(6)
「はい、とりあえず、お茶です」
「あ、ありがとう」
稲倉くんから差し出された、温かいお茶を受け取る。熱いマグカップに、冷えた指先がじんじんしみた。
稲倉くんの家について、一階奥の彼の部屋に通された。お母さんはいないし、お父さんはトラックの運転手で長距離の仕事で九州のほうに行っているから、今日は帰ってこないらしい。おまけに稲倉くんは一人っ子。家には稲倉くんしかいないそうで。
緊張する。
稲倉くんがベッドに座り、私が勉強机の椅子に座り、温かいお茶をすする。お腹のそこがほんわかと暖かくなってくる頃、稲倉くんが「何か食べるものとってきますね」と部屋を出て行った。
稲倉くんの部屋は綺麗に整頓されていた。と、いうより、和樹や日向の部屋と比べて物が少ないのかもしれない。
家具はいくつかの棚とベッドと勉強机だけ。CDや漫画、よくわかんないおもちゃの類もほとんどないし、壁にはポスターの一つもない。勉強机にはたくさんの参考書が大きさ順に並べられていて、まるでモデルルームみたいな生活感のない部屋だった。
ただ一つ、モデルルームと違うのは、勉強机の脇の棚かもしれない。
人の部屋をじろじろ見るのって、あんまりよくないけれど――、その棚が気になって仕方がなかった。
棚には透明のアクリルケースがしまってあった。アクリルケースはしきりで細かく区切られていて、一つ一つの区切りの中には、ピアスが几帳面に入っている。だいたい一つのアクリルケースにつき、ピアス二十個くらいだろうか。そのアクリルケースが二つ、横に並べてあった。
長いピアス、短いピアス、丸いピアス、四角いピアス――たくさんのピアスが所狭しと収納されている。
「チョコレートしかなかったんですが、いいですか?」
「え、あ、うん! ありがとう」
突然稲倉くんが入ってきたから、私は慌てて椅子を反転させて違うほうを見た。
けれど、稲倉くんは私がピアスを眺めていたのがわかったらしい、一口チョコレートの大袋を勉強机において、ピアスの棚の前に立つ。
「気になりますか?」
「……うん」
稲倉くんはアクリルケースを引っ張り出して机の上に置いた。
ピアスはきらきらしていて、どれも綺麗だった。稲倉くんが一つ一つ解説してくれた。
「これは、舌のやつで、これが、耳の軟骨で。これは、もうふさいじゃったけど――」
その顔を横目で伺うと、彼が「あ」の形に口を開くたびに銀色と黒の二つの舌ピアスがちらちらと見え隠れしていた。彼のピアスを意識して見るのは、久しぶりだった。
「あのね、稲倉くん」
彼が一通りピアスの説明を終えてから、私はポケットからピアッサーを取り出した。稲倉くんが「え」と喉の奥から引きつったような声をあげた。
その声がどんな意味を持つのか私にはわからなかったけれど、私は真っ直ぐに稲倉くんを見上げた。
「私も、あけたいの、耳に。あけてほしいの。自分じゃできなくて」
「え、あ、はい」
稲倉くんはすんなりとピアッサーを手にとったけれど、ふと、手を止めた。
「電話で、知代さんと沙也加さんと喧嘩して、ピアスをあけようと思ったって言ってましたよね」
「うん、言ったよ」
「どうしてですか」
どうして?
問われると、なんて答えたらいいのか迷った。でも適当にはぐらかしたり嘘をついたりしたら稲倉くんがピアスをあけてくれないような気がして、私は言葉を探して正直に答えた。
「私も悲しかったから。ブラックホールに、吸い取ってもらおうと思ったの。そしたら知代や沙也加と仲直りできなくたって、大丈夫そうな気がして」
「そうですか」
稲倉くんはピアッサーを机の上に置いた。
「じゃあ、俺はあけません」
きっぱりと、稲倉くんがそう言い切る。
頭をガン、と硬く重いもので殴られたような気がした。世界中のみんなに裏切られたような、ひどい絶望感に襲われる。 稲倉くんがあけてくれないのなら、いったい誰が私の耳に穴をあけてくれるっていうんだ。いったい何が私のこの気持ちをおさめてくれるっていうんだ。
「なんでよ! 稲倉くんだって同じ理由であけてるじゃん」
私は立ち上がって稲倉くんに詰め寄った。
「私たち仲間じゃん! どうしてあけてくれないの」
稲倉くんのジャージをつかんで、力いっぱいひきよせて、胸をどすどす叩いた。ひょろっとしているのに、叩いたら折れてしまいそうなのに、稲倉くんはよろけもしなかった。それがまた、なおさら悔しかった。
稲倉くんは意地悪だ。ちくしょう。ちくしょう。
……ちくしょう。
「雛子さん」
肩を掴まれた。
稲倉くんがかがんで、私と目線を合わせる。春にはまだ感じなかった身長差。顔をのぞきこむように見つめられた。彼の瞳が濡れて揺らいでいる。そのブラウンの瞳の中に、歪んだ私が泣きそうな顔で怒っていた。思わず目をそらしそうになったけれど、意地で踏ん張った。
睨み返す勢いで、私も稲倉くんを見た。
「雛子さん、それは、逃げですよ」
言い聞かせるように、一言一言ゆっくりと稲倉くんがその言葉を口にした。
「稲倉くんが言うの、それ」
「俺だからこそ言います。ここで逃げたらダメです。真っ直ぐ向き合わないと」
肩を掴む力にいっそう力が入る。
「俺くらいこじれちゃう前に」
手が震えた。私の手が震えているのか稲倉くんの手が震えているのか。もしかしたら、私たち二人共、震えているのかもしれない。
「俺も、最初は、友達と喧嘩したのが原因でした。話をするのが怖くて、何もしないままでいたら、こうなって……あいつと話さないまま卒業しちゃいました。雛子さんにはそんなめにあって欲しくないんです」
私は稲倉くんの胸に額を押し付けた。稲倉くんも私を引き寄せた。そうして二人で泣いた。
どっちがどっちに抱きついているのか、どっちがどっちを慰めているのか、いつの間にか境目が曖昧になってぼんやり消えていた。私たちは二人で抱きしめ合って、二人で慰め合っていた。
「知代と沙也加は私のこと、男好きだって思ってる」
「雛子さん、男好きじゃないですよ」
「でも、誤解だって、ちゃんと伝えきれてない」
「たくさん話し合ってください。俺ができなかった分まで」
泣いて、泣いて、泣いて。……私たちは、またどちらからともなく離れた。稲倉くんの目も鼻の頭も頬も真っ赤だった。きっと私も同じだろう。彼のジャージの胸の部分に、私がつけた涙のしみがまぁるくできている。ごめん、と言ったら、いえ、と返ってきた。
床に座って、稲倉くんが持ってきたチョコレートを食べながら、悲しかったこと、腹が立ったことを全部話した。話しながらまた泣いた。そうしながら、私には、こうやって泣きながら話せる相手がいなかったことに気づいた。
私が泣いている間、稲倉くんは黙ってずっと隣にいた。時折私の言葉に相槌を打つだけで、肩が三十センチ離れた距離から近づくことも離れることもなくそこにいた。
チョコレートの包みがこんもりと山になり、私が喋るネタも尽きた頃、ふと稲倉くんが口を開いた。
「帰り、送っていきます。まだ電車あるから」
「日向に電話しないと」
「俺がします」
「え?」
それは申し出じゃなく、宣言のようだった。
「俺が日向先輩に電話します。俺のところにいるのに、泣きながら電話させるわけにはいかないです。先輩に怒られます」
宣言通り、稲倉くんが日向に電話してくれた。稲倉くんの返事だけで日向がすごく心配しているのがわかって、なんだか申し訳なかった。