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ブラックホールをふさいだ日、  作者: 村崎千尋
第三章 君を許せなかった日
19/31

(5)

 それは、予想以上に凄惨な話だった。


「中学三年生の春頃、友達と、喧嘩したんです」


 最初は軽い口喧嘩だったのが殴り合いに発展し、稲倉くんは彼の頬を殴ってしまった。


 そのことが、彼と付き合っていた不良グループの女の子の一人に知れてしまう。そして女の子たちは、稲倉くんをターゲットにして、時折「クラス会」と称してみんなの前で稲倉くんをいじめるようになったのだった。


 最初、まわりの人たちは、不良グループの女の子たちが稲倉くんを蹴ったり殴ったりしているのを見ているだけだった。稲倉くんが反抗すると彼女たちは先生に被害者ぶってありもしないことを言いつけて、怒られるのは結局稲倉くんだったから、稲倉くんはされるがままになった。


 殴られたり蹴られたりなら、ただ我慢すればいいだけだから、そんなにつらくはなかったらしい。


 いつしか、クラス全体が稲倉くんをいじめるようになっていた。もちろん殴る蹴るだけじゃなく、物を隠されたり歩いているだけで笑われたり、悪口を言われたり。けれどそれもつらくなかったそうだ。


「典型的な嫌がらせだったから、それは耐えられたけど……」

「けど?」

「あいつだけはいじめてこなくて、ただ、俺のことをずっと無視し続けてたのがつらかったです」


 稲倉くんと喧嘩をした彼は、みんなが稲倉くんを笑っていても、クラス会で暴力をふられていても、稲倉くんの物が「ネクラ菌」と称されて回ってきても、仲間に加わることもせず、もちろん助けることもなく、ただなにも起きていないかのように振舞っていたらしい。


 けれど稲倉くんは不登校になったりしなかった。何を言われても相手にしなかった。


 知り合いの誰もいない康徳の高等部に進学するために内申書に一ミリも傷をつけたくなかったからだ。


 それが女の子たちには面白くなかったらしい。


「六月の半ば頃の、クラス会で……」


 稲倉くんはそこで言葉を詰まらせた。


「舌と耳にピアスをあけられたんです」

「え……」

「開けたのは、すでにピアスを開けていた女子でした。長い針を持って、それを……」


 稲倉くんがネクタイの結び目に指をかけて、ゆるゆるとしゃがみこむ。それを、それを、と繰り返す。その先をどうしても言葉にすることができないみたいだった。


「いいよもう」


 私が止めると、稲倉くんは「ダメなんです」と首を横にふった。その顔はひどくつらそうで、これ以上喋らせるのがかわいそうで仕方がなかった。


「まだ、終わりません。聞きたくなかったら聞かなくてもいいです」


 私が黙っていると、稲倉くんは再び話し出す。


「ピアスの穴を開けるとき、かなり痛かった。けっこう抵抗したから。でも、帰って鏡で見たら、なんだかいろいろ吸い込まれていくような気がしてすっきりしたんです。……雛子さん、文化祭のとき、ベロのピアスのことなんていったか覚えてますか?」

「……いや、覚えてない」

「ブラックホールみたい、って。……確かにそのとおりだと思いますよ」


 稲倉くんは自嘲気味にほんの少し笑ってみせた。


「つらいことも悲しいことも、全部、この穴が吸い込んでくれるんです」


 それから、稲倉くんはいろんなところに自分で穴を開けるようになったそうだ。


 普通、ピアスを開けるところって、顔か耳かへそか乳首なんだけど、稲倉くんはそれ以外のなんでもないところにも無理やり針をさした。皮膚に穴があいているのを見ると心が洗われるらしい。


 稲倉くんは嫌なことがあるたびに、体のどこかにピアスを開けるようになった(へそピアスもその頃にあけたらしい)。もちろん化膿したりうまく針が通らなかったりと失敗することもあったらしく、秋頃には、体はすでに傷だらけだったみたいだ。


 今はもう傷跡もほとんど消えて、よく見れば傷跡っぽいかな、っていう程度のシミになっているそうだが、当時は本当に「穴だらけ」という言葉がぴったりだったらしい。


「それが十月のクラス会でばれました」


 ばれたのは、いたずらでみんなの前で上半身裸にされてしまったのがきっかけだったそうだ。


 みんな――稲倉くんをいじめていた女の子たちでさえも――、稲倉くんの体を見て絶句した。誰かが写真を撮って、それをLINEのタイムラインという機能で公開した。


 拡散希望。稲倉想太はやばいやつだ、って。


 それ以来、稲倉くんをいじめる人は誰もいなくなり、みんなが稲倉くんを腫れもののように扱うようになった。おかげで稲倉くんはあまりピアスを開けなくなり、勉強にも集中できるようになって康徳に合格した。


「プールに突き落とされたのは?」

「あの写真がけっこう拡散されてたみたいで、それ見て俺のこと知ってた人たちにやられたんです。油断してました。俺はまったく知らない人たちだったんですけど、『ヤクザとつながってるだかなんだか知らないけど、やれるもんならやってみろ』って言われて」

「今も、続いてるの?」

「まあ……たまにだから、別にいいんですけど」


 稲倉くんがあまりにもさらりと答えるから、私は思わずなんでもないことのように「ふうん」と返してしまった。追って、稲倉くんへの苛立ちがふつふつとわいてくる。


 ……油断してたとか、たまにだからいいとか、そういうものなの? どうして当たり前みたいにそうやって言うの?


「文化祭の時のピアスは?」

「あれも、自分で。雛子さんに言われてたことちょっと気にしてて。助けてくれた日向先輩に嘘つき続けるのは、やっぱり心苦しくて。……でも、日向先輩には言えません。嫌われたくないんで」

「なにそれ」


 思ったよりもきつい言葉が口から出た。


 私はちょっぴり怒っていた。


 もちろん、稲倉くんをいじめていたっていう人たちに対してのものでもあるけれど、一番はやはり、稲倉くんへのものだった。


 日向はあんなに稲倉くんのことを大切な友達だと思ってるのに、その思いは一方通行だったのだ。稲倉くんは日向のことを友達だなんて思っていない。


 こんな時に頼れない人なんて、友達とは呼べない。


 高校デビューを咎められてると思い込んでる日向が、稲倉くんがいじめられないようにどれだけ気をもんでたか、知らないくせに。わざと家に誘ったりしていじめてる人たちの目につくようにしてたのに。


 確かに、そんなの日向が勝手にやってることで、日向は感謝とか信頼とかそういう見返りなんて求めてないけど……。


「私、そういうのってちょっとないと思う」


 稲倉くんの表情が曇った。


「……なんか、自分勝手だよ」

「でも」

「稲倉くんあの人たちに言われっぱなしだし、日向にも嘘つくし、黙ってピアス開けるし、なんなの。一人で傷ついちゃって、悲劇のヒーローぶってるの? ――そんなの、あんなに稲倉くんのこと気にかけてた日向が悲しいじゃん」

「でも」

「でもじゃないよ」

「でもそれは!」


 稲倉くんは語気を荒らげて立ち上がった。いつもと違う稲倉くんに、私は思わず黙り込む。稲倉くんは眉根をよせて、低い声で唸るように言った。


「でもそれは、雛子さんに言われることじゃない」


 稲倉くんの表情は厳しかった。敵意というか、警戒心というか、そういうものが全部むき出しで。私は、いつか日向が拾ってきた、怪我をした子犬を思い出す。日向には懐いていたくせに私が一人で近づくと睨んで吠えたてたあの子犬に、稲倉くんの表情はよく似ていた。


 ――この反応を、拒絶というのだとわかるのに、少し時間がかかった。


「結局女の子ってそうですよね、自分とは関係ないことに首突っ込んできて。彼氏だからとか兄だからとか、自分の大切な人ばっかりかばおうとして、そのためには何言ってもいい、誰傷つけてもいいみたいな、そんな……」


 稲倉くんは今にも泣いてしまいそうだった。


 今は稲倉くんの全部が気に入らなくて、その表情でさえなんだか卑怯な気がしておもしろくなかった。泣けば私が謝るなんて思ってるんじゃないの。まるで稲倉くんが嫌ってる女の子そのものじゃない。胸の中にぐるぐると汚いものがうずまいているのが自分でもわかる。


「なに、稲倉くんは結局自分のこと肯定してほしいだけ? 日向に否定されるのが怖いから言わない。私に否定されるのが面白くないからそうやって泣く」

「泣いてないです」


 言いながら、稲倉くんの頬に一筋、涙が流れた。


「自分を肯定してほしいことの、それの何が悪いんですか! 雛子さんなんて、俺と全然関係ないんだから口はさまないでください」

「関係ないってなによ」

「俺は日向先輩には恩がありますし、大切な友達ですけど、雛子さんはただの、日向先輩の妹です。ただの女の子です」


 その一言は、思ったより心に刺さった。頭にかーっと血がのぼるのがわかる。


 稲倉くんの遠慮がなくなったり、言い合いをちょっぴり楽しんでいる自分がいたり、嘘に憤慨したり、馬鹿にしてくる人たちに言い返したり。そんな今までの私は、全部独りよがりだったのだ。稲倉くんは最初から私のことを、彼をいじめてきた女の子と同類に見てる。


 ……どうやったって、私が女の子である以上、稲倉くんとは相容れない。


「あ、っそう!」


 私はそう吐き捨てて、稲倉くんの左肩を思いっきり突き飛ばしてさっき来た方に向かって駆け出した。どこかしら大通りには出るだろう。もしかしたらあの人たちとばったり出くわしちゃうかもな。けれど、それはそれでいいや。


 なんだか投げやりな気持ちだった。


 雨はいっそう激しさをまし、傘を持っていない私はすっかりびしょ濡れだった。体は冷えているのに頭だけは熱く、アンバランスだ。水を吸った髪の毛がぐっしょりと重たい。


 私は沙也加の言ったことを思い出した。


『友達ではあるんでしょ!』


 ――ああ沙也加、私たち友達ですらなかったよ。


『ウチはね、あいつと縁切れって言ってるの』


 ――うんだから、肩、突き飛ばして逃げてきた。


『じゃないと雛子、絶対嫌な思いをすることになる』


 ――嫌な思いっていうか、なんだか、悲しい気持ちかな。


 私はなんにも悪くないのに、私は全然関係ないはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのかわからなかった。


 私の顔はいつの間にか水でぐちゃぐちゃだった。息を吸うと、雨粒が羽虫のようにいっせいに入り込んできた。それがどうしてしょっぱい味がするのかも、私にはわからなかった。




 それから走り続けて、私はたどり着いたコンビニのひさしの下で泣きながら沙也加に電話をかけた。沙也加に「絶交してやった!」と叫ぶと、沙也加は「うん」とだけ言った。


 川田くんが気を使ってくれたのか、迎えに来たのは沙也加だけで、川田くんは稲倉くんを迎えにいったらしかった。


 沙也加は私の顔を見て、開口一番、


「泣きそうな顔」


 と苦笑いした。


 沙也加が私を軽く抱きしめてくれる。沙也加のほうがだいぶ背が高いから、私はすっぽりとその腕におさまった。なんだか恋人どうしみたいだ。


「恋は楽しい方がいいよ、雛子」

「だから、私、稲倉くんのこと好きなんかじゃ」

「じゃあ、幸せに好きになれる人が見つかるといいね」


 私はうんとだけ頷いた。


 しばらくして知代が来て(やっぱり春村くんは川田君たちと合流したらしい)、私たちはそのまましばらく、コンビニのひさしの下で空から雨粒が落ちてくるのを黙って見上げていた。知代は事情を春村くんから聞いているのか、私には何も質問してこない。


 私たちは私たち三人だけで、コンビニで買った一つのビニール傘をさして帰った。雨は予報によると夜中まで降り続くみたいだった。


(第三章 君を許せなかった日 了)

次から四章です。

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