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下りの路線とはいえ、夏休みのお昼の電車は席があいていない程度にはお客さんがいた。真新しい麦わら帽をかぶった小学生とそのお母さん、顔をよせて笑い合うカップル、優先席で本を読むおばあさん、その誰もがわけもなくわくわくしてしまう夏の雰囲気にのって、溌剌とした生気に満ち溢れた表情だ。
少なくとも、私にはそう見える。
私はつり革を握り締める手を右から左に変えた。
私たち一行だけ、空気が二分化されている。たまたま席に座れた知代とその正面に立つ康徳の男子生徒ふたりは笑顔だ。どんな楽しい話をしているのか知らないが、時々手をたたいてキャッキャと笑っている。
うん、夏だ。楽しそうだ。高校生だ。青春だ。
しかし、知代の隣の沙也加、そして沙也加の正面に立つ稲倉くんとその隣の私は……、まるで梅雨に取り残されたかのようなどんよりとした雰囲気に包まれていた。
考えても見れば、私たち三人は「嘘をついた人」「嘘をつかれた人」「チクった人」という関係なわけで。
その関係図を知っているのが私だけだとしても(この前の沙也加はあくまでも稲倉くんが「嘘をついて私を騙している」という前提で話していただけであって、稲倉くんが本当に嘘をついているかは知らないのである)、お互いただならぬものを感じ取って気まずいのだった。
「康徳、夏休みも学校なんてたいへんだねー」
「そーでもないよ、俺なんか内部進学組だから、なんかもー当たり前で感覚がマヒしてるっつーか」
知代たちの会話が聞こえる。
どうして私たち蓮野の生徒と康徳の生徒が一緒に下り線の駅に乗っているのかというと、それは百パーセント知代が悪い。全部知代のせいだ。
七月考査、見事に私も知代も赤点だらけで夏休みの補習には強制参加だった。それを告げると、沙也加も「どうせなら」と補習に申し込んだらしい。それで私たちは三人そろって仲良く補習を受けることになり、せっかくの夏休みだというのにほぼ毎日学校に通っていた。
今日は補修最終日で、数学一コマだけのために学校に行くことになった。もちろん十時ごろには解散になり、暇をもてあました知代が思いつきで言いだしたのだ。
「沙也ちゃん最近元気ないから、海でもいこ!」
もちろん水着もビーチサンダルもない。けれど知代の強引さに押されて、私たちは駅へと向かった。蓮野駅から下り線に乗って四駅いったところにある近美駅は、海の目の前なのだ。
「どうせなら男子も誘おっか」
知代がそう言い出して、私も沙也加も頷いた。
てっきり蓮野の男子かと思っていたのだが、沙也加が誘ったのは文化祭で「モトちゃんの彼氏」に紹介してもらった男の子らしい。康徳も今日は補修の日だそうで、知代が連絡したときちょうど学校が終わっていた頃らしく、その男の子がクラスの人を何人か誘ってきてくれるというのだ。
康徳の男子なら変なやつもいないだろうし、と許しかけたのも束の間。
「はーい知代ちゃん、文化祭以来?」
駅の改札口にやってきたその彼は、髪の毛をワックスで少し遊ばせているおよそ康徳らしくないちゃらちゃらした人だった。
いかにもクラスで人気者、っていう感じ。名前も「春村太陽」っていう、ジャニーズアイドルかあるいはサッカー部キャプテンみたいな爽やかな名前だ。
知代のことを軽い調子で「知代ちゃーん」と呼び、なんのためらいもなくハイタッチなんかしている。彼女が五人くらいいるんじゃないかっていうくらい女慣れしてそうだ。
彼は他に二人の人を連れてきていた。一人は「川田です」と普通に自己紹介した。駅ですれ違っても二日くらいは記憶に残っていそうな春村くんとは対照的に、知り合いだとしても喧騒ですれ違ったら気づかなそうな、どこにでもいる普通の男の子だ。
春村くんと川田くんの二人は内部進学組で、中学の頃から仲がいいらしい。
最後の一人は――。
「ちょ、なんでここにいるの」
「それは俺のセリフです」
このクソ暑い真夏のお昼に、これまたクソ暑い長めの重たい前髪にがっつりマスクをした稲倉くんだったのだ。
それからは散々だった。
知代と沙也加が、稲倉くんが文化祭で会ったあのお化け役だということに気づいたのだ。
沙也加がすぐに暗い表情をし始め、対照的に知代は「雛ちゃんの彼氏じゃん」なんてニヤニヤした。春村くんが「あっ、この前稲倉とちゅーしてた……?」なんて言って(どうやらあの時扉を開けたのは春村くんらしい)、知代と春村くんがタッグを組んでひゅーひゅーって言い出したものだからたまらない。
沙也加は沈鬱な表情だし、川田くんはニコニコしてるだけ。稲倉くんは論外、論外。キスのことを否定もせずに「こんな人と付き合うなんて無理」とじっとりした目で私を見てきた。
でも、梅雨のど真ん中みたいなじめじめしたこの雰囲気に比べれば、つい二十分前まで続いていたあのひゅーひゅー地獄のほうがずっとましだったと思える。だってこの雰囲気、本当に重苦しい。
私もにこやかに知代たちの会話に加われればいいのだが、そうするには間にいる稲倉くんが邪魔だった。
「いやー、暑い、ねえ?」
沙也加と稲倉くんに順番にへへ、と笑ってみせる。ちょっとわざとらしいかな。二人も「そうだね」とわざとらしく笑った。
会話が終わる。
知代ちゃんどうかどうか助けてください。窒息死しちゃう。
「雛子さんて、知らない男子とホイホイ海いっちゃうような人なんですね」
ボソ、と小さく、けれども隣にいる私にはわざと聞こえるように稲倉くんが言った。
「それは稲倉くんだって同じじゃん」
「俺は春村に無理っやり拉致られたんです。女の子がいるなんて聞いてません。何のために男子校入ったんだか」
そのわりには、女の子がいる菅本家に入り浸りだと思いますけど。
言い返したら、三倍になってさらに返ってきた。
「目当ては日向先輩です。あと、悪いですけど、俺雛子さんのこと女の子だなんて思ったことないですから。……でも服を干しっぱなしにするのはやめてください」
「エッチ!」
「あんなとこ干してたら視界に入るに決まってるじゃないですか! 誰が雛子さんの色気ないパンツなんて好き好んで見ると思うんですか?」
「パンツ見たの? さいてー!」
「さいてーなのはどっちですか。この前俺の裸見てきたじゃないですか」
この前、というのは一週間ほど前の話だ。
例のごとく稲倉くんはお風呂に入っていた。そしてお風呂からちょうど出たところだった。日向がてっきり稲倉くんはもうお風呂から出たと勘違いしていたらしく、私に早くお風呂に入るように言って、言われた通り脱衣所に入った私とお風呂から出てきて着替えていた稲倉くんが鉢合わせしたのだ。
幸いなことに、稲倉くんはパンツとジャージのズボンだけは履いていたから下半身が見えてしまうようなことだけは避けられたが、相変わらずきらきらひかる四つのへそピアスとあばらが浮き出たようなガリガリのお腹を見せられていい気分はしない。
むしろ、うへえ、って感じ。
「だーれが、稲倉くんの裸なんか好き好んで見るのよありえない! ガリガリチキン肋骨オバケ!」
「雛子さんのほうがデリカシーないじゃないですか!」
誰かが、ぷ、とふきだすのが聞こえた。私と稲倉くんの首の動きが連動するようにガバッとそちらを見る。立っている私たちの中で一番右、知代と話していた……、そう、チャラい春村くんだ。川田くんは笑いをこらえているような表情で、知代はふきだすというよりはニヤニヤしている。沙也加にいたってはぽかんと口を半開きにしていた。
なんだなんだ、みんな、私たちの話盗み聞きしてたのか。
春村くんが腹を抱えて笑い出し、川田くんもつられたようにふきだす。ちょっお前ら、とつっこみかけた稲倉くんの声が裏返る。
「ガリガリチキン肋骨オバケ……やべえ、超ウケる」
「笑い事じゃねえよ」
「確かに稲倉痩せすぎ」
「標準体型だっつの」
あ、稲倉くん、敬語じゃないや。
クラスの人には普通にしゃべれるらしい。もしかしたら、日向が見たという稲倉くんが仲良く喋っていた内部進学組の有力っぽい人とは、この春村くんと川田くんじゃないだろうか。
「雛子ちゃんだっけ」
笑いの波がおさまった春村くんに話しかけられる。
「サイコーだね」
何がサイコーなのかはよくわからないけど。
でもそれがきっかけで、知代と男子二人だけの楽しい会話に私も混ざることができた。
さっきまで私の中に鎮座していた梅雨前線が嘘みたいだ。
少しずつ、沙也加と稲倉くんも会話に加わるようになってきた。
と、いっても、稲倉くんは春村くんと川田くんにつっこむだけで、私たち女子三人とはいっこうに話す気配がない。体も男子二人のほうに向けていて、知代がたまに「だよね稲倉くん」なんて同意を求めると、えっとえっと星人になって「あっ、えっ、そうですね、ハイ」なんておとなしくなっていた。
女子の中でも特に、私だな。さっきからかわれたのを気にしているのか、稲倉くんは私とは目も合わせてくれない。
そんな感じだけど、海が近づくにつれて、どんどん私たちのテンションは上がっていくのがわかった。
思えば海に行くなんて何年ぶりだろう。なんだか夏って偉大だ。知らない男の子たちと一緒で、しかも突然決めたことだから水着もビーチサンダルも持っていないのに、夏の海っていうだけでわけもなくわくわくする。
『次は~、近美~、近美~、お出口は~』
そんな声が聞こえてくると、なんだか胸がそわそわした。
海だ。
海だ!