第9章 紙切れ
結局、まっすぐ帰宅する気にもなれず、呑んだくれている。早速、啄木から写真が届いた。なんなの、あの男!澤井はどう思ったか知らないけど、倉木のたったひとりの家族なのに、なんで倉木を放っておいたのよ!!
「姐さん、お待たせ。」
「うぉ~い、健ちゃぁん、何してたのよぉ、遅かったじゃん。」
“うわ、これ厄介なヤツだ”
「どうしたんすか?ベロベロじゃないっすか。」
「あ“ぁぁ~っ、胸クソ悪っ!会ってきたのよ、啄木にさぁ…。」
「あぁ…。お兄さんに…。」
「そ!健ちゃんがさぁ、言ってたじゃんよ。啄木に訊いてみろって。」
「はぁ…まぁ…。言いましたね。」
「だぁからさぁ…訊いたわよ!」
「そうっすか。」
「そうっすか、じゃないわよ。何が起きたはわかったけどさぁ~、釈然としないわぁ。」
「それで…この酔っ払いなんすか。」
「啄木のやつ、すかしちゃってさ…。倉木が“苦しい”ってサインを送ってたてぇのに、なぁんで帰国してあげなかったのかなぁ…。ダメ!私、理解不能!!」
「僕がいたから、じゃないっすかね。この件が起きるまで会ったことなかったけど、由衣さんの話からすると、お兄さん、僕のこと受け入れてくれてない感じだったし…。」
「健ちゃんは関係ないっしょ~?」
「そうですかね。まあ、初対面があんな騒ぎの時だったんで…ますます嫌われちゃったみたいで…。」
「気にしなくていいよ~、健ちゃんは悪くないもん。悪いのはあいつだよ。“形見分けしたいから”って、澤井とふたりで呼び出されてさ、行ってみたら、女子校時代のものが少しだけ…。こんなに少ないの?って、びっくりしちゃったわよ!」
「そうだったんですか…。僕らのマンションにあった遺品は、すべてお兄さんが片づけてしまいましたしね。僕は蚊帳の外でしたけど。」
「ほら!これだけよ。倉木の形見!」スマホに送られ来た写真を、健司クンに見せた。
「へぇ…。これがあの“さくらもち”ですか。」
「そうよ~。どう?かわいいでしょ?みんな。これ中一の時の。」
「これが澤井さんかぁ…。へぇ…。」
「なにぃ?気になるぅ?」
「んなわけないでしょ。だって、僕は“くらもち”しか会ってないんですから。」
「あはははは。そっか。そうだね。」
「由衣さんって、こんな風に笑うんですね…。」
「うん。」
「由衣さん、少女のまま大人になったんですね。」
「何言ってんの、五十路だよ!?それなりに老けてるでしょうよ!」
「そりゃそうですけど…。でも、少なくとも由衣さんは、この写真の時とあまり変わりませんよ。」
「健ちゃんたちのマンションの遺品も、あいつが片づけてしまったのか…。今となっては、この写真だけなんだよね、私と澤井に残されたものってさ。遺書もなかったって言ってたし。」
「…えっ?」
「“えっ?”って、何よ。」
「お兄さんがそう言ってたんですか?」
「そうだよ?」
「お兄さんへの遺書…のような紙切れ、ありましたよ?」
昔、総一郎さんと会っていた時に使っていた空港のラウンジ。ここはVIP専用だから、総一郎さんがいなければ入れない場所だ。懐かしい。
「このラウンジで会うの、久しぶりですね。」
「ええ。」
何か話があって呼んだのだろうに、総一郎さんはなかなか話を切り出してくれない。ラウンジの窓から滑走路が見える。いいなあ、飛行機。私もどこかへ行ってしまいたい。あの倉木邸のことがあってから、これまでの自分とは全く関係のないところへ行って、新しく人生を始めたいと思うようになった。でも、実際問題、私の両親のこともあるし、それは出来ない。総一郎さんは、他に行く場所があって羨ましい。
「僕は、色々美和さんに謝らないと…。」
「何でですか?」
「僕の方から付き合って欲しいなんて言っておいて、随分長い間、あなたをひとりにしてしまいましたから。」
「…。」
「日本を発つ前に、話をしたいと思いまして…。今日、こうして美和さんが来てくれるとは思わなかったので、いざ話そうと思うとうまく行かないものですね。」
今風に言えば、“総一郎さん構文”とでも言うんだろうか。この話し方は、変わらないのね、総一郎さん。
「あなたに連絡を取らずにいたのは…、いや“取れず”にいたのは、父が亡くなった後、僕も心が病んでしまったんですよ。由衣みたいに。ですから、アメリカでずっとカウンセリングを受けていました。」
「そうだったんですか…。」
「父の期待を振り切るようにして、家を出てしまって…。倉木家の長男は、必ず後継者となる。父もそうでした。父方の祖父は、もっと厳しい人でしたから、僕の様に反抗なんか出来なかったでしょうね。僕は、倉木の後継者となることには抗ったけれど、父を憎んでいたとか、決してそういうものはないんです。我が家が普通の家族だったら、こんなことはなかっただろうに。それに、何より由衣が、僕以上に父を欲していたのも気の毒でね。あの家から僕さえいなくなれば、由衣の思い通りの日常やってくるのではないだろうかと、浅はかにも思ってしまったんです。」
「…。」
「でも、僕が家を出たことで、一層家族の関係が悪化してしまったようで…。父が母や由衣と距離を置くようになってしまったそうなんです。経営に関わらない我が家の女性たちは、父にとっては空気のような存在なんだと、これは母が言っていました。」
「そうなんですか?」
「母から言われたことがあるんですよ。“あなたを産んだ時点で、私の役目は終わったの”って。留学が決まった日にね。あなたも感じていたかも知れませんが、我が家は家族関係が複雑というか…ちょっと変わっているでしょう?僕は、由衣ほど母の身近にはいられませんでしたけど、父がいない時には僕も母の愛情を受け取ることが出来たと思っています。“本当は、私は別の名前をあなたにつけたかったのに。お父さんは私に相談せずに、ひとりで名前を決めてしまって…。”とか言ってくれましたよ。」
「お母様は、どんな名前を付けたいと思ってたんでしょう?」
「“さとし”です。」
「聡明の“聡”の字の?」
「はい。母が込めた思いは、“誰に対しても聡明であれ。人に対して聡明な人は、他人を慮ることが出来るから”なんだそうです。」
私は、お母さんに一票だな。“総一郎さん”も良いのだが、“聡さん”の方が、本人に合っているような気がする…。お母様、よく倉木家の嫁と母を勤め上げたものだなぁ。あぁ、だからの“あの墓標”なのか。
「実は、倉木邸にお邪魔する前に、百道とお墓参りに行ってきたんです。」
「…。あぁ、じゃぁ墓石や墓標に驚いたでしょう?」
「はい、正直に言えば。」
「父と母はね、元々は大学時代の先輩後輩で、恋愛結婚だったんですよ。でも、祖父の“後継者教育”が始まって…、父は変わらざるを得なかった。そして母も、“倉木家の嫁”をしなくてはならなくなった…。この令和の時代には、考えられないですよね。」
「…そうですね。」
「僕はね、美和さん。父は由衣をちゃんと愛していました。そう思うんです。ただ、愛し方を間違えた。娘が欲しがるものを与えることが愛情ではない。でも、父は娘を愛していることをどう伝えたらよいのかわからずにいて、ただただ由衣の我儘を叶えてやっていた。そんな気がしてなりません。僕は…、僕という存在がいなくなれば、父の愛情が由衣に真っ直ぐ向いてくれるように期待していたのですけれど…。そうはいかなかったようです。」
今日は珍しく、総一郎さんがよく喋ってくれる。まぁ、あと数時間もしたら機上の人になるのだから、無言が続くよりはずっとまし。でも、最初に話してくれた私への“詫び”については、随分逸れてしまったなぁ。もう、再会することもないかも知れないのだから、ここは私から訊いてみようか。
「…さっき、アメリカでカウンセリングを受けていたって言ってましたね。」
「えぇ。」
「カウンセリングでお父様のことは乗り越えることは出来たのでしょうか。」
「完全には…まだね。僕にとっては決して暴君な父ではありませんでしたし、父はとても賢く、学ぶことの多い存在でしたから…。なのに、僕は、父の期待に抗って、振り切って、家を出てしまった。父を傷つけてしまった。どんなに後悔しても、報われることはない。…亡くなった当時は、本当に壊れてしまいそうでした。そんな姿を、母や由衣には見られたくなかった。アメリカで救われたのは、何か精神的にダメージを受けたり、悩み事を解決したいときに、当り前の様にカウンセリングを受ける文化があります。随分長い期間、カウンセリングに通いました。そして…カウンセラーの先生に対し患者が抱く以上の気持ちを抱いてしまった。“陽性転移”というそうですね。もちろん、相手はプロフェッショナルですから、一線を越えることなどありませんでした。でも、そういう気持ちを抱いてしまったから、僕はあなたに連絡を取ることが出来ませんでした…。」
なるほど…。でも、私も音信不通の間、総一郎さんの代わりを求めて、違う人と一線を越えてしまったのだし。責めることなどできない。
総一郎さんは、おもむろにジャケットの内ポケットから小さな紙切れを取り出し、私に差しだした。
「あなたにだけ…。」
「これ…まさか、由衣さんの…。」
「はい、遺書です。…遺書とも違うか、僕への“忠告”なんでしょうね。」
手に取って読んでみる。
“兄さん、澤井をひとりにしていいの?”
ちぎった紙に、走り書きのように書かれていた。しかも、文字が震えているようだった。
「由衣は気付いていたようです。」
倉木の動物的な勘が、私たちの知らないところで働いていたのだろうか。私は勿論、倉木には一言も総一郎さんのことは話していない。多分、総一郎さんも同じなはず。いつから、倉木は私たちのことを気付いていたのだろうか。
「母が亡くなって、由衣の情緒不安定がひどくなってきた頃、何度か泥酔状態で電話をかけてきたことがあったんです。その時に言われました。“兄さん、置いていく方より置いて行かれる方がつらいんだよ”って。はじめは、僕が家族を置いて渡米してしまったことを責めているのかと思っていました。このメモを見るまでは。でも、違った。由衣は、あなたのことを言っていたんです。」
倉木…。倉木はなんでこんなメモ残して死んじゃったの?なんで…?
「物理的な距離があるのをいいことに、僕はあなたのことを考えず、僕のことばかり…悲劇の主人公に浸っていたんです。」
「お父様の死で壊れかけた総一郎さんのことを思えば、それは当然のことじゃないですか!それに…。総一郎さん。私は総一郎さんを責める資格はないんです。一途に総一郎さんだけを思っていた訳ではなかったんですから…。」
「それこそ、そのことであなたを責める資格なんか、僕にはありません。」
総一郎さんの便の搭乗アナウンスが聞こえてきた。ひとつひとつが重たいやり取りだったけど、それでも日本を離れる前に話せてよかった。これまでの何十年間もの空白を、ある程度埋められたように思う。
「美和さん。」
「はい。」
「僕は…アメリカを引き払おうと思います。」
「えっ?」
「必ず、戻ります。」
というと、総一郎さんが私を抱き寄せた。
「あなたが、僕を選ばなくても構いません。でも、必ず帰国します。その時は、会って下さい。そしてあなたの気持ちを…教えてください。」
私は、涙が止まらなかった。そして、総一郎さんへ言葉を返すことも出来なかった。総一郎さんに抱き寄せられた時、頭に過った言葉がある。
“…でもきっとこういう日も、いつかの澤井にとって、なくてはならなかった日になるんだよ、澤井”。




