(1)
第三章 君を許せなかった日
最後の一問も始めの一文だけ読んで投げ出す。私は「投了」と心の中で呟いて、シャーペンを転がした。
七月考査一日目、二限目、あたしの大嫌いな数学A。
ちょうど確率のところで、CだかPだかよくわからない記号や退屈な掛け算ばかり繰り返すビックリマーク、揚げ足をとるような文章題が延々と続いていて、結局半分ほどしか埋まらない。部分点狙いで適当なことを書いてもよかったけれど、それはひどく面倒だった。
私は頬杖をついて、机の木目をじっと見つめる。
あの文化祭の後、稲倉くんは熱を出して一週間近く寝込んだ。ほとんどよくなった日に稲倉くんの家にお見舞いにいった日向が、稲倉くんの秘密コレクションに二つ付け加えた。
一つ、稲倉くんは蓮野から五駅も離れた海晴町に住んでいる。でも家は六駅分離れた千崎駅に近い。
それからもう一つ、稲倉くんの家にはお母さんがいない。お父さんはトラックの運転手。稲倉くんがそれでも私立に通えるのは、外部受験組のなかでもとびきり成績のいい特待生で、入学金や授業料が免除になっているからだ。
どうやら日向がお見舞いにいった頃には舌の腫れもひいたみたいで、おまけにマスクでもしていたのか、日向は舌の新しいピアスには気づいていないみたいだった。
沙也加の話を聞く前だったら、きっと私は日向にそのことを話し、稲倉くんの秘密コレクションに付け加えていただろう。
でも、なんとなく後ろめたくて、私は日向に言えずにいた。
そんな私の思いとは裏腹に、稲倉くんは風邪が治った後から、普通に我が家にまた来るようになった。
日向は文化祭が終わって受験モードに入ってきたから、たいてい二人は勉強して、息抜きに軽くゲームをしている。夕食はよく一緒に食べるし、日向が誘えば泊まる日もある。
稲倉くんはたいていマスクをしていたから、新しいピアスはばれていないみたいだ。マスクを外している食事中でも、目立ちにくいピアスをしているのか、「あ」の形に口を開いたときに目に入るのはあの銀色のピアスだけだ。
文化祭の日から私は何度も稲倉くんを問い詰めようとしたけれど、稲倉くんとふたりっきりになることはなかったからできなかった。私は彼の連絡先だって知らない。
何も知らない。
だから、私たちの生活は変わらない。相変わらず稲倉くんはたまにむかつくし、言い合いもするし、そうすると日向が「俺もまぜて」なんて言ってきてよけいに腹がたつ。
何も変わらない。
沙也加はというと、これもまた変わらない。あの後は何事もなかったかのように私に接している。私も何事もなかったみたいなフリをしている。稲倉くんと縁を切るとか、切らないとか、そういう話題は一度もあがったことがない。それはきっと私たちがいつも三人で過ごしているからかもしれないし、単に沙也加が気を使っているだけからかもしれない。
でも、何もなかったわけじゃなかった。沙也加は康徳の文化祭に行ってからずっと元気がない。
水面下は不協和音だ。
「あと五分ー、名前の確認しとけー」
試験監督の体育教師がそうダミ声を張り上げた。私は解答用紙に自分の名前がちゃんと書いてあるか確認してから、シャーペンを握る。
問題用紙の空きスペースに、小さく、「日向」と書いた。日向は名前どおり、明るくてみんなの人気者だ。昔からそうだ。優しくて、困っている人のことは放っておけない、太陽みたいな人だ。
それからその下に、「稲倉」と書いた。下の名前……あ、「そうた」だ。
日向がよく「そーた」「そーた」って言っているから、その言葉はすんなり心に馴染んでいた。「た」はきっと太郎の「太」だろうけど、「そう」はどう書くんだろう。宗? それとも創? 少女漫画みたいだけど、爽、とか?
稲倉爽太、という爽やかな字面が彼にあまりにも似合わなくてちょっと笑えた。
それから思い出した。
そうたの「そう」は、想う、という字だ。
稲倉想太。
なんだかとても思いやりのありそうな名前なのに、彼はひどい嘘つきだ。
「はい終了ー」
ふいに、体育教師の声と一緒にチャイムの音が降ってきて、一斉にみんながシャーペンを転がす。私も慌ててそれに習った。一番後ろの席の人が私の解答用紙を集めにくる。私の列の一番後ろは瀬川という子で、会えば挨拶するし時々話したりもするそれなりに仲のいい女子だ。
「菅本ちゃん、それ好きな人の名前? いねくら、いなくら? おもた……そうた」
私の解答用紙を机からとりながら、彼女は爪の長い人差し指で先ほど書いた「稲倉想太」を指さした。どきりとして私は慌ててそれを消した。
「なわけないじゃん、私が好きなのは瀬川ちゃんですー」
茶化してみたら、彼女は大口をあけて笑いながら、前の人の解答用紙を回収しに行った。どうやらうまくごまかせたらしい。
気づけば、消しゴムを握る手に汗をかいていた。
暑いからかな? 夏がもうだいぶ近づいている。
七月考査が終われば、完全に夏になる。