(6)
次の日、日向は三十八度五分の熱を出して学校を休んだ。本人は制服に着替えて行く気満々だったが、「明日に響いたらせっかくの文化祭が」とか「今日はどうせ遅くまで準備させてもらえないんだから」とか私がうまく丸め込んでベッドに押し込んだ。
普段なら倍の量を言い返してきて私が丸め込まれてしまうところだったけれど、熱がある日向は言い返すのも面倒らしくて、黙ってパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
私も学校を休んだ。
『雛ちゃん風邪ー?』
一限が終わった頃、知代からLINEのメッセージが来た。可愛らしいネズミのスタンプが知代らしい。私はすぐに既読をつけて返信する。
『日向が熱があって監視中。私はげんきっき!』
『げんきっきなのかい』
『誤字りました』
爆笑、というスタンプが送られてきてから、間髪入れずにまたメッセージがきた。
『前から思ってたけど雛ちゃんけっこーブラコンだよね』
『ブラコンってブラザーコンプレックス?』
端的に言えば、「お兄ちゃん大好き!」ってことじゃないか。腕を組んで恋人のように笑い合う兄妹が浮かんで、即座に否定する。私と日向はイチャイチャもベタベタもしない。
ないわー、と冗談ぽく言ってみたら知代から帰ってきたのは『ブラコンだよ』というものだった。
『だって知代は兄貴が熱出ても休んで看病しない』
『別に私だって看病してるわけじゃないって。勝手なことしないように監視してるだけ』
ママもパパもいつ帰ってくるかわからない。日向はほうっておけば学校に行ってしまいそうだし、日向一人でお昼ご飯を用意できるかどうか怪しいし、家の中で倒れられても困るし……。監視、っていう言葉は考えれば考えるほどぴったりなように思える。
私は日向の監視係なのだ、看病係じゃなくて。
二限が始まって忙しいのか、知代からの返事はそこで途絶えた。
ママに一応「日向が風邪」とメールをしたけれど、仕事が忙しいのか返事は昼になっても返ってこなかった。仕方がないからお粥をつくった。肉の代わりに玉子を入れて、真ん中に梅干をぽつんと落とした。日向は梅干が嫌いだけど、お粥といったらやっぱり梅干だろう。
部屋に持っていったら、日向のベッドの枕元にはこんもりとティッシュの山ができていた。寝る気はさらさらないようで、起き上がって英単語帳を開いている。
「なに、雛子おまえ、学校休んだの? バカじゃん」
英単語帳から顔をあげて日向が低い鼻声でうなるように言う。朝に貼った冷えピタがはがれかけているのも、いつもより赤い顔も、かすれた低い声も、なんだか重病人みたいに見えてしまって、私はいったんお粥を乗せたお盆を置いて日向から英単語帳を取り上げた。
日向は「なんだよう」とじっとりと睨んでくる。
「お粥食べて薬飲んだら、寝なよ。明日文化祭じゃん」
「じゃあ夕方に起こして。想太来るから」
「はあ? ダメだよ、稲倉くんにうつっちゃう」
「あいつも風邪ウイルス保有してるだいじょぶ。……辞書取ってきてもらうだけ」
は? 辞書?
日向が鼻をかんで、そのティッシュを山に積む。
どうやら康徳のロッカーは鍵がかからないらしく、盗難防止のため文化祭の時は荷物をすべて持ち帰ってしまうことになっているらしい。授業で使うから、と持ち帰るのを後回しにしていた日向は、いまだに辞書をロッカーに置きっぱなしにしているそうだ。
三年生は八時まで文化祭の準備をすることができるらしく、その後からわざわざ家に辞書を届けてしまうのは申し訳ない。ということで、六時までしか準備することができない一年の稲倉くんが家まで持ってきてくれるらしかった。
「……何時頃、来るの?」
「六時半くらいじゃね」
「わかった」
けれど、私は日向を起こす気なんてさらさらなかった。私は「わかった」とは言ったけれどそれはあくまでも「理解した」っていう意味であって、起こすっていうわけじゃない。だから嘘をついたことにはならない。
……まあ、屁理屈なんだけど。
日向は私の言いつけ通りにお粥を食べて、風邪薬を飲んで、英単語帳を閉まって眠った。三時頃に様子を見に来たらティッシュの山の大きさは昼とそれほど変わらず、すやすやと寝息をたてていた。昼から一度も起きることなく眠っているらしい。
冷えピタが乾いてはがれかけていたから一度張替えると、新しい冷えピタは冷たいのか日向は顔をしかめた。明日までに治るといいなあ。治るかなあ。あんなに頑張って準備してたのになあ。仕方ないから、日向が治るなら私にうつしてくれてもいい。
ため息が出た。
稲倉くんは、日向が言ったとおり六時半すぎにやってきた。風邪をひいているのか、マスクをしていて、「こんにちは」といった声が少し鼻声だった。
「うん、こんにちは」
「日向先輩から聞いてると思うけど、ロッカーの、持ってきました」
自分の分も持ち帰らないといけないのに日向の辞書まで押し付けられて、稲倉くんのリュックはパンパンで、重たげに背中にしがみついている。リュックを玄関の床の上におろした稲倉くんは「辞書です、まず和英です」と汗をぬぐいながら言った。
この様子だと一つではないだろう。ああどうして日本語は複数形でもSがついたりしないのだろうと思った。そうしたら、日向が稲倉くんに持ってこさせようとしている辞書が一つじゃないってわかったのに。
「日向先輩って、電子辞書ではないんですね」
結局、稲倉くんのリュックからは五冊辞書が出てきた。和英と、英和と、英英と、古文と漢字。授業で使う指定辞書は英和と古文だけらしくて、それ以外の三つは日向が好きで使っているものらしい。普段私はスマホの辞書で事足りてしまうから、目の前に五冊も積まれるとなんだかくらくらした。
五冊いっきに抱えると、さすがに腰にずんときた。
「重いですよ、辞書」
「言うの遅い」
文句をいってから、そんなこと言える立場じゃないなって気づいた。
「ありがとう、辞書、日向の」
「いえ。たぶん俺がうつしたんで逆に申し訳ないです。熱あるって聞いたんですけど、明日までに治りそうですか?」
「どうだろ。薬飲んで寝てるから、大丈夫じゃない?」
「うわー……、なんか申し訳ないです」
稲倉くんがあまりにしょんぼりするものだから、私は慌ててフォローした。
「いやいや、大丈夫だって。バカは風邪ひかないっていうし、すぐ治るって」
「いやいや、普段ひかないからこそ重症化するんじゃないですか……」
さすがにこれには反論できなかった。
稲倉くんは、ずず、と鼻をすすって泣きそうな顔で俯いた。メガネのレンズがふっと曇って、稲倉くんはわずらわしそうにマスクを鼻までずり下げる。その表情は普通の男の子で、とてもピアスだらけには見えなかったし、日向に何か嘘をつくような人だとも思えなかった。
私はふと稲倉くんのマスクをつまんで引っ張った。いたずらのつもりだった。
「何するんですか」
例の蔑みの目で見てくる稲倉くんに、マスクを離してパァンとお見舞いする。
耳にかけたゴムに引っ張られたマスクは、せっかくずりさげたというのにメガネにかぶりぎみにまた元の位置に戻ってしまう。にししと笑うと、マスクのせいでメガネをまた曇らせた稲倉くんが、不機嫌そうに眉根をよせた。それもまた普通の男の子の顔だった。
「何するんですか」
「稲倉くんさ」
言おうかどうしようか迷った。
「日向のこと好き?」
「はい、好きですけど」
「私も好きだよ。だから」
でも言った。
「日向が悲しむことしないでね」
「……え?」
「日向に嘘ついてるでしょ」
たとえばプールに突き落とされたあの夕方のこととか。たとえば友人関係のこととか。
稲倉くんには本当のことをどうしても話さなきゃいけない理由なんてなかった。これは余計なお世話かもしれなかった。
でも日向の背中を思うとほんの少し許せなかった。私にはどんな嘘ついたっていいから、日向にだけは本当のことを話して欲しい。
稲倉くんはどうしたらいいのかわからない、と言いたげな顔で、困ったふうに頷いた。
「辞書、ありがとう」
「いえ、先輩にお大事にって伝えてください」
そそくさと立ち上がった稲倉くんは、帰り際にぺこりと頭を下げて出ていく。
まずったな、と思った。
余計なこと言っちゃったかも。