最終章 どんな日も
日常に戻る。百道の電話から始まった一週間あまりの日々は、普段に帰るとあっという間の出来事だった。あれから季節も進み、窓から見える富士山は私の好きな雪化粧をしている。私は山梨と実家のある東京との二拠点生活で、山梨に戻るとスイッチが切り替わったのか、倉木のことも倉木邸での出来事も次第に薄れて行った。忙しいのはいいことだ。それに、なんと言っても大好きな富士山を毎日拝めるのだから、贅沢なことだ。越してきたばかりの頃、オフィスのスタッフに言われたことがある。“澤井さん、富士山は見に行くところじゃありません。見えるものなんですよ!”って。夏山の姿、冬の装い…富士山は色々な表情を見せてくれる。それだけでも、自分の心が浄化されるように感じるのは大げさだろうか。
総一郎さんとは、あれ以来時々連絡を取り合っている。高校生のあの頃に比べれば、どこにいようが簡単にコミュニケーションをとれるようになったし。時々、PCのモニター越しに話すこともある。本当に便利な世の中になったなぁ。
百道は、と言えば、来年度から我らの母校で健診のアルバイトをすることになったとのこと。あれだけ母校と距離をとっていたのに、やはり倉木の件で何か思うところがあったのだろうか。卒業して四十年近く経つのだから、もう校舎には面影は残ってないだろうし、知っている先生だって、ほとんどいないだろうに。でも、女子校ならではの、あの独特な雰囲気は、恐らく変わらないんだろうな。
「なんで、健診のバイトすることになったの?」
「今の校長って、大学の先輩とつながりがある人なんだよね。“男性の医者だと、キャーキャー騒いでなかなか健診が時間通りに進まないんですよ。どなたか女性の先生を紹介してもらえませんか?”、ってなわけよ。」
あぁ…私たちもそうだったよなぁ。目に浮かぶ。
「それにさ…久々にあの空気感も味わってみたくなったし。」
「へへへ、いいんじゃない?楽しそう。」
「なんかあったら、“週刊モモチ”で報告するよ!」
年が明けて、総一郎さんの帰国の日を迎えた。本当に帰ってくる。既に松濤の倉木邸は売却されていた。“自分が住むのに十分な広さのマンション”に住む、という。確かにあのお屋敷は、四人家族でも広いくらいだったし、色々な思い出が詰まっているだろうから、再出発をする総一郎さんとはご縁が切れた方が良いと思っている。
“帰国したら、会って下さい。そしてあなたの気持ちを…教えてください”。
私なりに、色々と考えた。正直なところ、まだ明確な答えが出ていない。以前に比べれば、随分コミュニケーションをとる機会は増えていった。けれど、だからといって、そう簡単に一緒にどうこう…というイメージも湧かないのである。空港のラウンジで見せてくれた、倉木の走り書き。あれは、自殺の直前に書いたものなのだろうか…。あれを書いたのちに倉木が自殺を図ったとは、私は思えない。“書いたメモが、あの場に残っていた”というのが、正解なんじゃないだろうか…。いずれにしても、“いつかの私にとって必要な一日”となるように倉木が自殺したとは思いたくなかった。そんな気持ちもあってか、総一郎さんにまだ思いはあるものの、なにか踏ん切りがつかないというか、煮え切らないでいる。
到着ロビーに着く。飛行機は既に到着しているようだ。荷物が出てくるまで、まだ時間が掛かっているのだな。それにしても、空港ってドラマみたいなシーンが沢山あるんだなぁ。再会を喜ぶカップルたち。涙の別れ。寸前でのケンカ…。遠距離恋愛がグローバルになったのも、もう珍しいことではない。“置いていく方より、置いて行かれる方がつらいんだよ”。倉木の言葉を思い出していた。それは、正しいと思う。置いていく方は、確かに後ろ髪引かれる思いもあるだろうが、これから新しい生活・環境が待っている。一方、置いて行かれる方は、いつもの日常からその人がいなくなる。ぽっかり穴があく。そちらの方が、喪失感が大きいに決まっている。倉木が私たちに残していった言葉は、いつも的を射ていて…深い。
総一郎さんにも、百道にも、そしてもちろん私の中にも、倉木の言葉は生き続け、そして問いかけてくる。
「美和さん。」
総一郎さんが出てきた。本当に帰国したのね、総一郎さん。
「今日は荷物が多いので、近くのホテルを予約しました。そちらで食事でもしませんか?」
「えぇ、いいですね。」
新居のマンションは、まだ住める状態ではないらいしい。それに、空港から向かうには、都内とは言えちょっとアクセスが悪い。ホテルで予約…と聞くと、あのバブリーな百道と重なるのだが、総一郎さんは“お得意様”なのだから、百道とはちょっと違う。
少し早めのディナーをとる。もう“しだ”のような喫茶店ではない。年齢相応の場所に、私たちは座っている。私たちの会話は、百道のようにいきなりズバっと核心から入るのではなく、いわゆる“Small Talk”のような会話から始まる。これは、総一郎さんがアメリカに行く前から、普通にそうであった。多分、この様な会話のスタイルも、お父様の教育から来ているのだろう。ビジネス会話は“Small Talk”から。こんなことを、私も社会人になって言われたような記憶がある。
「美和さん…。そろそろ肝心な話をしましょう。」
肝心なハナシ…。どうやって話したらよいものか。困る。
「あなたが思うところを…聞かせて下さい。思うままでいいので…。」
ふうっと深呼吸をする。自分を整える。その様子を、総一郎さんはじっと見つめている。
「どう話したらよいのか…ずっと考えていました。」
「ええ。」
「正直にお伝えすると、まだ整理がついていないというか、色々に考えてしまってまとまらないんです。」
「はい。」
総一郎さんは静かに聞いてくれている。“もし”とか、“例えば”みたいな、私の回答をガイドするようなことは、何も言わないでくれている。
「私はまだ、総一郎さんへの思いはあります。」
「はい。」
「ただ、長い間音信不通になってしまったことも、やはり考えてしまうんです。」
「ええ…。」
「総一郎さんがあちらを引き払って、本当に帰国すると言って下さったときは、とても驚いたし…嬉しかったです。」
「本当ですか?」
「はい、本当です。…、だからと言って、何事もなかったかのように、また交際を再開しましょう、というのも、何か違うように思うんです。」
「それは、分かります。」
「離れ離れになっていた間、総一郎さんにも私にも、確実に変化はあった。そう思います。もう、女子校時代の私とは違う。…だから、女子校時代の私を引き摺りながら、今後もお付き合いをするのであれば、私はつらいです。」
「…。」
「総一郎さん、今の私を見てください。『黒船屋』のモデルに似たあの頃の少女ではなく、五十六歳の私を見て欲しいんです。それでも、総一郎さんが私との関係を始めたいと思って下さるのであれば、新たな一歩を一緒に踏み出せたらと…。」
「…。」
「それが、今の正直な私の気持ちです。」
総一郎さんは、真っ直ぐに私を見ている。どこか寂しそうな、いや、ホッとしたような、緊張が解けたような表情をしていた。
「あなたから、正直な気持ちを聞けて良かった。」
言い終わった私は、まだドキドキしていた。理路整然と、あの頃の様に何か言われてしまったら、どうしたらいいのだろうか。
「確かに僕には…あなたについて空白の期間があります。それは、あなたも同じですね。その間、何があったのか。僕は、それについてすべてを知りたいとは思っていません。」
“…あの頃っぽい話し方だ…”。緊張する。
「ただ、あなたの存在は、僕の中にはいつもありました。勝手な言い方かも知れませんが、これは偽りではありません…。だから、僕はまた一から、あなたを知りたい。誰かに似たあなたではない。今のあなたを。…そう、思っています。」
何かを期待してたわけではない。でも、私にとっては十分すぎるほどの“解答”であった。思わず、涙が出た。もし、高校三年の、あの予備校帰りの偶然の延長で私と総一郎さんが付き合っていたら、私たちは続いていただろうか。きっと私は、“あの絵のモデルに恋をした”ことが私への興味のきっかけになったことを、どこかで気にし続けていただろう。“今の私”に向き合ってくれる。これこそが、私の欲していたことであった。
「少しずつ…始めませんか。今の私は山梨との二拠点生活ですし、今後の総一郎さんの生活リズムも分かりませんから。今度は、リモートでなくても話せる距離になりましたし。」
「そうですね。少しずつ…いいですね。」
総一郎さんは、“この後、僕の部屋でコーヒーでもどうですか?”などという人ではないので、私は食事を終えるとそのまま中央特急に乗った。夜の車窓からの眺めは、私の大のお気に入りである。塩山を過ぎたあたりから、甲府盆地の夜景が広がっていくのが見える。丸の内や表参道のイルミネーションもいいのだけど、私はこの生活の灯りで織りなす夜景が好きだ。この時間、乗客は少なくて、物思いに耽るにはちょうどよい。私は“はあっ”を窓に息を吹きかけ、窓に指で書いてみた…。
“さクラもち”。
倉木のとこだけ、カタカナがいい。“仲間”、“絆”…実は倉木が大切にしてくれていたこと。倉木の言葉を借りれば、総一郎さんと音信不通になっていたあの空白の日々も、今の私にとってなくてはならない“必要な日”になったんだね。倉木の言う通り、どんな日も必要な日。倉木が亡くなったという知らせを受けた日も、私にとって必要な日。悲しい。悲しいよ、倉木。倉木は、もういない。でも、私の中に倉木は生き続けている。私にとって必要となる日の中に、ちゃんと生きている。




