第4章 黒船屋
僕がその絵に出会ったのは、小学校にあがる前くらいだったか。父に連れられて、絵画展に行った時だったと思う。そのあたりの記憶は曖昧なのだが、とにかく、強烈に心奪われた絵があった。竹久夢二の『黒船屋』だ。まだ少年である僕が持ち合わせていたどの言葉でも表しがたいほど、この女性を美しいと思った。“美しい”では足りない。でも、他にどの様な形容ができるのか。それもわからない。目も心も奪われて、僕は随分長い時間、絵を眺めていた様に思う。
「気に入ったか?」
「はい、お父さん。」
「では、買ってやろう…といいたいところだが、これは無理だ。」
「お父さんでも駄目なのですか?」
「こういう素晴らしい絵は、個人のものにしてはいけないものだ。」
僕は滅多に親に物をねだる子どもではなかった。そもそも、あまり物への執着もなかった。一方、妹の由衣はというと、目につくあれやこれやを欲しがり、娘にあまい父親は買い与えてしまう。そういう意味では、珍しくこの絵を気に入った僕のために、父の財力でこの絵を手に入れてくれないか、という淡い期待を抱いてしまった。だが、確かにこの様な素晴らしい芸術を個人が独占してはいけない、という父は正しいと思った。僕にとって、父は常に“正しい”存在なのだ。
『黒船屋』の女性は、しょせん絵の中の人だ。そう思って、諦めていた。だが、高校生となった僕が妹の学校の文化祭へ行った時、“はっ”とした。夢二の、あの美女に似た少女がいるとは!『黒船屋』のモデルは大人の女性だ。いや、正確には十五、六歳の人だ。だから、妹と同い年の少女ではあの気だるい美しさを醸し出せるわけがない。なのに。僕は驚いて、きっと彼女を凝視していたに違いない。
妹が友人を紹介してくれた。いつも話してくれていた、あの“さくらもち”だよ、と。彼女は、澤井美和さんという。美和さんというのか。ほんの数分の出会いだったが、僕の中では鮮明な記憶として刻まれた。多分、もう会うこともないだろう。その方がいいんだ。由衣がうるさいだろうから。由衣は僕を独占したがる。幼い頃は、“お兄ちゃんのお嫁さんになる!”と毎日のように言われていた。でもそれは、小さい娘が言う“パパのお嫁さんになる!”と同義語だと思っていた。ただ、由衣の場合は、成長しても同じなのだ。僕以外はいやだという。両親の連れ子同士で血縁がないなら、話は別だ。いや、そうだとしても、そうでなかったとしても、僕には正直“嫌悪”でしかなかった。
「兄さん、澤井のこと気になる?」
「えっ?なんで?」
「澤井って…あの絵の人に何となく似てるもんね。」
「あの絵、って?」
「またまた、とぼけて!図星でしょ、兄さん。」
由衣の、こういうところが厄介だ。観察眼というか、洞察力が鋭いのだ。まさか、由衣が『黒船屋』を気に入っていることを覚えていたとは思わなかった。確かに、絵の女性に似ているとは思ったが、それ以上でもそれ以下でもない。この時点では。だから、由衣にとやかくいわれる筋合いはない。
「澤井さんという人が、由衣の言う通りあの絵のモデルに似ていたら、どうだって言うんだい?」
「別に。どうでも。」
「なら、由衣が拗ねる理由もないわけだね。」
「私、兄さんの話し方、嫌いよ!」
と言い捨てて、何を思ったのか美和さんのところへ走っていった。何かボソボソ話しているようだったが、また急に僕のところへ戻ってきて、今度は僕の左腕にしがみつくようにしながら、雑踏の中を自慢げに歩き始めた。初めての女子校。当たり前だが、由衣のような女の子たちがいっぱいだ。息苦しさを覚えた。周りの友達が由衣に向って黄色い声をあげている。“倉木の彼氏?いいなぁ”というのが何度も聞こえた。由衣はわかっていて、わざとこうしているんだな。面倒くさいことだ。
あれから5年。その間、“さくらもち”の特定の誰かが話題になることはなかった。由衣と同じクラスにならなかったからだ、と思う。特に、美和さんとは百道さんほど親しくなかったような気がする。年賀状は毎年来るけれど、それきりの関係。
そういう日々の中で、偶然、美和さんを見つけた。大学からの帰り道。予備校から出てくる美和さんを、大勢が行き交う道で見つけたのだ。美和さんは僕に気付いただろうか。僕は既に大学生になり、あと数か月でアメリカの大学へ留学することになっていた。実はこの日、大学へ退学の手続きをした日でもあった。珍しく自分の中で密かに浮かれている。そんなタイミングで美和さんに遭うとは!幸運の女神さまはあっという間に走り去っていくというから、自分から前髪を掴みに行かないと。
「あれ、確か由衣の友達の…?」
こういう行動をとることは滅多にない。滅多にではない。初めてである。よくこんな積極的な行動が出来たものだ。自分自身に驚く。すると、美和さんも僕を覚えているようだった。5年も経っているのに!?彼女は、僕が美和さんを覚えていたことを驚いていた。それもそうだろう。美和さんに初めて会った、あの数分以外、全く会ってはいなかったのだから。もし、僕があの日からずっと頭の中に美和さんがいたのだと知ったら、もっと驚くことだろう。気持ち悪いと言われるかも知れない。
由衣と同い年だから、十八か。『黒船屋』のモデルを超えたわけだ…。だからなのか、ますますモデルの女性に雰囲気が似てきた気がする。夢二は恋人をモデルにした。だから、十五、六とは言え、あのなまめかしさがあったのだろう。ということは、美和さんも誰か好きな人がいるのだろうか。既に付き合っているのだろうか。そうだとしても、仕方ない。今まで、美和さんとの日常が重なることはなかったのだから。ただ、もし重なることがあったとしても、厄介な“由衣”という存在が僕と美和さんの間に立ちはだかったことだろう。
少し、話をしてみたいと思った。他愛のない話でいい。今日は自分で自分を祝いたくなる日だったし。そうだ、“しだ”に行くか。あそこなら、美和さんの学友に見つかることもないだろう。僕の友達はいるかもしれないが、もう僕は大学へは行かないのだから。大学で何を噂されようが、かまやしない。そう思った僕は美和さんを誘い、たまり場でもある喫茶店へ入った。制服を着た客など殆どいないから、彼女は居心地悪そうだった。申し訳ない。
本当に他愛もない話をする。僕は、ついいつもの口調で話してしまうので、余計に緊張させているようだった。ただ、会話は成立しているように見えて、実際、話す内容は僕の頭の中にはまるで入ってこない。あの、『黒船屋』を魅入ってしまった少年の時の、それ以外には何も入ってこないあの時の感覚が蘇ってきた。美和さんしか見えない。そして、彼女は今目の前にいる。手の届くところにいる。でも、なぜか遠い。こうして美和さんと対峙していて、僕はどうしたいんだろうか。恥ずかしい話、僕には女性と交際した経験がない。由衣が煩わしくて、女性自体が面倒な存在であった。美和さんは、僕のことをとても大人な男性の様に思っている。だが、本当の僕はそうではないんだよ。こんな時、どうしたらよいのか。
そんな時、この言葉が僕の集中力を取り戻させた。
「私、あの文化祭の時、倉木さんに言われたんです。“兄はダメだよ”って。これって、どういう意味だったんですかね…。」
あの時、由衣が急に美和さんのところへ駆け寄ったのは、このことを言いに行ったのか!思わず、背筋が凍った。由衣は何かを感じ取ったのだろう。由衣にとって、不快というか、自分を脅かすであろう何かを。一見、つまらない嫉妬心のように感じられるかもしれない。だが、由衣と生活をしている僕にとっては、怖い言葉であった。それを僕ではなく、美和さんに言ったのか!
「僕たち、付き合いませんか?」
由衣に、僕の邪魔はさせない。




