電話・改訂、増補加筆版
楢崎秀哉が文村沙織と出会ったのはA市の病院に転勤してきて比較的すぐのことだった。
秀哉は趣味の自転車ツーリング中に同行の女性サイクリストと後ろを向いて話しているときに歩道を仕切るポールに衝突し、鎖骨骨折、肋骨骨折、左上腕骨骨折をして、しばらくもと勤めていた病院に入院した。多少、体に怪我を負っているとはいえ本来は健康体だったので、暇に任せて何人かの若い医療スタッフを口説いた。退院後も複数人と交際を続けた。それが発覚したので面倒になり、その病院をやめて、地方都市であるA市に転勤したのだった。A市の病院も一応は元いた病院の関連病院ではあったが、誰もそのことは知らなかった。
ある日、同僚の医師にさそわれた飲み会に来ていたのが沙織で、沙織は大きな目と白い肌の持ち主で、いわゆる美人ではなかったが、とても可愛らしい女性だった。少し前に離婚を経験し、少し立ち直って、新しい恋人でもできたらと思い飲み会に来たように見えた。秀哉にしても転勤後まもなくで特に親しい女性もおらず、新しい出会いでもあればと飲み会に参加した。
後日、秀哉は沙織を食事に誘った。
沙織は結婚を見据えた仲でなければ深入りしないという言動を繰り返していたものの、実際の態度とその言動はかなり乖離したものであり、初デートから腕を絡めてきたし、三度目か、四度目の食事の後に部屋に誘ったら二つ返事でついてきた。
はじめのころは行為の最中でもさほど大きな声は出さなかったが、ある日、秀哉がもう少し反応した方がしがいがある、というような発言をしたら、その後からは徐々に大声を上げるようになり、壁の薄い病院の寮では対応困難となった。
「楢崎先生の部屋がうるさくて仕方ないんじゃ」
「どううるさいん」
「とにかく、やかましいん。今日なんか日勤、深夜じゃろ。しかも、金曜日じゃけぇ、寝れんのよ」
「えっ、どんなひと?」
「こないだ駐車場で見かけたけど、見た目はきれいや。モデルさんみたい」
口さがない看護師たちの間でこのような会話が聞かれるようになった。
沙織はAという名前を冠した地方大学の出身でA駅近くにある不動産会社に自動車で通っており、帰り道に少し旧道にそれるだけで秀哉の住む病院寮に寄れるので最低でも週一回、多い時には週三回ほど会っていた。また、秀哉の住む寮から電車の駅もすぐ近くだったので、仕事が終わってからA駅で待ち合わせて食事をすることもしばしばあった。
休みの日にはよく出かけた。沙織にはこれといった趣味がなく、たいていは秀哉が好むサイクリングや釣りに行った。特にサイクリングは沙織の住むB市を起点とする「まみあな街道」が全国的に有名で橋の上からの眺めは絶景だった。橋は通行料(非常に安価ではあるが)を払わなければならないところがあった。料金箱にお金を入れる際、クリートを外し損じた沙織が自転車のトップチューブで陰部を強打して泣きそうな顔をして転げ舞っている姿とみると「助けないと」と思う前に、そのあまりの滑稽さに大笑いしたこともあった。
釣りに関しても少し車で走れば野池がいくらでもあり、場所選びに事欠きはしなかった。
秀哉の記憶に一番残っているのはA川の支流でのっこみ(産卵期に浅場に上がってくる大きめのヘラブナを釣ること)狙いである。サイクリングや野池の釣りはある意味、いつでも行けるが、ことのっこみを釣るには産卵期とその場所に行く日を合致させる必要があった。そのため、秀哉は釣り場の下見を怠ることはなかった。
五月のある休みの日、秀哉と沙織は決めていた釣り場に向かった。D川の支流の片側は護岸されていたが、その反対側は護岸されておらず水中から葦が生えているような場所もあり、秀哉はそこを釣り場に選んでいた。両側が護岸で覆われていても釣りができる場所はないでもなかったし、むしろ、そういった場所の方が足場はよかった。しかし、コンクリートの上から釣るのと地面の上で釣るのでは明らかに釣趣がちがう。秀哉は魚が多く釣れるかよりも、むしろ魚をいかに気持ちよく釣るか、どうやって同行者を楽しませるか、の方を大事にした。
釣り場に着くと川幅は十メートルもなく、こちら側は葦の生えた土手で、向こう側は低い護岸、その向こうには本流の高い堤防が見えた。水面に目を移すと手前の葦が不自然にゆれる。しばらく眺めているとグレーの魚影が横切っていく。日にち選びは間違っていなかった。
せっかくだから秀哉は紀州の竿師・夢坊の段巻きの竹竿を使いたかった。A市にはヘラブナの管理釣り場という文化があまりなく、前に住んでいたC市で愛用していた、この十尺の竿の出番がほとんどなかった。パッと見た限りではそれで水脈筋まで十分に届く。
非常に迷った。
それはなんといっても沙織が決定的にへたくそだからであった。自分が指示した通りに釣ってくれれば問題はなかったが、こと釣りに関して沙織はほぼ言うことは聞かなかった。魚がかかれば無理に寄せようとするに違いない。妙な癖が竿についても嫌だったし、下手をすれば折ってしまうかもしれない。
竹竿とカーボンやグラスの竿は使い方が全く違う。魚を掛けるまではさほど違いはないにせよ、かかってからは前者がやり取りを堪能するのが主な目的、後者は、もちろんそう言う要素がありはするが、割と早めに魚を浮かせて確実に釣り上げることに主眼が置かれている。これはそれぞれの材質の弾性と強度が根本的に違うためで、決して優劣があるわけではないが、秀哉は一枚一枚を楽しめるという竹竿の方が好きだ。簡単に言えばたくさん釣るにはカーボン・グラス系で、数を求めずのんびり堪能するには竹竿に分がある。今回は長年使った竹竿の調子を悪くされるよりはカーボンの竿で沙織にかかる負担(自分の心の負担)が少ないようにすることにした。
この竿は秀哉がヘラブナ釣りをはじめたときに最初に買って、二十年以上使ってきたカーボン製の「英仙」というものであった。夢坊の竹竿を買うまで頻繁に使っていた。やや先調子ではあるものの、スッと立てれば素直に魚を寄せてくる大変優れたものである。竿がコントロールしてくれる。これなら沙織が大物をかけたとしても竿に関しての心配はなかった。また、敬哉とて全ての長さの竿が竹竿というわけでもなかった。長尺になると竹竿はどうしても重くなりがちである。重い竿を一日振るというのは結構疲れる。十四尺を超える竿はほとんどがカーボンやグラス製であった。
そうと決まると秀哉の準備は速かった。安定する場所に台座を設置、竿かけと玉網を用意し、餌用のボウルをとりだした。川ということもあり小魚が寄ってきても困るので、まず、ヘラブナが寄るまではマッシュポテトのみ、その後は食わせ餌にグルテンを少し混ぜようと考えていた。仕掛けは流れを考慮してオモリを着底させるドボン釣り、また、ウキは沈んでしまわないように中空のパイプトップにした。
ヘラブナは草食のフナでだいたい藻類や植物性プランクトンを食べており、基本的には寄せて釣る魚ではあるが、寄せるための撒き餌はしない(邪道)。針につけた餌を繰り返し同じ場所に振り込んで集まってくるのを待って釣る。その日も秀哉は地道に餌をつけては振り込みを繰り返した。三十分くらいするとウキの後ろに数匹のヘラブナが集まってくるのが見えた。中には尺上(三十センチ以上)の個体も混じっているのも確認できた。しばらくするをウキに反応が見られ始め、そのうちズイとウキが沈んだ。ヘラブナは餌を吸い込むように食べるので、普段はウキが一目盛ほどツンと沈むが、ことのっこみに時期に関してはモサっと沈むことがある。竿を前に突き出してあわせるとずしっと魚の重みを感じた。あとは二、三投に一枚ぐらいのペースでヘラブナが釣れた。沙織は楽しそうに眺めていた。何枚目かに尺上が釣れたので、秀哉は釣りをやめて沙織に代わった。
ヘラブナの口は比較的柔らかく、また、釣り針も先の鋭いスレ針を使っているので、大きく合わせる必要はなく、ほんの少し竿を前に押し出すか、同じ要領で竿かけをしならせてやれば針はしっかりと掛かる。沙織はそのことを何度説明しても理解しなかった。あるいは頭の中では理解はしているのかもしれないが、必ず大きな動作で合わせようとした。魚は群れていたのでタイミングが合わずなんどか空振りをしたが、その後、魚がかかった時もこの大合わせのせいで糸が切れることがあった。仕方なく、秀哉はすこし太めのハリスをつけてやった。魚が釣れると沙織は非常に嬉しそうな顔になり、見ていて楽しかった。
二人で夕方まで釣りを堪能して、帰りには行きつけの鰻屋に寄った。今は鰻もずいぶん高価になったが、当時は一大決心をして食べにいくというほどではなかった。また、その鰻屋は焼き立てを食べさしてくるので沙織は
「いつも美味しいね」
などといって満足げだった。
帰りには稲荷神社の森のはずれでキツネが走っているのを見た。
少し疲れてはいたが二人とも黄砂まみれだったので、一緒にシャワーを浴びた。少し日に焼けた沙織の肌は普段にも増して敏感なようであった。
このあとしばらくして秀哉は離島の病院に転勤した。転勤後も沙織はほぼ毎朝電話をしてきてそれが日課となった。また、休みをとって何回か遊びにきた。E県の離島は台風が多く、それは誰に対しても平等にやってくる。沙織は常に台風を気にしており、滞在期間中もあまり落ち着かない様子だった。
あるとき秀哉の研修会と沙織の出張がたまたま重なり、F都の品川で会って食事をした。このときに沙織の結婚について打ち明けられた。それ以来、体の関係は無くなった。
秀哉もときどき内地に戻ることがあり、その際はなるべく沙織と一緒に食事を取るようにはしていた。あるとき沙織に久しぶりに関係を持ちかけてみた。
沙織曰く
「そら秀ちゃんとまた久しぶりにしてみたいきはするで、じゃけど、そうなったら絶対こうちゃん(沙織の夫)に言うてしまう気がするねん。それはまずいじゃろ」
沙織の性格を考えると確かにそれはありそうではあった。
秀哉がA市から転勤してから十数年の月日が流れたが、朝の電話はかならず午前七時四十分にかかってくる。それは秀哉の妻が里帰りしている時もお構いなしだった。
「おはよう、しゅうちゃん」
「あぁ、沙織、おはようさん」
「なぁなぁ、秀ちゃん、疲れてん」
「先言うとくけど、いま、一葉が帰ってきてるで。モニターにしてあるからあんまり変なこと言うたら恥しで」
「えーっ、どしてや、どしてや」
「いつもモニターで話してるやないか」
「そこやないやん、一葉さんおるんやったら遠慮するやん」
「いや、一葉はA市におるときから沙織のこと知ってるがな」
一葉が口を挟んだ。
「沙織さん、お元気?結婚生活はどう?」
あさのひととき、沙織は少し緊張してはいたが、三人とも笑っていた。




