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ブラックホールをふさいだ日、  作者: 村崎千尋
第三章 君を許せなかった日
18/31

(4)



 夕方の五時頃には、ビーチバレーにも波打ち際ではしゃぐのにもすっかり疲れきって、帰ろうか、という雰囲気になっていた。ちょうど空も曇ってきて、空気がじめつきだしたし、帰るにはいいタイミングだ。


 沙也加もすっかり笑顔で、沙也加を元気にするという当初の目標は果たせたから私も満足だった。でも知代はきっとそんなこと覚えていないだろう。一番元気になったのは知代だ。


 駅までの帰り道、ふと、知代が立ち止まって眉をひそめた。


「どしたの、知代」

「なんか笛の音聞こえない?」


 言われてみれば、確かに、遠くのほうから和風の笛の音が聞こえてくる。それから、トンカラトントン、という軽やかな太鼓の音も。


「あっ」


 稲倉くんがふと声をあげた。


「そういえば、近美のお祭り、今日だ」

「お祭り?」


 そっか、そういえば、稲倉くんは隣町の海晴町に住んでるんだっけ。


「ああ。商店街の通りから海岸沿いの道路を通って、近美神社まで神輿が通るんだ。けっこう大きな祭りなんだけど」

「へえー」


 知代と春村くんの瞳がにわかにきらきらしだした。二人が次に言うことはなんとなく想像がついている。


「行こうよ、お祭り!」

「出店で夜すましちゃおう!」


 ……やっぱり。


 この二人、お祭りとか出店とか好きそうだもんなあ。


「天気、ちょっと悪くなってきたけど」


 川田くんがそう控えめに言ったのには耳も貸さず、二人はすでに行く気満々。二人を止められないっていうのもそうだけど、たこ焼き、かき氷、射的、林檎飴……とまくしたてるように言われると、なんだかこっちも乗せられてしまって、結局満場一致でお祭りに行くことになった。


 海岸沿いの道を歩いていくと、どんどんお祭りのにおいが濃くなる。笛や太鼓の音も大きくなる。


「飲み物買ってくる組と、食べ物買ってくる組と、お菓子買ってくる組で分散する? どうする知代ちゃん?」

「あ、いいねー。昼のバレーと違うチーム分けにしよ」


 ――なんだか、お祭りっていいなあ。


 昔、日向とお祭りに行ったのを思い出す。


 日向が中等部を卒業するまでは毎年、蓮野のお祭りの最終日は日向と行くことにしていた。だいたいすることは友達と行くのとそう変わらない。射的をしたり、かき氷を食べてベロの色を確認し合ったり。日向は輪投げが得意で、毎年のようにかわいくもないぬいぐるみを取ってきては私に押し付けていた。


 今年は、私も輪投げをやってみよう。うまくできるかな? いつも日向がやっているのを後ろで眺めてるだけだからなあ。輪投げなんて小学校のお楽しみ会以来だ。


「だよね、雛ちゃん?」


 考え事をしていたから、知代の話をまったく聞いてなかった。


「え、あ、うん」

「あーっ、雛ちゃん聞いてなかったでしょ?」

「ごめん、何の話?」


 知代が軽く肩を突き飛ばしてくる。


「ちゃんと聞いててよねー。飲み物買ってくる組とかで分散して持ち寄るって話」

「うん、それは聞いてた」

「雛ちゃん、稲倉くんとコンビニまでお菓子買ってくる組でもいい? ここらのコンビニの場所稲倉くんしかわからないから」

「はあっ?」


 思わず稲倉くんと声がかぶった。目が合う。稲倉くんはものすごく嫌そうな顔で私を見ていた。


「おい春村」


 責めるように稲倉くんは言ったけれど、当の春村くんはヘラヘラしていた。


「まーまー、稲倉だって、雛ちゃんならだいじょぶっしょ?」


 稲倉くんが言葉に詰まる。


 いやいや、稲倉くんが大丈夫だって私が大丈夫じゃない。稲倉くんと一緒にお祭りの喧騒の中を歩く? まわりからカップルに見られるじゃない。


 そんなのごめんだ。


 絶対ごめんだ。


 おまけに稲倉くんと一緒にいて口論にならないことがないし。


 組分けは絶対に公平でない手段で行われたに違いない。私たちのほかは、最初から仲がよかった知代と春村くんが飲み物係、バレーで意気投合した沙也加と川田くんが食べ物係、という組み合わせになっていた。すなわち私たちははめられたのだ、知代たちに。


 抗議の意味をこめて春村くんを睨んだら、彼は茶目っ気たっぷりな笑顔を見せて知代と祭りの喧騒の中に消えていった。


 続いて沙也加と川田くんもどこかに行ってしまって、私たちはあっという間に二人きりにさせられてしまう。


「はあー……」


 マスクをずりさげて、稲倉くんがわざとらしくため息をつく。


 あたりが薄く群青色がかかってくる時間帯だったが、稲倉くんの舌のピアスは不思議と際立って見えた。舌の少し左よりにある銀色のピアスと、舌の真ん中の真っ黒なピアス。舌の腫れはすっかりひいているみたいだ。


「雛子さんこっち見ないでください」


 さっそく稲倉くんがつっかかってきた。


「誰が稲倉くんの暑苦しいマスク姿なんか見なきゃいけないのよ」

「俺だって好きでマスクしてるわけじゃないです。これ隠すためなんですから」


 これ、というのは舌ピアスのことだろう。


「じゃあ、コンビニ、行きますか」


 稲倉くんがすたすた歩き出す。


 いくら稲倉くんといえども一応男の子だ。歩幅は私よりずっと大きくて、すぐに距離が離れる。すぐ先にはお祭りに向かう人たちの人ごみができていて、そんなふうに歩かれたら、稲倉くんを見失ってしまいそうだった。


「あっ、ちょっと待ってよ……」


 私の声に、稲倉くんが立ち止まって振り返る。私が追いついていないっていうのと、目の前のすごい人ごみに気づいて、ハの字眉毛のちょっと困った顔をする。そんな顔をされると私もちょっと困った。「もう少しゆっくり歩いてよ」って言い出しづらい。


 私は、黙って手を伸ばして、稲倉くんのワイシャツの右肘のあたりをつまんだ。


 稲倉くんの肩がびくりと硬直する。「びっくり」と「困った」がカフェオレくらいの比率で混じった顔。


 私はあえてつっけんどんに、


「コンビニ」


 とだけ言った。


 稲倉くんも「ん」と短く返事をして、歩き出した。


 けっこう大きな夏祭りだけあって、あたりにはカップルらしき人もちらほらいた。照れることなく恋人つなぎをする人たち、初々しく指先だけをからめる人たち、中には緊張した面持ちで微妙な距離に手をおいている人たち……でも、私みたいに中途半端なところをつかんでいるのは珍しい。


 ――って、私たちは恋人じゃないけどね。


 さらに進むと、ますます人が増えて、出店も多くなってきた。気をつけないと人にぶつかってしまう。かき氷を持って腰のあたりをすり抜けていく小学生に、時々ひやりとした。


「……っすね」


 稲倉くんが何か言ったけれど、喧騒にかき消されて語尾しか聞こえない。


 私は稲倉くんの背中に少し顔をよせる。


「え! なんて?」

「雨! ちょっと降ってきた!」


 稲倉くんが目で空を示す。確かに、空は灰色の絵の具をべたっと塗りたくったみたいなひどい曇り空だ。空を見上げると、頬にぽつりと冷たいものが落ちてきた。かすかにだが、雨が降ってきている。


「コンビニで、傘! 買おう!」

「じゃあ、急ぎますか!」


 近道、と言って、稲倉くんが脇の人通りの少ない路地に折れた。路地、といってもけっこう道幅は広く、わずかにではあるが、こちらに向かって歩いてくる浴衣姿の人もいた。


 アスファルトに、点々と黒いしみができ始めていた。もう少ししたら本格的に降り出すだろう。


 稲倉くんがこころなしか早歩きになる。


「あっれぇー?」


 ふいに背後で、間の抜けた声がした。


 私は最初、それが私たちに向けられたものだなんて思わなかった。ただ、ワイシャツごしに触れた稲倉くんの肘がびくりとかたまって、なんだか不穏なものを感じた。


 稲倉くんが立ち止まって急に振り返るから、私は彼の肘から手を離す。声のしたほうを見る。


 そこにいたのは、お祭りらしく甚平を着た男女数人だ。黒髪ではあるが、女子は化粧ばっちり、男子はピアスをじゃらじゃらつけて缶ビールを手に持っていて、もう随分と酔っているみたいだ。そんな見た目だけれど、顔立ちはまだ少し幼い。高校生くらいだろうか。


「ネクラっちじゃん」


 あれぇ、と最初に声をあげたアシンメトリーの髪型の男子が呂律のまわらない口調でそういった。


 ネクラっち、というのは稲倉くんのことだろう。もしかして稲倉くんの同級生だろうか。


「もしかして彼女と一緒?」

「ネクラのくせにジョートーじゃん」

「調子のってんなぁ?」


 アシンメトリーの言葉に続くように、後ろの人たちが笑いだした。


 え、なに、この人たち、誰?


 ただ、「ネクラっち」という親しそうなあだ名にも、笑い声にも、口調にも、嘲りと誰かを見下す優越感しかこもっていないことだけは鈍感な私でもすぐにわかった。稲倉くんが私の後ろに隠れるように一歩身をひいた。


 待てよおいおい、いくらこの人たちが怖いからって、男として、ここは私をかばうべきでしょ! 不良たちの前に立ちはだかるくらいのことはすべきでしょ!


 一瞬そう思って腹がたったけれど、私の肘の上のほうをぎゅっと掴んだ稲倉くんの手の震えを感じて、そんなのふきとんだ。稲倉くんは俯いていて表情はうかがえないけれど、きっと、こうやって女子にすがるのは苦痛で仕方ないだろう。けれど今、私しかいないのだ。


 ここに日向がいればいいのになと思った。


 日向がいればきっと、稲倉くんを安心させて、私たち二人をかばって、この人たちに一言ガツンと言うくらいのことはやってのけるに違いない。


「ネクラっち、彼女の後ろに隠れてるんですけど」

「は、マジだ」


 誰かがスマホをこちらに向けて、ぱしゃ、ぱしゃり、と何枚か写真を撮った。下品な笑い声。別の人がまた私たちにカメラを向ける。


 ネクラっち女々しい。ウケるんですけどー。ほらピースしなよ。げらげら、げらげら……。


 私の中で、何かが切れる音がした。


「ちょっと」


 まさか私が言い返すと思わなかったのか、しん……とその場が静まり返る。


「稲倉くんの知り合いだかなんだか知らないけど、今の写真消してよ」


 稲倉くんがたしなめるように私の肘をひく。けれど私は止まらない。だって私には日向と同じ血が流れてるのだ。頑張れば日向と同じくらいのことはできるはずなのだ。


 雨が強く降り出す。女子たちが顔の前に手で屋根をつくっていたけれど、私は濡れて額にはりついた前髪だけを脇によけて彼らから目を離さなかった。


「私は稲倉くんと付き合ってない」

「……だから、なに?」


 蔑むような目を向けられる。


 私は一言一言区切るように、彼らに言ってやった。


「だから稲倉くんが、私の後ろにいたって、おかしいことなんて何もない。写真を消して!」


 ふいに腕をひかれた。


「きゃ!」


 稲倉くんだった。


「行きましょう」


 稲倉くんはそう短く言って、駆け出した。


 稲倉くんの手はもう震えていなかった。男の子らしい骨ばってごつごつした指が、力強く私の腕をひく。私も稲倉くんに引っ張られるがままに走り出す。背後の彼らが何か大声で言って笑ったけれど、雨音で何も聞こえない。結局写真は消してもらえなかっただろうな。


 けれど、一言言えてすっきりしている自分がいた。


 路地を右に左にと折れる。コンビニを過ぎても稲倉くんは止まらない。


「ちょっ、稲倉くん」


 きっと私の声は届いていないだろう。路地を一つ折れるたび、水たまりを一つ踏みつけるたびに、どんどん人通りが少なくなっていく。けれどどんどん雨が強くなっていく。


 いつしか商店街の末端のような通りを走っていて、雨でけぶる視界の中、灰色のシャッター街だけが真っ直ぐに続いていた。


 稲倉くんがようやく立ち止まったのは、商店街の一番端っこのお店の前だった。そのお店もまたシャッターがかかっている。制服どころか下着まですっかり雨に濡れて肌寒かったけれど、トタンの屋根があったから濡れずにはすんでいた。


 ぼん、ぼぼん、ぼん、とトタン屋根に落ちる間抜けた雨の音が、絶え間なくあたりに響き渡る。


「あっ、ごめんなさい」


 稲倉くんがパッと手を離した。


 稲倉くんの黒縁メガネもすっかりびしょ濡れで、前もよく見えていないみたいだ。彼はメガネを外してワイシャツの裾でレンズを乱暴に拭った。もちろんワイシャツも濡れていたから水滴を塗り広げただけになってしまったけれど、稲倉くんは気にせずにまたメガネをかける。


 ――目が、合う。


 合った瞬間、そらされる。


「あの……雛子さん」


 稲倉くんの顔は真っ赤だった。


「なに」

「それ、見えちゃっても大丈夫なやつなんですか」

「それって?」

「その……、ブラウスの下……透けてますよ」


 稲倉くんが言っているのは、キャミソールのことだろう。夏は、ブラジャーが透けないように、ブラウスの下にキャミソールを着ることにしているのだ。こういう時のために。


「これは見えても大丈夫なやつだけど」

「……そうすか」


 けれど稲倉くんはこちらを見ようとしない。一応気を遣っているのだろう。


「あの、すいませんでした、俺のせいで」


 ふいに、稲倉くんがぽつんと呟いた。


「あの人たち、俺の中学の頃の……友達、なんです」


 友達、という言葉を選んだ稲倉くんが、ずる賢く、嫌らしく思えた。


 稲倉くんの中ではあんなの友達なんかじゃないだろう。私はそこまで鈍くない。きっと稲倉くんは、あの時言い返した私が、そういうことに気づいたのをわかったうえで言っている。


 なんだか腹が立った。


「あの人たちにいじめられてたの?」


 私はあえて単刀直入にそう尋ねた。初めて会った時も似たようなことを稲倉くんに聞いたけれど、その時とは全然違う。今の私の言葉はトゲトゲしていて、気分が悪くなるくらいの意地悪がこめられている。


 稲倉くんの顔が露骨にこわばる。


 いえ、その、と必死で弁解しようとする稲倉くんに、私はなおも言葉を突きつけた。


「沙也加――川田くんとバレー組んでた子ね――、千崎に住んでて、稲倉くんのこと、ちょっとだけ知ってるの」

「ちょっとだけって、どこまで」

「LINEのタイムライン」


 それだけで稲倉くんは理解したみたいで、がっくりと肩を落とした。


「……たぶん、雛子さんが思ってるとおりですよ」


 稲倉くんはぽつぽつと語りだした。

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