隣の姉妹
本編5話+αと短いですがよろしくお願いします。
季節先取り(かなり)ですが気にしないでください。
俺、松永龍二の人生は隣の家に住む井上姉妹に振り回されていた。
二歳年下の美奈子は昔から俺に勝負を挑んできた。おとなしそうな外見なのに負けず嫌い。
一方、五歳年下の美衣子は人懐っこい性格だ。俺や十歳年上の兄・恭一にもよく懐いていた。
二人に振り回されていると気づいたのは、思えば俺が大学一年の頃だった。
高校が男子校で女と縁がなく、共学の大学の法学部に入学して初めての彼女ができた。
彼女は教育学部で教師を目指していた。穏やかで優しい彼女に、すぐ夢中になった。
順調に交際を続け、三か月ほど経った頃の六月下旬のことだ。親の留守中に彼女を家に連れて行き、初めて身体を重ねた。
その日から何度か自宅で彼女と甘い時を過ごした。
なぜかその頃から美奈子と顔を合わせることがなくなった。
彼女と自宅にいた七月の中旬、何となくいい雰囲気になってキスしようと顔を近づけようとしたその時だった。
ドタバタと階段を駆け上がる音がして勢いよく部屋のドアが開いた。俺と彼女はドアの方を見た。
そこには美衣子が今にも泣きそうな顔をして立っていた。俺の姿を見つけて叫んだ。
「助けて、龍ちゃん! このままだと義務教育で留年しちゃう!」
話を聞けば期末テストの数学で三点を取ったらしい。追試が明日らしく、合格点を取らなければ夏休み中に補習があるとのことだ。中二の数学なら文系の俺でも教えられると思ったそうだ。
彼女との時間を邪魔された俺は不機嫌になったのは言うまでもない。さっさと追い返そうと試みる。
「美奈子に頼めよ」
「無理。お姉ちゃん家にいないもん」
美衣子の話を聞いた彼女が自分でよければ教えると申し出た。将来、教師を目指しているのでいい勉強になると微笑んだ彼女をあらためて惚れ直した。それと同時に美衣子を憎らしく思う。
美衣子の勉強に付き合う羽目になったのだが、正直言って最悪だった。どれだけ彼女が丁寧かつ分かりやすく教えても次から次へ問題を間違える。
彼女は笑顔で根気よく教えてくれていたが、こんな簡単な問題も解けないのかと全く理解していない美衣子に苛立つ。
とうとう我慢の限界を超えた俺は、手にしていた教科書を丸めて美衣子の頭上に振り下ろしていた。
バシッと良い音が部屋に響いた。
「この馬鹿女! どうしてこんな事もわからない。体鍛えすぎて脳みそまで筋肉になったのか!」
彼女は俺の行動に愕然とした。
美衣子は「痛いよー!!」と叫びながら泣いてしまった。
その泣き声にハッと我に返った彼女はすごい剣幕で怒り出した。
「ひどい! 美衣子ちゃん頑張っているのにどうしてそんなことができるの? 松永君がそんな暴力的な人とは思わなかった」
彼女のあまりの怒りに驚いた。美衣子の扱いはいつもこんな風だったが、それを知らない彼女にとっては驚きでしかなかったのだろう。
その後も彼女は勉強を教え続け、帰って行った。雰囲気は最悪。彼女は俺と目を合わせてはくれなかった。
「龍ちゃんの彼女、いい人だね」
ボソッと呟く美衣子を睨み付ける。俺はどうやって彼女と仲直りしようか考え込んだ。
しかしこの出来事から間もなく彼女と別れた。あれからギクシャクして関係を修復することが出来なかった。美衣子に文句を言うとしれっと言い返された。
「あの人、龍ちゃんにはもったいないよ」
そのふてぶてしさに思わず殴りつけたくなった。
その後付き合った彼女も長くはもたなかった。告白され、顔が好みだったから付き合い始めた彼女。家に行きたいと言われて連れて行った時のこと。
部屋には日頃からずかずかとうちにあがり込んでいる美衣子がいた。夏休み中で暇を持て余したのだろうか。自分の部屋のようにくつろいでいた。
いつものことだと半ば諦めて、飲み物を取りに行くために彼女を部屋に残し、俺は部屋を後にした。
飲み物を手に部屋に戻る。中から何やら話し声が聞こえたので、ドアの前で立ち止まり聞き耳を立てた。彼女が何やら怒っているようだ。
「あんた邪魔なのよ。わかるでしょ? 部屋で男女がすることを。お子様はすっこんでいなさいよ。空気読みなさいよ、この小娘が!」
彼女の言い分はもっともなのだが、いつもの彼女との違いに俺の中ですっと心が覚めていった。
確かにいつも邪魔ばかりしてくるしょうがない奴だが、初対面の人間に言われるのは我慢ならなかった。こんな奴でも幼い頃から妹のようにかわいがってきたのだ。
ドアを開ける。俺に気付いた彼女はさっきと打って変わり、甘えた声で俺に縋り付いてきた。彼女の手を払いのける。
「人によって態度の変わる女は吐き気がするほど嫌いだ。お前とは別れる。出て行け」
彼女は怒って出て行った。
そのやり取りを見ていた美衣子はからかうようにニヤリと笑った。
「龍ちゃん、女見る目ないなぁ」
「うるさい!」
本当に憎たらしい奴だ。
こうして俺の恋はことごとくこの小娘によって終わりを告げたのだった。
一年の後期になり、俺は司法試験を受けることに決めた。これまでアルバイトに充てていた時間を勉強に使いたかったため、短時間でできる時給のいいアルバイトを探していた。
すると母からいい話を聞いた。美奈子の家庭教師をしないかと誘われたのだ。最近、成績が落ちてしまったらしい。来年受験で危機感を持ったそうだ。俺はその誘いを即、引き受けた。
ずっと顔を合わせていなかったため、二、三か月ぶりに見た美奈子は少し痩せていた。
俺たちの目の前には返却された答案用紙が並んでいた。どれも平均点以下らしい。
以前よりも成績が下がったせいか、美奈子は明らかに落ち込んでいた。俺は励まそうと声をかけた。
「俺が教えるからには大船に乗ったつもりでいろ。ただしスパルタだからな。覚悟しろよ」
すると美奈子は俺を真っ直ぐ見る。その視線は何かを決意したような強いものだった。
「私の志望校、龍と同じ大学なの。……龍、私と勝負して」
「勝負?」
「うん。志望校に受かったら私の勝ち。落ちたら負け」
「お前が勝ったらどうするんだ?」
「それは勝った後に言うよ」
「じゃあ負けたら?」
「……それも負けた時に言う」
「何だ、それ」
この勝負の意味はよくわからなかったが、とにかく俺は美奈子の家庭教師になった。
このころから不思議と美衣子が一切邪魔をしに来なくなった。そのかわり、俺の部屋で法律関係の本を読み漁るようになった。
美衣子も来年受験だ。数学で三点取るようなお前こそ勉強しろよと言いたくなった。
美奈子はコツコツ努力するタイプだったので、緩やかではあるが成績は上がっていった。
高三の夏になるころには合格圏内に入るようになっていた。家庭教師である俺も美奈子の頑張りには脱帽だった。
一方、美衣子も受験生だが、あの日以来勉強で泣きついてくることはなかった。大丈夫かと尋ねても
「平気。高校受験は一人で乗り切る」
と、根拠なく言うだけだった。
美奈子の家庭教師になってから、勉強とバイトで多忙になり、とんと恋愛からは遠ざかっていた。
しかしいつからか俺は一つの想いを抱くようになっていた。美奈子と居ると胸が高鳴るし、いつになく心が穏やかでいられる。美奈子の隣にいる男は常に俺でありたいと思うようになった。
妹としか思っていなかったはずなのに、いつも俺の後ろをついてきた小さな女の子だったはずなのに。知らないうちに美奈子は妹から一人の女になっていた。
しかし相手は今が一番大事な時期である受験生だ。この気持ちを告げて動揺させるわけにはいかない。
センター試験まであと二週間と迫った正月、俺は美奈子を近所の神社に連れ出した。年末年始関係なく勉強を続けていたようだが、たまの息抜きも必要だろう。美衣子も誘ったのだが、実家に帰ってきた兄にべったりなのでついてこなかった。
神社は小さなもので、三が日を過ぎているので人はまばらだった。二人の受験生の合格を祈り拝殿で手を合わせた。
帰り道、俺はポケットから取り出した白く小さな紙袋を美奈子に手渡した。
「やる。持っておけ」
「見てもいい?」
「ああ」
袋の中身は合格祈願のお守り。学問の神様として有名な神社のものだ。
「お守り?」
「本当は美奈子もいっしょに行ければよかったけど、さすがに遠いからな。しっかり祈って来たから、最後まであきらめるなよ」
美奈子は泣きそうな顔で俺を見た。涙をこらえるように小さな声で言う。
「龍、ありがとう。…すごく嬉しい。私、絶対合格するから」
それから家に向かって歩き出した。
手袋を忘れたと言い訳をしてそっと美奈子の手を握る。美奈子は驚き、戸惑っていたようだが何も言わなかった。頬を少し赤く染めていて、そのかわいらしい様に抱きしめたくなるのをぐっと堪える。
でも正月なのだからこれぐらいは許してくれよな、神様。
センター試験も無事終わり、とうとう美奈子の第一志望、つまり俺の通う大学の試験の日がやって来た。朝、俺は家の前で美奈子が出てくるのを待っていた。姿を見せた美奈子に声をかける。
「おはよう。体調はどうだ?」
「おはよう。すごくいいよ。よく眠れたし。龍がこれまで教えてくれたことを思い出して、頑張ってくるね」
自信に満ち溢れたその様子に安堵した。
「ああ。お前はよくやった。全力でやってこい」
美奈子は頷き、出かけて行った。
入試を終えて帰ってきた美奈子に手ごたえを聞くと、自信なさげな返事が返ってきた。
「五分…かな。あまり自信がないの」
俺はあわてて慰めの言葉をかける。
「美奈子はもう滑り止めの大学には受かっているんだから、気楽に構えておけ」
「ダメ! 龍と同じ大学に行きたいの!!」
急に声を荒げた美奈子に驚いた。美奈子は俯いて黙り込んでしまう。
あやすように美奈子の頭をポンポンと軽くたたいた。
「大丈夫だ。お前はできる奴だから」
四月から美奈子と一緒に通学する姿が脳裏に浮かび、そんな生活がやって来ることを俺は信じて疑わなかった。
次回、美奈子視点です。