冬の女王と誠実な青年
静かな静かな森の中。
レンガ造りの家が一軒、ぽつんと建っていました。
季節は冬。
深々と降り積もる雪が柔らかな黒土に化粧を施します。針葉の繁る木々には雪のマフラーが巻かれ、暖かなその家には真っ白なヴェールが下ろされます。
ふわふわ。
さらり。
ぱらぱらり。
辺りが一面、真っ白になった頃。
一つの生命がふっと消え去りました。
それでも雪は止め処なく降り続けます。
まるで全てを覆い隠すように。
……昔々あるところに、春・夏・秋・冬、それぞれの季節を司る女王様がおりました。
女王様たちは決められた期間、交替で塔に住むことになっていました。そうすることで、その女王様の季節が訪れるのです。
ところがある時、いつまで経っても冬が終わらなくなりました。 冬の女王様が塔に入ったまま、いつまで経っても出てこないのです。
このままでは永遠に冬は終わらず、いずれ食べる物も尽きてしまいます。
困った王様はお触れを出しました。
『冬の女王を春の女王と交替させよ。成し遂げた者には好きな褒美を取らせよう』
それは人々で賑わう大きな街から、静かで何もない小さな村まで、国中のありとあらゆる場所に貼り出されました。
お触れを見た者たちは『褒美』欲しさに次々とその塔へと向かいます。
一番初めに塔へと辿り着いたのは、筋骨隆々の大男でした。
「俺はこの国の誰より力持ちだ。
女王なんて、この筋肉で引きずり出してくれる!」
その丸太のような腕を振り上げ、高らかに声を張り上げます。
意気揚々と塔に乗り込んだ彼は、しかし暫くすると戻ってきました。
「あんなに硬くて分厚い氷、とてもとても壊せない」
大きな背中を丸めると、とぼりとぼりと悲しげに去って行きました。
次に現れたのは、見目麗しい貴族の男性です。
「私はこの世の誰よりも美しい!
この美貌にかかれば冬の女王もイチコロさ」
雪に映える金糸の髪を掻き上げて、自信満々に微笑みます。
優雅に塔へと入って行った彼は、しかし暫くすると戻ってきました。
「あんなに頑なで盲目な心、とてもとても絆せない」
凛々しい眉を萎れさせ、そろりそろりと寂しげに去って行きました。
その次にやってきたのは、腕利きの商人でした。
「私に勝る弁舌家はおりません。
女性の一人や二人、あっという間に塔から出してご覧に入れましょう」
立派な口ひげを揺らしながら、余裕のある動作で胸を張ります。
迷いのない足取りで塔へと足を踏み入れた彼は、やっぱり暫くすると戻ってきました。
「あんなに感情的で蒙昧な人、とてもとても図れない」
聡明な瞳を曇らせて、ふらりふらりと頼りなさげに去って行きました。
そうしてひと月が経ち、ふた月が経ち。冬の女王に臨む者も絶えた頃。
国の最も端っこに住んでいた、誠実なだけの青年がやっと塔の前までたどり着きました。
彼はお手製の毛皮に身を包み、轟々と唸る吹雪きに当てられ真っ白になりながら、一歩一歩確かめるように歩みを進めてゆく。
ふと立ち止まり、右手に握る木彫りの兎を見つめます。
それは死んだ妹の形見でした。
「きっと冬を終わらせるから」
穏やかにそう呟くと、中へと足を踏み入れました。
塔の中は外より寒く、底冷えするほど静かでした。
虚ろなその場所にあるのは石壁に沿って切り出された螺旋階段だけ。
その先を見上げて白い息を漏らすと、彼はまた足を踏み出しました。
つめたい感触を踏みしめて一段一段上ってゆくと、やがて氷でできた小さな扉の前にたどり着きます。
白く濁ったその扉はすべてのものを拒むような、とても硬くて分厚い扉です。
しかし彼は、素直に美しいと思いました。
感嘆を漏らし、暫くその前に立ち尽くします。
「誰かいるの!?」
甲高い声が扉の向こう側から響いてきました。
これ幸いと声を掛けます。
「はい、冬の女王さま。
私は国の端っこの方からやってきた、しがない村人です」
「嘘よ! 騙されないわ!!」
青年の名乗りを遮って、冬の女王が声をあげます。
「嘘ではありません、女王さま」
「いいえ、いいえ! きっとワタクシを油断させるつもりなのよ。そうに違いないわ!!」
氷柱のように鋭利な声が彼の耳に突き刺さります。なんとも頑なで盲目な物言いに困り果てた青年は、しかし素直に問いかけるのでした。
「どうして嘘だと思われるのですか?」
「あなたが春の女王だからよ!!」
「私が……?」
何のことだか、青年にはさっぱり分かりません。
青年はれっきとした男です。女王であるはずがありません。
「もしくは新たな冬の女王よ! そうよ、そうに違いないわ!!
だってワタクシは力を使い果たしてしまったんだもの」
ますます訳が分かりません。
なにせ彼女は今も冬を居座らせているのですから。
「ワタクシはきっと殺されるのだわ!
でも仕方ないじゃない。冬を運ぶのはもうまっぴら御免なの。
あれはとっても重たくて、すっごくすっごく冷たいのだもの!!」
理屈の欠けた言葉が、塔の内にキンキンと響き渡ります。
なんて感情任せで蒙昧なのでしょう。
「外に出たら最期、きっとあなたが私に取って代わるのだわ。
私をカチコチに凍らせて、シャリシャリ削って食べてしまうのだわ!」
こんな話を聞かされれば、誰もが呆れかえってしまうに違いありません。
しかしその有様は、青年にとって理解できないものではありませんでした。
「女王さま、女王さま。
少し私の話を聞いて下さいますか。
無意味で道理の通らぬ、愚かな私の話を」
「勝手に話せば良いでしょう!
知ったことではありませんわ!!」
冷たい言葉を返された青年は、それでも語り始めました。
昨年の冬に死んだ、妹の話を。
彼は語りました。
いかに仲が良かったか。
いかにして死んでしまったか。
そしていかに胸が張り裂けそうだったかを。
二人はずっと一緒に暮らしてきました。
小さなレンガの家で肩を寄せ合い、仲睦まじく暮らしていました。
春には二人で山菜や草花を摘みます。
夏には妹が川魚を、青年が野鳥を狩ります。
秋には手分けして木の実や茸を採ります。
そしてそれらを貯めて冬を越えるのです。
ずっと二人は仲睦まじく暮らしてきました。
しかし去年は日照りがひどく、冬を越すための食べ物がほとんど貯められなかったのです。
さらに妹は折悪く、流行り病にもかかってしまいます。
日に日に顔色が悪くなる彼女をずっと看病し続けましたが、しかしその甲斐なく春を迎える前に死んでしまうのです。
青年は深く悲しみ、そのお墓の前で来る日も来る日も泣きました。
春を泣き明かし、夏も泣き明かし、気づけば秋も終わって、冬になっていました。
そして王様のお触れを見た彼はよく分からない気持ちに突き動かされ、よく分からないままに塔まで来たのです。
何をしたところで妹は戻ってこないのに。
それは冬の女王と大差のない行動。
感情任せで蒙昧な、けれど抗えない行動でした。
「なにを、なにを言えばいいのか分かりません。
ただ私の心は散り散りになったのです
今も泣き続けているのです」
青年の瞳が悲しげに揺れます。
「死は寂しく、そして恐ろしい。
冬が続けば皆が妹のようになるでしょう。
ああ、けれど。それは貴女も同じこと」
塔を出れば死んでしまうと思い込んだ女王にとっては、皆の為に死んでほしいと言われているに等しいのです。
「私は、もう。
もう何も言うことはできない」
青年は感情のままに全てを話しました。
そして心の晴れぬまま、彼は説得を諦めたのです。
肩を落として女王に背を向けました。
何も変えず、何も変わらぬまま。
そのときでした。
氷の扉がどろりと溶けて、女王が姿を見せたのは。
顔を真っ青にした彼女は肩をかき抱き、部屋の外へと飛び出したのです。
「ああ、死んでしまうのは恐ろしい。けれど、死を見続けるのはもっと寂しく、もっと恐ろしい!」
その美しい顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶと、さらさらと雪になって崩れてしまったのです。
呆然とする青年の前で、それらは溶けて小さな水溜まりになりました。
そこに小さな芽がいくつも生えて、見る見る間に小さなお花畑に。
驚きすぎて声の出ない彼の元に、びゅおうと強い風が吹き付けます。
ひらひらと花びらが舞い散る中で、目の前にはいつの間にか女王様が立っていました。
姿形は冬の女王にそっくりだけど、なにかが決定的に違う。
青年はそう思いました。
「貴女は一体、」
「私は冬の終わりに生まれる者。
春の女王よ」
柔らかくも毅然とした態度で、彼女はその名を宣言しました。
青年はあまりの出来事に言葉が出てきません。
ただ口を開けて立ち尽くします。
そんな彼を見て、くすりと笑う彼女は言うのです。
「私達はいつもこうよ。季節に生きて季節に死ぬの」
「冬の、冬の女王は、どうなってしまったのですか?
また秋の終わりに生まれるのですね?」
春の女王は困ったものを見るように、少し眉根を寄せました。
「確かに冬の女王は生まれるわね。
でも毎年違う冬が来るように、
その彼女はもう、さっきの彼女ではないわ」
「ああ、」
なんと儚く、なんと哀しい生き様でしょう。
「そんな顔しないでちょうだい」
片目を瞑り、青年を窘めました。
「そういうものだし、毎年がそうだったはずよ。
今年の冬の女王が特別に臆病で忘れっぽいだけ。
私だって、いずれ夏に丸呑みにされるわ」
あと幾月の後に訪れる確実な終わり。
だというのに、彼女はしっかりと立っています。
どこか希望を匂わせるその姿はとても鮮烈でした。
「春の、女王よ」
それを目の当たりにして、彼は問い掛けずにはいられませんでした。
「それでも、それでも貴女は季節を始めるのですか?」
戸惑う彼の問いかけに、春の女王は微笑みました。
「ええ。だって私は春だから」
その一言を残して、彼女は塔の中心、さっきまで扉のあった部屋へと入って行きます。
すると溶けた氷の扉に代わって若木が萌え出でて、あっという間に入り口を塞いでしまいました。
こうして春の女王は塔にこもり、
青年の足元には淡い野花が残ったのです。
どれほど立ち尽くしていたでしょう。
彼は野花を根っこと一緒に掬い上げると、その場を去ってゆきました。
青年が国王に望んだものは、丈夫な馬と質素な幌馬車一つ、たったそれだけでした。
妹と過ごした家に別れを告げて、パカラ、パカラ、と何処か遠くへ向かいます。
春の木漏れ日が照らす中、先へと進んでゆく彼の背を小さな石碑と揺れる野花が見送るのでした。