(3)
事件が起きたのは、和樹と会った翌週の月曜日だ。
――知代が変だった。
いや、知代が変なのはいつものことなんだけれど、なんていうか、今日はいつもよりよそよそしい気がする。いつもは休み時間もうざいくらいにからんでくるのに、話しかけてすらこないし、昨日の夜送ったLINEの返事も未だに来ない。
これはおかしい。
昼休みに入り、いつものように知代と机をくっつける。沙也加は今日は購買組なのか、昼休みに入って十分以上経つけれどまだ来ていない。知代がちらちらとせわしなく教室の扉を見ている。
非常におかしい。
「あのさ、知代……」
「雛ちゃん」
知代が強い口調で私の言葉を遮った。知代の視線があまりにも真っ直ぐだからか、言おうとしていた言葉がお腹に引っ込んでしまった。
「この前の土曜日、兄貴と会ったの?」
「……うん、でも、それは」
稲倉くんの件で話があるって言われたからで。
続けようとした言葉がまたしても引っ込んでしまったのは、沙也加が教室に入ってきたからだった。手にはお弁当を持っている。なんだ、今日購買じゃないんだ。
「沙也加、遅かったね」
「授業長引いたから」
つっけんどんに沙也加はそう言って、知代の隣に立った。先生に何かイヤミでも言われたんだろうか。今日はちょっと機嫌が悪い気がする。
あれ、どうして座らないの……?
ぶすっとした無表情で立っている沙也加の代わりに、知代が、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「雛ちゃん、沙也ちゃんが兄貴のこと好きなの、知ってるよね?」
「知ってるよ。この前の土曜日のことなら、あれは和樹に呼び出されたからで……」
「とぼけないで」
沙也加が吐き捨てるようにそう言うものだから、驚いた。
土曜日に和樹と会った以外で沙也加をそこまで怒らせるなんて、私はいったい何をしたっていうんだろう。
私たちの雰囲気をかぎとったのか、まわりの人たちがちらちらと様子をうかがうようにこちらを見ているのがわかる。ひそひそ話している女子もいる。
「和樹さんが言ってたんだけどさ、雛子、クリスマス、和樹さんと一緒に過ごすんでしょ?」
「は?」
思わず大きな声が出た。
いったいなんでそんな話に……。
「沙也ちゃん、兄貴のこと誘ったけど、兄貴に、雛ちゃんと一緒に過ごすからって言って断られたんだって」
「いや、それは誤解だって」
「ウチもさ、雛子が和樹さんのこと好きなら、前に付き合ってたって聞いたし、ウチ諦めるよ。でもさ、そうじゃないじゃん。海のとき――ウチらが分かれて買い物に言ったとき、稲倉さんと雛子、腕組んでたでしょ?」
「腕組んでなんか」
そう言いかけてから、LINEで回されているあの写真のことを思い出した。
ただ稲倉くんが私の肘より少し上のところを掴んでいるだけだけれど、見方によっては腕を組んでいるように見えなくもない。おまけに一緒に拡散されている文章に、私のこと彼女って書いてあったし。
『<拡散希望>ネクラっちに彼女できてたんですけど。爆笑』
悪意たっぷりのあの文章を思い出して、怒りに鳥肌が立つ。
私のイライラに追い打ちをかけるように、沙也加が言葉を積み重ねていく。
「稲倉さんと和樹さん、どっちが遊びか知らないけどさ――いやどっちのことも遊びの可能性あるけど――、そうやって男弄んで楽しい?」
男好き、と沙也加が吐き捨てた。頭の中で何かがキレる音が聞こえた気がした。
「沙也ちゃん言い過ぎ」
知代が沙也加の袖を引く。沙也加は私をじっと見ている。
「自分で何言ってるかわかってんの、沙也加」
私は立ち上がって沙也加の肩を軽くついた。突然の私の大声にまわりがおしゃべりをやめた。立ち上がったときの椅子の音が思いのほか大きく響いて、教室のしんとした空気に吸い込まれていく。
「自分が断られたからって腹いせ? 私が誘われたからって、嫉妬してんの?」
雛ちゃん、と知代に泣きそうな声でたしなめられたけれど、もう歯止めがきかなかった。別にそう思っているわけじゃないけれど、私の歪んだ心は反射的に意地悪な言葉ばかりを選んでいく。
よりひどい言葉を。
そして、より沙也加が傷つく言葉を。
「沙也加は顔は美人だけど性格ブスだから和樹に好かれないんだよ」
言ってしまった、と頭の中の冷静な私が後悔していた。もう後戻りはできない。意味を理解した沙也加の顔がどんどん歪んでいく。同時に私の意地悪な気持ちも、どんどん大きくなっていく。
「はぁ? なにそれ、自分は性格いいつもりしてんの?」
「ちょっと、雛ちゃんも沙也ちゃんも言い過ぎ」
ふと気づけば、周りの人みんなが私たちのことをじっと見ていた。
途端に意地悪な気持ちがしぼんで、教室で大声をあげてお互いの悪口を言っていることが恥ずかしくなって、私はお弁当だけを持って教室を飛び出した。
私は廊下にたむろする生徒たちの間をすり抜けて、廊下を早足で駆けた。知代も沙也加も、誰も追ってこない。布に包まれた中のお弁当箱と箸箱が当たって、かちゃかちゃと耳障りな音をたてる。なんだか私を責めているように思えた。誰も味方してくれないのが、なんだかみじめだった。
廊下を抜けて、階段をひたすらのぼって、一番上まで行った。屋上へつながる扉は封鎖されており、そんな当たり前のことすら腹ただしい。
階段の一番上の段に座る。
誰の声も聞こえてこない、たったひとりきりの空間。
膝に乗せたお弁当箱のにおいに、酸っぱいような苦いような埃臭さが混じる。
気持ちが落ち着いてきて、しだいに恥ずかしさと虚しさがこみ上げた。
なんであんなこと言っちゃったんだろう。沙也加のこと、そんなふうに思っていないのに。同時に、私は悪くない、と思う自分がいた。稲倉くんのことも和樹のことも完全に誤解だ。私にはなんの後ろめたいこともない。だから、今から教室に戻って弁解したり謝ったりしたら『負け』のような気がした。
ポケットのスマホがぶるぶる震える。
見ると、知代からのLINEのメッセージの通知が来ていた。
『売り言葉に買い言葉なんだろうけど、雛ちゃん、言いすぎ……』
長文らしく、通知で表示されるメッセージには続きがあったけれど、開く気になんてなれなかった。
スマホをポケットに戻そうとしたとき、ぶるぶる、とまた震えた。知代か沙也加だろうと思ったけれど、違った。
稲倉くんだった。
『稲倉が画像を送信しました』
また、通知。
『新発売です』
トークを開く。
それは、こし餡ジュースの兄弟商品、つぶ餡ジュースの写真だった。授業が終わってすぐにLINEをくれたのか、つぶ餡ジュースのペットボトルの脇には数式のびっしり書かれたノートが置かれていた。
『おいしそう』
すぐに既読がついた。
『おいしいです』
『いいなー』
『でしょ』
『うん』
『元気ないですか?』
トン、と不意打ちのようにその言葉が胸を突いた。私はスマホにかじりつくように返信を打つ。
……ちょっとだけ、安心したのだ。こうして文字だけでも誰かとつながっていること、誰かが気にかけてくれることに。
『なんで?』
『雛子さんいつもビックリマークついてるのに、今日ついてないから』
さっきのことを稲倉くんに言おうか迷った。
『実は、沙也加と知代と喧嘩しちゃっ』
ここまで打ったとき、
『なんて、ごめんなさい、変なこと言いましたね』
稲倉くんがそう言葉を付け足したから、言うに言えなくて、私は打ったものをすべて消した。代わりに『そうだよ! 私超元気!』とビックリマークを意識してつけて、返信する。
稲倉くんは忙しいのか、すぐに既読がつかないから、私もトーク画面を閉じた。
稲倉くんからLINEが来る前よりなんだかいっそうやるせなさが増して、けれどその気持ちを持て余していた。どうしたらいいのかわからなかった。