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ブラックホールをふさいだ日、  作者: 村崎千尋
第二章 君がお化けになった日
13/31

(9)



 控え室はどうやら使われていない教室みたいで、埃くさかった。


 お化け屋敷のスタッフ全員がここを使っているらしく、男子高校生らしいエナメルのスポーツバッグがあちこちに散乱しており、おまけにシーブリーズやギャツビーみたいないろんな制汗剤のにおいが混じり合っている。お化けのメイクに使っている道具も机の上に出しっぱなしだ。


 いい環境ではなかったけれど、幸いなことに誰もいなかったから、からかわれることもなかったのが救いだ。


 稲倉くんは近くにあった椅子を適当に教壇前の空いたスペースに引っ張ってきて、「座れば」と無愛想に言った。


 言われた通りに座ったら、稲倉くんは私の後ろ側にまわって、何やらもぞもぞ手を動かし始めた。どうやらガムテープから髪の毛をはがしているらしい。


「ちょ、稲倉くん、髪の毛ひっぱってる、痛い」

「あ、すみません」


 謝ったそばから頭皮がちくりと痛む。引っ張ってる引っ張ってる、おい。


「痛い痛い痛い痛い!」

「集中れきないんれらまっててくらさい」

「いや痛いから! 髪の毛抜ける!」

「抜けたらその時はその時れすよ」


 そんなことを言いながらも気をつけてくれているみたいで、それからは引っ張られることはなくなった。


 ……だいたい、五分くらいだろうか。


「はがれた」


 私の目の前に、稲倉くんが証明するようにガムテープを差し出してくる。


「ありがとう」

「このたびは、うちのクラスの不備れ、たいへんご迷惑おかけしました」


 そう冗談ぽく言って、稲倉くんは私の正面にたって頭を下げる。事務的な、ちっとも申し訳ないと思ってない口調が“らしく”て、ちょっとおかしかった。笑うと、「なんれすか、なんなんれすか」とじとっと睨まれる。さっきからずっと「だ」行が「ら」行になっていて、なんだか酔っ払いみたいだ。


「ねえ、呂律回ってないけど、風邪のせい?」

「んんー」


 鼻にかかったような声で考え込んだ稲倉くんは、ふと、マスクを下にズリ下げた。


「たぶん、これのせいれす」


 べえーっ、と稲倉くんは少しかがんで私に見えやすいように舌を出す。


 びっくりした。――だって、稲倉くんの舌が真っ赤に腫れ上がっていたから。


 おまけに、舌に真っ黒な穴があいていた。真ん中より少し左よりには、稲倉くんが初めて家に来たときに見た、あのパチンコ玉みたいな銀色のピアスが相変わらずついている。しかし、それと違って、舌の真ん中に底なしの真っ黒な穴があいているように見えた。


 これはいったいなんだろう。


「稲倉くん、ベロ、に、穴あいてる」

「そりゃ穴あいてますよ、ピアスれすもん」


 よく見てみると、それは穴ではなかった。腫れ上がった舌に食い込んでいるから穴のように見えたが、それは、真っ黒な丸いピアスだった。


「ブラックホールみたい」

「れしょ、上手に開けれました」


 まさか……新しく開けたの?


 私が何も言えずにいると、稲倉くんは舌をしまった。


「これのせいれ、たぶん、滑舌悪く聞こえるんらと思います」


 そう言ってもう一回べえっと舌を出す稲倉くん。これ、というのはきっと、舌の真ん中の黒いピアスだろう。


「ベロはもう開けるつもりなかったんれすけど、センタータン開けたいなって思って。れもシャフト短いのしかなくて、ベロこんな腫れると思わなくて」


 私にわからないピアス用語をつらつらと並べ立てて稲倉くんは陽気にそう話す。


 つまり、ベロの真ん中にピアスを開けたかったけれど、短いのしかなくて(短いって、ベロの中に通す長さが、ってことだろうか)仕方なくそれをつけたら、予想以上に舌が腫れてしまった、ということだろうか。


 黒々としたピアスはやっぱり穴にしか見えない。


「いつ開けたの?」

「昨日の夜に」


 どきりとした。


「それってさ」


 なんだか胸のあたりがざわざわする。ざわざわ? ううん、もやもや? 正体のわからない胸の苦しさを飲み込んで、私は稲倉くんに聞いた。


「昨日私が変なこと言ったから、かな?」


 稲倉くんは肯定も否定もしない。表情から正解をうかがおうとしたけれど、見上げた彼の表情はびっくりするぐらいの真顔だった。


「違いますよ」


 先ほどまで陽気に話していたのとは裏腹に、稲倉くんが沈鬱にささやく。これ内緒ね、明日俺死ぬんだよ、って、いつか映画で聞いたセリフと同じトーンだった。胸にずんと響いて、私の胸の苦しさをぐちゃぐちゃにかき回していく。……なんとなく、その苦しさは罪悪感に似ていた。


「開けたかったから開けました」


 それはまるで生徒指導室で書かされる反省文みたいに感情の上っ面だけをなぞっていて。


「それに昨日のこと、ってなんれすかね。風邪で頭ぼーっとしてて、よく覚えてなくて」


 本当か嘘なのか、ちっともわからなくて。


「あ、日向さんには内緒れすよ! あと、それから――」


 それから、の「ら」の形で固まったにわかに私の顔に近づいてきた。今度は本当に鼻先がかする。けれども唇はくっつかない、微妙な距離。思わず体が硬直して、背筋が伸びた。押し返そうとしたら肩を掴まれた。稲倉くんの長すぎる前髪が顔に触れて、くすぐったい。


 初めてすごく近づいた稲倉くんは、ちょっぴり酸っぱい汗のにおいがした。制汗剤と混じっていない純度百パーセントの汗のにおいは思ったよりも臭くない。男の子なのに、臭くない。


 その時ふいに背後でガラガラと扉が開く音がした。ちょっとまずい。私は扉に背を向けて座っていて、稲倉くんの顔がすごく近くて、つまり扉の近くにいる人たちには私たちが、その、キスしているように見えるわけで……。


「えっ、あっ、稲倉っ?」


 困ったような男子の声が聞こえてくる。わり、という短い謝罪と扉の閉まる音。


 ようやく稲倉くんが離れた。


「ちょっと、何すんの」


 別に本当にキスされたわけじゃないけど、怒ったような声が出た。


「すみません。あいつに舌のピアス見られたかと思って」

「口閉じるかマスクすればよかったじゃん」

「すみません、口閉じるよりも先に咄嗟に」


 咄嗟に女の子に顔を近づけるような人なのか、稲倉くんは!


 腹ただしい。


「滑舌悪いの、風邪のせいって言い訳してて。みんなピアスのこと知らないから……すみません」

「……そう」

「本当にごめんなさい」


 稲倉くんが本当に反省しているようなので、なんだかずっと怒っているのが申し訳なくなってきてしまった。


 あれは稲倉くんのクラスメートだから、誤解されて困るのは稲倉くんなわけだし、私にはなんの弊害もない。顔も見られていないからどこかで会ってもきっとわからないだろう。おまけに稲倉くんに顔を近づけられたからといって私はドキリともしなかったし……、まあいいか。


 それより知代たちに誤解されているほうが厄介だ。


「じゃあ稲倉くんさ」


 思いもよらぬアクシデントのせいでしんみりした空気がどこかに言ってしまった。


「なんれすか?」

「なんかおごってよ。私、髪の毛にガムテープついたわけだし」

「……ええと、じゃあ」


 稲倉くんは教室の奥のほうの黒いリュックから、何やらチケットのようなものを持ってきて私に差し出した。「無料券」と書かれたそれは、私たち三人で手に入れようとしていたカフェや食べ物屋の一品無料券のようだ。なぜだかちょうど三枚あった。


 受け取ると、稲倉くんはマスクをしながらほんの少し笑った。


「日向先輩にもらったんれす。雛子さん、おともらちと行ってきたらろうれすか」


 『おともらち』というのは、知代と沙也加のことだろう。……意外と気がきくじゃん。


「やった、ありがと」

「いえ、いろいろ迷惑かけてすみませんれした」


 稲倉くんがまだシフトの時間が残っているというので、私たちはそのまま解散した。知代にLINEのメッセージを送ると、『今人間バッティングセンターのとこ』とすぐに返ってきた。私が、無料券を手に入れたことを話すと知代はすごく喜んだ。どうやらお化け屋敷のところで特別企画のチケットをもらいそこねてしまったらしい。


 日向からメールの返事はない。きっと忙しいのだろう。


 それから私たちは日向のクラスのスリーシーカフェへ向かった。日向は意外にもメイド服がにあっていて、下手に似合わないよりよけいげんなりさせられた。


 それからは適当にあちこちのクラスを回った。シフトの終わった稲倉くんにすれ違うこともなかったし、和樹を見かけることもなく、知代と沙也加とそれなりに楽しく過ごせた。

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