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ブラックホールをふさいだ日、  作者: 村崎千尋
第四章 君の心に触れた日
22/31

(3)


 家に帰ると、玄関に見覚えのない黒のパンプスがあった。


 玄関の角っこにぴたりとくっつけるようなその置き方から、間違いなくママだってわかった。ママのパンプスが玄関にあるのを見るのは、何日ぶりだろう。いつも帰ってくるのは夜中だから。


「ただいまー」


 おそるおそる声をかけてみると、


「おかえり」


 やっぱり、ママ。


 神経質そうな声が帰ってくる。機械が振動する唸り声が聞こえてきたから、きっとママは今、洗濯機のところにいるのだろう。


 私はローファーを脱いでママのところに向かった。


「帰ってきてたの?」


 久々に見るママは、相変わらずピシッとしていた。


 長い黒髪はきつく引っ詰めてお団子にしているし、メガネもぴかぴか、おまけに会社から帰ってきたまんまのスーツ姿で、四十過ぎのおばちゃんには見えない。もともとキャリアウーマン気質なところがあるから、むしろそのピンと伸びた背筋とか横顔とかは、エプロンよりもスーツが似合っている。


 ママは帰ってきた私を見て、「体操服と靴下」とぴしゃんと言った。


 ……なんか、生徒指導の先生みたい。


「はい、洗濯お願いしまーす」


 カバンから体操服の袋を取り出し、靴下を脱いで、二つをうやうやしくかかげる。するとママは、


「はい、承りまーす」


 ノってくれて、仕事用なんだかママ友用なんだかわからない営業スマイルで私の体操服と靴下を受け取った。


「なんかあんたの体操服も日向と一緒でシーブリーズくさいわね」

「そんなことない、日向のが臭い」

「ママは無香料派だからどっちもそう変わんないように感じるわ」


 さらりと言って、ママは丁寧に取り出した私の体操服と靴下を洗濯カゴに投げ入れる。雑なのか几帳面なのかよくわからない。


「日向、今日、帰ってこないって」

「あらこんな時期に。なあに、ボイコット?」


 和樹の家、と言おうとして、ふといたずらごころがむくむく湧いてきた。私は内緒話のトーンで「彼女の家に泊まるんだって、日向」と打ち明けた。


 そしたらママは、


「嘘ついたって無駄よー、日向に彼女なんているわけないんだから」


 私のほうを見もしないで言う。


 それはたぶん、日向に彼女ができるわけがないっていうことじゃなくて、日向に彼女ができたらすぐわかるっていうことだろう。日向はどんなに秘密をつくったって(小さい頃捨てられてた子犬を匿っていたこともすべて)、ママにはすぐばれてしまうのだ。


 ママがエスパーなのか、日向がわかりやすいだけなのか。


 たぶん後者だろうけど。


「和樹くんの家?」

「……うん」

「就職祝いかな」


 いや、もしかしたら前者のセンもあるかもしれない。


「パパは?」

「パパは今日忙しいって」


 じゃあ今日はママと二人きりか。


「夜ご飯ママが作るけど、雛子、何かリクエストある?」

「んー、じゃあオムライス」

「残念、もう作っちゃった。煮魚」


 じゃあ言うな。


 って思ったけど、煮魚は好きだし、学校から帰ってからだとなかなか煮物系は作る気が起こらないからちょっぴり嬉しい。おまけに普段は日向が「肉肉」ってうるさいから、煮魚なんて何ヶ月ぶりだろう? あまじょっぱい茶色のタレをご飯にしみこませて口いっぱいに頬張るのを想像して、よだれが溢れ出てきた。


 お腹すいたなあ。


 洗濯を手伝ってからママと夜ご飯の準備をした。ご飯を炊くのとポテトサラダを作ったのはママで、お味噌汁は私が担当した。味見をしてママが合格点をくれた。


 そりゃ、半年近くほぼ毎日日向のために夜ご飯を作っているんだから、上達しないはずがない。


 日向がいないと、私とママの間にはびっくりするほど会話がない。マヨネーズとって、はい、くらいのもの。


 ……っていっても、別に仲が悪いわけじゃないんだ。日向みたいに次から次にこんこんと湧き出るような話題がないだけ。家族だから別に喋らなくても気まずくないしね。


「ご飯盛って」


 ママがそう短く言って、私は思わずこの前の日向みたいに童謡にのせて返事した。


「アーイアイ」

「それ日向も言ってた。やあね、兄妹って似るものね」


 全部準備してから、パパが帰ってきた。入っていた仕事がキャンセルされたため、明日の朝までは時間に余裕があるらしい。


 ママはびっくりして「やあね」なんて言ったけど、それはきっと照れ隠しだろう。ちょっぴり嬉しそうだったし、パパも「連絡いれればよかったよごめんごめん」なんて言いながら笑っていた。


「あれ、ひーくんは」


 パパが食卓についてきょろきょろとあたりを見回した。


「和樹の家に泊まるから帰ってこないよ」

「そうか、いい息抜きだと思うよ」


 パパは几帳面なママと違っておおらかだ。日向はたぶんパパに似ているんだと思う。


 せっかく珍しくママとパパがそろったのに、日向がいないのが、なんだか変な感じだった。


「すべての恵みに感謝して」


 パパの掛け声に合わせて、手を合わせていただきますをする。


 食卓は静かだった。


 我が家はパパの方針で、食事中はテレビを消すことになっているから、本当にしーんと静まり返っている。


 日向のお喋りな性格はいったいだれに似たんだろう? っていつも、不思議。ママは必要以外のことは喋らないタイプだし、パパは黙ってニコニコしてるタイプだから。


 私もパパとママに似て、あんまり喋るほうじゃない。日向がいるときはつられてボケたりつっこんだりしてしまうけど、どっちかっていうとママタイプだ。


 あ、でも、困ってる人とかかわいそうな生き物を放っておけない日向の性格は、パパ似かな? いくらパパでもさすがにいじめられてた男の子を拾ってきてしまうほどのお人好しではないだろうけれど。


 いじめられてた男の子……か。


 ふと、稲倉くんのことを考えた。


 そういえば、日向は、稲倉くんの家にはお母さんがいないのだと言っていた。ということは、こうやって両親と食卓を囲むことはもうないのだろう。なんとなく、それは寂しい。


 いじめられていたことを一人で抱え込んでしまったのもなんとなくわかる。


 たとえば私が知代や沙也加からハブられたとして、こんなふうにいつも仕事で忙しいパパとママに相談しようなんて思えない。


「ねえ」


 ふと気になったことがあって、私は声をあげた。


「私がピアスあけたら、どうする?」


 ママとパパがきょとん……と狐につままれたような顔をした。


「真面目な顔で『ねえ』なんて言うから、何かと思ったじゃない。なあに雛子、ピアスあけたいの?」

「そういうわけじゃないけど……」

「おしゃれとして楽しむ分には、ママは反対しないかな」


 ママ『は』、と言うあたりに、何か続きがありそうだ。


 パパは? とママが促して、パパが腕を組んで考え込む。


「病院であけて、ちゃんと家でも消毒するんならいいんじゃないか。パパはおしゃれの領域はわからないからなあ」


 てっきり反対されるかと思ってたけど、そういうものなのか。


「でも……」


 パパが言葉を続けて、ママと顔を見合わせた。二人はおかしそうにプッ、と噴き出す。どうやら考えていることは同じみたいだ。私も、二人が何を言おうとしているのかなんとなくわかる。


「たぶん日向がダメって言うわよ」

「ひーくんが反対するだろうな」


 二人の声が重なる。笑い声が綺麗にハモる。……ダメだ、この二人、完全にツボってる。


 確かに、日向はきっとダメって言うだろう。


 他人が開けているピアスに抵抗はないみたいだが、私が雑誌を見て「このピアスかわいい」って言うと露骨に嫌そうな顔をする。中学生の頃、おしゃれでタトゥータイツを履いた日には、本物のタトゥーだと勘違いされてめちゃくちゃ怒られたくらいだ。


 たぶん日向は、自分が嫌そうな顔をしたら私がピアスを開けないだろうっていうことまでわかっているだろう。おかげで私はイヤリングすらしたことがない。


 ――ああ、そうか。


 すとん、と胸に落ちてくるものがあった。


 ――稲倉くんには、止めてくれる人が、いなかったのか。


 ――そして、稲倉くんのまわりのあの人たちを止めてくれる人だっていなかった。


 稲倉くんの、あの泣きそうな顔を思い出す。私のことを女の子だって言った低い声を思い出す。怯えた表情も、震える手も、あの日の稲倉くんのすべてを私は覚えている。


 稲倉くんの体中の穴はもう治ったけれど、きっとまだ、心は穴だらけだ。


「あら雛子、どうしたの」


 急に黙り込んだ私に、ママがにっこり笑いながら尋ねてくる。


 私は「学校でお菓子食べてきたから」と言い訳をして煮魚を半分残した。なんだかにわかに胸がいっぱいになって、これ以上食べられそうになかった。


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