(5)
「……あっ」
目を覚ますと、部屋の中――ではなく、やっぱり私は電車に揺られていた。
窓の外の暗闇に、家やお店の明かりが線のように流れていくのが見える。その光の線が上下にゆらめく様子は、まるでこの世界の心電図みたいだった。こんな時間に電車に乗ることなんて初めてだから、ちょっぴり見とれた。
でもすぐに、自分がおかれている状況を思い出した。
あれからどれくらい経ったんだろう。そして、どこまで来てしまったんだろう。座席に座る人はだいぶ減って、まばらになっている。
乗越料金を払わないといけないだろうか、と考えていたら、ちょうど放送が流れた。
「次は千崎駅、千崎駅~。お出口は~」
余裕で足りる。
千崎駅のホームに降り立つと、そこからは、田んぼや森といった田舎っぽい景色が見えた。住宅も多い。電車がまもなく発車することを知らせる放送だけがじぃんと響き渡っている。利用者も少ないらしく、ホームには私の他に数人しかいなかった。
階段を上がりながら、これからどうしようかと考えた。
このまま帰りの電車で蓮野に戻ってしまおうかな。そしたら電車に乗ってここまで来た意味がなくなっちゃうけれど。いや、もともと意味なんてなかったのかもしれない。
とりあえず駅の構内から出ると、ホームから見たまんまの田舎が広がっていた。
蓮野駅の駅前みたいに夜遅くも煌々と光っているビルのあかりや、人々のざわめきなんか一つもない。時折バイクが威嚇するような爆音をたてて通り過ぎていくだけだ。細く息を吐くと、タバコの煙みたいな白い息が夜の空にたゆたう。あたりが暗い分、はっきり見えた。
……うん、帰ろう。
あといくら残ってたっけな。
ポケットをまさぐった瞬間、血の気が引いた。どんなにポケットを引っ掻き回しても、指先にあたるのはスマホとピアッサー、それから硬貨のみで――千円札が一枚もなかった。
そういえば来るとき、カッとなって一番高い切符を買ってしまったのだ。おまけにその前にはバスにも乗ったし、ピアッサーだって買った。
今から家族に電話する? それが一番確実なんだろうけれど、パパとママはたぶん仕事中だし、日向は勉強中はスマホの電源を切っている。すごく集中しているだろうから、家の固定電話にかけても気づくかどうか……。
じゃあ沙也加? ダメ。喧嘩中。
あと、助けてくれそうなのは……。
あ、稲倉くん。
稲倉くんが住んでいるのは隣町だけれど、千崎市に近いところだから、こっちの駅から通っているのだと前に日向が言っていた。
私は夢中でポケットからスマホを引っ張り出した。一緒に引っ張られた十円玉が地面に落ちて転がったけれど、そんなの拾っている余裕はない。
LINEを交換するときに電話帳に追加した彼の番号に、電話をかけた。
息が冷たい。指先の感覚がもうほとんどなかった。体を揺らしながら、稲倉くんが電話に出るのをひたすら待った。実際どれくらいの時間なのかわからなかったけれど、すごくすごく、長い時間に思えた。
『はい』
電話越しの稲倉くんの声は、いつもより低くて、大人の男の人のように聞こえた。
「稲倉くん?」
稲倉くんの携帯電話にかけてるんだから稲倉くんには違いないんだろうけれど、思わず確認してしまう。はい、と、稲倉くんが短く頷いた。
「私、今、千崎駅にいるの!」
『えっ、千崎? どうして?』
稲倉くんの声が裏返る。
私は彼に一から事情を説明した。今の状況から、遡るように。
お金がないこと。電車で眠って、ちょうど起きた千崎駅で降りたこと。カッとなって一番高い切符を買って電車に乗ってしまったこと。ピアスをあけようと思って駅の薬局に行ったこと。
私が話している間、稲倉くんは「はい」と短く相槌を打ち続けてくれた。その低い声はするんと心に染み込んできて、いつの間にかこみ上げてきていた涙が嘔吐のようにうっと溢れ出た。焼肉をしたあの夜、稲倉くんが私を見て泣いた理由がわかった気がした。
私は泣きながら話した。
知代と沙也加と喧嘩してしまったこと。海に行ったときに撮られた、あの写真のこと。和樹のこと。
話し終えてから、情けなくてまた泣いた。
『……すか?』
底を削るような低く重たい声で、稲倉くんがふと言う。
『俺んち、きますか?』
「えっ?」
今度が私が驚く番だった。
『嫌だったら、帰りの電車賃足りる分だけ持っていきます』
「え、あの」
『一人でいたら、ダメだと思うから。相手、俺でいいんなら、話をしましょう』
稲倉くんがあえてそうしているのかはわからなかったけれど、それは、あの夜に私がしどろもどろになりながら言った言葉とまるっきり同じだった。
――焼肉おいで! たくさん話そう! 一人でいたらダメだよ!
また涙がこみ上げて、私はつっかえながら頷いた。
「うん」
『千崎駅ですよね?』
「うん」
『チャリで急いでいきますね。たぶん、十五分くらいでつきますから』
「うん」
『電話、つないでおきますか?』
「……うん」
電話を切らないでおいたのはよいものの、会話はほとんどない。時折稲倉くんが何かを尋ねてきて、それに「うん」とか「違う」とか短い返事を返すだけ。
沈黙が、心地いい。
きっかり十五分後に、稲倉くんが駅についた。
キキッと耳障りなブレーキ音をあたりに響かせて、稲倉くんがママチャリを止める。「海晴Junior High School」というロゴが入った中学のジャージに厚手のジャンパーを羽織っている、着膨れしたダサい格好。家からそのまま出てきてくれたのが丸わかりで、なんだか嬉しくなった。
「……どうぞ」
脱ぎたての稲倉くんのジャンパーが差し出される。
「今まで着てたやつで申し訳ないんですが、俺は、暑いんで。雛子さん、ジャージじゃ冷えますよ」
稲倉くんの息が荒い。十二月だというのに額に汗さえ浮かべている。
「ありがとう。借りるね」
その暑そうな姿に、思わずジャンパーを受け取った。私のサイズよりいささか大きいそのジャンパーを羽織ると、案の定汗臭い。ちょっと酸っぱい、純度百パーセントの汗の臭い。でも、あついくらいに温かかった。
あちこち錆びて年季の入ったママチャリの荷台に横座りする。少し迷ってから、稲倉くんのジャージの腰らへんの裾を掴んだ。その瞬間、稲倉くんの猫背がびくんと伸びる。わずかに振り返った困り顔の稲倉くんと目が合って、私は思わず手を離した。
「いえ、掴んでてください」
もう一度、ジャージの裾に手を伸ばした。稲倉くんが嫌がらないのが不思議だった。
きっと、夜のせいだ。
そうして、稲倉くんと私、二人を乗せたママチャリがゆっくりと進み出す。
夜の街を、何の問題もなくママチャリは駆け抜けていた。千崎市内は道も一応舗装されているし歩道もあるし街路灯もきちんと点いているしで、快適だった。
しかし、海晴町に入ったあたりから、急激に街路灯の数が減った。緩やかな坂を上ったり下ったりしなければならない箇所が急激に増えた。
私が後ろに乗っているからか、ペダルが重いらしく、稲倉くんの息遣いがどんどん荒くなっていく。肩が上下して、その動きがジャージの裾を握る私の手にまで伝わってくる。なんとなく、私もそれに合わせて息をした。私と稲倉くん、息の境目が溶けてなくなってしまいそうだ。
「私、降りようか」
「大丈夫、です」
「素直に言えば?」
「雛子さんダイエットしてください」
「なにそれ、重いってことじゃん!」
背中を軽く叩くと、稲倉くんがふっと息を吐いて笑った。
目尻のしわ、ほんの少し上がった口角――稲倉くんのこんなに自然な笑顔を見たのは初めてかもしれない。直視できなくて、私は視線を空に向けた。
あいにく星座なんて何もわからない。ただ、星が綺麗だと思った。
稲倉くんと何かあった日――出会った日とか、海に行った日とか、その他にもいろいろ――は、だいたい雨が降っていた。だから、こうして稲倉くんと二人乗りしながら、晴れた空を見上げていることがなんだか新鮮だ。けれども稲倉くんは空を見上げている余裕なんかないみたいだから、私はそれをそっと心にしまう。
「この坂を越えたら、俺んちです」
「うん」
その坂は、短いけれどかなりの急勾配に見えた。坂の途中にはコンビニがあり、夜の闇にぼうっと光って浮かび上がっている。
「私、降りようか」
「いえ、だいじょ――」
「あははは!」
稲倉くんの声に、誰かがはしゃぐような声がかぶさるように聞こえた。稲倉くんがそっと自転車を止める。肩ごしに、先ほどとまったく違う強ばった表情が見えて、嫌な予感がした。
稲倉くんが自転車のハンドルを切ろうとする。
「別の道にしましょう」
「え、どうして――」
尋ねようとして、また、笑い声がかぶさる。若い人……十代後半か二十代前半くらい。男女数人のように聞こえる。
もしかして。
「夏の……?」
稲倉くんが、わずかに頷いた。息すらこらえるように、静かに。
「このコンビニ、夜はバイトだけで回してるからああいう人たちのたまり場なんです。また写真撮られかねませんから」
あの時、私たちの写真を撮った人たち。稲倉くんをネクラっちと呼んだ、あの人たち。
「そういえば写真のこと、雛子さんも知ってたんですね。……巻き込んじゃって、ごめんなさい」
「私、写真を撮られたこと、嫌じゃない! 謝ったりなんかしないで」
思わずそんな言葉が口をついて出た。いやいや、もちろん自分の写真が知らない人たちの間に出回っているのは嫌に決まってるんだけれど、伝えたいのは、そんなことじゃなかった。
私は稲倉くんのジャージの裾を引っ張るように強く掴む。
「それよりも、あの人たちが稲倉くんを馬鹿にしてるっていうか……そういう、意地の悪さに腹が立った。あと、言われっぱなしの稲倉くんにも!」
稲倉くんは少し驚いたような顔をした。あの海の日の時みたいに怒り出すかと思ったけれど、予想とは逆に、稲倉くんは笑った。強く、何かを決め込んだような、そんな芯のある笑みだった。
それから稲倉くんは、Uターンしようときりかけていたハンドルをまた前に戻した。立ちこぎで、稲倉くんが全体重をかけるようにペダルを踏む。
右、左、右。強く強く。荷台に重たい私を乗せて。
おんぼろのママチャリはぎいぎいきしんで悲鳴をあげて、それが夜の街に響いた。あの人たちに、宣戦布告しているみたいだ。
そのまま、コンビニの前を通った。
コンビニの前の駐車場で、金髪の男女数人がたむろしているのが見えた。一人がこちらを見て、何か喋る。確かじゃないが、「二ケツのカップル」と言っているように聞こえた。一人、また一人とこちらを見る。
街路灯が私たちをパッと照らした。
ざまあみろ。
私たちは屈しない。
誰かが、さっきよりも少し大きな声で何か喋る。あの人たちは、私たちが、「ネクラっち」とその「彼女」だということに気づいただろうか? 気づいてたとしたら万々歳、気づいていなくてもまあいいや。
ゆらゆらとよろめきながらも、坂を上りきり、登ってきたのと同じくらいの急な下り坂が広がっていた。
「俺んちは、あそこの青い屋根の家です」
稲倉くんが自転車を止めて、坂の下を指さした。確かに、坂をおりて少しいったところに、青い屋根の家がぽつんと建っている。
「ちゃんと、掴まってて」
そう言って、稲倉くんがふいにペダルを踏み込んだ。ジェットコースターのように、最初は緩やかに、下り坂が始まる。そして徐々に加速していく。
十二月の風が皮膚を切りさくように冷たくて、私は稲倉くんの丸まった背中に額を押し付けた。少し湿っていて、少し温かかった。