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ブラックホールをふさいだ日、  作者: 村崎千尋
第二章 君がお化けになった日
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(4)


 ほべっ、と居間のほうから奇妙な声がした。


 ほべっ、ほべっ、と続けて二回。日向のくしゃみだろうなと思った。日向はくしゃみをするときに「はっくしょん」と言えない。鼻水が飛び出すのが嫌らしく、でも唾が飛び散るのも嫌らしく、その中間の鼻の奥を痛めてしまうようなくしゃみをする。


「ほべっ」


 まただ。


 私は玉ねぎを炒めながら、フライパンの音に負けないように居間の日向に向かって声を張り上げた。


「日向、風邪ー?」

「かもー」


 濁点がついたような鼻声が返ってくる。確かに日向は最近睡眠不足が続いているから、免疫機能が弱っていそうだ。どこからか風邪をもらってきたのかもしれない。


「想太からもらった気がする」


 あいつか。


 私を蔑むあの視線を思い浮かべて苦々しい味が口の中にこみあげる。


 まあ確かに稲倉くんもプールに落ちたり雨に濡れたりと風邪をひいてもおかしくないような状況が続いている。風邪がうつったって仕方ない。友達の風邪をもらってしまうっていうのはよくあることだけど、まさか風邪がうつるようなことしてるんじゃないかって勘ぐってしまうのは、二人が毎日のように一緒に遊んでいるからだ。


 風邪がうつるようなことって、その……キス、とか? いやでも男同士か。ありえなくはないけど日向は巨乳が好きらしいからなあ。


 そんな邪なことを考えていたら、玉ねぎがちょっと焦げてしまった。私の心の中みたいだ。


「ていうか日向、今日、文化祭の準備は?」


 文化祭があさってなのに、五時半に帰ってこられるなんておかしい。中学の文化祭ですら、一週間前は帰るのは八時近かったのに。人気者の日向がおとなしく帰らせてもらえるわけがないだろうし、事実、ここ最近は帰るのが十時を回っている日もあった。


 日向は「あー……」と、少し黙り込んでから答えた。


「なんか、くしゃみキモイから帰っていいよって」

「くしゃみキモイってなによ」


 そのストレートすぎる言い方に少し笑ってしまう。


 きっとそれは日向を帰らせる口実でもあるだろうし、クラスメートたちの本音でもあるだろう。文化祭の準備をしているわきで「ほべっ」なんていわれたら、気が抜けてしまって、とてもじゃないけど集中できない。


 稲倉くんが文化祭の準備をしているところを想像した。友達と騒いでいるところは想像できなかったけれど、今日は来ないみたいだから、きっと忙しくはあるのだろう。お化け屋敷かー……。


 お肉とピーマンと、焦げた玉ねぎでささっと野菜炒めを作る。


「いいにおいがする」


 日向がひょこっと台所に顔を出した。


「野菜炒め」

「肉多めでよろしく」

「もう炒め終わっちゃった」

「まじか」


 ご飯とお箸を用意して食卓に移動する。稲倉くんがいるときは隣に座る日向も、今日は私の向かいに座っている。よくわからない日向流の理屈からそうしているらしいけど、端的に言えば向かい側のほうが話しやすいそうだ。


 日向は丼みたいな大きなお茶碗いっぱいに盛られたご飯を前に、嬉しそうに手を合わせる。


「それではー、すべての恵みに感謝して、いただきます」

「いただきまーす」


 それと同時に日向が野菜炒めに箸をつっこんで肉の半分を掴んでいってしまった。


 男子高校生は魚も食べるし野菜も食べるしご飯もお菓子もいっぱい食べるくせにそのうえで「肉肉」って騒ぐから嫌だ。日向もその例外じゃなく、どちらかというと痩せ型のくせに縦に伸びてしまったばかりに一日四食に間食までしている。


 焦げた玉ねぎをつまみながら(こういうのは自己責任だ)、仕事ばっかりしているママとパパをちょっと恨んだ。


 パパは昔から仕事大好きだったけれど、ママは去年まで仕事をセーブしていた。子供がどちらも義務教育期間を終えたらバリバリ働こう、と結婚当時から決めていたらしい。私の受験が終わるや否や仕事のスケジュールを組み始めて、私に家事のすべてを伝授すると(日向は不器用だから任せちゃだめだ)、生き生きと仕事に出かけるようになった。


 日向も将来あんなふうになっちゃうのかな、と思うと末恐ろしい。


「最後にママたち帰ってきたのいつだっけ?」


 ふと声に出すと、自信なさげな答えが帰ってきた。


「母さんは昨日の夜中帰ってきたんじゃね? 俺の体操着洗濯してあった。あのペンキまみれの」

「それは私がやったんだバカ。……落ちなかったけど」


 特に半袖のジャージなんか、白いうえに赤や緑でカラフルに彩られていて、漂白剤なんかじゃ太刀打ちできなかった。もうむしろ、白いペンキで塗りつぶしたほうが早い気がする。小学生の頃、日向が新しく買ったTシャツに墨汁を盛大にこぼしたことを思い出した。あの頃もママが「むしろ墨汁で黒く染めあげたい!」と嘆いていた。


 でも日向は気にしていないみたいで、オーバーな仕草で拝むような仕草をした。


「落ちないのはいいのいいの、ジャージないと困るから、超感謝申し上げます」

「パパは?」

「それこそ昨日の夜中だわー。今朝机の上にお小遣いが置いてありました」

「私のは?」

「そこの引き出し」

「はやく言えバカ」


 日向が指さした電話の近くの引き出しをあけたら、パパの字で「雛ちゃん」と書かれた茶封筒が入っていた。


 中学生になったあたりからやめてって言ってるんだけど、パパはいまだに日向のことを「ひーくん」、私のことを「雛ちゃん」と呼んでいる。だから、間違いなくパパは帰ってきたみたいだ。


 茶封筒を引き出しに戻してまた席につく。日向がいたずらっぽく「雛ちゃん」と呼んできたから、机の下で足を蹴っ飛ばしてやった。


「想太ん家は、どうなんだろうな」


 ふと、日向が呟いた。


 確かに、稲倉くんは家に来た日はたいてい一緒にご飯を食べてお風呂にも入っている。週末は泊まっていく日もある。


 うちみたいな両親仕事バカならともかく、まっとうな親が頻繁にそうするのを許してくれるだろうか? そんなわけないだろう。私が中学生の頃、ママがまだ普通に「共働きのお母さん」をやっていた頃は、友達の家に一泊するのすら許されていなかった。


 おまけに、あのたくさんのピアス。へそはともかく、舌になんか開けていたら一緒に暮らしていればいやでも見える。


 日向も似たようなことを考えているみたいだ。腕を組んでしみじみと天井を見上げた。


「よく考えたら俺、想太のことそんな知らないわ。めっちゃくちゃ一緒に遊んでるけど」

「待って情報共有しよう。たぶん私、日向の知らないこと知ってる」


 へそピアスとか。日向に嫌われたくないと思ってることとか。


「俺も雛子が知ってること知ってると思う」


 数秒見つめ合った後、ふいに日向が話し始める。


「……稲倉くんの秘密その一、ね。稲倉くんは外部受験組」


 うわ、稲倉くん、頭いいんだ。


 外部受験組、というのは高等部から入学してくる人たちのことで、その競争率の高さと試験の難しさは康徳なんてアウトオブ眼中だった(おまけに康徳は男子校だし)私ですら知っている。


 確かに稲倉くんは「高校デビュー」と言っていたし、その情報は本当だろう。


「次私ね、稲倉くんの秘密その二、ピアスめっちゃあいてる」

「それは知ってる。耳に二個とベロ一個と眉毛未遂」

「は、眉毛?」

「化膿しちゃって穴が完成する前にふさいじゃったんだと」


 稲倉くんの闇は深い。


「あと、へそもだよね」

「へそ?」


 今度は日向が驚く番だった。四本指をたてて見せたら「四つも!」と日向が目を見開いた。


「嘘だろ」

「嘘みたいでほんとの話。でも稲倉くんには、嫌われたくないから日向には内緒って言われた」

「なるほど」


 日向は私の顔を見て、んんー、と唸った。言おうかどうしようか迷っていることがあるみたいだ。


「想太には聞いちゃダメな、これ」


 頷いて小指を向けたら、日向が小指をからめてきた。嘘ついたら針千本のーます、指切った!


 子供っぽいけれど、これが一番効果的だ。昔私が日向の約束をやぶったときに家に帰ったら針が百本用意されていたことがあって、それがトラウマで、これをすると私は約束を破れないのだ。


 日向は声をひそめて、誰が聞いているわけでもないのに口の脇に手をあてた。


「想太は、クラスでいじめられてない」

「……いじめられてないの?」

「うん。俺、一年の文化祭委員を招集しなきゃなんなくて、一年のクラスまわったんだけど、あいつふつーにクラスの人たちと仲良かったわ」


 それは心底意外だった。稲倉くんて、失礼だけど、便所飯してそうなタイプだ。


「一部の人にいじめられてるとかじゃなくて?」

「うん。なんか内部進学組の有力っぽい人と笑って喋ってたし」


 一つ、疑問がむくむくわいてくる。


 じゃあ稲倉くんは、誰にプールに突き落とされたの? 稲倉くんの話によれば、高校デビューの舌ピアスをとがめられて内部進学組の人にプールに突き落とされたはずなんだけど。


「……俺、思うんだけどさ」

「うん、なに」

「想太、俺らに、嘘ついてるっていうか、何か隠してることがあるのかも」


 それは……ありえるかも、しれない。だって私たちは元はといえば稲倉くんの友達でもなかったわけだし、稲倉くんには何一つ本当のことを言う義理はなかったのだ。


 日向は痰がからんでいるような気分のすっきりしない咳をして、いや、と首をふって立ち上がった。


「なんか変なこと言ったわ。やっぱ今のなしね」


 そう言ってふらふらと居間を出て行く。こりゃ完全に風邪だわ。


 きっと日向は、人を疑うなんてことに慣れていないんだろう。針百本用意されたときだって、日向は私のことを本当に信じて切っていたのだ。


 一人にしてほしそうな背中だったから、私は黙って日向の食器を片付けた。



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