とお姫様はどうやらどちらも世間知らずらしく、最初の頃は戦闘に参加しないのを躊躇っていたが、今ではそういうものだと認識して一切戦おうとしない。二人とも兄の外面に騙され兄を好きになっているようだ。
兄の幼馴染みはとても苦労性な人で、兄に手柄は取られ、面倒事は押し付けられてきたらしい。今回の旅での兄の愚行もいつものことだと諦めたように笑っていた。
そんな彼の剣の腕は恐ろしいくらいに良い。兄の戦っている姿を見たことはないが、絶対に兄より彼の方が強いと思う。魔大陸に巣くう狂暴な魔物達も、彼の手にかかれば一撃だ。それどころか、戦闘を経験する度に彼は強さを増しているのだ。
私も彼と共に戦い続け、己が成長しているのを実感していた。
長い旅の末、ついに魔王の根城にたどり着いた。
こんな時になって初めて兄は「皆!油断するな!」と勇者らしい発言をした。どうしてそれを最初に魔物と対面した時に言えなかったのか。
兄とお嬢様とお姫様の三人と、彼と私とでは、経験値に圧倒的な差がある。だから私達が先導しなければ到底敵わないのだが、三人は制止の声を聞かず張り切って突き進んでいってしまうため、いらぬ苦労をするはめになった。精霊術師のお姫様など、旅に出てから初めて精霊を呼び出していた。
何とか最後の部屋に到達し、私達は魔王の姿を目にした。
実体がない黒いもやのような魔王は、私達を確認すると猶予を与えず襲いかかってきた。
お嬢様は悲鳴を上げ、お姫様は怯えて立ちすくむ。兄は「おい何ぼさっとしてんだ!早く何とかしろよ!」と彼に叫んだ。
結局、いつものように彼が勇敢に立ち向かい、私は彼をサポートする。彼は怯えることもひるむこともなく、自身が傷付くのも厭わず攻撃を繰り返した。私は彼の回復をし、彼の守備力を上げ攻撃力を上げ、魔王に弱体効果のある魔術をかけ続けた。
これまで守られてばかりだったお嬢様とお姫様は、魔王との力の差に恐怖をあらわに震えつつも、勇気を出して己の最大火力の技を披露していた。
兄だけは、皆の後ろでぎゃあぎゃあとがなり立てていたけれど。
命を賭けた戦いに、終わりの時が来た。
魔王は倒れ、消滅した。
魔王が消えて、全ての魔物も消えた。勇者の凱旋は、それはそれは豪勢なものだった。世界を救った勇者は伝説になることだろう。
ただし、勇者は魔王を倒していないが。
凱旋の前に兄は彼に、私に、お嬢様に、お姫様に、固く口止めをした。魔王を倒す一撃を放ったのは自分であると、そうする方が都合がいいのだとこんこんと説いた。
彼はいつものことだとため息を吐いた。お嬢様とお姫様はこの時ばかりは困惑し迷いを見せていた。私は国王の前でバラしてやろうと心に決めた。
そして、国王主催の城でのパーティーが開催されることとなる。
「ここにおられるは、魔王を倒し、世界を救った勇者達である!!さて勇者殿、一言挨拶を」
国王の声により場内がしんと静まり返る中、兄が人々の前に踏み出す。私がそいつは何もしていないと声を張り上げようと息を吸い込んだ、その時。
《キサマは勇者ではないだろう?》
お姫様と契約している精霊。魔王城の中でしか出番のなかった人型の精霊がお姫様の背後から現れ宙に浮き、声を響かせた。
《魔王を倒したのはキサマではなく、そこのごつい男ではないか。そも、魔物を倒していたのも、ごついヤツとチビッ子の二人だけだろう》
精霊は人々の頭上に何かを映し出した。
そこには―――
『勇者様、本当に私を愛してくださっているのですか...?』
『当たり前だろう?俺にはお前しかいないよ』
『勇者様っ...!帰国しましたらすぐに結婚式をあげましょう!』
『好きだよ、世界で一番お前が好きだ』
『そ、そんな囁かないでよ!...わたしだって、あんたのこと...す、好きなんだからっ!』
『ふっ、嬉しいよ』
お姫様と婚約する兄と、お嬢様に愛を囁く兄。拷問か?
「なっ...ど、どういうことですか、勇者様っ!?私を愛してくださっていると、仰っていたではありませんか!?」
「ちょ、ちょっと!!どうなってるのよ!あんた、浮気してたの!?」
お姫様とお嬢様は物凄い勢いで兄に食って掛かり、その場は一気に騒然となる。兄は顔面蒼白だ。
更に精霊は、魔王を前にして戦おうとしない兄の映像を流し、国王は娘の件も含めてブチギレ、人々は、優しくたおやかだった姫と明るく元気だった令嬢をたぶらかした上ろくに働かなかった勇者に怒号を上げる。
発端となった精霊は、混乱渦巻くパーティー会場を上から見下ろし《何だこの喧騒は?》と戸惑っている。どうやら、本当に疑問に思っただけで兄を咎めるつもりはなかったらしい。精霊は人間とは違うのだ。
私は背が低いため、人の波に飲み込まれそうになったが間一髪で彼に庇われ、会場を脱出した。
「大変なことになったな...これであいつもおしまいか」
彼はどことなく肩の荷が下りたような顔をしていたため、ずっと尋ねたかったことを聞いてみる。
「何故あの人とつるんでいたんですか?」
「...少し、弱味をね、握られていたものだから」
「弱味、ですか」
「ああ...内緒だぞ」
そう言うと彼は私の耳に口を寄せ、
「オレ、こんななりだけど、ぬいぐるみとか可愛いものが好きなんだ」
と、秘密を教えてくれたのだった。
「くそっ、くそっくそっ!こんなハズじゃ、こんなのおかしいだろ!あのクソ精霊め、絶対殺してやる!くそ!うまくいってたのに!チーレムだったのに!何でこうなるんだよ!」
「あなたが成長していないからじゃないですか」
人々に責められ、逆上して暴れ怪我人を出したために、隔離されて小部屋に監禁されている兄は、一人訪れた私を見て顔を歪ませた。
「はあ!?知ったような口きいてんじゃねえぞクソガキが!てめーも大人しく従ってりゃあハーレムに加えてやったのによ!」
「...やっぱり私のこともそういう目で見てたんですか」
「なに、生意気な目してやがんだ!!てめえ、ぐっちゃぐちゃにしてやるからな!何だったら今ヤってやろうか!?泣いて嫌がっても止めてやらねえぞ!その内良くなって...ぇ?」
ようやく気付いたようだ。私が、分からないはずの日本語を理解して、しかも使っていることに。
「久しぶりですね、お兄さん」
「お前...まさか...」
私の正体を悟った兄は、一瞬の間を置いて罵詈雑言を浴びせてきた。お前が俺に協力してればこんなことには、妹のくせに騙しやがって、全部お前が仕組んだことか、お前のせいで、お前が悪い、死ね死ね死ね...。
全部聞いていると気分が悪くなる。私は兄の声が枯れるまで耳を塞ぎ、兄がぜえぜえと息を切らし始めたところで口を開いた。
「私がここにいる理由は、私もよく分かっていません。ですが、あなたを見届けるためだったと思うんです。あなたが、二度目の人生で何を為すのかを」
「...ぁんだどぉ...?」
「あなたは、魔王を倒すべきだったんじゃないんでしょうか」
もし兄が皆と協力して戦っていたら。たとえ弱くても、お嬢様とお姫様のように必死で戦っていたなら。少なくとも人々に非難されるなんてことはなかったんじゃないだろうか。二股が悪くないなんてちっとも思わないけど、二股だけだったなら、ここまでされていない。
「魔王なら倒しただろうが!俺はあいつより強い!あいつが倒せる相手なら俺はワンパンで倒せんだよ!」
目の前で喚いている兄が、襲いかかってきた魔王にひるんでいた兄が、彼より強いとは、思えない。
「あなたは...前世のあなたから、何が変わったんですか?」
「変わってるだろうが!!俺は強い!そうだ、だから俺は悪くない、悪いのは周りのやつらだ!」
変わってない。変わってなど、いない。
この人は、あの家で、母を泣かせ、父を怒らせた、その時のまま、何も変わっていない。
ふと、思う。
私が早くから正体を明かしていたら。兄さんは変わらなきゃ、成長しなきゃ駄目なのだと説得していたら。
兄は聞き入れてくれただろうか。変わろうと努力してくれただろうか。
「お前が、あいつが、世界が悪いんだ!」
いや、しないだろう。この人は、きっと...変わらない。
どこまでいっても、他の人に押し付け、奪い取り、自分は悪くないと言い張る。
もういいだろう。
「...私はそろそろ行きます。多分、もう会うことはないと思います」
「は?俺を解放しろよ!馬鹿か?死ねよ」
「...さよなら、兄さん」
声に背を向ける。
二度と振り向くことはなかった。